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番外
小石の想い 03
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朝川さんが、よそよそしいのだ。
「あの」
「はい?」
「……いえ、やっぱいいです」
なにかを言おうとして引っ込められること多数。
こっちからさりげなく問いただしても苦笑で濁される。
ついには、あんなに対面打ち合わせを重視したいと言っていたのに、メールのやりとりで終始するようになった。
にぶいぼくでもわかる。
避けられてる。
うぅ、まずい。このまま仕事もキャンセルになったらどうしよう。
ほとんど完成間近だし、せめて仕事だけは完遂したいので、なぜ避けられているかという点だけは詳らかにしたいのだけど、心当たりはなくもない。
至さんがぼくを迎えにきたあの日だ。
他に思い当たるおかしなことはなかった。
原因は至さん、もしくは彼の起こす波のせい。
ただ、なぜ朝川さんが至さんの波をかぶってぼくを避けるようになったのか、という点と点は結べない。不明だ。
寝不足の顔を見られたのが恥ずかしいとか、そういうマイルドで他責な理由だったらいいんだけどなぁ。
「ただいま……あ、至さん今日遅いんだった」
家に帰ると部屋は真っ暗で、思わずひとりごとが出る。
至さんがぼくより遅く帰るのはよくあることだけど、あらかじめ今日は遅いとわかっている日は少しだけ平穏。
もちろん一刻も早く帰って来てほしいけど、そのためになにか無理をされるのは嫌だし、帰ってこないのはもっと嫌なので、ほうれん草がしっかり機能している今くらいがちょうどいいのだと思う。
スイッチをつけると、白光がまたたいた。
「あ、電灯そろそろ切れそ、……?」
ぱちぱち点滅するシーリングライトに向けていた視線が、ふと引っ張られる。
なにげなく見たのは窓辺。
そこに何かがある。見覚えのないなにかが。
「なに、これ」
手を伸ばして、指先が笑えるほど震えた。
きれいな、きれいな石だ。
光を弾いてきらきらぴかぴか、細い糸でいくつか繋がっている、中でも大きな透明の石が、丁寧にカットされて、きれいに光るように磨かれたそれが放つ光線が、ぼくの目を灼く。
半分あけられたカーテンの隙間から外を覗くような位置に、あのひとが、ここに設置した。
糸の先の金具をレールに通して、光を受けて輝くように、あのひとが心を配って、ここに。
ぼくと至さんの家に。
このきれいな石が。
────敵わない。
「あ、ぁ……」
触れることすらできず崩れ落ちて、無様に見上げることしかできない小石を、このきれいな石はきっと、さげすむことすらないんだろう。
自分で輝けるきらきらの石は、誰にも拾ってもらえない鈍くすら輝かない小石のことを見下すという概念すらないのだ。
あのひとが大事に持って帰ってきた石は、曇りなく、美しくて、日当たりのいいところにいつまでも置かれる。
なんの取り柄なくきれいでもない小石は、人間のふりをして日々駆けずり回って、欠けて削れていって、いつしか顧みられることもなくなる。
この石は飾られ、ぼくは捨てられる。
涙が次から次にあふれては、ぼたぼたと床を汚して、あぁなんてみにくい小石だろう。
「ただいまー。リツ、いんのか?」
がちゃがちゃと玄関が開く音に顔を上げても、足が動かない。
足の先から今すぐに石になれたらいいのに。
そうして小さな小石に、ほんとうの小石になれたらぼくは、このきれいな石の足元くらいには置いてもらえるかもしれないのに。
「うぉっ、どうした!」
消えかけの昼白色に照らされながら、うずくまって泣くぼくは、さぞかし不可思議だっただろう。
かばんを放り出してぼくの元へ来てくれる至さんに目を合わせられない。
「リツ、どうした。どこか痛いか?」
胸が痛くてたまらないけど、体の痛みはどうでもいい。首を振ると、至さんは矢継ぎ早に問いかけながらぼくの体の具合をたしかめはじめた。
「痛くなくて、嫌なことでもなくて、アレルギーでもないなら……どうしたんだ、リツ? 俺に話せないことか?」
「ぅ、ぅ……」
「リツ、教えて。なにが苦しいんだ?」
「ぁ、れ」
指さすことすらおこがましい気がしたけれど、至さんのこいねがう声に逆らうのはもっと無理だ。
頭上を向いた指を辿って、至さんが窓を見る。
最初彼は、窓の外を見たようだ。外の景色はふつうの夜。それからカーテンを確かめて、最後に「あの石」に目を止めた。
「あ、もしかしてこれか? サンキャッチャーとかいう」
至さんは石をレールから外して、ぼくの前に持って来た。
輝きと目が合って全身が震える。
怯えるぼくに、至さんは不可解そうにその石のことを説明してくれた。
いわく、取引先からもらったものを会社で片付ける際、食べ物や花など消えものは社員に適当に振り分けるが、形が残るものはすぐに捨てるのも憚られ、一番下っ端の自分が引き取って持って帰ることになったと。
「リツ、こういう石わりと好きだろ? だからおまえが喜んでくれるんじゃないかと……」
間違いなく善意で、しかもぼくのためにと石を持って帰ってきてくれた至さんの心遣い、余計に泣けた。
ぼくは赦しを乞うようにぎゅっと手を組み合わせて、懺悔した。
「至さんが、ぼく以外を……持ち帰ってくるの、いやだ」
「そうか。ごめんな、配慮が足りなかった」
「ちがう、ちがう。至さんは悪くない。こんな……きれいな石に、こんなこと思うぼくがおかしいんだ」
「リツの思考回路が独特なのは今にはじまったことじゃねーし、そういうとこも好きだし。次からは持ってこないよう気をつけるな」
「……うん」
至さんがそっと抱き寄せてくれて、分厚い体にそっと寄りかかる。
仕事終わりの男のにおいがする。安心できる、ぼくの聖域。
ぽつぽつと少し話した。
至さんが持って帰ってきたこと。傷ひとつない完璧にきれいな石だったこと。ぼくがまだ置いてもらってない、ぼくだけの予約席だったはずの日当たりのいい窓辺に、ぼくよりきれいな石が先に置かれたこと。
彼とっては支離滅裂だっただろうに、至さんはひとつひとつうなずいて受け止めてくれた。
そのうえで、大真面目に尋ねられた。
「リツ、もしかしてなんだけどな?」
「うん」
「嫉妬した? この石に」
「うん?」
嫉妬。ぼくがこの石に。
そう言われると……そうかもしれない。
ぼくみたいな小石が、こんなきれいな贈答用の優れた石に嫉妬するなんて筋違いもいいとこだ。なんてみにくい感情だろう。
でもなぜか、至さんはとてもいい笑顔だ。
「そっか、リツ、俺をこの石にとられたくなかったか。妬いてくれんのか。あのリツがなぁ。感動してるわ今」
ぼくにとっては認めたくない嫌な感情を、至さんはそう思っていないようだ。
わざとらしく目元なんか押さえて、全然泣きそうになんかなってないのに。
なんだか……全部どうでもいいような気がしてきた。
考えてみたら、人間のぼくと飾り石のこれを同列に考えるのはたぶんぼくだけなのだから、至さんがなにか良からぬことを考えてこんなきれいな石を持って帰ってくるはずがないのだ。
たとえばぼくの代わりに石を愛でようとか、そういうひとじゃないのだ。
それなのに勝手に怯えて惑って、推測ではなく確実に、ぼくだけが愚か。
至さんがほんとうに良からぬことを考えていたら、きれいな人間を連れてくるのだろう。
それはそれで敵わないのだけど。
「至さん……浮気するなら人間としてね」
きれいな石に日当たりのいい窓辺を取られるのは強烈に嫌だったけど、きれいな人間に至さんを取られるのは現実的にありそうなことなので、とりあえず釘をさしておこうと思った。
しかし至さんは逆の意味にとってしまった。
「おい、なんで俺が浮気する前提なんだよ。しかも人間以外と浮気ってどういうことだ、そんな節操なしに思われてんのか俺?」
「節操なしだなんて思ってないよ。天道至爆モテ時代も二股はしないって言われてたらしいし」
「天道至爆モテ時代ってなんだ?」
思えばそんな高校生時代ももう何年も前のこと。遠くまできてしまった。
ふと会話が途切れ、二人でフローリングにうずくまっていたことに気づき、どちらともなく笑う。
至さんは腰を上げ、風呂に入るか、と言いながら……手に持っていた石を、自然な動作でくずかごに捨てた。
「だめっ!」
一瞬遅く、くずの上に落下した石を受け止めることはできなかった。急いで覗き込み、そっとすくいあげる。
よかった、きれいな顔に傷はついてない。細い糸も切れていない。
「なんてことするの! 至さんのばか! 人でなし!」
大声を出したぼくに至さんは驚いていた。
「そ、そこまで言うか? リツが嫌がるものを置いたままにするほうが人でなしだろ」
「だからって捨てることないじゃん! 石に罪はないよ、悪いのは至さんだよっ」
「おぉ、そうか……悪かった」
素直に謝ったのでよしとして、ぼくはそっと石を手のひらに包みこんだ。
こんなにきれいなのに、ほんのちょっと飾られただけで捨てられるなんてひどすぎる。ぼくのあり得た未来を見ているようで胸が苦しい。
いつか捨てられるぼくと、今捨てられたきみ。
さっきは恐ろしいと思った石が、今は仲間のように思える。
石をいつくしむぼくを見て、至さんは言った。
「じゃあその石はもう、リツのものだ」
「え?」
「もう俺がもらってきた石じゃない。リツが拾った石だ。それなら持ってられそうか?」
このひとはぼくの繊細な小石心なんてカケラもわかってくれないのに、こういうときだけ妙に勘がいい。
ぼくは、ぼくが拾った美しい石を見つめた。
恋敵ではなく、捨てられ仲間になったきみは、誰よりも光を浴びて輝くべきだと思える。
「うん。……ぼくの石」
きゅうっと手のひらをふさがないように石を包み抱いたぼくを、至さんがゆるく包み抱いて、優しく背中を撫でてくれた。
あぁよかった、安心した。
それからぼくは、短時間で感情がジェットコースターになりすぎたため放心状態となり、なかば介護されながらお風呂に入った。
「ここも狭いよなぁ。本格的に引っ越し考えような」
二人で無理やり入るからそりゃあお風呂は狭い。ひとりずつ入れば狭くない。
でもそれ以外の点で、やっぱりちょっと手狭な印象はある。
コンロがもう一口ほしいし、野菜室がある背の高い冷蔵庫を置きたいし、ベランダも二人暮らしの洗濯物を干すのは厳しい幅だ。
総合的に判断するとやっぱり引っ越したほうがいい、となったので、うなずいておいた。
至さんは同意を得られたことで嬉しそうに笑い、ぼくの肩や首にかけ湯する。
「浮気と言えば、リツおまえ、あのアサカワとかいう男とまた二人きりで会ってないだろうな」
「んえ? 朝川さん……?」
ただでさえぼーっとしている入浴中に仕事関係の話を振られても、なにも考えられない。
ぽけっとしているぼくをよそに、至さんは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「露骨におまえ狙いだったろ、あの男。俺のリツをねばっこい目で見やがって。あいつとの仕事はいつまでかかんだ?」
「えと……あとは最終確認して、引き渡しだけだから、一週間くらい……」
「そうか。なるべく二人きりになるなよ。男なんてろくでもねぇのばかりだからな。まぁ横恋慕とわかっていて大胆な手に出るタイプにゃ見えなかったが」
「……」
しゃべっているのは日本語のはずなのに、なにを言っているのかちっとも理解できない。
どうやら疲れすぎて、脳の回路が途中で切れてしまったようだ。
ぼくは回らない頭を背後の肩にのせた。至さんは嬉しそうにぼくの濡れた髪を撫でる。おかげで返事をしなくて済んだ。
ぼくを抱っこして運ぼうとする至さんをていねいに拒否して、髪を乾かすのはやってもらいながら、少しうつむいて目を閉じる。
お風呂に入ったら頭が少し冴えた。
そういえば至さんがさっき変なことを言っていた。
ぼくが朝川さんに狙われている、とかなんとか。
しかも、浮気がどうのという文脈の上で話されていた気がする。
さっきはぼくも至さんの浮気について考えたところだ。いつもの至さんの謎飛躍理論と片付けず、考えてみてもいいかもしれない。
「至さんて、ぼくが浮気すると思ってるの?」
「は? すんのか?」
「しない」
なかなか聞かない低いところからの地響きじみた声に、心なし早めに返事をしておく。
至さんはぼくが人間らしい感情を持つことを嫌がることがある。
「いやリツが人間らしかったら嫌なんじゃねーよ。そうじゃなくて、おまえは警戒心ってもんがなさすぎて、他のやつに持ってかれちまいそうなのが嫌なんだよ」
「持ってかれないよ。何十キロあると思ってるの」
「おまえ軽いじゃん……じゃなくてだな」
なんと言えばいいのか、と頭をひねっているらしい。後ろからうんうん声がする。
本物の小石は、たとえ誰かのおうちに大事に飾られてたとしても、ひょいと拾い上げられてポケットに入れられたら持ち去られてしまうだろう。
でもぼくは気持ちは小石のつもりでも、重さだけはちゃんとあって、ちょっと拾ってポッケに入れるなんて無理なくらいには大きく育った。
そんなぼくでも、誰かに持っていかれちゃうと疑われているのならそれは、ぼくが自ら別の誰かについていってしまうと疑われているということ。
そのイコールが、至さんにはわからないのだろうか。
至さんは最近また髪の色を変えることがある。
穴ボコだらけの耳にも、学生時代よりは地味だけどしっかりした輝きのピアスを通している。
でも、そこより下には何もつけない。
おなかの前には、至さんの何もついてない手が回されている。
片方を持ち上げてみる。
大きな手だ。筋張った手の甲に、関節がごつごつしてて、少し日焼けしてる。
手の大きさ比べは至さんとしかしちゃだめと言われているので、他のひとと比べて大きいかどうかはわからないけど、ぼくのことやさしく撫でて、硬い瓶の蓋を一発で開けられる、頼もしい手だ。
「至さん、ぼくね、前から思ってたことがあって」
「ん?」
うなるのをやめて、すぐにぼくの声を聞こうとしてくれる。小石のかたこと音に耳をすませてくれる。
こんなやさしいひとを、ぼくはかんたんに捨てるように思われている。
そんなのは、ぼくは、我慢できない。
「至さんはぼくのこと所有して満足かもしれないけど、ぼくは至さんに所有されてる実感が足りないんだよ」
「えっ。そうだったのか?」
「そうだったの。だからさ、これ、ちょうだい」
つんつんつついたのは至さんの手。
なにか調べ物をしていたとき、ふと、人間の手に「所有」という意味の言葉を当てはめている文化があると見かけたのがきっかけだった。
偶然にもぼくは、至さんに拾われた経緯として、この大きな手のひらで包みこまれる場面をよく思い浮かべる。
だからその考え方にはとてもよく共感できて、至さんの手がぼくのものだったらいいのに、と日々思ってた。
でも至さんの大事な手をほんとにもらうわけにいかない。手だけあってもいらないし。
だから、ごく一般的なやりかたとして、こんなものを用意した。
「じゃーん。これなら邪魔にならないよ」
社会人を数年もやっていれば、まぁまぁお金が貯まる。
いわゆる初任給は、お世話になりましたの意味で両親にプレゼントをしたけれど、その後のお給料はいまいち使い道がなくて貯まったままだった。
その一部を使って買った、一本の腕時計。
今まで一度も入ろうと思ったことがないハイブランドのお店で、店員さんをさんざん困らせてやっと買った、ぼくが至さんにつけてほしいと思ったデザインの腕時計。
「わぁ、やっぱり似合う」
白金色の金属ベルトに、深い藍色の文字盤が沈むそれは、ぼくの思ったとおり至さんの腕に見事におさまった。
ごちゃごちゃしてても見にくいだろうから、針が三本に日付の小さな窓があるだけのもの。
今どきは日付も時間もスマホで見てしまうものだけど、ぼくにとって大事なのは正確な日時じゃない。
至さんがこれをつけてくれるってことだ。
「……使ってくれる?」
至さんの腕にぴったりだったことに浮かれてはしゃいで、さっきから背後の本体が無言なことにやっと気づいた。
あんまり気に入らなかったかな。
ちょっとしょんぼりしながら問うと、至さんの脚の間の中でくるりと体をひっくり返され、向き合う形となった。
「時計、気に入らない?」
「んなわけねぇだろ……あぁもう、なんでこういうことを黙って……いや相談するやつじゃないのはわかってたが……」
至さんは何度か言葉を飲み込んで、それから真剣な表情でぼくを見つめた。
「すげー嬉しい。大事にする」
「……うん。大事にして」
「俺も、リツのここ、もらっていいか?」
「いーよ」
ぼくのものになった至さんの手が、至さんのものになるぼくの手をそっと持ち上げて、手首にちゅっとされる。
これでぼくたちお互いに、ちゃんと持ってるんだってわかるようになる。
他の誰かにわからなくても、ぼくたちがわかっていれば大丈夫なんだ。
あっちこっちと振り回された感情が落ちついて、ついでに恋人の感情も落ちつかせることができたので、あぁよかったさぁ寝よう、とはならないのが、この生活のむずかしいところである。
どこでどうスイッチが入ったのか、至さんはぼくをベッドへ誘導しながら着たばかりのパジャマを脱がせて、汗ばむ肌を吸ったり撫でたり舐めたりしている。
服は脱いでいるのに、ぼくがつけた腕時計はそのままで、なんだか変態ぽい。
でもそんなことを言おうものなら「もっと変態っぽいことするか」とか言いだして、ぼくをめくるめく変態プレイに巻きこもうとしてくるので、決して口には出さない。
ぼくがなにを言おうと言うまいと、至さんは止まらない。
「はぁ、リツ、好きだ……好きすぎて頭がおかしくなりそうだ」
いろんなところを舐めながらそんなことを言うので、もう手遅れかもしれないなぁと思いながら、至さんの頭をなでる。
せっかくたくさん勉強して、夢を叶えて、中身のつまったこの頭が、ぼくのせいでダメになってしまうのはよくない。でももう手遅れかもしれないなぁ。
唇へもちゅっちゅとやりながら、手遅れでもまぁいいかと思う。
とはいえ頭がダメになりかけでも至さんの手はよく動き、ぼくをふにゃふにゃにとろけさせて、やわらかくなったところを奥深くまで刺す。
「ぁ、う……いたるさん、おなか苦しいよぅ」
ちょっとだけ久しぶりだからか、ぼくの体はまだちょっと固さを残していたみたいだ。はふはふしながら訴える。
「きついか? じゃあしばらくこのままな」
「うー……」
じゃあやめよう、とは一度もなったことないのに、ぼくはどうしても毎回けなげに現状を訴えて、またあの手にふにゃふにゃにされて、気が抜けたところを何度も刺される。
「リツ、かわいいなぁ。リツ……」
「んっ……いたる、さ、ん」
「好きだよ、リツ。大好き」
「ぅん、ぼくも……」
つられてダメになりそうなぼくの目に、ふにゃふにゃにとろけた笑顔の至さんがうつるので、ぼくはいつも彼をゆるしてしまうのだった。
たとえ次の日が平日でも、腰がぴきっと引きつっても、長時間のデスクワークがつらくても、ゆるしてしまうのだった。
翌朝、ぼくは起きるなり家中を歩き回り、よい場所を探した。
見つけたのは、ぼくのクローゼットの前面。ちょっとした金具の出っ張ったところに、あの石をつり下げる。
今の時間帯だと、ここに陽が当たって、きれいな石はきれいに輝くようなのだ。
「とってもきれいだよ……」
「おい、堂々と浮気か?」
うっとりと透明な石を見つめていたら、寝起きの至さんが背後に立っていた。
しゃがんでいるぼくに合わせて至さんが縮み、おはようのちゅを交わす。
「ぼくは浮気しないよ。至さんじゃあるまいし」
「俺もしねぇよ」
「そう?」
「まだ信用してもらえてねーのか……」
がっくりうなだれる至さんに、ぼくはくすくす笑った。
「なんてね。ふふ、至さんの手をもらったから、それつけてる間は、浮気しないんだって思えるよ」
「この時計か? それならずっとつけとく」
ぼくが一番似合うと思った腕時計は、至さんの腕で誇らしげに輝いてる。
ぼくの手首に、至さんの選んだ一番が巻きつけられる日もそう遠くないだろう。
たのしみだなぁ。
二つのきらきらを浴びながら、ぼくはもう一度おはようのちゅをした。
「あの」
「はい?」
「……いえ、やっぱいいです」
なにかを言おうとして引っ込められること多数。
こっちからさりげなく問いただしても苦笑で濁される。
ついには、あんなに対面打ち合わせを重視したいと言っていたのに、メールのやりとりで終始するようになった。
にぶいぼくでもわかる。
避けられてる。
うぅ、まずい。このまま仕事もキャンセルになったらどうしよう。
ほとんど完成間近だし、せめて仕事だけは完遂したいので、なぜ避けられているかという点だけは詳らかにしたいのだけど、心当たりはなくもない。
至さんがぼくを迎えにきたあの日だ。
他に思い当たるおかしなことはなかった。
原因は至さん、もしくは彼の起こす波のせい。
ただ、なぜ朝川さんが至さんの波をかぶってぼくを避けるようになったのか、という点と点は結べない。不明だ。
寝不足の顔を見られたのが恥ずかしいとか、そういうマイルドで他責な理由だったらいいんだけどなぁ。
「ただいま……あ、至さん今日遅いんだった」
家に帰ると部屋は真っ暗で、思わずひとりごとが出る。
至さんがぼくより遅く帰るのはよくあることだけど、あらかじめ今日は遅いとわかっている日は少しだけ平穏。
もちろん一刻も早く帰って来てほしいけど、そのためになにか無理をされるのは嫌だし、帰ってこないのはもっと嫌なので、ほうれん草がしっかり機能している今くらいがちょうどいいのだと思う。
スイッチをつけると、白光がまたたいた。
「あ、電灯そろそろ切れそ、……?」
ぱちぱち点滅するシーリングライトに向けていた視線が、ふと引っ張られる。
なにげなく見たのは窓辺。
そこに何かがある。見覚えのないなにかが。
「なに、これ」
手を伸ばして、指先が笑えるほど震えた。
きれいな、きれいな石だ。
光を弾いてきらきらぴかぴか、細い糸でいくつか繋がっている、中でも大きな透明の石が、丁寧にカットされて、きれいに光るように磨かれたそれが放つ光線が、ぼくの目を灼く。
半分あけられたカーテンの隙間から外を覗くような位置に、あのひとが、ここに設置した。
糸の先の金具をレールに通して、光を受けて輝くように、あのひとが心を配って、ここに。
ぼくと至さんの家に。
このきれいな石が。
────敵わない。
「あ、ぁ……」
触れることすらできず崩れ落ちて、無様に見上げることしかできない小石を、このきれいな石はきっと、さげすむことすらないんだろう。
自分で輝けるきらきらの石は、誰にも拾ってもらえない鈍くすら輝かない小石のことを見下すという概念すらないのだ。
あのひとが大事に持って帰ってきた石は、曇りなく、美しくて、日当たりのいいところにいつまでも置かれる。
なんの取り柄なくきれいでもない小石は、人間のふりをして日々駆けずり回って、欠けて削れていって、いつしか顧みられることもなくなる。
この石は飾られ、ぼくは捨てられる。
涙が次から次にあふれては、ぼたぼたと床を汚して、あぁなんてみにくい小石だろう。
「ただいまー。リツ、いんのか?」
がちゃがちゃと玄関が開く音に顔を上げても、足が動かない。
足の先から今すぐに石になれたらいいのに。
そうして小さな小石に、ほんとうの小石になれたらぼくは、このきれいな石の足元くらいには置いてもらえるかもしれないのに。
「うぉっ、どうした!」
消えかけの昼白色に照らされながら、うずくまって泣くぼくは、さぞかし不可思議だっただろう。
かばんを放り出してぼくの元へ来てくれる至さんに目を合わせられない。
「リツ、どうした。どこか痛いか?」
胸が痛くてたまらないけど、体の痛みはどうでもいい。首を振ると、至さんは矢継ぎ早に問いかけながらぼくの体の具合をたしかめはじめた。
「痛くなくて、嫌なことでもなくて、アレルギーでもないなら……どうしたんだ、リツ? 俺に話せないことか?」
「ぅ、ぅ……」
「リツ、教えて。なにが苦しいんだ?」
「ぁ、れ」
指さすことすらおこがましい気がしたけれど、至さんのこいねがう声に逆らうのはもっと無理だ。
頭上を向いた指を辿って、至さんが窓を見る。
最初彼は、窓の外を見たようだ。外の景色はふつうの夜。それからカーテンを確かめて、最後に「あの石」に目を止めた。
「あ、もしかしてこれか? サンキャッチャーとかいう」
至さんは石をレールから外して、ぼくの前に持って来た。
輝きと目が合って全身が震える。
怯えるぼくに、至さんは不可解そうにその石のことを説明してくれた。
いわく、取引先からもらったものを会社で片付ける際、食べ物や花など消えものは社員に適当に振り分けるが、形が残るものはすぐに捨てるのも憚られ、一番下っ端の自分が引き取って持って帰ることになったと。
「リツ、こういう石わりと好きだろ? だからおまえが喜んでくれるんじゃないかと……」
間違いなく善意で、しかもぼくのためにと石を持って帰ってきてくれた至さんの心遣い、余計に泣けた。
ぼくは赦しを乞うようにぎゅっと手を組み合わせて、懺悔した。
「至さんが、ぼく以外を……持ち帰ってくるの、いやだ」
「そうか。ごめんな、配慮が足りなかった」
「ちがう、ちがう。至さんは悪くない。こんな……きれいな石に、こんなこと思うぼくがおかしいんだ」
「リツの思考回路が独特なのは今にはじまったことじゃねーし、そういうとこも好きだし。次からは持ってこないよう気をつけるな」
「……うん」
至さんがそっと抱き寄せてくれて、分厚い体にそっと寄りかかる。
仕事終わりの男のにおいがする。安心できる、ぼくの聖域。
ぽつぽつと少し話した。
至さんが持って帰ってきたこと。傷ひとつない完璧にきれいな石だったこと。ぼくがまだ置いてもらってない、ぼくだけの予約席だったはずの日当たりのいい窓辺に、ぼくよりきれいな石が先に置かれたこと。
彼とっては支離滅裂だっただろうに、至さんはひとつひとつうなずいて受け止めてくれた。
そのうえで、大真面目に尋ねられた。
「リツ、もしかしてなんだけどな?」
「うん」
「嫉妬した? この石に」
「うん?」
嫉妬。ぼくがこの石に。
そう言われると……そうかもしれない。
ぼくみたいな小石が、こんなきれいな贈答用の優れた石に嫉妬するなんて筋違いもいいとこだ。なんてみにくい感情だろう。
でもなぜか、至さんはとてもいい笑顔だ。
「そっか、リツ、俺をこの石にとられたくなかったか。妬いてくれんのか。あのリツがなぁ。感動してるわ今」
ぼくにとっては認めたくない嫌な感情を、至さんはそう思っていないようだ。
わざとらしく目元なんか押さえて、全然泣きそうになんかなってないのに。
なんだか……全部どうでもいいような気がしてきた。
考えてみたら、人間のぼくと飾り石のこれを同列に考えるのはたぶんぼくだけなのだから、至さんがなにか良からぬことを考えてこんなきれいな石を持って帰ってくるはずがないのだ。
たとえばぼくの代わりに石を愛でようとか、そういうひとじゃないのだ。
それなのに勝手に怯えて惑って、推測ではなく確実に、ぼくだけが愚か。
至さんがほんとうに良からぬことを考えていたら、きれいな人間を連れてくるのだろう。
それはそれで敵わないのだけど。
「至さん……浮気するなら人間としてね」
きれいな石に日当たりのいい窓辺を取られるのは強烈に嫌だったけど、きれいな人間に至さんを取られるのは現実的にありそうなことなので、とりあえず釘をさしておこうと思った。
しかし至さんは逆の意味にとってしまった。
「おい、なんで俺が浮気する前提なんだよ。しかも人間以外と浮気ってどういうことだ、そんな節操なしに思われてんのか俺?」
「節操なしだなんて思ってないよ。天道至爆モテ時代も二股はしないって言われてたらしいし」
「天道至爆モテ時代ってなんだ?」
思えばそんな高校生時代ももう何年も前のこと。遠くまできてしまった。
ふと会話が途切れ、二人でフローリングにうずくまっていたことに気づき、どちらともなく笑う。
至さんは腰を上げ、風呂に入るか、と言いながら……手に持っていた石を、自然な動作でくずかごに捨てた。
「だめっ!」
一瞬遅く、くずの上に落下した石を受け止めることはできなかった。急いで覗き込み、そっとすくいあげる。
よかった、きれいな顔に傷はついてない。細い糸も切れていない。
「なんてことするの! 至さんのばか! 人でなし!」
大声を出したぼくに至さんは驚いていた。
「そ、そこまで言うか? リツが嫌がるものを置いたままにするほうが人でなしだろ」
「だからって捨てることないじゃん! 石に罪はないよ、悪いのは至さんだよっ」
「おぉ、そうか……悪かった」
素直に謝ったのでよしとして、ぼくはそっと石を手のひらに包みこんだ。
こんなにきれいなのに、ほんのちょっと飾られただけで捨てられるなんてひどすぎる。ぼくのあり得た未来を見ているようで胸が苦しい。
いつか捨てられるぼくと、今捨てられたきみ。
さっきは恐ろしいと思った石が、今は仲間のように思える。
石をいつくしむぼくを見て、至さんは言った。
「じゃあその石はもう、リツのものだ」
「え?」
「もう俺がもらってきた石じゃない。リツが拾った石だ。それなら持ってられそうか?」
このひとはぼくの繊細な小石心なんてカケラもわかってくれないのに、こういうときだけ妙に勘がいい。
ぼくは、ぼくが拾った美しい石を見つめた。
恋敵ではなく、捨てられ仲間になったきみは、誰よりも光を浴びて輝くべきだと思える。
「うん。……ぼくの石」
きゅうっと手のひらをふさがないように石を包み抱いたぼくを、至さんがゆるく包み抱いて、優しく背中を撫でてくれた。
あぁよかった、安心した。
それからぼくは、短時間で感情がジェットコースターになりすぎたため放心状態となり、なかば介護されながらお風呂に入った。
「ここも狭いよなぁ。本格的に引っ越し考えような」
二人で無理やり入るからそりゃあお風呂は狭い。ひとりずつ入れば狭くない。
でもそれ以外の点で、やっぱりちょっと手狭な印象はある。
コンロがもう一口ほしいし、野菜室がある背の高い冷蔵庫を置きたいし、ベランダも二人暮らしの洗濯物を干すのは厳しい幅だ。
総合的に判断するとやっぱり引っ越したほうがいい、となったので、うなずいておいた。
至さんは同意を得られたことで嬉しそうに笑い、ぼくの肩や首にかけ湯する。
「浮気と言えば、リツおまえ、あのアサカワとかいう男とまた二人きりで会ってないだろうな」
「んえ? 朝川さん……?」
ただでさえぼーっとしている入浴中に仕事関係の話を振られても、なにも考えられない。
ぽけっとしているぼくをよそに、至さんは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「露骨におまえ狙いだったろ、あの男。俺のリツをねばっこい目で見やがって。あいつとの仕事はいつまでかかんだ?」
「えと……あとは最終確認して、引き渡しだけだから、一週間くらい……」
「そうか。なるべく二人きりになるなよ。男なんてろくでもねぇのばかりだからな。まぁ横恋慕とわかっていて大胆な手に出るタイプにゃ見えなかったが」
「……」
しゃべっているのは日本語のはずなのに、なにを言っているのかちっとも理解できない。
どうやら疲れすぎて、脳の回路が途中で切れてしまったようだ。
ぼくは回らない頭を背後の肩にのせた。至さんは嬉しそうにぼくの濡れた髪を撫でる。おかげで返事をしなくて済んだ。
ぼくを抱っこして運ぼうとする至さんをていねいに拒否して、髪を乾かすのはやってもらいながら、少しうつむいて目を閉じる。
お風呂に入ったら頭が少し冴えた。
そういえば至さんがさっき変なことを言っていた。
ぼくが朝川さんに狙われている、とかなんとか。
しかも、浮気がどうのという文脈の上で話されていた気がする。
さっきはぼくも至さんの浮気について考えたところだ。いつもの至さんの謎飛躍理論と片付けず、考えてみてもいいかもしれない。
「至さんて、ぼくが浮気すると思ってるの?」
「は? すんのか?」
「しない」
なかなか聞かない低いところからの地響きじみた声に、心なし早めに返事をしておく。
至さんはぼくが人間らしい感情を持つことを嫌がることがある。
「いやリツが人間らしかったら嫌なんじゃねーよ。そうじゃなくて、おまえは警戒心ってもんがなさすぎて、他のやつに持ってかれちまいそうなのが嫌なんだよ」
「持ってかれないよ。何十キロあると思ってるの」
「おまえ軽いじゃん……じゃなくてだな」
なんと言えばいいのか、と頭をひねっているらしい。後ろからうんうん声がする。
本物の小石は、たとえ誰かのおうちに大事に飾られてたとしても、ひょいと拾い上げられてポケットに入れられたら持ち去られてしまうだろう。
でもぼくは気持ちは小石のつもりでも、重さだけはちゃんとあって、ちょっと拾ってポッケに入れるなんて無理なくらいには大きく育った。
そんなぼくでも、誰かに持っていかれちゃうと疑われているのならそれは、ぼくが自ら別の誰かについていってしまうと疑われているということ。
そのイコールが、至さんにはわからないのだろうか。
至さんは最近また髪の色を変えることがある。
穴ボコだらけの耳にも、学生時代よりは地味だけどしっかりした輝きのピアスを通している。
でも、そこより下には何もつけない。
おなかの前には、至さんの何もついてない手が回されている。
片方を持ち上げてみる。
大きな手だ。筋張った手の甲に、関節がごつごつしてて、少し日焼けしてる。
手の大きさ比べは至さんとしかしちゃだめと言われているので、他のひとと比べて大きいかどうかはわからないけど、ぼくのことやさしく撫でて、硬い瓶の蓋を一発で開けられる、頼もしい手だ。
「至さん、ぼくね、前から思ってたことがあって」
「ん?」
うなるのをやめて、すぐにぼくの声を聞こうとしてくれる。小石のかたこと音に耳をすませてくれる。
こんなやさしいひとを、ぼくはかんたんに捨てるように思われている。
そんなのは、ぼくは、我慢できない。
「至さんはぼくのこと所有して満足かもしれないけど、ぼくは至さんに所有されてる実感が足りないんだよ」
「えっ。そうだったのか?」
「そうだったの。だからさ、これ、ちょうだい」
つんつんつついたのは至さんの手。
なにか調べ物をしていたとき、ふと、人間の手に「所有」という意味の言葉を当てはめている文化があると見かけたのがきっかけだった。
偶然にもぼくは、至さんに拾われた経緯として、この大きな手のひらで包みこまれる場面をよく思い浮かべる。
だからその考え方にはとてもよく共感できて、至さんの手がぼくのものだったらいいのに、と日々思ってた。
でも至さんの大事な手をほんとにもらうわけにいかない。手だけあってもいらないし。
だから、ごく一般的なやりかたとして、こんなものを用意した。
「じゃーん。これなら邪魔にならないよ」
社会人を数年もやっていれば、まぁまぁお金が貯まる。
いわゆる初任給は、お世話になりましたの意味で両親にプレゼントをしたけれど、その後のお給料はいまいち使い道がなくて貯まったままだった。
その一部を使って買った、一本の腕時計。
今まで一度も入ろうと思ったことがないハイブランドのお店で、店員さんをさんざん困らせてやっと買った、ぼくが至さんにつけてほしいと思ったデザインの腕時計。
「わぁ、やっぱり似合う」
白金色の金属ベルトに、深い藍色の文字盤が沈むそれは、ぼくの思ったとおり至さんの腕に見事におさまった。
ごちゃごちゃしてても見にくいだろうから、針が三本に日付の小さな窓があるだけのもの。
今どきは日付も時間もスマホで見てしまうものだけど、ぼくにとって大事なのは正確な日時じゃない。
至さんがこれをつけてくれるってことだ。
「……使ってくれる?」
至さんの腕にぴったりだったことに浮かれてはしゃいで、さっきから背後の本体が無言なことにやっと気づいた。
あんまり気に入らなかったかな。
ちょっとしょんぼりしながら問うと、至さんの脚の間の中でくるりと体をひっくり返され、向き合う形となった。
「時計、気に入らない?」
「んなわけねぇだろ……あぁもう、なんでこういうことを黙って……いや相談するやつじゃないのはわかってたが……」
至さんは何度か言葉を飲み込んで、それから真剣な表情でぼくを見つめた。
「すげー嬉しい。大事にする」
「……うん。大事にして」
「俺も、リツのここ、もらっていいか?」
「いーよ」
ぼくのものになった至さんの手が、至さんのものになるぼくの手をそっと持ち上げて、手首にちゅっとされる。
これでぼくたちお互いに、ちゃんと持ってるんだってわかるようになる。
他の誰かにわからなくても、ぼくたちがわかっていれば大丈夫なんだ。
あっちこっちと振り回された感情が落ちついて、ついでに恋人の感情も落ちつかせることができたので、あぁよかったさぁ寝よう、とはならないのが、この生活のむずかしいところである。
どこでどうスイッチが入ったのか、至さんはぼくをベッドへ誘導しながら着たばかりのパジャマを脱がせて、汗ばむ肌を吸ったり撫でたり舐めたりしている。
服は脱いでいるのに、ぼくがつけた腕時計はそのままで、なんだか変態ぽい。
でもそんなことを言おうものなら「もっと変態っぽいことするか」とか言いだして、ぼくをめくるめく変態プレイに巻きこもうとしてくるので、決して口には出さない。
ぼくがなにを言おうと言うまいと、至さんは止まらない。
「はぁ、リツ、好きだ……好きすぎて頭がおかしくなりそうだ」
いろんなところを舐めながらそんなことを言うので、もう手遅れかもしれないなぁと思いながら、至さんの頭をなでる。
せっかくたくさん勉強して、夢を叶えて、中身のつまったこの頭が、ぼくのせいでダメになってしまうのはよくない。でももう手遅れかもしれないなぁ。
唇へもちゅっちゅとやりながら、手遅れでもまぁいいかと思う。
とはいえ頭がダメになりかけでも至さんの手はよく動き、ぼくをふにゃふにゃにとろけさせて、やわらかくなったところを奥深くまで刺す。
「ぁ、う……いたるさん、おなか苦しいよぅ」
ちょっとだけ久しぶりだからか、ぼくの体はまだちょっと固さを残していたみたいだ。はふはふしながら訴える。
「きついか? じゃあしばらくこのままな」
「うー……」
じゃあやめよう、とは一度もなったことないのに、ぼくはどうしても毎回けなげに現状を訴えて、またあの手にふにゃふにゃにされて、気が抜けたところを何度も刺される。
「リツ、かわいいなぁ。リツ……」
「んっ……いたる、さ、ん」
「好きだよ、リツ。大好き」
「ぅん、ぼくも……」
つられてダメになりそうなぼくの目に、ふにゃふにゃにとろけた笑顔の至さんがうつるので、ぼくはいつも彼をゆるしてしまうのだった。
たとえ次の日が平日でも、腰がぴきっと引きつっても、長時間のデスクワークがつらくても、ゆるしてしまうのだった。
翌朝、ぼくは起きるなり家中を歩き回り、よい場所を探した。
見つけたのは、ぼくのクローゼットの前面。ちょっとした金具の出っ張ったところに、あの石をつり下げる。
今の時間帯だと、ここに陽が当たって、きれいな石はきれいに輝くようなのだ。
「とってもきれいだよ……」
「おい、堂々と浮気か?」
うっとりと透明な石を見つめていたら、寝起きの至さんが背後に立っていた。
しゃがんでいるぼくに合わせて至さんが縮み、おはようのちゅを交わす。
「ぼくは浮気しないよ。至さんじゃあるまいし」
「俺もしねぇよ」
「そう?」
「まだ信用してもらえてねーのか……」
がっくりうなだれる至さんに、ぼくはくすくす笑った。
「なんてね。ふふ、至さんの手をもらったから、それつけてる間は、浮気しないんだって思えるよ」
「この時計か? それならずっとつけとく」
ぼくが一番似合うと思った腕時計は、至さんの腕で誇らしげに輝いてる。
ぼくの手首に、至さんの選んだ一番が巻きつけられる日もそう遠くないだろう。
たのしみだなぁ。
二つのきらきらを浴びながら、ぼくはもう一度おはようのちゅをした。
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