何となく歪んだ未来

森本 晃次

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何となく歪んだ未来

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。

                 不老不死への思い

 昔から人間は、不老不死を願い、
「肉体は滅んでも、魂は生き残る」
 と考えられてきた。
 古代エジプトに見られるように、ピラミッドのような大きな陵墓の中には、ミイラと呼ばれる遺体が保管されている。ピラミッドのように権力者がその力を示すために作られたものが墓だというのも、「よみがえり」という意味で重要な役目を果たすと考えられていたこともあり、幾何学的なその建造物は、実に精密に作られていた。
 世界各国の学者が古代エジプトに赴き、ピラミッドやミイラの研究に勤しんでいる。古代の人はどうしてそんなに「よみがえり」を信じるだけの根拠を持っていたのか、そして、ピラミッドやスフィンクス、そしてミイラに一体どういう意味があるというのか、どこまで分かっているのか、一般の人には想像もつくことではなかった。
 杉原修という人物も、ピラミッドやミイラに興味を持っているようで、高校時代には古代史の先生に、授業が終わってもいろいろ聞いていたくらいだった。元々興味を持つようになったのは、子供の頃に見た特撮テレビでのミイラ怪人だったということは、さすがに恥ずかしくて誰にも言えなかったが、何かに興味を持っている人が、いつ興味を持ち始めたのかというきっかけを知らない時は、案外恥ずかしくて人に話せないと思っている人が多いのかも知れない。
 戦隊ヒーロー物の子供番組というと、結構ギャグを盛り込んだものが多く、それほど子供に印象を深く持たせるものはないのだろうが、その時のミイラ怪人に関しては、ストーリー的にも結構シビアで、恐怖心を抱く子供も少なくなかったようだが、その分、印象に深く残った子供も多かったようだ。修もその一人で、何が怖かったと言って、
「汚い包帯が取れかかっているところがリアルで怖かった」
 という印象が深かったからのようだ。
 さらに、中学時代の修学旅行で東京に行った時、観光コースに含まれていた国立博物館見学というのがあったのだが、ちょうどその時展覧していたのが、
「古代エジプト博」
 だったのだ。
 ミイラ自体は偽者だったのだが、それに関連した棺や出土品が展示してあり、修は偽者と分かっていてもミイラのレプリカを見ながら、展示品より妄想することで、ミイラをより不気味に想像していた。目の前の展示品に集中するあまり、後ろから背中を叩かれて不用意に振り向くと、そこには今にも襲い掛からんとするミイラの化け物が迫ってきているという妄想すら思い浮かべているほどだった。
 そういう意味で、
「ミイラというのは、怖いものだ」
 として頭にこびりついてしまった印象が、いつの間に忘れられないほどの興味深い印象に変わってしまったのか、最初は自分でもよく分からなかった。しかし、古代史の勉強を重ねるうちに、古代のファラオと呼ばれる支配者が、死後の世界にいかに思いを馳せているのかということを思い図らんとすれば、そこに恐怖というものは一線を越えることで、興味に変わってしまうことを孕んでいるのを思い知らされた気がした。それだけ古代への思いは、何も知らない我々の時代から見た支配者が、どれほど偉大だったのかということを考えてしまうことを裏付けているように思えるのだった。
 修は、どちらかというと、子供の頃から怖いもの知らずの方だった。毛虫などのような気持ち悪いものは嫌いだったが、怖いものと言うのは意識がなかった。
「怖いと思っているのは、気持ち悪いものと頭の中で混同してしまうから、怖いと思ってしまうんだよ」
 と子供の頃から言っていたが、その思いは大人になっても変わっていない。むしろ大人になってからの方がその思いが強くなったように思える。
 包帯から見えているのは真っ黒い肌だ。普通に見る包帯であれば、真っ赤な血の色が想像できるのに、真っ黒い色が見え隠れしているのを感じると、
――元々の血の色こそが、真っ黒だったのではないか――
 と、思えるほどだった。
 死んだ当初は真っ白だったはずの肌が、数千年の時を経て、真っ黒に変わってしまったとすれば、その変色の手品の種がどこにあるのか、探ってみたくなってくる。
 数千年の歴史というのは、どんな些細な違いであっても、そこに少なからずの秘密が隠されているのではないかと思わざるおえないと考えるのは、奇抜な考えなのであろうか。
 古代に思いを馳せるということが、未来への架け橋になるということに気が付いたのは、高校生の頃だった。
 修には好きな女の子がいた。その子の名前は鈴木愛梨と言った。
 愛梨とは、同じ中学からの進学だったが、高校二年生になることまでは意識することもなかった。愛梨は目立つことのない女の子で、修はなるべくまわりを意識しないようにしていたのだから、お互いに視線が合うこともなかった。愛梨も修も二人ともいつも下ばかりを見て歩いているので、視線を合わせることはないのだ。
 しかし、そんな二人が視線を合わせたのは、出会いがしらというべきか、お互いにまったく意識していない中で目と目が合ってしまったのだ。愛梨はともかく、修の方はそこから視線を逸らすのは不自然で、ただ目のやり場に困ってしまったことで、どうしていいのか分からない様子がおかしかったのか、修を見ていた愛梨は、思わず笑ってしまっていた。
「ごめんなさい」
 すぐに恥ずかしそうに身体を竦めたその姿に、修は萌えてしまった。
――この子は、こんな表情ができるんだ――
 という思いが、たった今愛梨に対して感じた恥ずかしさを払拭させてくれた。そして、今なら愛梨に対してこれからの自分が優位に立つことができるのではないかと感じたのだった。
 話をしてみると、二人の間の共通点は意外にも多いのに気が付いた。何といっても二人がまわりを今まで意識していなかったのは、自分という人間が、
「自分の考えていることが、あまりにも独創的なので、他の人には分かってもらえるはずはない」
 という思いが強いということに、お互いが気づいた。
 話をしているうちに、相手の気持ちが手に取るように分かることで、お互いに自分たちだけは、他の人とは違うということに気づいたのだろう。
「孤独こそ、独創性の母だ」
 とずっと思っていたというのも、同じだった。
「ここで仲良くなると、お互いに独創性がなくなるかも知れないね」
 と修がいうと、
「それでもいいかも知れない。でも、私はあなたと仲良くなっても独創性がなくなることはないと思っているの」
 と、愛梨が言った、
「どうしてだい?」
 と、修が訊ねると、
「だって今まで同じ考えの人がいないことで仕方なく孤独でいただけなのよ。同じ考えの人が現れたからと言ってなくなるようなら、私の独創性というのも、その程度のものなのかも知れないと思うの」
 と愛梨がいうと、
「何とも潔い考えなんだね」
「そうかしら? ありがとうと言っておくわ」
 そんな会話の中で、修はまるで自分が映画の主人公にでもなったかのように思えた。愛梨とであれば、これからいくらでも大人の会話ができそうな、そんな気がしたからだった。もっとも、修は人と話をしないだけで、いつも孤独な中で自分に語りかけていた。その時の会話はいつも自分が思い描いている大人の会話であり、
「相手がいればどんなにか、話を膨らませることができるのに」
 と感じていることであった。
 その時は、まだ自分が愛梨のことを好きだなどと感じたわけではなかった。思春期の真っ只中であり、女の子に対して興味深いのは自覚していたが、自分が思い描いているのは大人の女でも、もっと隠微な女性へのイメージだった。自分と同じような孤独を抱えていた女性に対し、意識しているとはいえ、いきなり隠微なイメージが浮かんでくるはずもない。隠微なイメージはあくまでも、妄想の範疇だったからだ。
 ずっと孤独だと思っていた修は、人の話に合わせるなど、ありえないことだと思っていた。しかし愛梨と話をするようになると、その思いは脆くも崩れ去っていった。愛梨の話すことは自分が考えていることとすべて同じに思えたからだ。ただ、それはあくまでも願望であって、知らず知らずのうちに自分が話を合わせているということに気づいていなかったからだ。
「長いものには巻かれろ」
 とはよく言ったもので、巻かれたことに気づかないというのは幸せなのか、それとも不幸なことなのか、その時の修には分かっていなかった。
 話をしていて二人は対等というわけではなかった。話題を振るのはいつも愛梨の方、当然話の主導権は愛梨が握ることになる。
――この子は、本当に独創的な発想をする子なんだな――
 自分でもいい加減発想が独創的だと思っていたが、さらに愛梨の方がその独創性は強い気がした、女の子があまり興味を持たない教科に興味を持ってみたり、興味のある話の内容も、きっと他の人から見ると、ずれて見えているに違いない。
 だが、修にはそんな発想はなかった。特に古代文明の話になると、同じように興味を持っている修には、愛梨の言いたいことが分かる気がしていた。それが学説などと離れた発想であったとしても、愛梨の発想が正しく思えてくるのだから、自分が贔屓目に見ていることは明らかで、そこに話の主導権を握られていることを感じずにはいられなかった。
 だが、普段の主導権は修にあった。見た目は控えめで大人しそうな女の子。それだけ話に集中すると、自分を表に出そうとするのかも知れない。話の信憑性もグンと上がって、主導権を握られても嫌な気分になることはなかった。
 歴史の話は修も好きだったのだが、愛梨の話に出てくる古代史には疎かった。古代史というと、歴史というよりも考古学のイメージの方が強く、なかなか文献も残っていないこともあって、歴史の信憑性を感じることができないことから、どうしても敬遠して見ていたのだ。
 中学時代は、古代史というと、教科書に沿って習うだけなので、あっという間に通り過ぎてしまう。しかし、高校生になると古代史に造詣の深い先生が歴史を教えてくれることで、教科書に載っていないような話が先生の口から語られた。特に神話の世界の話は面白く、信憑性があろうがなかろうが、興味という点だけで見ていると、結構楽しいもので、気が付けば、いつの間にか深いところまで興味をそそられることになっていたのだ。
 その先生と愛梨は、当然のごとく話が合った。授業が終わっても、教壇の前でいろいろ質問していたが、授業の合間の時間だけで話せるほどのものであるはずもなく、歴史研究室にまで押しかけて話をするようになっていた。
 最初は、そんな愛梨を気にはしていなかったが、何度か研究室に入り浸る愛梨を見ていると、次第に嫉妬が湧き上がってくるのを感じた。最初から嫉妬であることは分かっていた。それは嫉妬することを恥ずかしいなどと感じることはない修の性格から来るもので、次第に歴史の先生に敵対心を抱くようになっていくのを感じていた。
――このまま黙っておくわけにはいかない――
 修は先生と愛梨に対抗するために、図書館で古代史の本を読み漁った。とは言っても、数日の読書程度で対抗できるものではないことはいくら舞い上がってしまっているとはいえ、修にも分かりきっていることだった。
 修は愛梨と一緒にいることで、どんどん自分が不思議な世界に入り込んで行っているのではないかと思うようになっていた。どこが不思議なのか分からない。全体的に不思議なのだ。
「人が死んだらどうなるって修さんはどう思っています?」
 こんなことを言われても別に不思議に感じることのない女性だった。
「そうだな。まず魂が肉体から離れて、肉体は滅んでしまうっていうところかな?」
 自分で答えながら、ありきたりの答えしかできない自分が情けなく感じる。しかも、そんな答えを導き出させるような質問をした愛梨に対しても、憎々しさを感じられた。
 それでも、愛梨のそんな質問は今に始まったことではない。慣れたものだった。
「皆さん、そう思っているんですよね」
 と言いながら、修の回答に何のリアクションを示すおのではなかった。
――そんなに無表情なら、何もこんな質問しなければいいのに――
 とは思ったが、
「じゃあ、愛梨はどう考えているんだ?」
 意地悪そうに聞き返す。
「私は、ハッキリとした答えを持っていないんですよ。ハッキリとした答えを持つと、先入観が働いてしまって、死ぬことに対して必要以上に身構えてしまいそうになるのよ」
 という、
――人に質問しておいて、なんだそれは――
 と言いたくなるような返答ではあったが、どこか意味深な発想に文句が言えなくなってしまう自分を感じていた。
 その証拠に、愛梨は神妙になっていた。人を食った質問をした人間とは思えない表情に、修はドキッとしてしまった。
「そうだね。無理に答えを求めないという選択肢もありだと思う。先入観の恐ろしさは、僕にも今までにあったような気がする。愛梨の言葉には、どこか重みを感じさせられるね」
 と、愛梨を持ち上げるような表現になった。
 しかし、それは大げさでも何でもなかった。実際にその時を境にして、愛梨に対しての考え方が変わってきたのも事実だった。
 修も以前に、先入観を持ってしまったことで後悔をしてしまったことがあった。それは先入観というよりも、人のウワサをまともに信じてしまったからであったが、それも先入観がなければ、容易に人のウワサを信じることもなかったはずだからである。
 修は小学生時代に、気になっている女の子がいた。まだ異性に興味を持つ前のことだったので、自分でも好きだったのかどうか、ハッキリとは分からない。
――気が付けばいつも自分のそばにいた――
 というそんな女の子だった。
 どこか愛梨に似ているところがあった。別に難しいことを言う女の子ではなかったが、いつも一人でいることの多い女の子、放っておけないという気持ちになったのだと思うようになったのは高校になってからだった。分かったつもりになっていたが、これも先入観気持ちだったのかも知れない。
 その女の子は、いつも一人でいたのに、なぜか気が付けば自分のそばにいる。一人でいると思った時でも、自分のそばにいるという同時進行の発想が、修にはできなかった。
 修は、同時に違うことをできるような器用な性格ではなかった。
「楽器は俺にはできないな」
 と、小学生の頃に早々と音楽に見切りをつけたのは、同時に左右の手で別の動きをすることなどできないと思ったからだ。友達の中にはピアノを習っている人もいたが、
「よく同時に左右の手で別々の動きができるよな」
 と言うと、
「小さな頃からやらされていたので自然とできるようになったんだ。要するに慣れなんじゃないかな?」
 と言われたが、
「そうなのかな?」
 と曖昧に答えたが、自分が曖昧に答える時というのは、ほぼ相手を信用していないことだというのは分かっているので、その時の話も、普段よりもすぐに忘れてしまっていたに違いない。
 その友達も修のことは分かっていた。分かっていたからこそ、そんな曖昧な回答をされても怒ることはなかったのだが、もし他の人から曖昧な回答をされると、少しムッとしたことだろう。
 修の態度は、分かりやすいようだ。
 もちろん、仲良くならなければ分からないことだろうが、最初は、
「とっつきにくいやつだ」
 と、まわりから勘違いされやすいタイプの修だったが、仲良くなるにつれて、その真っすぐな考え方に賛同してくれる人も結構いる。賛同しないまでも、付き合いやすいと思ってくれる人が多いようで、少し変わった修の性格を刺激しないようにうまく付き合っていけば、これ以上付き合いやすいやつもいないと思われているようだ。
 利用されやすいともいえる。
 利用はされるが、修が困るような利用のされ方ではない。修自身が気づかないほどの些細な利用され方なので、別に大きな問題になることもない。
 修は、自分の性格がまわりにバレバレだということを意識していない。まわりもそのことが分かっているので、敢えて刺激しないのだ。そういう意味で修のまわりには仲がいい奴はトコトン仲がいいが、少しでも距離を持とうとすると、近づくことさえできない関係になるのだった。
 そういう意味では両極端な性格だと言ってもいい。人によっては、
「修ほど付き合いやすいやつはいない」
 という人もいれば、
「あいつのどこがそんなに付き合いやすいんだ?」
 というやつもいる。
 修に対しての意見がバラバラなくせに、修はどんな相手にも同じ付き合い方しかしない。やはり不器用なのは、どうしようもないことなのだろう。
 そんな修だったが、いつもそばにいた女の子のことは、気にならないわけにはいかなかった。
 今も昔も一人の人への態度がどのようなものであっても、まわりを気にすることのない修だったのに、その時だけはまわりを意識していたのである。
――僕のそばにいるこの子を見ながら、まわりの人は僕に対してどんな風に思っているんだろう?
 という思いだった。
 どうしてそんな風に感じたのかというのを考えていたが、すぐに分かるはずもなかった。そんなことがすぐに分かるくらいなら、まわりのことすべてが分かってしまうだろうと思うほどだった。
 まわりの目を意識しているということは、自分もまわりの目になって自分を見ているということでもある。そのことには気づいていた修は、その女の子が自分に対して気があるということに自分が気づいていない様子を見ているような気がした。
――そうか、彼女は僕に気があるんだ――
 まわりからの目がそう言っているのだ。
 これが修にとっての先入観だった。
 それならば、少々彼女に対して主導的になっても、別にかまわないではないかと思う。それが今の自分の性格を作っているのか、それとも、元からあった性格がその時に覚醒してしまったのか、自分でも分からなかった。
 修は自分が人を好きになるというシチュエーションを子供のくせに描いていた。しかし、その女の子の出現は自分のシチュエーションとは少し違っていた。だから、
――これは好きになったわけではない――
 と思い込んでしまった。
 いつもそばにいる彼女をわざと遠ざけるようにしてみた。もちろん、遠ざけようとする態度を表に出すようなことはしない。自分なりに不自然ではないようにしていたつもりだった。そのせいもあってか、彼女との間の関係が変わることはなかった。
 それならそれでもいいと思えればそれでよかったはずなのに、その時の修はどこか意固地になっていたのだろう。自分の思ったことがうまくいかなかったことは、自分にとっての屈辱のように感じたに違いない。そう思ってしまうと、修は少し露骨な態度に出なければいけないと思うようになっていた。
「好きな女の子には辛く当たってしまう」
 という言葉を聞いたのは、思春期になってからのことだったが、その時でさえ、自分が彼女を好きだったという思いを否定していた。
 今は、その時の思いが分からなくなっている。好きだったと言われればそうなのかも知れないと思うのだが、それは歩み寄りに近いものであり、自分の考えから来ているものではないように思えていたのだ。
 子供の頃から思い込みが激しく、それを先入観だと思っていたことで、曖昧なことは却って自分の考えではないと思うようになったのだ。
 高校生になって修はその女の子と再会することになった。中学三年生の頃に、異性を意識するようになった修は、彼女がほしいという意識をいつも持っていたにも関わらず、なかなか彼女ができなかった。
 自分が彼女を作るためには、好きになった人に告白する必要があるのだろうが、彼女がほしいと思いながら、誰が本当に好きなのか、ハッキリと分からなかった。その時々で気になる女の子はいるのだが、告白できずに終わると、その女の子を本当に好きではなかったと思うからだった。
 また好きになった人に彼氏や、彼氏ではなくても、誰か好きな人がいるという話を聞くと、すぐに諦めていた。
「後から来た自分には、好きになる権利はない」
 と口では言っていたが、明らかに綺麗ごとである。
 好きになった人に好きな人がいると、すぐに諦めてしまうのは、もし、自分が告白して成功し、付き合うようになっても、いつその人、あるいは他の人に心変わりしないとも限らないという思いがあるのと、修自身、自分が好きになった人に、他に好きな人がいるという時点で、すでに気持ちが冷めてしまっていたと思うからだ。潔いと言えば聞こえはいいが、逃げであることに違いはない。
 そのため、修は相手に誰か好きになった人がいたのだとすれば、最初からその人を好きになったという事実を消し去ってしまう。最初からなかったことにすれば、余計なことを考えずに済むからで、そんなことを繰り返していると、修にはずっと好きになった女性がいなかったことになってしまっていた。
 修は故意に忘れようと思うと、忘れることができる性格だった。それがどうしてなのかということに気づいたのは、小学生の頃にいつもそばにいた女の子に再会した頃のことだった。
 彼女の名前は直美と言った。
 直美は、全然変わっていなかった。もちろん、修も全然変わっていなかったので、お互いにすぐに分かったのだが、再会した場所というのは、アルバイト先だった。中学時代まで一緒だったが、中学時代はすれ違っても、まったく意識することはなかった。話をすることはおろか、挨拶すらしなかったのだ。お互いに無視しているというわけではなく、自然な関係だったと思う。高校はそれぞれ別々の高校に進んだ。修は私立の高校に進み、直美は県立高校に進学した。別に知りたくはなかったが、中学時代の友達のウワサの中で彼女の話題が少しだけ出たので、その時にどこに進学したのかということだけは意識していたのだ。
 もちろんそれは別の高校に進学したということだけを意識するためだけのことで、他意はなかったのだ。
「お久しぶり」
 声を掛けてきたのは直美の方からだった。
「あ、お久しぶりです」
 直美の態度に堂々としたものを感じ、見た目は小学生の頃と変わっていなかったが、性格的なものは変わってしまったのだと、すぐに理解できた。
 小学生時代に、高圧的な態度を取っていたことを意識していた修は、身構えてしまった。
――一体何を言われるのだろう?
 すでに圧力を感じている修は、まな板の鯉状態だった。
「修君は、彼女できた?」
「えっ?」
 いきなり直球を浴びせられ、驚愕してしまった修は、すでに直美に呑まれていたと言ってもいい。それでも、小学生の頃に高圧で過ごした自分を必死に思い出し、何とか冷静さを保とうとしていた。
「いや、できないよ」
 と正直に答えると、直美はニコっと笑って、
「そうなの? 実は私も好きな人はできるんだけど、すぐに諦めるのよ」
 と答えた。
「どうしてなんだい?」
「どうしてなのかしらね。好きになったと思っても、相手と話しをすると、好きになったと思った時と隔たりが大きいからなのかも知れないわね。一貫性がないというか、頼りなさを感じるというのかしらね」
「そんなに頼りなく感じるの?」
「ええ、私が好きになる人というのは、いつも冷静でいる人で、私が視線を向けても、冷静なのよ。それなのに私が話しかけると急にしどろもどろになって、目を白黒させて狼狽しているのよ。思わず吹きだしちゃいそうになって、そのままシラケてしまうのよね」
 直美の話を聞いて、思わず、
「それじゃあ、僕と一緒じゃないか」
 と答えてしまった。
 自分の性格を人に話したことなど今までにはなかった。それなのに直美と話しているとまるで誘導尋問されたかのようにいつの間にか話をしていた。それもまったくの自然にである。
――自然にだからこそ、誘導尋問なんじゃないか――
 と、自分に言い聞かせると、思わずおかしくなった。少なくとも小学生時代の直美にはなかった性格であり、今まで知り合った誰にも感じたことのない不思議な感覚だった。
「そうなんだ、修君も同じなのね」
 嬉々として目を煌びやかにさせる直美を見ると、修も嬉しくなった。
「そのようだね」
 誘導尋問されて話してしまったことへの恥ずかしさを、すぐに嬉々とした態度で、相手に嬉しく思わせることは、直美のテクニックなのだろうか。
「私、小学生の頃の修君、好きだったのよ」
「えっ?」
 またしても驚かされたその言葉に修は後ずさりしていた。
「修君は、いつも私の前にいて、助けてくれていたのよ。態度もいつも毅然としていて、私は本当に頼もしいと思っていたのよ」
 そういう見方もあるのだと、その時初めて気づかされた。
「そうかな? 僕はいつも冷たい目で君を見つめていたんじゃないかって、後になって後悔していたんだよ」
 自分から直美と離れてしまったくせに、後になって後悔したというのも、言い訳にしかすぎないのだが、直美はそれをどう感じたのだろう。
「私の初恋は修君だったの。もちろん、その頃は男性に対して、今のような意識を持っていたわけではないので、憧れのようなものだったと思うのよ。でも、それが私の中での好きな人としての原点になっているので、修君の印象が深かっただけに、見た目で判断していては、分からないって気が付いたのよね」
 直美の言葉は、自分も感じていたことの一つだったと思う。しかし、あまりにも図々しいことであるために、否定してしまっていた。普段、そのことを思い出したり意識したりすることはないのだが、言われてみれば、まるでずっと考えていたことのように思えてくるのだった。
「僕は、今だからいうんだけど、いつもそばにどうして直美がいるのかよく分からなかったんだ。直美からも、何かをしてほしいという話もしてもらえるわけでもない。だからといって、僕がそばにいるという意識があったわけでもないので、何かをすることはできない。そのうちに息苦しくなってきたんだ。だから、直美を遠ざけるようにわざとしていたと自分では思っているんだ」
 と、嫌われてもいいと覚悟を決めて話をすると、
「そうだったのね。私は修君が私を守ってくれているものだって思っていたの。まるっで白馬に乗った王子様が私の前に現れたような気がしていたのよ。だから、自分からは何も言えなかったし、修君から遠ざけるようにされても、何もできなかった」
「こうやって、お互いの気持ちを打ち明けてみると、いろいろ後悔するところも出てくるような気がするんだけど、でもこれも何かの運命なんじゃないかって思うんだ。直美が僕のことを意識してくれていたことを今聞かされるというのも、運命なんじゃないのかな?」
「私も修君と、再会してもここまで話ができるとは思わなかったのよ。まず再会することが一番で、話をするのはそれから先のことですからね」
「ここでの再会は、別に偶然でもいいと思うんだ。でも、もし直美が声を掛けてくれなければ、僕の方から話をすることはなかったと思うんだ。そういう意味では、再会自体偶然ではないと言えるのかも知れないね」
 修はそう言うと、運命という言葉って、そんなに簡単に口にしていいものなのかどうかを考えてみた。
 修はこの再会を、自分が直美を好きだったからだと思ってしまった。直美もまんざらでもないような態度を取っていたし、そう感じるのが自然だった。
 修は思い切って告白することを考えた。誰かに告白するなど考えたこともなかった修は、とりあえず友達何人かに話を聞いてみることにした。
「それは直球がいいに決まっているよ。相手に脈があると感じたのなら、押し切るのが一番だ」
 という意見や、
「ここは慎重にいかないと、成功するものも成功しないよ。綿密に会話のシミュレーションをしてみて、相手の出方を想像しておかないと、思っていたことと違うことを言われると、パニくってしまって、すべてが台無しになるよ」
 という意見があった。
「でも、何とか会話を繋げばいいんじゃないか?」
 と弁明してみたが、
「覚悟を決めての告白なんでしょう? 相手もそれを分かっているなら、パニくってしまうと、その時は何とかなっても、それ以降、二度と告白なんかできなくなってしまう。告白というのは一度で決めてしまわないとうまくいかないものなんだよ」
 ここまで言われると、どうしていいのか迷ってしまう。当たって砕けろの玉砕覚悟で直球で行くか、それとも計画を立てて、計算ずくでの告白を行うか、究極の選択を迫られると、結局どちらもできずになってしまい、告白のタイミングを失ってしまった。
 そうなると、お互いに絶妙のタイミングを逸してしまったという意識が、二人の関係をぎこちなくしてしまう。そのうちに、
――自分の中に、結局はうまくいかないんだという先入観があったのかも知れない――
 と思い、再会してから感じることのなかった距離感が頭をもたげることで、先入観というものが選択しなければいけない場面で大きな影響を及ぼすという意識を植え付ける結果になってしまった。
 高校時代に経験した苦い体験、二度目の初恋に失敗したという意識が強く、しかもそれが同じ相手だということに強いショックを受けた。
――このまま誰も好きになってはいけないのかも知れないな――
 と感じたほどだったが、それは高校時代という自分の中で暗い時代背景だったことが影響していた。
 孤独という言葉が頭をよぎる。それまで孤独という言葉は寂しいという言葉と同意語のように考えていたが、図らずも自分から選んでしまった孤独への道を考えると、そこに寂しさはなかった。
――寂しいなんて考えるのはおこがましい――
 と思うからだ。
 大学に入学すると、それまでの自分の思いは一変した。
 大学に入学するために、いろいろなものを犠牲にして一心不乱に勉強したのも、直美との間の失恋を忘れようという思いがあったからなのかも知れない。
 寂しさというのは、自分から求めるものを得られずに感じることである。求めるものを抑えてしまうと、寂しさなどという感覚はマヒしてしまうことだろう。高校時代のように、大学入学のために自分の求めているものを犠牲にしないといけない時期には、寂しさなどという感覚は、最初からマヒしていたと言ってもいい。
 修は、女性に告白することができなくなっていた。好きになった女の子がいても、それは自分の思い過ごしだと感じることで、諦めようと思うようになっていた。しかし、愛梨は違っていた。
――いまさらながら、これが本当の初恋なのかも知れない――
 と感じたほどだ。
 愛梨と直美の違いは一口に言うと明るさと積極性だった。明るさは相手によって変えることができるが、積極性は最初から身に着けておかなければ、誰にでもできるというものではない。修はそんな愛梨の積極性に引っ張られることでそれまでの呪縛から逃れられるような気がした。愛梨に対して最初に感じた。
――変わった女の子だ――
 という印象は、それだけ新鮮な気持ちになったことから生まれたものなのかも知れない。
 直美と比較してはいけないのだろうが、直美のことを悪夢だと思って忘れようとすればするほど、頭の中に残ってしまっていることを意識してしまう。人を好きになってはいけないと思えば思うほど、意固地になりつつある自分に気が付くのである。
 愛梨は修に対して積極的だった。他の男性に対しても積極的だったのだが、修は一番積極的なのは自分に対してだと思った。
 他の男性は、そんな愛梨を気持ち悪く思っていたようだ。相手に積極的になられると、ついつい引いてしまうのも当然のことで、
「この女、何かあるんじゃないか?」
 という邪推するのも当たり前だろう。
 しかし、修にはそんな感情はなかった。
 直美に対して悪いことをしたという思いが、頭の中に残っているからなのかも知れないが、
「せっかく積極的になってくれている人を自分から遠ざけるようなことはできない」
 と考えたのは、もったいないという意識があったのも否めない。
 まだ付き合ってもいないのに、デートの誘いをしてくる。断わる理由など修にあるはずもなく、喜んで受けると、愛梨は本当に嬉しそうな表情になり、
「ありがとう。やっぱり修君だわ」
 と言って、キャッキャと喜びを身体全体で表現してくるのだ。
 そんな愛梨を見ていると、なぜか直美の顔が思い浮かんでくる。
――どうして、直美の顔が?
 忘れたわけではないのは分かっているが、目の前の愛梨の嬉しそうな表情から直美の顔が浮かんでくるのがなぜなのか、最初は分からなかった。
 しかし、そのうちに、
――直美に今の愛梨がしているような嬉しそうな顔をしてほしいと、直美にずっと感じていたんだ――
 と感じるようになった。
 修が直美を好きになった理由がここにあった。普段は嬉しそうな顔をほとんどしないポーカーフェイスの直美に、心から嬉しそうな表情をさせてみたいという思いが、直美を忘れられない相手にしてしまったのかも知れない。
――自分が愛梨を好きになっていることに間違いはないのだが、直美を忘れられないというのは、その障害になったりはしないのだろうか?
 修はそんなことを考えていたが、逆に考えると、
――直美の面影が頭の中になければ、愛梨を好きになるということはなかったのかも知れない――
 とも感じた。
 だが、直美を思い出していると、愛梨の中にスッポリと直美が納まってしまうような気がするが、逆に愛梨を思い浮かべていると、直美の中に愛梨はスッポリと入りこむことはできなかたt。
 つまりは、直美にあるものは愛梨にすべて存在しているのだが、愛梨にあるものが直美にすべてあるというわけではない。今見えている愛梨に対して、これから先付き合っていく中で、もっと知らなかった部分を見ることができるように思えてならなかったのだ。
 愛梨とデートをするようになると、愛梨は他の女の子との違いを感じさせるところが端々に見えていた。
 同世代の女の子がほしがるようなものをほしいということはあまりない。洋服も化粧品も、グッズも、すべてが質素に感じ、しかし、そのコーディネートで質素さを感じさせることはなかった。
 元々、あまりおしゃれには興味のない修には、相手が女の子であっても、質素な人の雰囲気は分かるようになっていた。
 直美も質素で、どこかみすぼらしさのようなものさえ感じられたが、それは修だけではなく、他の男性にもすぐに分かることだろう。
 愛梨の場合は、他の男性から見れば、おしゃれには見えているはずだ。ファッションセンスの良さを褒める声は時々聞かれたし、その声の信憑性は、会話の説得力によって証明されていた。やはり愛梨が男性から敬遠されるのは、その積極性に引かれてしまったことで、相手にされなくなってしまったからに違いなかった。
 愛梨は質素だと言っても、身奇麗にしていた。だから、ファッションセンスを褒める声が聞こえるのだろうが、直美の場合は、明らかに質素さを表に出していた。
 修は、直美のそんなところが好きだった。
 自分のことを包み隠さず表に出そうという意識が働いているからで、その思いが他の男性を遠ざけた。
 直美の場合は、自分から男性を遠ざけるつもりはないのに、自分の正直さを表に出してしまったために、引かれてしまったのだ。
 愛梨の場合も、自分から男性を遠ざけているところはない。しかし、引き寄せようという気持ちが強くなってしまったために、相手に引かれてしまう。どちらも似たようなところがあるのだが、引かれてしまってからの二人の態度は違っていた。
 直美の場合は、相手に引かれても、またもう一度近寄ってくるようであれば、拒むことはしない。しかし、愛梨の場合は、自分から一度でも遠ざかる素振りを見せた相手に対しては、絶対に許そうとはしなかった。
 愛梨に対して一度遠ざかろうとした男性は愛梨の元に戻ろうとする気持ちは強いのだが、直美に対して遠ざかってしまった男性は、二度と直美の元に戻ろうとする思いはないようだ。
「世の中というのは、うまくいかないものだな」
 二人を見ていて、そんなことを考えた修だったが、二人を見ていると、直美も愛梨も両方の女性を好きになった男性は、他にはいなかった。修だけだったのだ。
 修は、直美の元に戻ろうという気はなかった。もし、愛梨が自分の前に現れなかったとしても、一度逃した機会を、もう一度取り戻すことができないと感じたからだ。
――直美はどう思っているんだろう?
 最初こそ、直美も一度機会を逃した相手とは、二度とうまくいくはずはないと思っているのだと感じていたが、果たしてそうなのだろうか?
 愛梨と知り合って、愛梨を見つめているうちに、思い出してくる直美は、自分が好きだった直美とは別の女性のようだった。
「これからは友達として仲良くしていこう」
 と、せっかくの機会を逃してしまった修が直美にそう言った時、一瞬だったが、直美の表情が明らかに苦虫を噛み潰したような表情になった。
――しまった――
 修がそう思ったのは、直美の返事が分かってしまったからだ。
「せっかくだけど、あなたとこれ以上お友達でいることはできないわ」
 告白できなかったことよりも、この言葉を言われた方が、修にとってはショックが大きかった。
「どうしてなんだい? 今までと同じように付き合っていけばいいことなんじゃないかい?」
 と言ったが、
「修君は、本当にそう思っているの? 私には絶対にできないわ」
 修の中では、
――このまま友達付き合いをしていけば、もう一度お互いに好き合って、付き合いたくなることだってあるんじゃないか――
 と思っていた。
 しかし、直美は続けた。
「修君は、将棋をする?」
 いきなりおかしな質問だ。
「ああ、少しだけ齧る程度なんだけどね」
「じゃあ、将棋の布陣で、一番隙のない布陣というのは、どんな態勢なのか分かる?」
 と聞かれて、
「さあ、どんなのだろう?」
 と答えると、
――やはり――
 という顔を浮かべた直美が、
「最初に並べた布陣なのよ。一手指すごとに、そこに隙ができるの。つまりは、動けば動くほど、隙ができてくるということなの」
「それは、時間とも置き換えることができるね」
「ええ、そう思ってもらってもいいと思う。つまり、一度逸してしまったチャンスは、百パーセントの形で戻ってくるということはありえないの。だから、友達でいたとしても、あなたにとって、それはゴールの見えない果てしない闇の中だと言ってもいいのかも知れないわ」
 直美の言い分にも一理あった。
「でも、だからと言って、これからお互いに違った面を見ることができて、新しいお付き合いに繋がるかも知れないんだよ」
 かなり苦しい言い訳に思えたが、話さないわけにはいかなかった。
「本当にそう思っているの? もしそうなら、私はあなたへの思いを少し変えなければいけないわ」
 口調は穏やかだったが、言葉の一言一言に修は何も反論できなくなった自分がいることに気が付いた。
 そんな別れ方になってしまった二人だった。
 最初こそ、
――ここまで言われなくてもいいのに――
 と感じた修だったが、時間が経つにつれて、気持ちの氷が解けてくるのを感じた。
 それは、氷が暖められて溶けるのではなく、切れ目ができてそこから崩れていく氷山のような思いだった。
 修の頭の中には、それまで直美の怖い顔しか浮かんでこなかったが、氷が解けてくるのを感じると、自分が好きだった直美の顔が浮かんでくるのを感じたのだ。
――もう一度、直美のことを好きになってしまうかも知れない――
 と感じるほどだったが、それはありえないことは自分が一番分かっていた。
――直美は今何を考えているんだろう?
 自分が直美の顔を思い浮かべている間、頭の中で直美が考えていることを見てみたいと思うようになっていた。
――僕のことを思い浮かべてくれていたらいいのに――
 そんなはずありえるわけもないのに、そう思えてしまう。愛梨と出会ってしまった修が愛梨と一緒にいる時でも直美の顔が浮かんでくる状況で、修は直美が何を考えているのか想像、いや妄想してしまいそうで少し怖かった。
 直美と話をしていると、次第に二人の間には超えることのできない結界があることに気がついた。
 元々、実直な性格で、好きな人ができれば、その人一筋だと思っていた修だったが、直美と一緒にいると、誰か彼女の後ろに他の女性を思い浮かべているような気がしてきたのだ。
 それが誰なのか分からない。ただ、実直な性格というのは、誰か一人が決まってしまうと、その人しか見えないというもので、他に誰かを見ているのだとすれば、それは、まだ自分の中で直美が、
――一人に決まった――
 というわけではないのだ。
 直美と別れるということになって、
「友達でいよう」
 などと言えること自体、最初から直美を唯一の相手だと思っていなかった証拠なのだろう。
 本当に好きになった相手と別れるのだから、そばにその存在を感じてしまうと、辛さしか残らないはずだ。時間が解決してくれるとしても、時間の経過を待つまで、自分が耐えられるのかどうか、不安に思うはずだ。それなのに、友達などという選択肢が平気で頭の中に浮かんでくる辺り、直美に不信感を持たれても当然というものだ。
「それにしても、どうして友達などと考えたのだろう?」
 うまくいけばよりを戻せるとでも思ったのだろうか? そんな虫のいい話があるはずもない。自分は振られたのだ。ちゃんと自覚していなければ、時間が経つにつれて辛い思いをしたり、後悔が押し寄せてくることだってある。そんな簡単なことも分からなくなっていたのだろうか?
 一度うまくいかなくなれば、噛み合わなくなってしまった歯車を組み合わせることはほぼ無理に近い。特に人間関係、しかも、相手が異性となれば、絶望的だろう。
 もう少しで、泥沼に入り込んでしまうところだった修だったが、何とか直美を忘れることができるような気がしてきた。それは、自分の悲惨な状況に自分の感情が慣れてきたからなのだろうか、目の前の光景が、機能までとまったく違って感じるようになっていた。
――何かの夢を見た気がした――
 夢の内容を覚えているわけではない。ただ漠然と、機能までの自分とは違っていた。
 最初は、その違いがどこから来るのか分からなかった。しかし、次第に思うのは、新しい出会いを期待している自分がいるということだった。
 そう思えてくると、目の前に迫ってきている孤独感に耐えられそうな気がしてきた。そうなると、あれほど怖がっていた別れも、辛いとは思わない自分がいるのに気づいたのだ。
 一度狂ってしまった歯車だったが、無意識に見た夢のおかげで、また噛み合うようになっていた。しかも、直美との間の関係が修復できたわけではないのに、歯車が噛み合ってきたのである。
 歯車が噛み合っていない間に考えていた選択肢には、直美を忘れるという感情はなかった。忘れてしまうことなどできないし、ましてや、いい思い出として残しておくという考えもありえなかった。
「直美のことが忘れられないのであれば、いい思い出にしてしまえばいいんだ」
 と、自分に言い聞かせたことで、歯車が噛み合ってきた。
 元々噛み合っていない歯車なので、ダメで元々、最初からない選択肢を思い浮かべてみるのも、立ち直るためには必要だということを思い知らされた。
 直美のことをなるべく考えないようにしても、辛くはなくなった。ただ、直美のことを考えなくなってしまうと、直美の後ろに見ていた誰かを感じることができなくなった。
――それは寂しいことだ――
 どうせ、直美との間は修復不可能なんだったら、少々辛くても、彼女の後ろに見ていた相手が誰なのか、考えてみるのも立ち直るための一つの手段だっただろう。だが、無意識の中で見た夢が、自分の運命を決めてくれたのだから、他人事ではない。自分の中にある潜在意識が働いてのことなので、神妙に受け入れるのが一番に違いない。甘んじて、孤独を受け入れるという選択肢をどうして選んでしまったのか、修はしばらく頭の中で瞑想を繰り返すことだろうと思っていた。
 しかし、考えてみれば、直美と付き合ったと感じているのは、修だけなのかも知れない。直美の側から見ても、他の人から見ても、修と直美は付き合っていたわけではない。付き合おうという意識が修の側にあって、直美にもあったのかどうか、修には分からない状況だった。修の方から見れば、直美にもその気があったと思うのは、自分が悩んでしまったことで勝手に思い込んでしまったからではないだろうか。
――苦しんでいるのは、僕の方だけ――
 最初から苦しいはずもない直美も苦しんでいるのだと感じたのは、直美のことを上から目線で眺めていたからではないだろうか。
 考えてみれば、直美を意識し始めたのも、直美が自分のそばにいつもいることで、自分を頼ってくれているのではないかと勝手に思い込んだからだった。
 そのくせ、自分から話しかけることもできず、どうすることもできなかった。修はそのことを思い出していた。
 すると、直美を諦めるきっかけになった夢について思い出してきた。
 その夢は、今までの消極的な自分とは違い、少し意地悪な男の子になっている夢だった。自分も直美も小学生の頃に戻っている。自分は高校生になってだいぶ変わったと思っているが、直美はほとんど小学生の頃のままだった。そう思えば、小学生の頃のことを思い出すのは、それほど難しいことではない。
――そういえば、あの頃結構、小学生の頃の夢を見ていたような気がするな――
 夢の中に直美が出てきたという意識はなかった。直美を諦めるきっかけになった夢の時だけ、直美が出てきたのだ。
 そう思うと、それまでに見た小学生の頃の夢の中で、もっと早く直美が出てきてくれていれば、ここまで悩むことはなかったのではないかと思った。
 だが、逆に、早すぎると本当に直美のことを忘れられたかどうか、疑問でもあった。
――早すぎても遅すぎてもうまくいかない――
 そう思うのは、噛み合っていなかった歯車が噛み合った瞬間を感じたと思ったからだった。
 一日だけ見た夢だったのに、夢の中では何日も続いているようだった。
「夢の中では時間の概念がない」
 という話を聞いたことがあったが、まさしくその通りだった。
 夢に出てきた修は、いつになく自信に溢れているような気がした。自分の信じることであれば、何をしても許される。そして、成功することができるという思いが強くあったのだ。
 夢に出てきた直美は、いつものように修のそばにくっついていて、離れようとしない。修もそんな直美を遠ざけようなどとする気もなかった。優しく抱き寄せている光景を想像していた。
 しかし、修は直美と二人きりになろうという意識はなかった。直美にも二人きりになりたいという思いはなかったようだ。修のそばにピッタリと寄り添っているくせに、身体はいつも震えていた。まるで雨に濡れた捨て犬のようだ。
 修が直美を見ていない時は、直美の視線を感じる。しかし、その視線を感じて直美を見つめると、直美は視線を逸らす。
 それは実に自然な行動で、お互いに目と目が合わないようにしているということを意識させないほどだった。
 そんな直美がある時、
「修君」
 と言って、目を合わせてくる。
 初めて声を掛けられて修も反射的に顔を直美に向ける。二人は視線を重ね、お互いの顔をまじまじと見つめた。
 修の感想としては、
――かわいい――
 と感じた。
 小学生で、異性に興味などない修が感じたその思いは、きっと妹を見ているような気持ちだったのだろう。兄弟のいない一人っ子の修には、妹かお姉さんがほしかったという思いがあるので、直美を妹のように感じたのだろう。
 一度妹のようだと思ってしまうと、それ以上の感情が湧いてこなかった。思春期を迎えた跡であれば、心境の変化も考えられるが、その時の修には一度感じてしまった妹のイメージから、それ以上を思い浮かべることはできなかったのだ。
 その時の修の感情は、妹というのは、守ってあげたいという存在であると同時に、自分の欲望を満たしてくれる相手のように思っていた。
「私、お兄ちゃんのためなら何でもできる」
 という言葉を、耳元で囁いてくれるのを想像したことが小学生の頃にあったのを思い出していた。
――妹さえいれば、僕は寂しくなんかないんだ――
 小学生の頃、それほど妹がほしかった。
 妹がいるだけで、彼女ができなくてもいいとまで考えていた。以西に興味を持つようになったのが、他の人よりもかなり遅かったのが、どうしてなのかずっと分からないでいたが、その理由がやっと分かった気がした。
――妹のような幼く思える女の子にしか興味がない――
 と感じたからだ。
 高校生になってから見る幼さの残る女の子、それがちょうど中学生くらいの女の子だった。思春期の頃の男女の違いは、思春期に入った頃というのは、女の子の方が発意気が早い。同い年だと、女の子の方が大人に感じられるだろう。だから、高校生になった頃に見る中学生が、修にはちょうど自分の好きになれそうな年齢だと思ったのだった。
「ずっと、年を取らなければいいのにな」
 自分が高校生から大学生、そして社会人になっても、好きになった女の子は幼いまま自分のことを、
「お兄ちゃん」
 と言って、慕ってくれる姿を思い浮かべるだけで、ゾクゾクとした思いを感じてしまうだろう。
 高校一年生の間は、ずっと頭の中を直美が占めていた。しかし、直美の夢を見たその時、直美は自分の独占だった。直美もそのことを理解していて、逆らうことをしない。しかし、それも永久ではなかった。時間で限られていたのだ。
「まるでシンデレラのようだ」
 時間がくることで、妄想の世界は消えてしまう。その妄想というのは、自分の中に揺るがぬ征服欲があることを裏付けていた。
 だが、妄想は妄想として、限られた時間の中だけで展開されるものであるということで、必要以上に直美に執着することはなくなった。直美が本当の自分の中にある征服欲を満たしてくれる女性ではないということなのだ。
――直美は、僕の中の征服欲の存在に気づかせてくれるためには必要な女性だったのだ。しかし、彼女は征服欲の対象となる相手ではない。きっと近い将来、その女性と出会うことになるだろう――
 と、自分に言い聞かせた。
 直美の後ろに誰か他の人を感じたというのは、きっとその近い将来に予感めいたものを感じていたからなのだろう。
 その感情が本当のものになったのは、出会いがしらでお互いを意識するようになった愛梨の出現だった。中学時代から一緒にいたのに、お互いにまったく意識していなかったというのもおかしなものだが、そのことを仲良くなってから話してみると、
「私も、あなたと知り合う前、他の男性を意識していた時期があってね。でも、その人の後ろに誰か他の人の存在も感じていたの、それがあなただったような気がしているのは、やっぱり同じような経験をしているあなたなら分かってくれると思ったからなのかも知れないわ」
 と、愛梨は言った。
 さらに愛梨は続ける。
「私は、その時に自分の本性に気が付いた気がしたの。私が今度知り合うことになる人が、私の運命を決めてくれると思うの。大げさなようなんだけど、私には時間がないの」
――時間がないとは、どういうことだろう?
 その時は軽く聞き流したが、すぐに意識しないわけにはいかなくなったのだ。
「私、知ってるの。このままいくと、あと数年しか生きられないということを……」
 冗談にしてもほどがあると思ったが、その言葉を口にすることはできなかった。愛梨は真剣に信じているようだからだ。
 さすがに冗談でも言っていいことと悪いことがあることくらいは分かっているつもりだったが、いきなり糾弾することはできなかった。いつもであれば、
「縁起でもないこと言うんじゃない」
 と言って、恫喝するくらいのはずなのに、その時はどんな顔をしていいのか、自分でも分からなかった。
 その時、愛梨は謝らなかった。
「ごめんなさい」
 の一言があれば、すぐに忘れてしまえたものを、謝ってくれなかったことで、その言葉が頭の中に残ってしまった。
 愛梨との間の立ち位置はその言葉で確定してしまった。愛梨がどんなことを言おうとも、一歩下がって聞くことしか修にはできなくなってしまったのだ。
――やられた――
 と感じた。
 愛梨に対して直接的な感情を持つことができなくなってしまった修は、自分が愛梨のことを好きになったという思いがあるのに、どうしても、勇気に繋がらなかった。告白することはもちろん、愛梨の前で、心からの笑顔を見せることができなくなってしまったのを自覚していた。
 そうなってしまうと、愛梨に対しても、相手の表情を信用できなくなってしまった。
 自分の表情が相手に対して、信用されるものではないと感じたからで、そんな自分に対して相手もまともな表情をしてくれるはずはないという思いであった。相手も、もし同じことを考えているのだとすれば、それは、
「ニワトリが先か、タマゴガ先か」
 という禅問答になってしまう。
 最初は、愛梨に対してだけそのことを感じていたが、次第に他の人に対しても同じような表情を浮かべていることに気づくと、自分が孤独であることを再認識した。
 孤独は嫌いではない。
「どうして自分が孤独な立場にいなければいけないのか?」
 という理屈さえ分かっていれば、孤独であっても、別に構わない。
「人は助け合って生きていくものだ」
 という話をよく聞くが、どうしても客観的にしか感じることができず、要するに他人事にしか聞こえないのだ。
 そんな自分に孤独と言う言葉はふさわしいと思うようになった。下手に人と関わると、相手の意見に合わせなければいけなくなり、自分の意見がどこまで通るのか分からない。
「話し合って決めればいいことじゃないか」
 と言われるが、自分と同じ意見の人がそうたくさんいるとは思えなかった。
 元々、
「僕は、他の人とは違うんだ」
 と思っているところがあり、他の人と同じだと言われると、ムカッと来るところがあった。だから、
「皆と同じ意見」
 と言って、人から意見を求められた時に、自分の意見を言うこともない人を見ていると、本当に腹が立ってくる。
「お前には自分の意見がないのか?」
 と言いたい。
 もし、似たような意見であっても、まったく同じということはないだろう。言葉にすれば、少しは違う言い方になるというものだ。語尾の違いというだけでも、その人の感情であったり個性であったりが出てくるものだ。それを思うと、修はどんなに奇抜な発想をする人であっても、その人のことを糾弾する気にはならない。何かしらの思いがあって口にしているからだ。
 だが、高校生になってから、修の中で、
「本当に自分の意見のない連中がいるんだ」
 ということに気が付くようになった。
 他の人には分からないことなのだろう。しかし、修には分かっている。どうして分かるのかということを、
「孤独を自分なりに理解して自分のものにしているからだ」
 と考えているからだった。
 このことは、今までに誰にも話したことはなかった。どうせ言っても、
「お前は何を言っているんだ。トンチンカンなことを言うんじゃない」
 と言って、一喝されるに違いないと思ったからだ。
 これも、自分の意見は世間一般の常識的な考えだと思っているからで、修自身そんな考えが一番嫌いだということを、まわりの人は誰も分かっていないのだ。
 分かってもらおうとは思わないが、世間一般常識の範囲内しか認めないという考えは、ヘドガ出るほど腹が立つ。自分が孤独えお自覚する人生を選んだのも、そんな世間一般常識という言葉への反発からなのかも知れない。
「そんな強情張るんじゃない」
 と、まわりの大人たちは言うだろう。
 しかし、大人というのは、自分たちの都合で、子供を自由に扱っている。説教にしても、教育という名の下に、世間一般を押し付ける。押し付けられた方は、それでいいと思っている人が大半だろうが、中には反発する子供もいる。そんな子供たちを「不良」というレッテルを貼って、特別扱いをしたり、手に負えないからと言って、国家権力に任せてしまい、相手にしない風潮が、昔から続いてきた。
 しかし、あからさまに不良となって暴れたりする人以外にも、ここ数十年の間に増えてきた「引き篭もり」や「不登校」、昔でいう「登校拒否」に値するものも世間一般から外れた者の行き着く先であった。
 世間一般を何の疑問も感じずに成長してきた人には、決して分かることのないことだ。交わることのない平行線がそこに存在している。いくらニアミスであっても、決して交わることはないのだ。存在すら感じているはずはないに違いない。
 修は、引き篭もりでもなければ、不良でもない。学校には通っているが、授業も好きな科目以外は、ほとんど出席していない。
 だが、最近は嫌いな授業でも参加するようになった。
 一瞬、教室に修の姿を発見した嫌いな科目の先生はビックリした表情を浮かべたが、それもすぐにいつものくそつまらない顔に変わり、面白くもないまるでお経のような眠たい授業を繰り返した。
 教室にいるだけで、別に聞いているわけではない。ちょうどいい子守唄代わりになって睡眠時間に早変わりだった。別に授業の邪魔になるわけではないので、先生も黙っている。それよりも、真面目に聞いていない生徒の話し声の方がよほど邪魔になるのだろうが、それを責めることもなく、先生は自分のペースで授業を進めている。
 そんな授業が面白いはずもない。まともに先生の話を聞いている生徒は存在するのだろうか。修は学校というものの存在自体、次第にバカバカしく感じられるようになっていった。
 それでも、大学に入れば、今までにない新しい学問を勉強できるのではないかと思い、授業は聞かなくても、予備校には通っていて、大学受験を目指していた。授業態度の悪さのわりに成績はそんなに悪くないので、担任の先生も少し意外に思っているようだった。
「僕みたいな生徒が一番気が楽なのかも知れないな」
 と修は思った。
 人に迷惑を掛けているわけではない。不登校というわけでもなければ、誰にも迷惑をかけていない。学校では空気のような存在に違いない。
 学校の外に出ても、同じように空気のような存在だった。
――まるで路傍の石のようだな――
 と自分で感じていた。
 人から気にされることもなく、孤独を堪能できるという環境はありがたかった。
 しかし、若干退屈でもあった。そんな退屈な毎日に一石を投じたのが、愛梨の存在だった。
 直美との間ではうまくいかなかったが、愛梨との間では、何か言葉にしなくても通じ合えるものがあるような気がしていた。
「私も、他の人と同じでは嫌だと思っているのよ」
 と、修が自分が考えている孤独について話をした時に、愛梨の口から返ってきた答えだった。
「じゃあ、僕と同じだね」
 愛梨が、
「人は死んだらどうなるんでしょうね?」
 という質問をしてきたのを思い出していた。
 あの時は、ありきたりの答えしかできなかったことに腹立たしさを感じた。今も同じ質問をされると、同じ答えしかできないだろう。ただ、最近の最近の愛梨を見ていると、自分が長生きできないと思い込んでいることが伝わってくる。
「バカなことを考えるんじゃない」
 と言うべきなのだろうが、修が気になっているのはそこではなかった。
――愛梨が自分の口に出していうのだから、本当にそう感じているのだろう――
 この思いは、修には十分すぎるくらいにあった。
 愛梨が感じている「死」というものが、自分の感じている「死」というものと、どこがどう違うのか、考えてしまうところにあった。
 修は、死というものについて、自分から考えたことはないと思っていた。しかし、
――気が付けば、考えていた――
 というように、自分でも無意識のうちに死について考えているということが何度かあった。
 きっとその時々で共通する考えに至るまでのきっかけがあったに違いないと思うのだが、それがどういうことなのか、考えが及ばない。考えれば及ぶような思いであれば、死について考えていることがいつも同じなのだろうと思うのに、その考えが微妙に違っていることを自覚していた。
 ただ、関連性がないわけではない。最近になって、その関連性についておぼろげに分かってきた気がしてきた。
――いつも同じ立場に立って考えているんじゃなくって、進行形で考えているんだ――
 と感じていた。
 いつも同じ立場で考えているのであれば、前に考えていたことがどういうことだったのか、少し考えていけば思い出せてくるはずだった。しかし、前に考えていたことと、関連性という意味で思い出すことができない。新しいことを考えているように思っているのに、感じていることは、以前に考えたことに繋がっているという漠然とした思いがあったのだ。
 死ぬということを考えた時、修は二つのことを思い浮かべてみた。
 一つは、誰もが最初に考えることで、
「死ぬ時って、苦しかったり、痛かったりするんだろうか? なるべくなら、苦しまずに死にたい」
 と考えるだろう。
「痛い、苦しい」
 という思いは、死を考える上で、避けて通ることのできないものだ。
 どうせなら苦しまずに死にたいと思うのであれば、一瞬にして息が止まってしまうことを想像するだろう。病気で苦しみながらなど、想像しただけで恐ろしい。
 以前、おばあちゃんの臨終の際に立ち会ったことがあったが、老衰で静かに息を引き取った。見ていても苦しむことはなく、明らかな寿命による大往生だった。そんなおばあちゃんを見て、皆、
「おばあちゃんは大往生の末に天国に旅立った。悲しまずに送ってあげよう」
 と言って、無理に笑っていたのを思い出した。
 しかし、それは無理に笑っているのであって、顔は泣いていた。どうしてそんなに悲しいのか、まだ子供だった修には分からなかった。
 とは言っても、
「今同じ状況になっても、まわりの人が泣いてしまうのを見て、何が悲しいのか分からないだろうな」
 と思った。
――人の死って、そんなに悲しいことなんだろうか?
 と考えるようになっていったが、それは、痛い苦しいという思いは本人にしか分からないのに、どうしてそんなに悲しいのかが分からなかったからだ。
 しかし、人が死ぬということはそれだけではない。
「死んでしまった人には、二度と会うことができない」
 からである。
 おばあちゃんと一緒に住んでいた従兄弟のまだ幼稚園にも上がっていなかった男の子が、仏壇を前にして、
「おばあちゃん、いつ帰ってくるの?」
 と、母親に聞いている姿を見て、思わず悲しくなったが、人の死を前にして本当に悲しいと思ったのは、正直その時だけのことだった。
 涙は、本当に反射的に出てきた。
「目頭が熱くなる」
 と言う言葉を聞くことがあるが、まさしくその通りであった。
「おばあちゃん……」
 修も、もらい泣きに等しい状態で、仏壇に手を合わせていた。まわりからは、すすり泣く声が聞こえてきた。
――どうして、まわりはそんなに悲しいんだ?
 と思うと、修の頭は急激に冷めてきて、手を合わせるのを止めてしまった。
 それでもまわりからのすすり泣く声は途絶えることなく聞こえてくる。その時から、争議というのが、他の時と違って、明らかに違った雰囲気であることを自覚した。
 それは悲しいことであるにも関わらず、どこか胸が躍るような感覚だった。まるでお祭りに来たかのような感覚に、不謹慎だとは思いながら、悲しさよりもまわりの雰囲気の異様さを感じるようになったのだった。悲しさというものが一体どこから来ているのか、真剣に考えたのはその時が最初で最後、次第に悲しさに対して冷めた目で見るようになってしまっていた。
 高校生くらいの頃、時々おばあちゃんの葬儀のときを思い出すことがあった。悲しいという思い出ではなく、自分が、
「おばあちゃん、いつ帰ってくるの?」
 と言った時、まわりのすすり泣くような雰囲気を思い出したからだ。
 それは悲しいなどという思いではなく、自分がどうしてそんな言葉を発したのかということと、発した言葉に対してのまわりのリアクションがあまりにも大げさに感じられて、却って白々しく感じられた。それがどこか恥ずかしい思いを誘い、悲しさというものに対して自分の感覚が麻痺してくるのを感じたからである。
 おばあちゃんの死を境に、修は明らかに変わった。あれだけ悲しんでいたまわりの人たちは、葬式が終われば、もうおばあちゃんのことで悲しんでいなかった。それがどうしてなのか修には分からず、
「皆が同時に流す涙ほど信じられないものはない」
 と思うようになっていた。
 人と同じでは嫌な性格になったのはその頃からのことだった。そしてその頃から、人の死というものが分からなくなってしまった。人が悲しむのはどうしてなのか? まるで茶番でしかないようにしか見えなかったからである。
「私がどうして長く生きられないと思ったのか、あなたにだけは話しておきたいの」
 と言って、愛梨は神妙になった。
「今までに、自分の命が長くないと思っているということを、他の誰かに話したことあったのかい?」
 と修が聞くと、
「いいえ、話をしたことなんかないわ。だって、『縁起でもないこと言うんじゃない』って罵倒されるのがオチでしょう? そうなったら、私の方から何も言えなくなってしまうわ」
 修は、
――あの時、その言葉を口にしなくてよかった――
 と思った。
 もう少しで出てきそうな言葉を何とか我慢できたのは、今から思えば不思議で仕方がなかった。やはり、あの時の愛梨の雰囲気は、独特のものがあったに違いなかった。
 その雰囲気をいまさら思い出すことはできなかったが、今の愛梨とは違っていることだけは分かった。もし今の雰囲気の愛梨にあの時の告白をされれば、きっと、縁起でもないと言って罵倒していたに違いないからだ。
「でもどうして愛梨は僕に話をしてくれるつもりになったんだい? もし僕が罵倒していたら、どうするつもりだったのかな?」
 と聞いてみた。
「今となっては、分からないところもあるんだけど、修君になら罵倒されても、話を止めてしまうことはないと思ったのかも知れないわね。修君なら、真剣に聞いてくれると思ったし、死というものに対して、他の人と違う考えを持っているような気がしたからなんじゃないかって思うの」
「確かに僕は、死に対して、他の人とは違う考えを持っていると思うけど、それは冷めた目で見ているという意味で違っていると思っているんだ。だから、他の人には打ち明けられないような話を打ち明けてもらえるようなそんな性格ではないと思うんだけど、違うだろうか?」
 それを聞いて、愛梨は少し考え込んでいた。
 すると、急に意を決したかのように、
「やっぱり修君は私の思っていた通りの人なのかも知れないわね。あなたは自分に正直で、自分のことに関しては、嫌われたとしても、人を欺きたくないと思っている人なんじゃないかって思うの」
「愛梨の言うとおりなのかも知れないけど、そんな格好のいいものではないと思うんだ。誰にだって同じ気持ちではないからね」
 と口にして、
「あっ」
 と思った。
 それは、自分の感情の中に、愛梨だけは特別なものを感じているということを言っているのだと宣言しているようなものだからだ。
「本当に正直なのね」
 と言われて、
「ありがとうと言っておこう」
 と答えたのは、恥ずかしさからだったというのが一番の本音だった。
 愛梨はそれを聞いて、少し黙り込んでいたが、修が何も言わないのを感じると、いよいよ本題に入ってきた。
「私は、誰かが死にそうになっているのを感じることができるような気がするの」
 少しオカルト掛かった話になってきた。
「どういうことなんだい?」
「昔から人が死ぬときは、カラスが寄ってくるっていうでしょう? 私には、そのカラスが寄ってくるタイミングが分かるのよ」
「でも、最近はカラスなんて、ほとんど見ることはなくなってきたよ」
「ええ、私もほとんど見ることはないの。そして実際にカラスが寄ってくるという予感があっても、カラスを見ることはできないの。カラスが近づいてきたことで人の死を感じることのできる人って少なくはないと思うんだけど、実際にそのカラスの姿が見えないのであれば、人の死を予感することなんて出来る人はほとんどいないことになるわよね」
「そうだね」
「でも、私は実際にカラスがいようがいまいが、近寄ってきているのを本能で感じることができるの。そして、それを感じた時、私のまわりで誰かが死ぬことになるの。ただ、それはカラスが近づいてこなければ分からないことなので、人の死の直近でなければ分かることではないはずなのよ」
「確かにそうだね。今の話だったら、僕にも信じられる気がする」
 カラスが死神の使いだという話は、子供の頃に聞かされた気がした。しかもその話をしてくれたのがおばあちゃんだった。そしておばあちゃんが死んだその時、修はおばあちゃんの話を思い出して、自分がどこかでカラスを見たのではないかと記憶を呼び戻してみたが、カラスの記憶はどこにもなかった。ただそれよりも、記憶のどこかが欠落しているような気がしていたのだが、そのこととカラスの記憶を結び付けられるほど大人になっていなかったので、その時は意識していなかった。
 しかし、今回改めてカラスと死の因果関係について考えさせられるような話を聞いた。そのことで、ずっと忘れていた記憶がよみがえってくるのを修は感じていた。それが、カラスの記憶を思い出そうとした時、記憶の中で欠落している部分があったということを同じ時に考えていたという意識であった。
――ああ、やっぱりあの時に感じたことは、無関係ではなかったんだ――
 あれから一度でも思い出しさえすれば、この時に愛梨から聞いた「死の予感」の話も、もう少し理解してあげられたのではないかと思うと、跡になってから後悔の念が押し寄せてくることを、その時は知る由もなかった。しかし、その思いがあったからこそ、修は自分が生きていく上での道を確立できたのだということを知ることになる。
「愛梨は、カラスの存在を直近にしか感じられないのに、自分のことは先のことまで分かるということなのかい?」
「ハッキリと分かっているわけではないの。だから、長く生きられない気がするという言葉にしかならないの。決して死ぬという言葉を使っているわけではないでしょう?」
「確かにそうだ」
 どこか欺瞞のようにも感じたが、自分の中で分かっていることだけを口にするのは欺瞞でも何でもない。相手がどう感じるかということだけで、それを口にした本人に強要して責任を押し付けてしまうのは無理のあることだった。
「私ね。カラスが見えないのよ。人が死ぬことが分かっているのだから、カラスの存在は分かっているの。どこにいるのかというこさえ分かれば、私は救われる気がしているんだけど、ずっと分からないでいたのね」
「それで?」
「いい加減、考えるのも疲れてきたので、考えるのを止めようと思ったその時、カラスを感じることができたの。でも、その実態を見ることはできない。自分のすぐそばにいるのは分かっても、それがどこなのか分からないということほどもどかしいことはないのだと感じたわ」
「それは分かるような気がする」
 修も、自分が何かを思い出しそうになっている時、必死に思い出そうとすればするほど思い出せない。すぐ目の前にあるはずなのに、それが分からないというもどかしさが、どれほど自分の神経を消耗させるかということも分かった。
 しかし、その時修は感じた。
――そうか、一番近くにあって、気配を感じることはできるのに、見ることはできない。それは自分なんじゃないか――
 と感じた。
 自分の中に、今こうやって考えている自分とは違う自分がいるということを感じることができると、精神的な消耗は一気に解消される。しかも、分からなかったことが一気に分かってくるような気がして、それまでの自分の人生とは違う人生が開けた気がしてきた。
 それが人生の一つの分岐点である。
 人にはいくつもの人生の分岐点があると言われているが、その分岐点がいつどうやってやってくるのか分からない。それなのに、
「これが人生の分岐点なんだ」
 と分かることができるのは、分岐点を通り超えて、結果が見えてからではないか。それでは遅い場合が多い。しかし、それでも分岐点には変わりはない。その分岐点がよかったのか悪かったのかは、自分の意思の中で決められることではなかったのである。
 修は、人生の分岐点を感じたことは何度かあった。おばあちゃんの死の時もそうだったし、直美を意識していた小学生の頃、直美と疎遠になった時、そして直美との再会もそうだった。ただ、直美との決裂が分岐点だったのかどうか、今でも分からない。
――分岐点というのがそんなにたくさん存在してもいいのだろうか?
 修はそんなことを考えていたが、逆にそれ以外の人生は、まったく持って、面白くも何もないものだった。
 一口で言えば、
「刺激のない人生」
 今の修はそれでもいいと思っているが、直美と決裂し、愛梨と心を一つにするまでは、「刺激のない人生がいいとは思わない」
 と感じていた。
 ただ、愛梨と一緒にいると、どこか刺激がなくても、別に構わない気持ちになってきた。刺激を感じることが良くも悪くも時間の感覚を歪めてしまうということに気づいたからだ。
「同じ日を繰り返してみたい」
 と思ったのもその頃で、
「もし、抜けられなくなったらどうしよう」
 と今であれば容易に感じることをまったく考えなかった自分が恐ろしい。
 同じ日を繰り返すということは、やり直したいことがあるということであり、知っている一日なのだから、やり直したい場面に立ち返れば、きっと自分が後悔することなくやり直せると単純に考えてのことだった。
 しかし、そのために、一度回ってしまった歯車を別の形で嵌めなおすことになる。開けているのは、本当は進むはずだった道とは違う道になっている。つまりは、二十四時間前に想像していた未来と、変えてしまった未来だけが変わっているというわけではないということだ。自分だけの都合で過去を変えてしまうと、未来はどういう形になるか分からない。そんなタイムパラドックスを、刺激という言葉だけを追い求めてしまうと、考えられなくなってしまうかも知れない自分に気づいていなかったのだ。
 そんな時、愛梨から自分の人生が短いと聞かされた。ショッキングなことだったが、どこか他人事のように感覚をマヒさせて聞いている自分がいることに気が付いた。
 その時の愛梨の言葉が、自分の将来の発想に繋がっていることに後になって気が付いた。それだけその時は他人事のように聞いていたのだろう。
「あの時、すぐそばにいて気づかなかったのは、そのカラスというのが、この私自身だったのだということなの。だから、私は自分自身が『死神の使い』であるカラスだったということに気が付くと、自分の命が短いことを悟ったんだって分かったの」
「それは飛躍しすぎなのでは?」
「確かにそうかも知れない。でも、私は自分自身がカラスだったと気づいた時、本当に自分の死を意識したの。その前にあなたに自分が長くないと言った言葉にウソはなかったはずなのに、どうして自分が長く生きられないと思ったのか分からない。でも、死を意識したのは、カラスのせいなの。じゃあ、他に長く生きられないという意識を持たせるために、何かを感じていたんじゃないかって思うと、また考え込んでしまったのね」
「何か、死神の化身のようなものが取りついていたということなんだろうか?」
 修は、他人事としてしか考えられない自分に憤りを感じながら、愛梨と一緒に考えている時は、冷静になって考えていた。
「私は、このまま死んでしまいたいとは思わない。ミイラになって肉体を保存してほしいと思うようになったの」
「今の科学でどこまで保存できるのか分からないけど、現実的に一個人で簡単にできることではないよね」
「そうね。でも、私は今不思議なことを考えてるの。私の考えているこの頭は、元々私のものではなかったんじゃないかってね。ずっと過去の記憶が次第によみがえってくるような気がしているの。それを感じたから、長く生きられないんじゃないかって思ったのかも知れないわね」
 修は自分がミイラに興味を持っていることを、愛梨が気づいているのではないかと思えてきた。そう思うと、今度は愛梨と知り合ったのも、ただの偶然ではなく、会うべくして出会った相手なのではないかと思うようになっていたのだ。
「でも、愛梨が自分をカラスの化身のように思うというのは、何となく分かる気もするんだ」
「どういうことなんですか?」
「僕も、時々自分が『人間ではなかったら、何だったんだろう?』って思うことがあるんだ。そんな時、自分は本当に人間嫌いなんだって感じるんだけど、愛梨にはそんな気持ちになったことあるかい?」
 愛梨は少し考えたが、
「ええ、あるわよ。今はそこまではないんだけど、子供の頃は特にそう思っていたわ。自分が何の生まれ変わりなのか、そして、自分が死んだら、何に生まれ変わるのかってよく考えたりしていたわ」
「子供の頃にそんなことを考えていたのかい?」
「ええ、自分の前世は人間ではなかったんだって思ったものよ。だから、死んだら人間以外になるんだって真剣に思っていたわ」
 修は自分の前世について考えたことはあった。その時に思い浮かんでくるのはどうしても人間以外ではありえなかった。人間であってほしいという願望というよりも、発想が狭かっただけなのかも知れない。他の人が前世について考えたとすれば、誰もが前世も人間だったと思うに違いないと、勝手に思い込んでいた。
 それだけに愛梨の発想には正直驚かされた。しかもそれが子供の頃の発想だというのだから、余計にビックリだ。だが、考えてみれば子供の頃だったからこそ、そういう発想が生まれてくるのかも知れない。そう思うと、やはり自分の発想が浅はかだっただけだと思うのだった。
「でもね、最近では前世も生まれ変わっても、やっぱり人間なんじゃないかって思うようになってきたの。他のものだなんて想像できない。発想が狭くなってきたのかしらね?」
 と言って愛梨は笑っていたが、修は笑い飛ばす気には到底なれなかった。
 愛梨が感じていることは発想が浅はかなわけではない。自分が以前に考えていた発想とは明らかに違っているのだ。
 愛梨は自分の前世を人間以外で考えていた。それが動物なのか昆虫なのか、あるいは植物なのか、まさか路傍の石のように、生命のないものだなどと考えていたわけではあるまい。
 そんなことをいろいろ考えてみると、今の修には自分の前世思い浮かべてみた時、以前は思い浮かべることのできなかった人間以外だったという発想を思い浮かべることができるようになっていた。
 それは自分が大人になったからではない。成長したからと言って、想像できる発想ではないと思ったからだ。
――愛梨と知り合って、愛梨の身になって自分も発想してみることでできるようになったのかも知れない――
 と感じていた。
 修は一番ありえないと思っている「路傍の石」になった発想をしていた。
 いつも同じ場所にいて、自分では動くことができない。手も足もなければ、顔も身体もないのだ。感情だけが石の中にあり、ないはずの目が、自分の意志となってまわりを見つめている。
 いろいろな人に踏まれている。人間だけではなく、動物からも踏まれ、こちらの意志などまったく分かるはずもなく、ただ通り過ぎているだけだ。
 痛いなんて感じることはない。誰にも気にされることもなく、ただ佇んでいるだけ、もし自分が人間という立場であれば、寂しいという感情が浮かんでくるのだろう。
 自分は「路傍の石」なのだ。まわりからは目の前にあっても、まったく意識されることはない。しかし、こちらには考えることもできれば、感情だってある。相手にはまったく分からないことであっても、自分には知ることができた。
 自分を踏んづけていく人の顔をマジマジと見ると、その人が何を考えているのか、瞬時に分かってしまう。どうしてそんな能力が備わっているのか最初は分からなかったが、少し考えれば分かってきた。
――まわりがこちらのことを一切気にしないので、無防備に気持ちを表に出しているからだ――
 と感じた。
 しかし、それは人間であった時も同じこと。相手が何を考えているか分からないと思っていたが実際にはそんなことはない。分かろうとすれば分かることができるのだ。
――ではなぜ、分かろうとしないのか?
 それは、簡単な理屈であった。
――僕が相手の気持ちを分かろうとするのと同じように、相手も同じようにこちらの気持ちを分かってしまうだろう――
 という思いが強かったからだ。
 自分が相手の気持ちを分かりたいと思うのと同じくらいに、相手に自分の気持ちを分かられるのは嫌なことだ。そんなことは、考えなくても分かっていると思ったが、相手の気持ちを分かろうとすれば分かるのではないかという発想に立ってみると、相手の気持ちを分かりたいという思いよりも、はるかに相手に知られたくないという思いが強いから、相手の気持ちを思い図ることができないと考えると、理解できることのように思えてきたのだ。
 そんなことを考えていると、人間というのがどういう動物なのかというのが見えてきた気がした。
――人間というのは、絶えずまわりのことを気にしていなければ生きていけない生き物なんだ――
 と思った。
 ただ、それは他の動物にしても同じことではないか。群れを成して行動している動物も、まわりのことを意識して、忖度しながらでなければ生きていけない。特にサルなどは、上下関係が厳しいというではないか。
 だが、果たしてそれは人間のようにまわりを気にしているからなのだろうか? 考えてみると、動物の行動パターンには必ず決まった法則のようなものがあるではないか。
――そうだ。動物には本能があって、群れを成しての集団行動は、その本能によるものなのではないか――
 そう思うと理解できるところが大きい。
 人間の場合も確かに本能というものはある。本能がなければ説明できないこともあるからだ。
 修はそれを、反射的な行動だと思っている。反射神経をもたらしているものは、本能だと思っていた。
 では、人間に備わっていて、動物にはないものとは一体何なのか? それこそ理性というものではないだろうか。人間は理性と本能をうまく噛み合わせて生きている。だから他の動物よりも高等なのだと考えた。
 ここまで考えると、さらなる疑問が生まれてきた。
――じゃあ、人間が高等動物なのだということを決めたのは誰なんだ?
 誰もが信じて疑わない、
――人間は他の動物よりも勝っている、高等な動物なんだ――
 という発想である。
 それこそ、人間のエゴなのではないだろうか。
 他の動物が言葉を話せないのをいいことに、人間の方が勝っているという発想。これこそエゴである。ただ、他の動物にも人間にはない能力があったりする。犬であれば、嗅覚は人間の何倍も発達している。鳥に至っては、人間が太古より追い求めていた「空を飛ぶ」という願望を、最初から肉体に宿して生まれてきているのだ。だから、人間だけが他の動物に比べて高等なのだという発想はエゴでしかないのだろう。
 逆に、その思いは人間というものが、他の動物とは違うという思いが強すぎることから生まれた発想ではないかとも考えられる。自分たちにはないものをたくさん持っている他の動物に昔から恐怖のようなものを感じていて、人間が勝っているものだけを突起させて人類を洗脳し、人間関係の中での優位性に結びつけていくという発想が生まれてきた。そう思うと、人間が他の動物に比べて高等だというのも、まんざらウソではないと思えてくる。
 修は他の動物を元々意識することはなかった。それは人間関係のように気を遣わなければいけないというわけではないので、気軽に付き合えたからだ。
――ペットを飼う人も、同じような気持ちなのかも知れないな――
 癒しを求めてペットを飼う人が多い。ほとんどの人がそうなのではないかと思うほどである。
 修も子供の頃、家に犬を飼っていた記憶がある。母親がどうしても犬を飼いたいと言って父親にねだったのだと後になって聞かされたが、その犬は大きな犬で、幼児の頃の修が犬の背中に乗って、まるで乗馬のような恰好をしている写真が、アルバムには残っていた。
 ペットとして幼い頃に犬がそばにいたことで、余計に子供の頃に自分の前世が人間以外ではありえないと思っていた。つまりは、動物である犬であっても、ペットとして一緒にいれば、それは家族同然、人間と変わりなく接しているつもりだった。
 実際には人間と同じように接することができるわけもない。癒しの道具としてしか見ていなかったのは明らかで、その思いを感じないようにしなければいけないと思っていたのだろう。
 もちろん、それは無意識のことである。感じてしまうと自分の普段感じていることのほとんどを否定しなければいけなくなることを分かっていたからだ。
 否定しなければいけないということを分かっていたのも、癒しの道具だとしてペットを見ていたという意識も、感じないようにしていた行動は、明らかに本能から来るものだ。理性であっては、その次の発想を浮かべてしまう。つまり理性と本能の違いは、最初に思い浮かべた発想から、次の発想をできるかどうかという違いでも分類できるのではないかということであった。
 修は自分が人間嫌いになったのは、
――自分の前世が人間以外だったのかも知れない――
 と思うようになったからだ。
 さすがに路傍の石だという発想まではなかったが、自分に前世が人間以外ではないかという思いを抱かせたのは、ペットである犬が死んでしまった時のことだった。
 修が子供の頃、一緒に遊んでいた犬は、実はすでに十歳を超えていた。
 人間であれば、老人に近い状況だったので、親には寿命が近いことは分かっていたのだろう。子供の修にはそんなことが分かるはずもなく、
――犬も自分と同じように成長しているんだ――
 と思っていたのである。
 最初の頃は、犬は実に従順で、どんなことを言っても、言うことを聞いてくれた。
 子供の頃はそれが当たり前だと思っていたが、大人になって考えてみると、想像以上にその時の犬はよく人間の言うことを聞いていたように思えた。
――まるで人間の言葉が分かっていたみたいだな――
 それが今の率直な気持ちだ。
 それなのに、次第に犬は言うことを聞かなくなる。今までしてくれていたこともしてくれなくなったし、以前であれば、自分が表から帰ってくれば、喜び勇んで尻尾を振りながら抱きついてきたりしたものだった。
 修が家に帰ってきても、犬は喜んでくれるが飛びついてくれなくなった。一抹の寂しさを感じながら、
――やっぱり犬は人間じゃないんだ――
 という思いを修に抱かせた。
 もっと他にも考え方はいろいろあったはずだ。それなのに、どうしてそういう発想にしかならなかったのだろう? その頃から自分の前世について考えるようになり、その時に自分の前世が人間以外に考えられなくなったという経緯だった。順序を追って考えていくと、どうして前世が人間以外を考えられなくなったのか、分かってくるような気がしてきたのだ。
 犬は日に日に弱ってきているのを感じた。その時になってやっと子供の修にも、犬の寿命が近づいてきていることに気づくようになった。
 犬の声が、何とも言えない寂しそうな声になってきていた。
「クフンクフン」
 甘えるような声ではない。寂しそうな声だった。
――もし、これが言葉だったら、何て言っているんだろう?
 修は想像してみたが、想像できるものではなかった。
 もしこれが人間で、言葉をしゃべることのできない人だったら、何と言っていたのか分かるだろうか? 分かるはずもなかった。
――人間だからこそ、余計に分からない――
 そう思うと、人間と言えど、動物よりおm距離の遠さを感じた。
 犬はそれからすぐに死んでしまった。家族は数日は悲しそうにしていたが、すぐに犬がいたことなど忘れてしまったかのようにいつもの生活に戻っている。
――どうしてそんなに簡単に忘れることができるんだ――
 と感じたものだ。
 本当は忘れているわけではなかったのだろうが、子供の修には見た目でしか判断できなかった。その頃から人間というものが、次第に嫌いな要素をたくさん持っていることに気づいていったのだ。
 子供の頃はそれ以上の発想ができなかった。どうしても、目の前に見えていることでしか判断できなかったので、中途半端にしか考えることができなかった。それが修少年の発想の限界であり、ただ、その思いがずっと燻っていたことで、大人になって思い出すきっかけがあったのだろう。
 思い出してからの修は、人間嫌いと寂しさというものを考えるようになり、孤独が実は嫌なものではないという発想に繋がっていた。そのくせ異性を気にし始めるとトコトンまで妄想するのだから面白いものだ。これこそが、
――理性を越えた本能というものではないか――
 と思うようになっていった。
 それが理性であり、本能でもある。大人になって分かってくるものもたくさんあった。
 修は愛犬が死んだ時、
「今度は人間に生まれ変わってくるんだよ」
 と声を掛けた。
 その時の心境を思い出すのは難しいが、後から思えば、
――どうして、あんなことを言ってしまったんだろう?
 と感じた。
 確かに人間は犬に比べれば寿命は長い。ペットのように十年で死んでしまうわけではない。しかし、それは人間の目から見て短く感じるからで、犬のように早く死んでしまうのなら、犬になんかなりたくないと思うに違いない。
 人間だって寿命を全うしたとしても、八十年か九十年くらいのものである。千年万年生きると言われる鶴亀に比べれば、あっという間のことである。
 昔から不老不死を求めての物語が多く存在している。西遊記のお話にしても、
「高貴な坊主の肉を食らえば、不老不死になれる」
 として、魑魅魍魎が三蔵法師の命を付けねらう話ではないか。
 三蔵法師は、お釈迦様の指示で、万民を救うとされるありがたいお経をいただきに行くのであって、私利私欲によるものではない。
 あくまでの仏教の教えを元に書かれた話なのだろうが、不老不死を求める妖怪連中のことについて、読んでいる人で考えている人はどれほどいるのだろう?
 修は不老不死については、ずっと疑問を持っていた。
――まわりの知っている人は皆死んでいくのに、自分だけが生き残るというのは、どんな気分なんだろう?
 自分が不老不死であるということを教えられている場合と知らない場合とではかなり違っているだろう。
 自分が知らない場合は、まわりで人がどんどん死んでいく。中には苦しんで死んでいく人もいるだろう。そんな人をたくさん見送って自分だけが生き残ってしまうのだ。寿命が長いだけで自分もいずれは死ぬことになる。死というものへの恐怖を溜め込んでから一人生きていくのは、これこそ生き地獄だとはいえないだろうか。
 逆に自分が不老不死であるということを知っているとすればどうだろう?
 ただ、不老不死に対しての条件として、事故や自殺であれば、死ぬことができるとすれば、どう思うだろう?
 寿命であれば、大往生ということもある。苦しまずに死ねるというのであれば、大往生が一番誰もが望んでいるものではないだろうか。
 死というものを、苦しいものだと考えるのと、それ以降にやりたいことをやり残したという精神的なもの両方がある。まずは誰もが、
「なるべくなら苦しまずに死にたい」
 と思うのではないだろうか。
 どんなにこの世に未練がないほどやり残したことはないという人がいたとしても、苦しまずに死にたいと思うのは当たり前のことである。
 修も当然のことながら、死を意識すると、まずは苦しみたくないと思ったものだ。
 死を苦しいものだと思うから死にたくないという思いから、不老不死の発想が生まれたのではないかという考えはあまりにも安易ではあるが、突き詰めれば同じようなところに着地するのではないかと思うのだった。
 生まれ変わるということは、一度は死ななければいけないということ。しかも、生まれ変わった時には、前世の記憶はまったくなくなっていて、完全に別の人になっているだろう。
 それはもちろん、人間に生まれ変わったという前提の下にであるが、そう考えると、
「人間、死んでしまえばそれで終わりだ」
 と言えるだろう。
 不老不死への思いは、この発想からも生まれてくる。だからこそ、いろいろな宗教がこの世には存在していて、神様仏様を信じることになるのだ。
 メジャーな宗教のほとんどは、
「この世で救われない人々は、あの世に行ってから救われるようにする」
 というものであろう。
 昔から争いの絶えない人類は、その理由が他の動物のように、生きるために不可欠な連鎖という本能的なものではないのだから、一部の権力者による殺し合いが、庶民を巻き込んでしまい、死にたくもないのに殺されることになるというのは、今の人から思っても理不尽なことであろう。
 誰だって死にたくはない。それなのに、自ら志願して兵隊として戦って死を選ぶ人もいる。戦わなければ生きていけない人もいるのだから、庶民が戦争に巻き込まれるのも仕方のないことなのかも知れない。
 それでも、あの世では救われたいという思いから、宗教は発達してきた。
 だからこそ、戦争の理由の多くに、「宗教紛争」と言うものがあるのだ。
「この世で自分たちの信じる宗教のために戦って死ぬのであれば本望だ。死んであの世に行けばきっと救われるのだから」
 という発想になる。
 自爆テロなどの過激な行動は、まさにその通りだ。
 しかし、それは本当の彼らの意思なんだろうか?
 プロパガンダによる洗脳ではないかとも思える。
 また、実際にそう思っている人も少なくはないだろう。
「人間、死んでしまえばそれまでだ」
 まさしくその通りである。
 そんな人が考える不老不死、これはあの世に行っても、結局変わらないという考えで、いや、それ以前に、
「あの世なんて、本当に存在するのか?」
 という発想もありえるのだ。
 そう思ってくると、生まれ変わりや、前世などという考えはまったくの無意味なもので、これだけたくさんの人が時代を超えて生きてきたのに、誰一人として前世の記憶を持っている人がいないというのも、前世という発想に対してまったく信憑性のないものだと思うのは、至極当然のことだろう。
 その考えが不老不死の考えを生んだのかも知れない。
「生命のあるものには、必ず死は訪れる」
 という考えも生まれてくるが、ただ、これも前世の記憶がないのと同じで、人間で死ななかった人は一人もいないのである。そういう意味ではこちらの信憑性もまったくないと言ってもいいだろう。
 ただ、寿命は延ばすことができるかも知れない。延命という意味もあるが、不治の病で余命何ヶ月と言われている人でも、何とか保存することができて、今の時代では不治の病でも、数十年後には不治の病ではなくなっているかも知れない。そんな時代にもう一度蘇生させればいいという考えもあるだろう。
 実際にそんな研究をしているところもあるのではないだろうか。一般市民には知られていない国家プロジェクトのようなものが進行しているのかも知れない。
 ただ、それも宗教団体からすれば反対意見もあるだろう。
「神様によって決められた寿命を、人間の手で勝手に操作していいものなのだろうか?」
 という考え方である。
「寿命を変えると言われるが、そもそもその人の寿命がいつなのかって、誰が決めているんだ? それだったら、怪我をしたり病気の人が放っておけば死ぬことになるとして、そんな人たちを治療によって助ける医者は、神に対しての冒涜を働いたということになるんじゃないか?」
 ということになる。
 確かに誰の寿命がいつまでなどということは誰にも分からない。分かることができるのだとすれば、それは本人以外にはありえないだろう。
 その本人が知らないのだから、他の人がその人の寿命について語るというのはおかしな話だ。それこそ、
「神への冒涜」
 になるのではないだろうか?
 しかし、太古の昔から、
「死んだ人はいずれ生き返る」
 という発想からなのか、皇帝が死んだらミイラにして、後世に残そうとする風潮があった。それは古代エジプトだけではなく、古墳と呼ばれるものができた東洋でも同じ発想だったのではないだろうか。
 愛梨が不老不死について話をしたのは、二人が大学生になってからのことだった。愛梨からそんなに長く生きられないという話を聞くことになる二ヶ月前ほどのことで、後から思うと、
「この頃から愛梨は、自分が死んでしまうということを自覚していたのだろう?」
 と思えた。
 愛梨は決して死を怖がっていたわけではない。
 だから、修には愛梨が死ぬなんてこと、想像もできなかった。あまり長く生きられないという話を聞いた時、確かにゾッとしたものを感じたが、すぐに我に返ったのを思い出した。
 余計なことを口にしなかったのは。正直何を言っていいのか分からなかったからで、少なくとも、
「縁起でもないこと、言うんじゃない」
 と言いたくなかったからだ。
 だが、後から思い返してみると、
――あの時、縁起でもないと言う言葉を言わなかったとずっと思っていたが、本当は口に出していたのかも知れない――
 と感じた。
――口に出したにも関わらず覚えていない――
 そんなバカなことがありえるのか?
 後から思い出してから感じたことではなく、言ってはいけない言葉だから口に出していない。それが曖昧だということは、考えるに、
――相手のリアクションが記憶のすべてだったのではないか?
 という思いであった。
 あの時、愛梨がどんな顔をしたというのだろう?
 記憶にあるのは、
――こんなに冷静で、冷徹な愛梨を見たことはない――
 というものだった。
 さらに、そんなに冷徹な表情は愛梨にだけではなく、今まで生きてきた中で、これ以上の冷徹さはなかったような気がするというものだった。
 何を持って冷静で冷徹かというと、それは、表情の変化にあると思った。
 ポーカーフェイスという人は確かにいたが、愛梨もどちらかというとポーカーフェイスのところがあった。しかし、話の内容が内容だっただけに、その場の雰囲気が冷たくなっていて、どんな表情をしていても、凍りついた雰囲気は拭えないだろう。そこまで感じていたのに、
――こんなに凍りついた表情は初めて見た――
 と感じ、ゾッとしてしまった。
 心の準備があってもまださらに凍りついた状況に、修は正直、逃げ出したい気持ちになったのだった。
――これは信じないわけにはいかないな――
 と感じ、自分が何を言っても、言葉として成立しないと思った。
 だから口を開くことはなく、何も言えなかったと思ったのだ。
 それが思い過ごしだとすれば、その時に言葉を口にしたのは自分ではない。自分の中にもう一人の自分がいて、愛梨に話しかけたのだ。
 それが声として発したのかどうか分からないが、言葉は愛梨にしっかり伝わっていただろう。
――ひょっとすると、もう一人の自分というのは、建前の自分で、愛梨は建前の自分を相手にしていたのかも知れない――
 と感じたが、その時に自分としての感情を持っていた自分は、まるで幽体離脱した状態から、その時の雰囲気を感じていたのではないかと思うほどだった。
――そういえば、同じような感覚になること、今までにも何度かあったな――
 と感じたが、それはいつも逃げている自分であり、他人事としてまわりから見ている自分だったりした。
 しかし、その自分の方が建前の自分で、本音の自分が表に出たことで建前の自分は、逃げの姿勢を取りながら、他人事の目をして見ていたのかも知れない。
 愛梨が不老不死の話を持ち出したのは、たとえ話からであった。
 分かりやすくするためなのかと思ったが、それはまるで自分に言い聞かせるためのものでもあるような気がした。
「私ね。最近浦島太郎のお話を思い浮かべることが多いの」
「浦島太郎って、あのおとぎ話の?」
「ええ、時々夢に出てくるくらいなのよ」
「愛梨が乙姫様で、僕が浦島太郎なのかな?」
「そうじゃないの。私が玉手箱を貰う方」
 愛梨は自分が浦島太郎になったと言いたいのだろうか? 愛梨は続けた。
「でも、あくまでも見ている私はまるで映画を見ているように、表から全体を見ているのよね。だからストーリーには決して参加することはないの」
「夢というのは、そういうものではないかと僕も思っているよ。やはりそれは夢だったんだろうね」
 当たり前のことを言ったが、別に恥ずかしくはなかった。いつもだったら、
――こんなありきたりの建前のようなこと、言うはずなのに――
 と思うはずだったが、その時は真剣に愛梨の顔を見て、そう感じたのだ。
「不老不死なんて、私は信じていないの。『生あるものは、必ず滅びる』という考え方は私にもあるのよ。でも、その後がどうなるのか、まったく分からない。宗教だったら、『肉体は滅んでも、魂は生き残る』って言われるでしょう? じゃあ、その魂ってどうなるのかしらね? 永遠に行き続けるのだとすれば、過去からずっと死んだ生まれるだけ生まれて、後は死ぬと魂になる。つまりは、魂だけがどこかの世界で増え続けるということでしょう? 何かおかしな気がしませんか?」
「そうだね。だから、『輪廻』なんて言葉が生まれてくるんでしょうね。人は死んで魂になる。そして、その魂は、いつか生まれ変わるという考え方だね」
「ええ、その時には、それまでの記憶は完全になくなってしまっていて、新しい人間として人生を歩む。そう考えるのが一番しっくり来るのよね」
「でも、その考えはあくまでも人間の側に立って、前提として、『肉体は滅んでも、魂だけは生き残る』という発想からきているんだよね。だから、その前提が崩れれば、すべての発想は空砲に帰すということだね」
「人は生まれれば必ず死ぬものだというのも、大きな前提よね。まずはそこから何じゃないかしら?」
「その通りさ。人間は死んでからどうなるか? ということを考えて、一番しっくり来る考えがこれだとすると、いろいろな宗教もあるけど、元は一つなのかも知れないわね」
「その考えは前からあるのよ。いろいろな宗教があるけど、その原点は同じのよよ。ただ、途中からいろいろな派生がある。例えば、宗教によっては神様だったり、仏様だったりする。戒めも微妙に違っているし、偶像崇拝などで分かれた宗教もあったりするじゃないかな?」
「今まで歴史の中で、数えられないくらいの戦争や紛争があったけど、そのほとんどは宗教がらみの戦争だったりするから恐ろしいよね」
「でも、何かを真剣に信じているから少しでも違う宗派が存在するのを許せないというのも、人間臭いって思えるんじゃないかしら? でも、そのために不幸になった人を救うのも宗教で、この世で掴めなかった幸福を、次の世で掴もうという思いから、『いかにこの世を生きるか?』という発想を持った宗教も生まれてくるのよね」
「人間の立場や階級で宗教が違うというのも皮肉なものだな」
「でも、元々は一緒だったんだって思うと、紛争が絶えないのも分かる気がする。助けてくれるはずの宗教が、立場や身分を作ってしまい、平等ではなくしたのだから、宗教がいくつもできるのも分かる気がするの」
 修と愛梨は宗教の話に花が咲いてしまった。
 元々は不老不死のはずだったのだが、不老不死という考え方がどこから生まれてきたのかが疑問だった。
 不老不死という考え方は、別にそんなに難しい考えではないと思うかも知れないが、人が生きているという意味を考えていくと、本当に不老不死などというのが存在できるのかという発想に行き着いてしまう。
 理論的には無理ではないとしても、倫理的にどうなのだろう?
 例えば、ロボット開発という意味で、理論的には無理ではないとして、倫理的に無理ではないかと思える発想を、修は持っていた。
 今まで誰にも話したことのない発想だったが、この機会に愛梨に話してみようと思ったのは、愛梨と話をしていて、今まで誰も分かってくれそうな人がいなかったのに、
――彼女になら分かってもらえるかも知れない――
 と感じたのが、その理由だった。
「以前、ロボットやサイボーグについての小説を読んだことがあったんだけど、その時に興味を持った話をしていいかい?」
 修は、話の内容を変えることに理解を求めた。
「ええ、いいわよ。私もロボット工学のお話には少し興味があるの」
 という愛梨を見ながら、
――ひょっとすると、僕よりも詳しいところまで知っていて、発想も深いところにあるのかも知れないな――
 と感じていた。
「僕の読んだ小説は、かなり昔に書かれたもので、ロボット工学についての話だったんだけど、結論として、ロボット工学という発想は、突き詰めれば突き詰めえるほと、矛盾を孕んでしまうのではないかということだったんだ」
 と修がいうと、
「確かに私もそれと同じことを考えていたわ。いわゆる『ロボット工学三原則』というものね」
「ああ、でもそのロボット高額三原則というのは、学者の研究の中で生まれたものではなく、小説のネタとして考えられたものがまるで学説のように語られてきたんだよ。それを思うと発想なんて、どこから生まれるか分からないという気分にもなるよね」
「ロボットやサイボーグというのは、しょせん人間が作るもの。そして人間にはできないことをそのロボットにやらせるために、人間よりも強固であり、さらに壊れることのない強靭さを持っていないといけないのよ。でも、そのせいで、ロボットが反乱を起こしたり、人間の言うことを聞かなくなったりすれば、下手をすると人類の滅亡に繋がるのよ。それを予見した小説がSF小説としてたくさん出回っている。小説にしてしまうのは、それはあくまでも発想であり、空想物語にしてしまうと何でもありですものね。でも学者はそうは行かない。ハッキリとしたものにしてから発表しないと、学者としての地位が危なくなる」
「学者というものはそういうものさ。社会問題にしなければいけない場合もちゃんとした理論を説明できないと、ただのほら吹きになってしまうんだ」
「そうね。ロボットというものを考える時、まず学者の考えていることを頭に入れておかないと、誤った方向に発想が行ってしまう。特に学説よりも小説のフィクションの方がたくさん表に出ているので、そちらがまるで学説のようになってしまうのよ」
「人間を攻撃したり、人間に敵対する方が、小説やアニメとしては売れるからね。でも、同じロボットでも人間が操縦するという巨大ロボットの発想は、ここでいうロボット工学とは少し違うよね。いわゆる人型のロボットで、人工頭脳を持つことによって、思考能力を持ったロボットのお話になるんだよ」
「ええ、ロボットというのは、サイボーグだったり、アンドロイドだったり、まずは人間の命令にしっかり従うという頭脳回路が必要になってくるのよね」
「でも、人間の言うことには絶対だとして、人間というのはたくさんいるのよ。誰の言うことを最優先にしていいのかというのをしっかり持っておかないと、ロボットは混乱してしまい、動けなくなってしまう」
「それだけじゃないわ。優先順位という意味では、自分と他の人間に対しての優先順位もあるわよね。自分を犠牲にしてでも、人を助けなければいけないという発想よね」
「でも、それだって、その時の状況にもよるわよね。助けなければいけない人間が、ひょっとすると他の人が助けることができるかも知れない。あるいは、自力で危機を抜け出すことができるかも知れない。そんな状況を即座に判断しないと、自分が壊れてしまうだけで、助けたことにならない。人間が後から判断して、『ロボットが自爆したんだ』って思われると、何のためのロボットなのか分からないよね」
「ロボットの状況判断というのは難しいわよね。しょせんは人間が作るんでしょう? 人間よりも優れた発想を持った回路を作ることが果たしてできるかというのも難しいわよね。作る人の頭脳がどこまでなのか分からないし」
「そうなると、誰の頭脳が一番ロボットの頭脳としてふさわしいかということを探して、そしてその頭脳を大量生産することによって、人工頭脳の一部にすることになるんだろうね」
「だとすると、いろいろばパターンで人間には無数の判断や、無限の発想が伴ってくる。それを一つ一つ潰していかなければいけないとすれば、それは考えられないほどの労力になってしまうよね」
「そうなると、ロボット開発なんてできないってことになるわよね。つまりは、人間以上の頭脳を持ったものは、この世には存在しないということになる」
「そこが大きな矛盾だったりするのよね。ロボットとまではいかないけど、今の世の中には機会やマシンが溢れているでしょう? 人間が操作することで完全なものにすることができるマシン。コンピュータがその代表よね」
「ロボット工学というのは、その矛盾を少しでも少なくしようとしていることなのかも知れないよ」
 修のその言葉で少し会話が落ち着いた。
 二人はお互いに相手が話をしている間、
――自分なら、こう言うのに――
 と考えながら相手の話を聞いていた。
 お互いに、その時に考えていたことを相手が話してくれたことに満足し、
――会話が途切れることはないだろう――
 と思っていた。
 途中に休憩が入ったのは、お互いに話し疲れたというのもあったが、
「聞き疲れた」
 というのも、その本音だったに違いない。
 ロボットの話というのは、考えてみれば不老不死にも繋がっていく。
「ロボットを開発し、ロボットの中にその人の頭脳を入れ込むことによって、メンテナンスをすることで死なない肉体を得ることができる」
 という発想もあったからだ。
 だが、ロボットと言っても、金属なので、いずれは錆付いて朽ち果ててしまうことだろう。しかし、これも冷凍保存の発想と同じで、
「時代が進むほどに科学が発展して、錆付くこともなく、永遠にメンテナンスによって生き続けることのできる肉体を得ることができる」
 という発想を、少しずつ忘れてしまっていたような気がした。
 やはり、ロボット工学という発想が頭打ちになり、ロボットのいいところを次第に見落としてしまう風潮になっていたのではないだろうか。
 愛梨とそんな話をしていると、時間画経つのを忘れてしまうほどだった。
 浦島太郎の話から、ロボット工学の話になったのは、あの時、
――どうして、こんな突飛な発想になったのだろう?
 と思ったが、その発想も分からなくもなかった。
 ただ、それは後になってから感じたことで、その時に感じた思いも、やはり「矛盾」だったのだ。
「浦島太郎のお話って、続きがあるのをご存知ですか?」
 と愛梨は言った。
「いいえ」
 修は、浦島太郎の話に矛盾を感じてはいたが、続きがあるというところまでは知らなかった。
「あのお話はね。おかしいところがあるのよ。亀を助けた浦島太郎が、竜宮城で楽しく過ごしたのはいいとしても、戻ってきて、玉手箱を開けておじいさんになってしまったというお話でしょう? 実はそうじゃないのよ」
「というと?」
「乙姫様が渡した玉手箱を開けるとおじいさんになったんだけど、その後ツルになったというお話があるのよ」
「そうなの?」
「ええ、そして、その後にもいくつか説があって、ツルになった浦島太郎はどこかに飛んでいって、神様になったというお話だったり、乙姫様が亀になって陸に上がって、ツルになった浦島太郎と一緒に、末永く生きたというお話があるのよね。もっと他にもあるかも知れないんだけど、最後悲劇ではおかしいという考えがあるのよ」
「それだったら分かる気がする。だって、亀を助けたのに、最後にはおじいさんになってしまうという罰が待っているというのでは、おとぎ話としては成立しないと思っていたからね」
 と二人は、話を少し置いて、考えていた。
 しばらくしてから口を開いたのは、愛梨だった。
「やっぱり、矛盾があるのよ」
「そうだね。矛盾というのは、いつの世にだってあるものだよね」
「ところで浦島太郎のお話に似たお話は、全国にはいっぱいあったり、昔からの歴史書だったりするものに、似たようなお話もあるのよ。日本書紀だったり、万葉集だったりね」
「愛梨は、浦島太郎のお話について、調べてみたりしたのかい?」
「ええ、今ではいろいろ調べる手段はあるから、ネットで見たりして調べてみたの。結構面白いお話が載っていたりしたわよ。さっきのロボット工学のお話も、ネットで調べたり、図書館に行って、参考文献をあさったりもしたのよ。結構面白かったわ」
「でも、どうして、浦島太郎のお話は、最後、おじいさんになったところで終わってしまっているってことになったんだろう?」
 修の意見はもっともだった。
「それには、明治時代の教育制度に由来しているのよ」
「明治時代?」
「ええ、その当時、子供に教える内容として、本来なら亀を助けた浦島太郎は、報われなければいけないんでしょうけど、乙姫様から、『決して開けてはいけない』と言われた玉手箱を開けてしまった。そのことが、それまでの『いいことをした』という行いを、すべて無くして、『悪いことをした』ということにしてしまうという教育にしてしまったのよね」
「明治時代の教育がどういうものだったのか分からないけど、もし今だったらどうなんでしょうね? きっと社会問題になったかも知れないよね」
「そうね。でも、どっちが正しいかということを突き詰めると、結局分からなくなってしまって、結論は生まれないような気がするの。おとぎ話というのはどれを取ってもある意味難しいものなのかも知れないわね」
 と愛梨は言った。
 修も同じことを考えていたが、明治時代のあの時の判断は間違っていなかったのではないかと思うようになっていた。
「でも、浦島太郎って、玉手箱を開けなければ、科学者になっていたかも知れないというのは、私の突飛過ぎる発想かしら?」
 と愛梨に言われて、
「実は僕も今、似たようなことを考えていたんだ」
 と、修は答えた。
 お互いの発想はきっと遠い距離にあるのだろうが、どんなに遠くても見えるものに違いないと思えた。それが会話によって、証明されようとしているように感じた二人だった。

                 インタビューの女

 未来に対しての研究をしていた大出つかさは、自分が生まれた時代をあまり意識したことはなかった。つかさが生まれたのは二○二五年、東京オリンピックが開催されて五年が経っていた。
 オリンピック景気に湧いたのは、オリンピックの前年だけで、それ以降は、深刻な不況に喘いでいた。元々時代としては、バブルが弾けてから、一度も好景気と呼ばれる時代を迎えることなく、オリンピック景気と言ってもたったの一年、すぐにその時にストックした資金は、底を付いてしまっていた。
「こんなことならオリンピックなどしなければよかったのに」
 そんなセリフがあちこちから聞かれる。愚痴になるからあまり口にする人がいないだけで、インタビューされたりしてマイクを向けられると、堰を切ったように不満をぶちまける人が多かった。
 それは当たり前のことだった。普段から人と関わることを嫌っている人でも、さすがにマイクを向けられると何かを言わなければいけないと思う人もいるようで、そんな人に限って、口から出てくるのは愚痴ばかりである。マスコミもよく分かっているので、マイクを向けるとさまざまな愚痴を言ってくれる人に寄っていく。
「今の景気についてどう思われますか?」
「何を当たり前のことを聞いているんですか? ろくなことがないもは分かっていることじゃないですか。景気がよくなっているのならまだ分かるけど、景気をよくするという安易な考えだけでオリンピックなんてやるから、どんどんひどくなってしまう。オリンピックが終わってからの開催国がどうなったかを見てみれば一目瞭然じゃないですか」
「なるほど、確かにそうですね」
「国家自体が破産した国だってあったじゃないですか。そんな状況を政府は何も考えていないんですかね。オリンピック開催が決まってからもいろいろな問題があって、ギリギリまで問題が山済みだったじゃないですか。本当であれば、その時にできるだけ貯蓄をしておくべきなのに、問題のために、結局何も貯蓄もできなかった」
「開催を優先したために、置き去りにされてきたことも多いでしょうからね」
「それだけではないと思いますよ。オリンピック開催のための体裁作りとして、せっかく反映している業界の締め付けをしてしまったために、せっかくのドル箱産業を行き詰らせてしまった責任は大きいでしょうね。何とか黒字だった産業を締め付けて法で縛ったために、立ち行かなくなって瞑れたお店もたくさんありますよね。これって国家や開催都市自治の罪なんじゃないかって思います」
「そうかも知れませんね」
「今から五十年以上前にあった最初の東京オリンピックでは、戦後復興から、爆発的な景気の回復が後押しになったからこそ、そこまでの惨状にはならなかったんですよ。土台も何もない時代に、オリンピックをやろうなんて、考え方がめちゃくちゃなんだ」
 意見はどんどんエスカレートしていく。
 本当であれば、このあたりでインタビューを打ち切るべきなのかも知れないが、この時のレポーターは止めようとはしなかった。
「なるほど、過去のオリンピックとの比較ですね」
 そういって、どんどん相手の意見を煽っていこうとしていた。
「オリンピックというと、派手で経済効果が確かに見込まれるとは思いますが、その影で消えていく産業だったり、開催前の反動が大きかったり、開催するために巨額の費用を拠出して作ったスタジアムなどの施設を、開催後は、誰も利用しようとはしない。大会中にあれだけ盛り上がった競技場も、オリンピックが終わって一年も経てば、フィールドには苔が生え放題なんてこと、普通にありましたからね」
「そうですよね。せっかく作った国際競技場も、中にはオリンピック開催後には一度も使用されることなく廃墟のようになっているところもあります。維持するための予算もなく、子供の遊び場としても開放されない。まるで墓場のように思えるのは私だけなんでしょうかね」
 そこまで話してくると、隣にいた女性も会話に入ってくる。二人はデートの最中だったのだろうが、男性がデートを忘れて愚痴に走ってしまったことで、女性はしばし忘れられた存在になっていたが、このままではいけないと思ったのだろう。どうするかと思えば、何と会話に参加してきたのだ。
「子供のことを考えると、私も少し言いたいんですよ」
 と言って、少し間を置いた。
 すると、さっきまで興奮して愚痴をこぼしていた男性が急に落ち着きを取り戻して、口を開いた、
「彼女、元々保育士だったんです」
 なるほど、保育士であれば、子供の話になってくると、口を挟みたくなるのも不思議ではない。
「ちょうどあの時、金森学園の問題が国会で問題になっていたではないですか。最初は、建設費の問題だけだったんですが、途中から教育方針のことが問題になったあの事件を覚えていますか?」
 金森学園問題というと、最初は、国家の要職にある人が学園の階層日を巡って、値引をするしないの問題が国会で追及されていたが、まさにその時、街はオリンピック開催前で、景気は少し上向きだった。
 景気が上向きだったということもあってか、国会で問題にはなっていたが、内閣が崩壊するほどの問題にまではなっていなかった。
 しかし、実際にオリンピックが終わり、景気が頭打ちになってくると、再び金森学園問題が浮上してきた。
 野党は、何とか与党を追い詰めようとしていたが、与党側は、
「すでに昨年、この問題は解決しておりまして……」
 と、何とか野党の追及をかわそうとしていた。
 これが、逆に墓穴を掘る結果になったのだが、値引問題などは、表面上の問題で、野党が別の筋から調査してみると、保育園の経営というよりも、園児への教育に宗教が関わっていて、そこにお金が絡んでいることが分かってきた。
 問題の宗教団体と、総理大臣の癒着が問題になり、それまで磐石に思えた政権が、一挙に揺らぐ問題に発展していった。
 しかも、その宗教団体は、子供といえども容赦なく、子供だからこそ分からないことであっても、処罰の対象にしてしまい、野党が調べたところでは、完全に人権問題にまでなってしまっていた。
 国民の怒りはハンパではなかった。
 まだ、談合や癒着程度であれば、ここまで大きな問題にはなっていなかっただろうし、国会で野党に追及されても、何とかごまかしてこれたが、今度は宗教が絡んでいて、しかも人権問題にまで発展していれば、一気に政権はピンチに陥った。
 特に当時の政権与党は、人権問題や、子供の教育に対して、金銭的な援助や、人道的な支援などを公約にしていただけに、完全に国民は裏切られた結果になってしまった。
「一体、どうすればいいんだ」
 オリンピック終了後であったこともあり、景気は頭打ち、そんな時に起こった政府の国民を裏切る行為。そうなると、現政権は風前の灯だった。
 オリンピックを開催した政権が、オリンピック終了後に、オリンピック関係以外のことで破局を迎える。そうなってしまうと、景気の回復など、ありえるはずもなかった。
 国民は、
「裏切られた」
 という重いから、政府への憤慨しかなく、政権の放棄を求めた。
 しかし、それが景気の回復を不可能にするための決定的な決断になってしまうことに気づいていなかった。
「あの時の国民は、自分たちで自分たちの首を絞めたんだ」
 と考えていた政治評論家もいたが、そんなことを口にでもしたら最後、民衆から命を狙われる危険性もあった。下手なことは言わないに越したことはない。
 その後を引き継いだ政権は、あっという間に分裂してしまった。
 半年も持たずに衆議院は解散、総選挙となってしまった。
「どこが政権を取ったって一緒だよ」
 誰もがそう思っていた。ただ、国民を裏切った政権にだけは投票したくないという思いもあったからか、投票率は最低だったが、政権としては、実に無難な党が政権を取ることになった。
 政策面では、たいしたことを公約に上げているわけではなかった。ただ、クリーンな政治家が一番いそうなところだというだけで、別に目立ったところは一つもない。
「どうすればいいんだ?」
 政権内で、そんな声も聞こえてきそうなくらいの頼りなさ、そんな政権に、景気を元に戻すことなでできるはずはない。
 金森学園問題は政権が変わっても最初の方は少し問題になっていたが、忘れた頃には、本当に忘れられていて、誰も問題にする人はいなかった。政権がめまぐるしく変わる中で、本当に忘れられていたのかも知れない。
 だが、一番深刻な経済面はどうしようもない。どうすればいいんだというのは、国民側のセリフだった。
 政治はいくらクリーンであっても、実行能力や達成するだけの力がなければどうすることもできない。
 あの時のインタビューで、女性の方が言っていたことが、そのまま事件となって現れた。その頃からインタビューしたレポーターは、
「俺の目に付いた人にインタビューすると、その予見が本当のことになるような気がするんだ」
 と、嘯くようになっていたが、その言葉にウソはなかった。
 彼の名前は岡崎という。
「岡崎さんは、どうしてそんなにインタビューする人が、将来を予見できると思うのですか?」
 とカメラマンの人から聞かれた。
 カメラマンの人は興味本位で聞いているだけだったが、的中していることで一番ビックリしているのは、当の岡崎だった。
「俺にも分からないんだ。だから、予見できたとしても、それを確定的な言い方にするようなことはできないんだ」
 と答えた。
「でも、まるでカリスマインタビュアーのような言われ方をしていますよ」
「それは、本当に迷惑千万なことだ。俺には分かっているという自覚はあるんだけど、本当に当たっていた時、自分でもゾッとするんだよ。最初は当たったことを誇らしげに感じたものだけど、今はそれ以上に自分が怖い気がするんだ」
「やっぱり最初のきっかけは、あの時の金森学園をインタビューしたあの女性からなんですか?」
「ああ、そうなんだ。俺には彼女の存在が不思議に思えてならないんだ」
「どういうことなんですか?」
「最初は、まったく何も言わなかったのに、途中から入ってきただろう? その時は、『ほら来た』って思ったんだ。それまで言いたいことを我慢していたような様子が伺えたからね」
「私もそんな気がしていました」
「そうだろう? でも、話をしているうちに、俺が考えていることを、そのまま口にしているように思えて、それにビックリした。でもよくよく考えると、俺が考えたことではなく、彼女の雰囲気が俺に発想を抱かせていただけなんじゃないかって思うんだ」
「それって、まるでテレパシーのような感じですね」
「まさにその通り、俺はテレパシーなどということは、そう簡単に信じないんだが、その時は信じてもいいように思えてならなかった」
「信じたんですか?」
「ああ、信じたよ。信じなければいけない雰囲気だったからね」
「ひょっとして、その時、彼女と他の人には分からない会話のようなものがあって、その時に岡崎さんは、持っていなかったと思っていた能力が覚醒したのかも知れないと僕は思うんですよ」
「そんな考えもあるかも知れないな」
 岡崎はカメラマンの言っていることにも一理あると思えてきた。
「岡崎さんは、その時の女性とそれから遭ったりしましたか?」
 本当であれば、
「いや、ないよ」
 と答えるべきなんだろうが、
「あれから別の場所でバッタリ遭って、それからたまに会うようにあったんだ」
 と、正直に答えた。
 きっと彼は好奇心から、いろいろと聞いてくるかと思ったが、
「そうなんですか」
 と一言で終わった。
 それ以上何を聞いても答えないと思ったからなのか、それとも、聞けたとしても、それは自分が考えていることと同じことだと思ったのか、岡崎はそれ以上何も言わなかったし、カメラマンも聞くことはなかった。
 岡崎とその女性が再会した時、先に気づいたのは、彼女の方だった。最初はお互いに再会を驚いていたが、嬉しそうなのは愛梨の方だった。
「また会えて嬉しいわ」
 というと、笑顔を向けてきたので、
「僕の馴染みのバーにでも行きましょう」
 という岡崎の言葉に、断わる理由もなく、彼女はすぐに応じた。
 彼女は名前を愛梨と言った。もうすぐ自分は死ぬんだという。
「どうしてそんなことを言うんだい?」
「おかしいですか?」
「ああ、おかしいよ」
 と言いながら、岡崎は笑ってはいなかった。
――この人は真剣に聞いてくれている――
 愛梨はそれが嬉しかった。
「でも、私、死ぬんだけど、すぐに生まれ変わるのよ」
「どういうことだい?」
「人は死んだらどうなると思いますか?」
「もう一度生まれ変わると言いたいけど、僕はそこで終わってほしいな」
「どうしてなんですか?」
「もし、何かのきっかけで、生まれ変わる前の記憶が戻ったりしたら、辛くなるような気がするんですよ。もし、人生を全うしていればいいんだけど、志半ばだったり、未練が残っていたりしたら、せっかく生まれ変わったのに、余計な思いがこみ上げてきて、余計な気苦労を背負うことになりかねないからね」
 愛梨という女はその言葉を聞いて、何度か頷いた。
「じゃあ、あなたは、生まれ変わる前の記憶が絶対に戻らないとすれば、生まれ変わってもいいというの?」
「全面的に賛成かどうかと聞かれると答えに困る気がするけど、おおむね問題ないように思うんだけど?」
「私も最初はそう思っていたの。でも、何度も生まれ変わってみると、そんなこともないものよ。かつての記憶を持っていたとしても、すでに自分が知っている人はいないわけなので、過去の記憶に縛られるということはないわ」
「じゃあ、かなり時代を飛び越えて生まれ変わるということなのかい?」
「そうじゃないの、生まれ変わる時代が違っているわけではなくって、生まれ変わる次元が違うのよ。似ているような時代であっても、そこにいる人は皆違う人、いくら顔形が似ていても、まったく違う人なのよ。なぜなら、あなたのいうとおり、他の人は、かつての記憶を完全に失っているから、自分が生まれ変わっているという意識もないの。でも、心の中では誰もが、自分は生まれ変わっているんじゃないかって思っているのよね。あなただって、一度は生まれ変わっているんじゃないかって思ったことがあるんじゃなくって?」
 愛梨の話にはかなりな飛躍があったが、何となく分からないでもなかった。
「愛梨さんは、どうして自分が生まれ変わっているんだって、ハッキリ分かるんですか?」
 岡崎はそれが一番の疑問だった。
「私は、過去に戻る研究をしていたんだけど、研究をしている時にふと感じたの。『過去に戻るということは、過去のことを変えてはいけないということになるんじゃないか』ってね。いわゆるパラドックスの考え方なんだけど、過去を変えてしまうと、未来が変わってしまうでしょう? そうなると、今こうやって考えている私は過去に戻ることを考えていないかも知れない。だとすると、過去にも戻れないでしょう? そう考えると、過去に戻ることは不可能なんじゃないかって思うようになったの」
「それは、物理的にというよりも、理論的に無理だということなんだね?」
「ええ、そうなの。でも、私以外にも、過去に戻る研究をしている人って結構たくさんいるのよね。その人たちが皆そのことに気づいてくれればいいんだけど、そうじゃないかも知れない」
「それだったら、その人たちを見つけ出して、過去を変えるのを阻止しないといけないですね」
「でも、生きている今が本当の世界なのかって誰が分かるというんですか? 時間や時空には次元がいくつも存在していて、無数の可能性とともに無限の世界が広がっている。それがいわゆる『パラレルワールド』というものなのよ」
「じゃあ、今生きている自分のいるこの世界が本当の世界だと思って生きていくしかないんじゃないですか?」
「ええ、普通の人ならそれしかないでしょうね。でも私には生まれ変わる能力が備わっているので、この能力を使って、できるだけいくつものパラレルワールドを見ることができる。それが私にとっての生まれ変わりなのよ」
「一度死ななければいけないんですか?」
「ええ。でも、普通の死ではないの。苦しみもなければ、辛さもない。ただ、そのためには、その世界では家族を作ることはできない。父親もいなければ、母親もいない。いきなり大人の状態で生まれ変わる。いなかったはずの人が急に現れても矛盾のないように、まわりの人に自分の擬似記憶を植え付けることもできるのよ」
「じゃあ、僕にも擬似の記憶が?」
「あなたには擬似の記憶を植え付ける必要はないわ。私の正体を明かしているんですからね」
「どうして明かしてくれたんですか?」
「私が、その世界で生きていくには、誰か一人、私の理解者を作る必要があるの。この世界ではあなたがその白羽の矢に当たった形なの。協力してとは言わないけど、私の存在だけを知っておいてほしいの。あなたが私を忘れてしまったら、私はこの世界には二度と戻ってくることができない」
「忘れることはないと思うけどな」
「そんなことはないわ。私が一度死んで、他の次元に行った時、あなたの記憶から私は消えてしまうの。でも、また私が戻ってくる時、あなたの潜在意識の中に私がいれば、私はここに戻ってこれる」
「つまりは、君が生まれ変わる時、僕の潜在意識を通って戻ってくると考えればいいのかな?」
「それに近い形だと思ってくれていいと思います。きっと、あなたの頭の中には、私が不老不死を持った女性というイメージが残ると思うんです。私がこの次元にいない間、あなたはきっと私のことを夢に見るでしょう。でも、その夢は目が覚めると消えてしまっている。もし消えなかった時、その時は私がこの世界に戻ってきた証拠なのよ」
「そういえば、この間、浦島太郎になったような夢を見たんだ。その時に出てきた乙姫様が印象的だったんだけど、それが君だったということなのかな?」
「ええ、浦島太郎の乙姫様は、私のイメージにぴったりでしょう? あなたには信じられないかも知れないけど、私は人によって見えている姿が違っているの。人によっては、ぽっちゃりのおばさんに見えている人もいれば、まるで無垢な幼女に見えている人もいる。私がどのように見えるかというのがそのままその人の性格だといってもいいかも知れないわね」
「まるで、君は生きているのに、生きていないかのような雰囲気なんだね?」
「そうね。言い方を変えるとそんな感じにも受け取れるかも知れないわね。まるでカメレオンのように、相手によって姿を変える。だからこそ、生まれ変われるのかも知れない」
「愛梨さんは、自分が本当はどこの次元の人間だったのかって分かっているの?」
「私が元いた次元は、今はもうないの。だから、次元を飛び越えない限り、生きることができないのよ」
「それはどういうことなんだい? まるで核戦争でも起こって、世の中が滅んでしまったとでもいうのかい?」
「核戦争というわけではないわ。でも、発想とすれば核戦争という発想も無理ではないかも知れないわね。それよりももっと深刻かも知れないわ」
「どういうことなんだい?」
「次元を研究している博士がいて、その人の研究が、他の次元への通路をたくみに開くことができるというものだったんだけど、それに失敗して、結局は自分のいた次元に飲み込まれてしまったのね。宇宙の発想でいえば、ブラックホールのようなものだと言えばいいのかしら? 私は運よく吸い込まれるところを逆に弾き飛ばされて、気が付けばまったく知らない世界にいたのよ」
「それは、どこの世界だったんだい?」
「私たちが滅んでいなければ行きついたはずの未来だったのよ」
「えっ、それはおかしいんじゃない? さっきの説明と思い切り矛盾しているように聞こえるんだけど?」
「ええ、そうなの。過去が滅亡したのに、未来が残っているなんていうのは、パラドックスを否定しているのよね」
「うんうん」
「でもね、だからこそ、他の次元に行くことができるようになったの。なぜなら私が人間ではないからで、いわゆるあなたが言った擬似人間とでも言えばいいのかしら?」
「よく分からない」
「私たちの身体は、電磁波でできているのよ。その電磁波を使って、あなたたち人間に、テレパシーを送って、私たちの姿を認識させているのね。だから、見る人によって自分の姿を変えて見せることができるのよ」
「そんなことができるんだ」
「あなたたち人間だって、元々電磁波でできているのよ。もっと言えば、世の中にあると思われているものすべてが電磁波によるものなの。あなたたちは電磁波と言う言葉を一絡げで見ているから理解できないのかも知れないけど、動物一つ一つ、いや、生存しているもの一つ一つで電磁波が違っているの。だから、性別や身体の形、そして匂いや感覚も意識したとおりに五感を通して感じることができるのよね」
「確かにそうだ」
「でも、そのことに皆が慣れきってしまっていて、当たり前のように感じているから、電磁波と言われてもピンと来ないのよね。与えられるばかりの電磁波だという意識は、誰にもあるにも関わらず、それが表に出てこないのは、人間の驕りのようなものなんじゃないかって私は思うわ」
「君は、最初から擬似人間として生まれてきたのかい?」
「それが分からないの。ここだけは自分たちだけでは分かる範囲のものではなく、理解できないようになっているらしいの。そうじゃないと、今みたいに時空を彷徨っていることに納得できないからだって私は理解しているわ」
「それでいいのかい?」
「ええ、私はそれでいいと思っている。だから死ぬことも生きることも、生まれ変わることにも必要以上の意識を持たないようにしているの」
「ひょっとすると、君たちは今の自分の使命を全うすることができると、元々いた世界に戻って、もう一度やり直せるかも知れないと思っているんじゃないのかな?」
「私もそう思ったことはありました。でも、前にいた世界にまた戻りたいとは思わないんですよ」
「どうしてですか?」
「正直、鬱陶しいと感じるんですよ。今の皆さんのように人間だった頃というと、家族があって、まわりの人と助け合って生きていく。それが鬱陶しいんです。一匹狼だと思っていると気も楽だし、自分があわりを助けているんだという自負が生きがいのようでもあり、そこに人を介することが後々自分の中で余計な感情を生むような気がするからですね」
「じゃあ、僕に対してはどうなんです? ただのこの次元での協力者というだけですか?」
「そうですね。私は他の次元にもあなたのような協力者を持っています。あなたのように聡明な方もおられますし、まったく余計なことを考えない、猪突猛進のような人もいます。でも私にとって、皆さんは純粋な人ばかりに思えるんですよ。だから、逆に私が感情を持ってしまうと、せっかく純粋に私に協力してくれている関係が崩れてしまう。もし、それでも私に感情を抱いてくれる人がいると私はこう言うんですよ。『ここで感情に走ってしまうと、私は二度とこの世界に入り込むことができなくなります』ってね」
「皆さんは、それにちゃんと従っていますか?」
「ええ、したがってくれます。したがってくれないと困るし、さっきも言ったように、この世界に戻ってくることができないというのは事実なんですからね。だからあなたも、私に必要以上に興味を持たないでくださいね」
「そうなんですか? 僕には他の世界で、あなたの言うことに全面的にしたがっている人ばかりではないように思えるんですよ。中にはあなたに対して恋心を抱いていて、苦しんでいる人もいるような気がするし、あなたが、生まれ変わるために死んでしまって、二度と会えないのではないかと、本気で心配しているように思えるんです」
「私がその世界で協力者に選んだのは、肉親が死んでも悲しいと思わないような人ばかりなんですよ。岡崎さん、あなたもそうじゃないんですか?」
 岡崎にとって、胸を刺されたような気がした。まさしくその通りだったからである。
「どうしてそこまで……」
「私には、これでも使命があるんです。そのためには次の次元で選ぶ協力者には、かなりの時間を掛けて調査します。言っておきますが、私たちは次元の狭間では時間を自由に操れるんです。だから、かなりの時間を費やしても、それは、次の次元に入り込む時に時間を遡ればいいだけのこと。だから、時間が経っていないのと同じことなんですよ」
「でも、それって過去に戻ることでは?」
「そうですよ。ただ、過去に戻るといっても、自分に関係のある過去ではないので、そこに問題はありません」
 岡崎は愛梨の話を聞いていて、自分の頭がどうかしてしまったのではないかと思うようになっていた。
 岡崎は、しばらく愛梨を自分の下に置いておくことにした。
 岡崎はそれからも、インタビュアーとしてのカリスマ性を前面に出していた。しかしそれは岡崎が望んだことではない。
「どうして、僕にこんな特殊能力が備わってしまったんだろう?」
 愛梨に聞いてみたが、
「それは私にも分からない。きっと岡崎さんには最初から備わっていたものなんじゃないかしら?」
 という答えしか返ってこなかったが、愛梨の様子を見ていると、
――何かを知っている――
 という予感があったが、それ以上追求する気にはならなかった。
 岡崎は、愛梨と一緒にいればいるほど、彼女が擬似人間だなんて信じられない。彼女の触ることもできるし、食事も人間と同じようにできる。
 セックスだって……。
 岡崎は愛梨という女性が次第に好きになっていった。
 最初は同情のようなものからだったかも知れない。今まで孤独ばかりを感じていて、人と関わることがまるで罪悪のように思ってきた岡崎にとっては、一種の初恋なのかも知れない。
 いや、本当の初恋は大学時代にしていたはずだ。その時のことを思い出していた。
 彼女は、明らかに岡崎のことを好きだったのだろうと思っている。それは別れてから余計に感じるようになったのだが、なぜか別れたことをもったいないとは思わない。
「別れるべくして別れたんだ」
 と自分に言い聞かせてきたが、それ以上でもそれ以下でもない。
 出会いは大学時代だった。
 中学高校と男子校だったこともあって、女性と関わることはなかった。しかし、女性を意識しなかったわけではない。いや、むしろ高校生になった頃は、女性への思いはひとしおだった。
 ただそれは歪んだ感情だったのかも知れない。得られる情報は、アダルトビデオであったり、成人雑誌。他の友達なら、一人ではとても入れないような大人のお店に平気で出入りしていた。さすがに最初は緊張したが、一度入ってしまうと、
「何だ、こんなものか」
 と、別にまわりの目を気にするわけではないので、背徳感はなかった。
 ただ、自分以外の人が、恥ずかしくもなくビデオに出ているのだと思うと、興奮する。
――お金のためだけなんだろうか?
 いろいろな妄想が頭に浮かんでくる。
 きっと、自分が人と関わらないので知らないだけで、人と関わっていればそれは別に特別なことではないと思うかも知れないと感じると、おかしな気分になった。
 だからといって、他の人のように他人に関わろうとは思わない。却って、分からない方が神秘的な気がして興奮を誘うというものだ。
 岡崎は、そんな自分を変態だと思っていた。オタクだったり、変質者の類と変わらない自分を想像してみたが、想像できるものではなかった。人と関わらないこと自体、自分の中では変態だと思っていたのかも知れない。
 高校時代は、受験勉強の合間に、一人ビデオを見て、自分を慰めていた。そんな毎日だったが、虚しいとは思っていなかった。
 自分以外の人は、皆群れを作ってつるんでいる。会話の内容を聞いていると、実につまらないものだ。アニメやゲームの話題か、女の話題で、好きな女性を物色しているように聞こえた。それこそ、自分に対して感じた変態とどこが違うというのだ。
――どうせ、自分だけの気持ちの中で、相手の女性を蹂躙しているに違いないんだ――
 と思い込んでいたからだ。
 やつらの表情を見ている限りでは、大きく外れているようには思えなかった。誰もが抱く妄想は、一人であっても、皆と一緒であっても、大差ないということだろう。
「岡崎って、変態なんだってな」
 というウワサガ、クラス中に広まって、次第に学年へと広まってくる。
「あいつはいつも一人で、何を考えているのか分からない」
 という思いから派生したもののようだ。
 しかし、その言葉に間違いはない。もし間違っていたとしても、必死になって訂正をする気はなかった。下手に必死になれば、相手を面白がらせるだけだということが分かっているからだった。
 ただ、そんな中で一人だけ、岡崎のことを機にしている女性がいた。
 彼女もいつも一人でいる女性で、岡崎は彼女のことを意識すらしていなかった。
 一言で言えば、
「路傍の石」
 気にするはずもない相手であり、見えていても、見えていないかのように感じるという不思議な存在だったことは間違いない。
 彼女の視線は、他の人が見ても分かるのに、分かっていないのは、視線を浴びせられた本人だけだった。
「あいつら、変態同士でお似合いだな」
 と、密かに噂になっていたが、岡崎の耳には届いていない。
 渦中の女性の方は分かっていたようだ。
 彼女は、岡崎と違って、耳は聡い方だった。
 人のウワサには敏感で、岡崎のことを気にするようになったのも、皆が岡崎のことを変態だとウワサし始めたからだった。
――岡崎さんって、どんな人なのかしら?
 そう思ったのが最初だった。
 彼女の視線を思い出していると、そこには、
――以前にも感じたことがある――
 と思えるようなものだった。
 それがいつのことだったのか、分かるはずもない。その思いは一瞬だけだったからだ。その時はすぐに忘れてしまったが、時々、思い出すことがあった。本当は女性の視線に気づいている自分を、もう一人の自分が否定していることで、視線に気づいていないのに、以前にも感じたことがあるという思いを抱くのだった。
 プロセスが抜けているので、自分に理解できるはずもない。ただ、その頃から岡崎は、自分の中に、
――もう一人の自分がいるのではないか?
 という思いを抱くようになり、自分の意思ではない意思が、働いているように思えていたのだった。
 高校を卒業するまでに、彼女のことを意識することはなかった。結局、彼女は就職し、岡崎は大学に進学した。二人は離れ離れになってしまったが、大学に入っても、何か以前に感じたことを感じるという感覚は相変わらず残っていたのだ。
 大学に入ると、数人の友達ができた。
 彼らも高校時代、誰とも関わることなく孤独を貫いてきた連中だった。大学の講義でたまたま隣り合わせになり、どちらからともなく話しかけたことから、気持ちが通じ合える相手だということに気づいたのだ。
「類は友を呼ぶというけど、本当なんだな」
 岡崎がそういうと、相手も嬉々として、
「そうそう、大学に入ってすぐに君のような友達に出会えるとは思ってもいなかったよ」
 と言ってくれた。
 そんな友達が、夏休みまでに、五人ほどできた。岡崎にとっては、まるで奇跡のように感じられたが、他の皆もきっと奇跡だと思っているに違いなかった。
 そんな時、夏休みが終わって少ししてから、友達のうちの一人が、
「俺、好きな人ができたんだ」
 と言って、皆に相談してきた。
 皆は口を揃えて、
「それはよかったじゃないか、おめでとう」
 と言った。
 岡崎もその時は、偽りなしにそう感じ、心から、
「おめでとう」
 と言っていたが、その気持ちはすぐに消えていた。
 友達が好きになったという女性を見た時、岡崎は自分もその人のことを好きになったと感じた。
 もちろん、最初に好きになった友達にそんなことを言えるわけもない。岡崎の中に、
――最初に言い出したものには適うわけはないんだ――
 という気持ちがあった。
 それは、岡崎がずっと自分の中で決めていたルールのようなもので、それを否定すれば、今までの自分を否定すると思った。だから、否定することはできない。
 しかし、好きになってしまったものもいまさら収めるわけにもいかない。
「僕はどうすればいいんだ」
 と、言い聞かせてみたが、結論が出るわけもない。
――やっぱり、僕が人と関わるなんて、間違いだったんだ――
 と感じた。
 好きになった彼女に、誰も付き合っている人がいないのであれば、それでいい。もし誰かと付き合ったとしても、それが自分に何ら関係のない人であれば、諦めると同時に忘れることだってできるだろう。
 しかし、相手が自分の知っている人であり、深く関わっている人であると分かると、どうすればいいのか分からない。こうなれば、深い関わりを解消するのが一番である。
「何、元に戻るだけさ」
 と自分に言い聞かせる。
 そう思うと、他の友達とも疎遠になった。
「どうしたんだ? あいつ」
 事情を知らない連中は、そうは言ったが、元々気持ちが分かる連中だ。放っておくのが一番だとよく分かっている。
 岡崎も放って置かれるのがよかった。下手に絡まれると、億劫なだけだ。秋風が吹く頃には、一人になっていた岡崎だった。
 初めて好きになったその女性は、男性から人気があった。しかし、誰とも付き合っているというウワサを聞くことはない。ただ、逆に決まった人がいないだけで、適当に男をとっかえひっかえして遊んでいるだけだというウワサも流れてきた。
――そんな女だったんだ――
 という思いと、
――しょせんはただのウワサ――
 という思いが交錯していたが、交錯すればするほど、次第に彼女に対しての思いは冷めてくるのだった。
 それからというもの、やはりずっと一人だった。
 勉強はそこそこしたので、放送局へ就職できた。アナウンサーや番組制作のような派手な仕事ではないが、裏方として地味に仕事をしていたが、ある日レポーターが急病になり、代役で、岡崎が数分のカットをやってみると、案外うまく行ったことで、レポーターへ抜擢されることになった。
――僕は人と関わりたくないのに――
 と思っていたが、やってみると面白かった。
 台本はあったが、
「お前は適当にアドリブを入れてもいいぞ」
 と言われた。
 本当は、
「アドリブでも入れないと面白くない」
 ということなのだが、岡崎にはそこまで頭が回らなかった。
 ただ、アドリブをしてみると、結構さまになっていた。人気もそこそこ出てきたので、レポーターとしての生活が始まった。そんな時に出会ったのが、愛梨だったのだ。
 それにしても、岡崎がレポートした相手の言ったことが、将来現実になるという状況がまわりに把握されるまでには、少し時間が掛かった。何しろ、結果が将来現れなければ実証できないからだ。だが、実証されればこれ以上の鉄板はない。誰が何と言おうとも、岡崎は、
「カリスマレポーター」
 として、一世を風靡するようになり、時の人として話題になったのだ。
 岡崎自身がレポートされることもあった。
「どうして、そんなに的中するんですか?」
 と聞かれて、
「僕にも分かりません。考えてもみてください。僕が予見しているのであれば、まだ立証できるかも知れないんですが、僕がその時の気分でインタビューした人の話が本当のことになるんですよ。それを僕に分かるはずもないじゃないですか」
 と答えた。
 当たり前の回答なのだが、それではレポートとして面白いはずもない。
「あいつはカリスマとか言われているけど、運がいいだけさ。自分がインタビューされた時のあの回答、どう見たって素人だよな。あれじゃあ、どこがカリスマなんだか、分かったものじゃない」
 と言われた。
「やっぱり、アドリブを入れないと面白くないというのは、そういうところなんだろうな。それにしても、局のお偉いさんも、どうしてあいつを使うのかね?」
 そんな話も出ている。
 人から陰口を叩かれるのは慣れている。むしろ、陰口を叩かれるくらいの方がいいと思っている。人と関わらないとはいえ、ウワサすらなければ、ただの空気と同じようなものだと思っていた。
 つまりは、表に出ている自分は、本当の自分だとはまったく思っていないのだった。
 丘崎は、愛梨が自分に影響を与えたと思いたくない。
――自分は誰からも影響を与えられることはないんだ――
 と思って今まで生きてきたが、それが思い過ごしであったことを愛梨によって思い知らされた。
 確かに誰の影響も受けずに生きてくるなど、不可能なことだ。特に子供の頃からの自分を思い起こせば、確かに誰かの影響を受けてきたのだろう。誰かを尊敬していたというわけではないが、気が付けば、その人の模倣をしていたように思えてくる人がいないわけではない。
――あんな感じの人になりたい――
 などという思いがあったわけではない。むしろ、相手が自分に近づいたのではないかと思ったほどだ。
 子供の頃に、どこかで明らかに自分が変わったということを意識していた。いつから変わったのかというのは自分でもハッキリとしなかったが、今では分かるような気がする。それは、
「憧れの対象が大人から、同世代の友達に変わった頃だ」
 と言える時であろう。
 子供から見て、最初に憧れるのは大人であろう。一番近い存在といえば両親に当たる。小学生の頃は父親の背中を見て育ったと言ってもいいほど、父親を意識していた。しかし、遠い存在であることは確かで、それだけに、近づきがたい存在でもあり、まともに顔も見ることができないほどだったのを覚えている。
 そんな相手を尊敬し、憧れるのだから、その思いは虚空のものに近い。
 岡崎の子供の頃は、父親から叱られたイメージしか残っていない。後から思えば、
――どうしてそんな相手を尊敬できたんだろう?
 という思いに駆られるが、正直、父親以外の大人を、意識できなかった。
 それだけ父親の存在が大きかったと言えるのだろうが、それ以外には大人との間に自分でも気づかない間に結界のようなものを作っていた。学校の先生に対しても、父親と同じことを言われても、説得力には欠けていた。
――しょせん、二番煎じだ――
 という程度にしか感じておらず、そう思うと、父親以外の大人のセリフは、当たり前のことを当たり前に言うだけの、まるでロボットのような存在にしか感じていなかった。
 ロボットというのは、当たり前のことを当たり前にしかしないという意味であり、精密機械という意味ではない。融通の利かないという意味だけで、
――血が通っていない冷めた相手の言うことなんか、誰が聞くものか――
 と思っていた。
 小学生でも高学年に入ってくると、それまでと少し感覚が変わってきた。
 父親は相変わらず余計なことは言わない。それを威厳だと思っていたのだが、次第に家に帰ってくる時間も遅くなり、それを忙しいからだと思っていた。
 しかし、父が帰ってくるのが遅くなり、そのうちに帰ってこない日もあったりするようになると、母親が次第にイライラし始める。
 それまでの母親は、父親に逆らうこともなく、忠実に尽くしてきていた。余計なことを口にすることはなく、黙々と家庭のことをこなし、昼間はパートにも出かけ、後から思えば、本当にどこにでもいる主婦だった。
 母親がイライラし始めると、一気に家での自分の居場所が狭まってしまったと感じるようになった岡崎は、自分の部屋に籠るようになった。
 元々、母親と会話があったわけではない。パートが夕方まであり、週に二度ほど、夜も主婦友のお願いもあって、スナックでアルバイトをしていた。そのため、学校から帰ると、食事の準備だけされていて、一人寂しい夕食になっていたが、それでも、家の中で自分の居場所を確保でき、息苦しさなど感じたことがなかった。
 それなのに、一旦母がイライラし始めると、今までのように母親がいなくても、家の中の自分の居場所にまで、いない母親が侵入してきているようで、息苦しさを感じるようになった。
 リビングで食事をする気にもなれず、自分の部屋で食事をし、誰もいない間も、ほとんど自分の部屋から出ることがなくなった。
 この時の心境は、後になっても思い出すことができる。しかし、それを言葉にして表現するのは難しく、説明しろと言われると、無理だと答えることしかできないだろう。
 岡崎にとって、自分の部屋は、「逃げ場」でもあったのだ。
 母親のイライラの原因がどこにあるのか分かるまでには、かなり時間が掛かった。まず、父がほとんど家に帰ってこなくなったからだ。
――そんなに仕事が忙しいんだ――
 と、母の苛立ちと父親の帰ってこないことは、その理由がまったく違うところにあると思っていた。
 いや、後から思えば、そう思いたかっただけだった。父が帰ってこなかった理由を、本当に仕事が忙しいからだと感じていたのは、もっと前までだったからである。
 大体、父が帰ってきても、母との会話があるわけではない。父が帰ってきた時のことは、岡崎は自分の部屋に引きこもっていたので、分かるはずはない。それなのに想像できるというのは、想像力が豊かなのだと思っていた。冷静にその状況を自分が判断できるからだとは思っていなかった。
「岡崎君は、判断力には長けたものがあると先生は思うよ」
 と、中学時代に担任の先生に言われたことがあったが、その言葉の意味が分かっていなかった。
――何を言っているんだ?
 という程度にしか思っていなかったくらいで、素直にその言葉を信じることはできなかった。
 それだけ、大人の言葉を真っ向から信じてはいけないと思っていたからで、その原因を作ったのは両親だと思うと、不思議な気がしていた。
 岡崎が小学生の五年生の頃、両親は離婚した。
 その原因は、父親の不倫が原因だった。父親が家に帰ってこなかったのも、母親がイライラし始めたのもすべてそのせいで、父の不倫に気づきながら、追及することができない母親は、その苛立ちを誰にぶつけていいのか迷っているうちに、自分では意識することなく苛立っていたのだ。
 だから、母親には、どうして岡崎が引きこもってしまったのか、その理由が分からない。その思いも、父親への苛立ちと一緒になって、苛立ちに拍車をかけたのだ。
 完全に家族の歯車は狂ってしまった。
 両親を見ていて、
――結局、大人は自分のことしか考えていないんだ――
 と思うようになった。
 母親はある日、意を決したかのように父親を糾弾した。父親は、バレていることを知らなかったのか、少し戸惑いを感じてしまい、最初は臆していたようだが、そのうちに開き直って、反論し始めた。
 開き直りの反論など、理屈に適っているわけもない。そんなわけで二人の喧嘩はまるで子供の喧嘩のように、泥仕合を演じることになっていた。
 聞いていて、それまで抱いていた父親へのイメージは一気にトーンダウンしてしまい、
――大人なんて信じられない――
 と思うようになり、子供がそばにいるのに、そんなことはおかまいなし、ただ、喧嘩の端々で、
「子供のために」
 という言葉が発せられたのを聞いて、
――僕を喧嘩の出しに使うのはやめてくれー―
 と言いたかった。
 それを聞くと、やはり、大人は自分のことだけしか考えていないという結論に達し、誰の言うことも信用できなくなっていた。当たり前のことを当たり前にしか言わないロボットは、両親だったのだ。
 岡崎は、それまで、
――孤独は寂しいということであり、寂しいということを、孤独だというのだ――
 と思っていた。
 しかし、孤独と寂しさが本当は別物だと思うようになると、
――孤独であっても、寂しくなんかない――
 と感じるようになった。
「寂しいなんて思わない」
 これが、これから自分が感じている感情なのだと思うようになった。そして、その思いが、自分が大人、つまりは両親に感じた、
――当たり前のことを当たり前にしか言わないロボットだ――
 と感じていることと同じなのだった。
――自分は、人の影響を受けない、ウケたくない――
 と思うようになった。
 ただ、思春期になると、身体がムズムズしてくる。それがどこからくる感情なのか分からなかった。
 学校に行くと、普段から軽蔑したくなるような連中に、女の子が寄り添っているように見える。
 それまでであれば、
――軽蔑している連中が、傷の舐めあいをしているだけではないか――
 と感じたのだろうが、その時に感じた女の子の目線に、ドキッとしてしまっている自分がいた。
――羨ましい? そんなバカな――
 どうして羨ましいと感じたのか自分でも分からない。
 今までの感覚であれば、羨ましいなどという感覚が浮かんでくるはずもなかった。それなのに最初に羨ましいと感じたことで、どうしてそんな思いを抱いたのか、不思議でならなかった。
――羨ましいと思うのは、自分の心があさましいからだ――
 と感じていた。
 しかし、あさましいというのは、どういうことなのだろう? あさましいというのは、自分の立場で求めてはいけないものを、求めようとしている行為をまわりから見た時に感じるもので、本人が感じることではないと思っていた。だから、自分に対してあさましいという感情が浮かぶなどないと思っていたのだ。
 岡崎は離婚した両親の話し合いで、母親方で育てられることになった。父と離婚した母は、それまでの鬱憤が吹っ切れたように、イライラはなくなっていたが、生活面での後ろ盾を失ったことで、マジでの生活を考えなければいけなくなったことで、子供に構っている場合ではなくなっていた。
 岡崎も、それは仕方のないことだと割り切っていた。イライラして、自分の居場所がなくなるほどの息苦しさがない分、かなりマシだと思ったからである。
 結局、母との二人暮らしになっても、岡崎は相変わらず自分の部屋に引きこもっていた。それが一番安心するからであり、今さら表に出てくる気にもならなかったからだ。
 そんな岡崎は、中学に入り、思春期を迎えた。
 どこか、毎日が違っているようには感じていた。
――昨日と今日とでは、同じ一日でもどこかが違う。今日と昨日が違うのだから、明日はもっと違っているはずだ――
 と感じるようになった。
 ただ、それが思春期を迎えたからだということには気づかなかった。思春期という言葉は知っていたが、自分にも他の人と同じように訪れるとは思っていなかった。
――僕は他の連中とは違うんだ――
 という思いは親が離婚した時に決定的なものになり、その頃から、
――他の人皆に訪れることが自分に訪れてたまるものか――
 と思うようになっていた。
 それは、逆に言えば、
――大人になんかなりたくない――
 という思いを反映していた。
 人と同じでは嫌だと思うことが大人になりたくないと思うと感じると、
――大人になりたくないから、人と同じでは嫌だと思うのか、人と同じでは嫌だと思うから大人になんかなりたくないと思うのか――
 まるで、卵とニワトリの、どちらが先かというたとえ話と同じように思えるが、それでもどこかが違っている。
 岡崎は、自分がどこに向かっているのか分からなかった。
 それを最初に感じたのが、クラスで自分が嫌っている連中に群がっている女性のその視線を見て、
――羨ましい――
 と感じたことだ。
――僕は一体どうしたというんだ?
 という思いを感じると、それまでの孤独を寂しいと思わない感覚が、錯覚ではないのかと思うようになった。
 岡崎の思春期は、そんな思いが支配した時代だった。
――僕は女性を好きになったりなんかしない。人から影響を受けたくないんだ――
 と思っていたのに、好きになる人が出てきた時には、本当に自分がどうしてしまったのか分からなくなってしまった。
 その思いがハッキリしたのは、自分の気になっている人が、岡崎を意識しているように感じた時だった。
――僕は誰の影響も受けない――
 と思えば思うほど、自分への意識を感じる。
 いや、感じさせられるのだ。
 自分の感覚ではないと思うと気が楽になるはずなのに、それが相手の影響を受けているということで、自分では認めたくない。いわゆる自分の感覚の中での矛盾が作られることになったのである。
 そんな岡崎は、人を好きになるという感覚は、人を羨む気持ちからしか生まれないものだと思っていた。しかし、大学に入って友達ができるようになると、そんな思いが次第に変わってくるのを感じた。
 それは、
「人を羨む気持ちからでは、一目惚れなどというのは、存在しない」
 と思っていたからである。
 つまり、一目惚れをしたという話を聞いても、その人は本当にその人を好きになったわけではなく、好きになったと勘違いをしているか、その気持ちを自分に納得させるため、好きになったのだと自分に言い聞かせているに違いないと思っていた。
 しかし、岡崎は一目惚れをする女性に出会ってしまった。
 その女性は、岡崎にはとても優しく、痒いところに手が届くような女性であることに気が付いた。
 今までに優しそうにしてくれる人もいるにはいたが、そんな女性のほとんどは、彼氏のいる人だったのだ。
「何だよ。自分に彼氏がいるという余裕から、彼女のいない男性に対して優しくしているだけではないか」
 と思うと、見せかけだけの優しさの裏には、余裕という名の、上から目線が潜んでいることを感じた。
 岡崎は、騙された感を拭うことはできなかったが、恨むことはできなかった。なぜなら、もし自分が同じ立場なら、余裕を見せることで、まわりに優位性を保とうと図るに違いないと思ったからだ。
 それに、人を羨むことで苛立ちを覚えてしまったことが、自分の中に女性を好きになるきっかけを与えられたことに憤りを感じているのに、いまさら優しくされた裏に潜む余裕に対して羨ましく思うなど、愚の骨頂だと思ったのだ。
 だが、その女性は違った。
 岡崎に対してだけ優しさを見せていた。ただその優しさは彼氏がいる上から目線の女性たちのあからさまな優しさなどではない。岡崎の感じた優しさは、
――他の人には見せないその人の本性のようなものを自分だけに見せてくるつところだ――
 と感じたことだった。
 それを優しさという言葉で表現するのは少し違っているのかも知れない。しかし、岡崎にはそれを優しさ以外の言葉で表現することはできなかった。その人には彼氏がいるわけではない。まわりから見ても目立つタイプではないし、パッと見で、一目惚れしてしまうようなタイプではなかった。
 むしろ自分以外の男性に対してはドライであった。何かを聞かれても、いつもオドオドしていて、怯えのようなものが見え隠れしている。
――過去に何かあったのだろうか?
 という意識が頭をもたげ、その思いがなければ、岡崎も気にするほどの相手ではなかっただろう。
 岡崎が意識し始めたと同時くらいに、彼女の視線を感じるようになったのも、彼女に対して思い入れるようになった一因であった。正確には一目惚れというほど一瞬で恋に堕ちたわけではないが、彼女の視線を感じるようになった時、
――これって運命なのか?
 と思ったのも事実。
 その時は意識はしていなかったが、後から思えば好きになった瞬間がいつかと聞かれると、
「運命を感じた時だ」
 と答えるだろう。
 そう、運命を感じたその時が好きになった瞬間であるならば、岡崎が一目惚れだと感じているのも無理もないことであった。
 その女性は、他の人と明らかに違っていた。それを見た時、
――僕と同じように、他の人と同じでは嫌な人なんだろうな――
 と感じた。
 一目惚れに輪をかけたのがその時で、その時を一目惚れだと思わなかったのは、もしその時が一目惚れだとすれば岡崎にとっては矛盾だった。
 同類で傷をなめ合うようなマネはしたくはない。それなのに、彼女のことが気になってしまっていて、元に戻れなかったのは、好きになってしまっていた証拠ではないか。その時に好きになったとハッキリと分かった。だが、どの瞬間に好きになったのかというと、自分でも分からなかった。一目惚れという感覚を信じるのであれば、やはり過去に何かあったのではないかと思ったあの時だろう。
 岡崎は彼女に直接聞いてみた。
「あなたは、過去に何か男性で嫌な思いをしたことがあったんですか?」
 と聞くと、
「私、男性が怖いんです」
「というと?」
「母は、私が子供の頃から苦労をしているのを分かっているつもりだったんです。その母が私に対して、『男性の言葉には気を付けなさい』っていつも言っていたんですが、子供の私には、そんなことは分かりませんでした」
「それはそうでしょうね」
 子供に分かるはずもない話をして、
――余計な不安を煽るようなことをする母親って、どんな母親何だろう?
 と感じた。
 しかし、考えてみれば、いくら何でも、それくらいのことは分かりそうなものだ。それでも話をし続けるというのは、何かの意図があるのではないかと思えた。
「もちろん、私は分からないので、きょとんとしていたんだけど、母はそれに対して何も言わないんです。『どうして分からないの?』って、言い聞かせているつもりだったら、それくらいのことは言うはずですよね?」
「ええ、そうでしょうね。いうだけで相手が理解していないのであれば、それほど中途半端なことはありませんからね」
「僕もそう思います」
「でも、今は母の言いたいことが少し分かってきたような気がするんです。何度も言われ続けると、嫌でも頭の片隅に置かれているでしょう? 後になって、そのことに関係するようなことが起これば、思い出すこともあるでしょう。その時にお母さんの顔が浮かんでくる。それを狙ったんじゃないかって思ったんです」
「そうでしょうね」
「それにね。言うだけ言って、私が理解していないのも百も承知。だからと言って、その時に無理に言い聞かせようとすると、相手が身構えてしまって、聞く耳を持たなくなってしまっては元も子もないでしょう? 相手に言い聞かせるには無理を通すわけではなく、何度も同じことを言い聞かせるのが一番だということを母は分かっていたんでしょうね」
――なるほどーー
 と岡崎は思った。
 自分に対して母親が何かを言い聞かせようとしているのに、分かっていないかも知れないことを、無理に押し付けようとはしない。人によっては考えてしまう人もいるだろうし、考え込まなくても、頭の片隅に置いておけば、後で思い出すことで、その人の役に立つことになるだろう。それを狙ったのだとすれば、彼女の母親はなかなかの心理に対しての手練れだと言えるのではないだろうか。
 彼女はそこまで言うと、ニコリと笑った。
「私のお母さん、どこか岡崎さんに似ているところがあるような気がするんです。岡崎さんも人に何かを言う時、言い聞かせようとはしても、無理に説得しようとはしないのではないかと思ってね」
「確かにそうかも知れないね」
 中途半端にしか答えなかったが、岡崎は頭の中でいろいろと考えていた。
 確かに人に無理強いをすることはないが、それは、自分が言っても説得力に欠けると思っているからだ。そもそも自分の性格が人と関わりたくないという思いが根本にあるので、理解できない人にまで分かってもらおうとは思っていない。むしろ無理に分からせたとしても、どこかで歪んだ発想になってしまうと、何かの判断を行う時、同じ考えだと思っている相手に、
「何だよ。お前なら賛成してくれると思ったのにな」
 と言われるのがオチだ。
 お互いに仲間意識を持ってしまうと、その一言が気持ちが離れる前の前兆になっているとすれば、岡崎にとっては、辛いだけでしかない。
――結局、人と関わってはいけないんだ――
 という思いを裏付ける結果にしかならないだけだからだ。
 岡崎は、彼女の母親に会ってみたくなった。
「君のお母さんに会ってみたい気がするな」
 というと、彼女は少し寂しそうな顔になった。
「お母さん、去年交通事故で亡くなっちゃったの」
 というではないか。
――なんてことを言ってしまったんだ――
 と思った岡崎は何と言っていいのか分からずに言葉を失っていると、
「いいのよ。岡崎さん。無理に何かを言おうとしなくても、言葉が出てこないのが岡崎さんなの。下手に何かを言わないといけないと思うと、しょせんありきたりのことしか言葉としては出てこない。そんな言葉、期待している人なんて誰もいないんじゃないかしら?」
 岡崎は、ハッとした。
――なるほど、何も言わない方がいいのか――
 と思うと、自分が彼女の立場になった時のことを考えてみた。
――余計なことは言われたくないだろうな――
 と感じた。
 岡崎は、彼女と話をするようになってから、
――自分が相手の立場になって考えることができる人間だんだ――
 と感じた。
 本当はもっと前から感じていたはずなのに、自分の中で否定しているところがあった。なぜ否定しているのか分からなかったが、岡崎の性格の中で、自分の感情や感覚を、自分自身で否定していることが多いことを悟った。そのことを教えてくれたことで、さらに彼女のことを好きになったのだが、岡崎が彼女のことを好きになった一番のピークがその時だったのだ。
 岡崎は、彼女のことが好きだった。彼女も岡崎のことが好きだったはずだ。それなのに別れは突然訪れた。
 いや、正確には付き合っていなかったのだから、別れが訪れたというのもおかしな話である。岡崎が彼女のことを好きだと感じるようになった時、お互いに急にぎこちなくなった。そのうちに、
「二人だけで会うのはやめにしましょう」
 と彼女から言われた。
 いきなりのことだったのでビックリしたが、心のどこかで何となく分かっていたような気がした。その証拠に、
「ホッとした気がする」
 と、答えてしまった。
 それに対して彼女は何もリアクションを起こさなかったが、どう思ったのだろう?
――負け惜しみに聞こえたのだろうか? それとも、付き合ってもいないのに、付き合っていると勘違いしていなんじゃないかって相手に思われていたと感じたからなのだろうか?
 というどちらかではないかと思った。
 岡崎としては、そのどちらも半々くらいの思いだった。
 正直、負け惜しみだと言われても言い返すことはできない。もし、反論して、言い合いになってしまっては、勝ち目がないことが分かっていたからだ。彼女が何も言わなかったことは却って、
――助かった――
 と感じたのだ。
 ただ、助かったと思ったのは彼女の方も同じだった。岡崎にいろいろ言われ、未練がましいことを言われてしまうと、何と言っていいのか分からないと思っていたからだ。だが、彼女の中で、
――今の岡崎さんなら、何も言い返してはこないわ――
 と思っていたのも事実で、もし、これ以上付き合いが深くなり、ぎこちなさが増してしまっていると、男性の中の妄想がどんどんエスカレートしてしまうだろうと思ったのだった。
 岡崎は、そこまで妄想する男性ではなかったが、岡崎と違って彼女の方は結構妄想する方だったので、どうしても自分の立場からの発想になると、妄想が激しくなることを嫌ったのである。
――妄想なんてするものではないわ――
 と、彼女はその時本気で感じていた。
 岡崎も、彼女の妄想癖は分かっていたが、何を考えているか分からないところがあることでそのことに気が付いた。しかし、別れの際にそのことを気にしていたなど、思ってもいなかった。岡崎というのは、そういう男だったのだ。

                    パラドックス

 愛梨は、しばらく岡崎と遭うことがなかった。
 自分から言い出したにも関わらず、どうしてこんな気持ちになるのか分からなかった。
 愛梨は一人で暮らしているわけではないのに、寂しさが募ってくる。そのことを一番分かっているのは同居人だった。
「ごめんなさい。でも、今はこうするしかないの。もう少しの我慢だから、お願いね」
 と、同居人はそう言って、ベッドで横たわっている愛梨の背中をさすっていた。
「ありがとう。大丈夫よ。これは私だけのことではないというのは重々承知していることだからね。私よりもあなたのほうが切実なのかも知れないわね」
 そう言って、俯いたまま顔を上げることをしない愛梨は、そこまで言うと、次第に悲しいと思っていた感情が薄れていくのを感じた。
「ねえ、私は本当だったら死んでいたの?」
 愛梨は気持ちが落ち着いてくると、自分に話しかけてきた相手に返事をした。
「ええ、それは本当のことなの。でも、それまでに子供を宿していて、女の赤ちゃんを産むことになるのよ」
 愛梨の部屋は薄暗く、電気をつけていないため、表からの明かりのせいで、二人はシルエットに浮かび上がっている。
「そうなのね。それがあなた……。つかさだということなのね?」
「ええ、そうなの。だから私はお母さんの顔を知らずにここまで生きてきたんだけど、まさかこんな形でお母さんに遭うことになるなんて思ってもいなかったわ」
「あなたが住んでいる未来には、私たちが想像もできないような世界が広がっているのかも知れないわね」
 と愛梨がいうと、
「そんなことはないわ。過去に戻った私には、そんなに変わりなく思うもの。でもお母さんにとっては、まるで昨日のこと。早くお父さんを探してあげないといけないわね」
 つかさの表現には少し不可解なところがあったが、二人にしか分からない事情なので、二人にとって何ら問題はない。
「お母さんは、本当に覚えていないの?」
「ええ、どうやら、私の記憶はどこかで飛んでしまったような気がするの。あなたから私のことを聞かされても、何も思い出せないの。これは何かの力が働いているからなのかしら?」
「そうかも知れないわ。でも、お母さんと私は、もう戻れないところまできているの。もっともそのレールを敷いたのはお父さんなんだけどね。だから、お父さんを探さなければいけないの。お母さんには申し訳ないと思うんだけど、岡崎さんとは、しばらく遭えないと思ってもらわなければいけないわ」
 とつかさはそう言いながら、
――二度と会えないようにだけはしたくないわ。この私が何とかこの場を納めないといけない――
 と考えていた。
 しかし、つかさにとって一番しなければいけないのは、第一にお父さんを探すこと。そしてお父さんを探したら、お母さんから生まれた自分のこと、そしてお父さんがしたお母さんがどうなったのかを正確に伝える必要がある。今の愛梨には、他の人にはない特別な力があるのだが、それは、父親が施した所業によるものなのか、それとも未来における母親に対して行われた実験のせいなのか、つかさには判断できなかった。母である愛梨は、自分が実験材料としてしばし研究されていたことを知らない。やはり愛梨の記憶は、作為的に消されたものだと思ってもいいだろう。
 愛梨は、自分が何者なのか、正確には分かっていない。
 娘が未来からタイムマシンを使ってやってきたということ。そして、娘が探しているのは父親であるということ。そして、その父親が何かをしなければ、愛梨はすでに死んでしまっていたということ。そして、愛梨が実験材料に使われて、その記憶を消去させられてしまったのではないかということ。
 いろいろな事実があるようだが、つかさには状況は分かっていても、原因や理由については分からない。たぶん、このままであれば死んでしまう母のために、父が行ったことが何か影響しているのではないかと思うのだが、どこで何が狂ったのか分からなかった。
 つかさは、自分が生活していく中で、一人の男性と恋に堕ちた。その男性は、苗字を岡崎と言った。
 彼は、最初こそ、つかさと相思相愛だったのだが、ある日から、つかさを遠ざけるようになる。
「このままなら、近親相姦になってしまう」
 未来の岡崎はそう言った。
「どういうことなの?」
 とつかさが聞くと、
「過去に起こっていることが微妙に歪を生んでいて、僕の母親は、君のお母さんになってしまう可能性があるんだ。しかも、さらに一歩間違えると、僕は生まれてくるけど、君は生まれてこない可能性も出てくる。今でこそ僕たちは愛し合っていられるけど、つかさはこの世に生まれていなかったり、下手をすると、二人が生まれていても、決して出会うことなく、一生を終えることになるかも知れない。最初から何も知らないのであればそれでもいいのだけど、僕はつかさを知ってしまった。だから、それを意識したまま、出会うことのない人生に変わってしまうというのは耐えられない」
「でも、その時には、記憶はリセットされるんじゃないの?」
「そうかも知れない。でも、リセットされるという保障はどこにもないんだ。僕はつかさを愛したという事実を忘れたくない。だから、何とかしないといけないと思うんだ」
 岡崎はそこまでいうと、
「これは、僕のお父さんから聞かされた話だったんだけど、お父さんもそれ以上のことは知らない。ただ、『お母さんはこの世界でも生きている。年を取らずに生きているんだ』って言ったんだ。僕には何となく分かった気がしたんだけど、君はそのことを知っているんだよね?」
 という岡崎の話に、つかさは頭を垂れたまま、
「ええ、知っているわ。でも、私もつい最近聞かされたばかりで驚いているの。お母さんは、私を生んでからすぐに死んだって聞かされていたからね。家に仏壇だってあれば、納骨だってされているのよ」
 とつかさは話した。
 この時代になると、人口の増加が減ってきたかわりに、集合住宅は減ってきた。その影響もあってか、土地は足らなくなり、霊園や墓地に土地を使うことをやめ、お寺に納骨することによって、墓地に対してのお金や土地を使うことは減ってきていた。その傾向は、東京オリンピックの前からあったのだが、オリンピックが終わって、荒廃した競技場を見ることで、土地の利用に対して、国民一人一人が考えるようになった。納骨堂の利用者が増えたのも、その一環であった。
 愛梨の死に対して、本当のことを知っているのは、父親と、愛梨の両親だけだった。もちろん、つかさがそんなことを知るはずもなかった。それなのにどうしてつかさが死ってしまったのか、そこには未来の岡崎という男の存在が大きかった。
「俺のお父さんは、お母さんと知り合った時、報道局にいたらしい。だけど、うだつが上がらなかった父だったんだけど、母にインタビューをしてからというもの。お父さんがインタビューをした相手のいうことが皆本当のことになったというんだ。お父さんとお母さんは付き合い始めたんだけど、お母さんにはもう一人気になる男性がいたらしいんだ」
 岡崎がそこまでいうと、
「あなたのお父さんは、そのことをすぐに知ったの?」
「ああ、結構早い段階から分かっていたらしいんだけど、お母さんが言わないのなら……、ということで、何も言わなかったらしいんだ。それからお母さんは、何とか自分を騙しながら、お父さんを好きになろうとしたらしいんだけど、限界があったようなんだ。しかも、お母さんは不治の病に冒されていて、もうすぐ死ぬことを本人も知っていたっていうんだ」
「お母さんの病気のことは、聞かされていたわ」
「誰からだい?」
「お父さんからだったんだけど、しつこいくらいに聞かされていたわ。私はその時のお父さんの気持ちが分からなかったんだけど、よほど、お父さんがお母さんのことを好きだったんだということだけは伝わって気がしたの」
 つかさは、父親の顔を思い出していた。
 あの時の父親の顔は、遠くを見るような目で、お母さんを懐かしんでいるんだと思っていた。それ以上でもそれ以下でもない、そんな表情の父親が、つかさにとっての父親像であった。
 つかさが高校生になった頃、大学の研究室で研究を続けている父は、ほとんど家に帰ってこなくなった。
「今は大切な研究をしているので、家に帰ることもなかなかないので、お前のことはおじいちゃん、おばあちゃんに任せているので、かわいがってもらいなさい」
 と言われた。
 祖父も祖母も、つかさのことを喜んで迎えてくれた。孫が慕ってくれるのは、いつの時代でも嬉しいことだ。つかさも父や母に甘えることができなくてずっと寂しい思いをしてきたので、祖父母に甘えられるのは嬉しかった。しばらくは祖父母の元から学校にも通わせてもらっていて、それが元々だったかのように、すっかり馴染んでしまっていた。
 つかさに岡崎という彼氏ができたのは、ちょうどその頃だった。中学の頃から一緒だった岡崎とつかさだったが、お互いに意識することもなかったのに、知り合うきっかけになったのは、岡崎が声を掛けてきたからだった。
 それは、最初から告白に近いものだった。
「俺は、つかさのことをずっと意識していたんだぞ」
 と言われて、つかさはハッとした。
 時々、誰かの視線を感じるようなことがあったが、それがどこからの視線なのか、つかさには分からなかった。
――まさか、あれが岡崎君だったなんて――
 と、つかさは岡崎に声を掛けられた時、すぐに視線の主が分かった気がした。
「ずっと、私のことを気にしてくれていたのね」
 と、つかさは、自分のことを意識する人間なんか、男女問わずいないと思っていただけに、気にしてくれていたということだけで嬉しくなって、気持ちは舞い上がってしまっていた。
 確かに祖父母に甘えながら生活はしているが、祖父母が孫をかわいいと思うのは当たり前のこと、他の人から気にされるのとでは雲泥の差であった。
「つかさって呼んでいいかい?」
「ええ、嬉しいわ」
 二人きりでどこかに出かけたのも、そして、岡崎が「つかさ」と呼び捨てにしたのも、結構早い段階からだった。
 岡崎はそんなに積極的な男ではなく、つかさも自分からアプローチするわけでもないのに、二人が仲良くなってからは、トントン拍子だった。
「俺はつかさのことなら何でも分かる気がするんだ」
「私も」
 そういう会話をした時、二人にファーストキスは訪れた。
 どちらからともなく重ねる唇。つかさは目を閉じて、相手を迎える。
 お互いに初めてだとは思えないほどの自然な成り行きは、お互いにずっと前から知っていた相手のように思えたからだ。
「つかさって不思議だよな。意識はしていたんだけど、話もしていないのに、何を考えているのか分かる気がしたんだ。それが合っているのかどうか分からないけど、俺にはそれなりに自信めいたものがあったんだ」
 と、言われたつかさは、
「嬉しいわ。でも私も岡崎君ほどの思いはないんだけど、でも、ずっと前から知り合いだったような気がして仕方がないの。笑われるかも知れないけど、まるで生まれる前からしっていたような気がするのよ」
 その言葉を聞いた岡崎は、複雑な表情をした。
 本当は嬉しいと思っているくせに、それよりも、残念そうに感じたのはどうしてなんだろう?
「そうだったんだね。生まれる前から……」
 自分に言い聞かせるように復唱した岡崎は、つかさの話を聞きながら、何となく上の空だった。
 後から思えば、岡崎はその頃から、自分たちが同じ母親から生まれたのではないかということに気づいていたのかも知れない。
 いや、逆につかさの言葉が何となく燻っていた思いに火をつけて、確認することを怖がっていた自分に勇気を与えることになったのかも知れない。もしそうだとすればつかさの岡崎を想っていった言葉が裏目に出て、余計なことを考えさせたともいえるだろう。
 だが、その時に岡崎が気づいたのは、偶然ではなかったのではないか。遅かれ早かれ、岡崎が気づかないと、母親を、そして自分を、そして父親を救うことはできないだろう。 そして、それをできるのはつかさ、自分だけではないかと思わせたのも、その時の一連の感覚だったのだろう。
 つかさが感じたことを証明してくれたのが父親だった。
 父親も、
――この状況を何とかできるのは娘のつかさだけだ――
 と分かっていた。
 そして、そのために今までまわりに秘密にしてきた事実を娘に明かして、皆を救ってもらうよう話をする時が近づいてきていることに気が付いた。父親が研究している大学には国家機密に近いものがあった。母親が実験研究に使われたのも仕方のないことだが、自分が何と言われようとも自分の意思を通そうとする父親にとって、避けて通ることのできないことであった。
「岡崎君、私が未来から来た人間だと言えば、信じてくれる?」
「どういうことだい?」
「信じてくれないのならそれでもいいんだけど、もし、私がこの時代の人間ではないとしても愛してくれるのかって思ってね」
 というと、岡崎は少し真顔になった。
「何を言っているんだい? つかさとはぞっと一緒に育ったじゃないか。未来から来たとすればいつの未来から、いつの過去に来たというんだい?」
 岡崎は、混乱した頭でいろいろ考えているようだ。
「私がこの時代にやってきたのは、本当はつい最近なの。でも、岡崎君にとって私の記憶はかなり昔からあるものなんでしょう? きっとそれは私が岡崎君に与えた、私が作り出した記憶なのよ」
「そんなバカな。じゃあ、君のことをずっと意識していたという記憶は、違っていたということなのかい?」
「いいえ、あなたは確かに意識している女性がいたわ。その女性は私と一緒に未来からやってきた人なの。でも、あなたの記憶の中にある彼女は、元々この時代にいたその人なのよ」
「えっ? 言っている意味がまったく分からないんだけど?」
「岡崎君は、杉原修さんという人をご存知かしら?」
「ええ、知ってますよ。僕のお父さんに当たる人ですよね。ただ、実際には僕が子供の頃に別れてから、会っていないんですよ。どうして、お父さんと別れることになったのか、僕には分からないんだ。何しろ子供の頃と言っても、本当に小さな頃だったからね」
「その杉原さんというのは、私のお母さんと知り合ってお付き合いをしていたの。でも、お母さんが大学の頃に不治の病に罹ってしまって、死の宣告を受けたのね。その時、杉原さんは、お母さんを何とか助けたいと思い、その思いがちょうど未来にいた私の元に届いたの」
「君と杉原さんの関係というのは?」
「私のお父さんなの……」
「えっ? ということは、僕とつかさは異母兄弟ということになるのかい?」
「そういうことになるわ」
 それを聞いた岡崎は大きなショックを受けていた。そのショックの意味は、自分が好きになり、キスまでした相手が自分と兄弟であるということへのショックだった。
 しかし、岡崎はふと気が付いた。
「えっ? でも、僕と君とが兄弟だということは、君は未来から来たといったよね。一体君は本当はいくつなんだい?」
「私は、こちらの時代の時間でいけば、四十歳になるのよ。でも、私は生まれてからお父さんの仕事の関係で、いろいろな時代にタイムスリップしていたの。だから、年を取っていないのよ」
「と、いうのは?」
「アインシュタインの相対性理論をご存知かしら?」
「ええ、知ってますよ」
「光速をはるかに超えるような旅行をすると、普通の時代を生きている人に比べて、時間が経つのが遅いの。そういえば、お父さんがよく言っていたわ『肉体が滅んでも、魂は生き残る』ってね。だから、光速を超えることができるのは、魂だけなのかも知れないわね」
「その話は聞いたことがある。浦島太郎の話をすぐに僕は思い出すけどね」
「お父さんも、よく浦島太郎の話をしていたわ。お父さんは私の身体を、時間旅行に耐えられるようにしてくれたの。そのおかげで、私は実年齢のわりに年を取らないのよ」
「この時代の人間には、理解できないことばかりだね。でも、近未来にそんな時代が来るなんて、少しビックリだな」
「そんなことはないわ。現に私がこの時代に来ているということは、他の人もこの時代に来れるということなのよ。時間の矛盾さえ問題なければ、未来から来た人の伝授によって、今の世界でも、タイムマシンを作ることは可能なのよ。ただ、それができないのは、タイムマシンを作ってしまうと、未来が変わってしまい、そのせいで、元の時代に戻れないどことか、時間の歪に落ち込んでしまい、抜けられない人が出てくるの。それは下手をすればブラックホールを作ってしまい、すべてが吸い込まれるという仮説が本当に起きてしまうかも知れないのよ」
「でも、どうして君はその話を僕にしてくれたんだい?」
「私はこの時代にやってきたのは、お母さんをこの時代に戻すためだったの。不治の病に冒されたお母さんは、お父さんの研究で冷凍保存されることになったの。その時、お母さんのお腹の中には私がいて、冷凍保存されたまま私の出生は未来まで持ち越されたのよ。でも生まれた時から成長は早くて、気が付けば実年齢になってしまっていたの。未来になると、お母さんの病気は不治の病ではなくなったので、過去に戻って、お母さんの冷凍保存を止めることを私は選択したの。でも、私はその時まだ生まれていない。生まれていない時代に戻ることは開発されたタイムマシンでは不可能だったの。だから、私にはできない」
「じゃあ、どうして、君は今ここに存在できているんだい? 君の話では、まだ生まれることはできなかったんだろう?」
「お父さんはお母さんのお腹の中に子供がいるのは知らなかったの」
「えっ、お父さんに話していなかったのかい?」
「ええ、自分はこれから死を迎えるのに、子供を宿したということを、告げることに戸惑いがあったのね。そのことはお母さんの日記に克明に書かれているわ。でも、お父さんはお母さんに分からないように、冷凍保存を計画していた。お互いに秘密にしたまま計画だけが進行して、私を宿したまま、お母さんは冷凍保存されたのね」
「じゃあ、君のお母さんは目を覚ました時、一気に年を取ったというのかい?」
「いいえ、お母さんは年を取っていないの。冷凍保存をダイレクトで浴びた人は、目が覚めても、年を取ることはない。何しろ、ずっと眠っていたので、まるでタイムスリップしたような感じなんでしょうね。そんな状態で、一気に年を取るということはないらしいのね」
「じゃあ、君だけが年を取って、今の年齢になった?」
「ええ、だから、お母さんと私は、見た目、そんなに年齢差はないの。まるで同級生のような感じというべきかしら?」
「でも、どうして、君はお母さんをこの時代に戻そうとするの?」
「お母さんが元に戻れば、私も普通に生まれてくるのよ。それが一番いい結末だと思っていたの……」
 と言うと、悲しそうな顔になった。
「ん? つかさは最初の意気込みとは違ってきたのかい?」
「ええ、本当にこれでいいのか、悩むようになったの」
「どうして?」
「眠りから覚めて、不治の病を治したお母さんは、私を産むと、自分は不老不死を夢見ているというような話をし始めたの。元々自分は大学生の頃に死んでしまうと思い込み、覚悟までできていたのに、お父さんが冷凍保存して延命したために、時代を飛び越えて、未来に出てきたのよね」
「だから?」
 岡崎は、つかさが何を言いたいのか分からなかった。
「お母さんにとっては、『ないはずの未来』だったのよ。普通に考えれば、ないはずの未来が開ければ嬉しいし、これからも生きていけることに喜びを感じるはずなんでしょうけど、お母さんは違った。口には出さないけど、お父さんに対し『余計なことをした』と思ったのよ」
「どういうこと?」
「お母さんは、この後の人生を、お父さんには頭が上がらないことになるのよね。しかも自分だけが知らない時間が存在しているということは、お母さんにとってはかなりの苦痛だったの。お父さんにはその気持ちは分かるはずないけどね。なぜなら、自分が命を救ってあげたという思いが強いため、どうしても、新しく開けた世界に順応することはできないの。その気持ちを分かるのは、いくらお腹の中にいたと言っても、一緒に冷凍保存された私だけなのよ」
――確かにそうかも知れない――
 と、岡崎は思った。
 もし、自分がつかさや愛梨の立場だったらどうなっていただろう?
 岡崎はその時まだ、愛梨のことを何も知らなかった。つかさは愛梨に岡崎を会わせようとはしない。どうしてなのだろう>
「僕には、つかさの気持ちが分かる気もするんだけど、どうして、せっかくこの時代にお母さんを連れてきたのに、冷凍保存から、開放してあげようとしないの?」
「もし、冷凍保存から開放してしまうと、私はそのまま生まれてくることになる。あなたと同じ時代を生きることになるんでしょうけど、私は、同じ時代を生きていたとすれば、あなたに出会うことはないような気がするの。私がこういう境遇だから、あなたに会ってあなたと仲良くなったの。きっと、普通に生まれていれば、同じ時代を生きていくうえで、二人が会うことは許されない気がするの」
「どうしてだい?」
「もし、出会ったとしても、それは悲惨な末路が待ち構えているように思うの。お父さんが不倫をして生まれた子供が私なのよ。あなたに対して許されないことなんだわ」
「じゃあ、どうして、今はこうして出会えているんだい?」
「それは、きっと『何となく歪んだ未来』ができてしまったからなんじゃないかな? もともとの冷凍保存という考えが間違っていたのかも知れないわ。でも、私にはお父さんの気持ちが痛いほど分かるの。責めることはできないわ」
「お父さんも、僕のお母さんも、そして、君のお母さんも、それぞれに歪んだ未来があって、僕にもつかさにもあるんだろうね」
「でも、歪んだ未来が悪いとは思わない。未来なんて分からないからいいのよ。分かってしまうと、何が正しいのか自覚できなくなってしまう。だから、『何となく歪んだ未来』というのが、本当の姿なのかも知れないわね」
「つかさがお母さんを冷凍保存する前に戻したいという気持ちはよく分かった。でも、それを躊躇っているのはどうしてなんだい?」
 岡崎の一番聞きたい話はそこだった。
「あなたには分からないの? 私はあなたに会えないのが一番辛いのよ!」
 つかさは、自分の気持ちを搾り出すように言った。
 その声は魂の叫びでもあり、女としての気持ちの苦しさを味わっている自分を傍目から見ていて、どうしてこんなに苦しいのか、分かるはずの思いが分からない自分に憤りを感じていたのだ。
「でもね、つかさ。君の話を聞いていると、僕たちは一緒にはなれないような気がするんだ。それは血の繋がりなんてものに左右されるものではないんだろうけど、こうやって会えたことが奇跡であり、それ以上でもそれ以下でもないと思うんだ」
「じゃあ、私は今のこの時代から先に進みたくはないわ」
「どうするんだい?」
「私がお母さんの代わりに冷凍保存されるわ」
「そんなことをすると、君が目覚めた時には、同い年の君が未来にいることになるんだよ」
「いいの、きっとそうなると、どちらかは、別の時代に行かなければいけなくなるの。それって私にもう一度この時代にやってきて、岡崎さんと出会うということを暗示しているんじゃないかって思わない?」
 つかさが、この短い間に、そこまで頭が働くというのには、さすがの岡崎もビックリした。
――さすが、科学者の父の血を引いているだけのことはある――
 と、感じた。
 そうなると、岡崎も自分の頭もつかさに負けず劣らずの発想があるのではないかと思えてきた。
 そこまで考えていると、自分とつかさは、この時代で一緒にいてはいけない気がしてきた。
「僕とつかさが一緒にいられる時代はここじゃない。もう少し未来にいくと、きっと出会えるような気がするんだ」
 と言うと、つかさは考え込んでしまった。
 すると、無言でつかさは、冷凍保存されているところに岡崎を案内すると、
「今から、お母さんを助け出します。そして、不治の病の薬を与えて、生き返ってもらいます」
 つかさは、未来から持ってきた機械を使って、テキパキと、冷静に事を進めた。
「お母さん。がんばって私を産んでね」
 と言って、つかさは母親を助け出すと、自分がそのまま冷凍保存の機械に入って、眠りに就いた。
 岡崎は、それを見ていると、後ろから一人の男性がやってくるのを感じた。
 愛梨は、助けられて、そのままフラフラと椅子に倒れこんだ。
 その男性は、岡崎に向かって、
「そこから離れなさい。今からこの装置を爆破します」
「えっ?」
 その男性は顔がハッキリと見えなかったが、どうやら、自分の父親であることに違いはなかった。岡崎は、そのことに触れることはない。
 男が装置を爆破すると、つかさはこの世から消えた。
「彼女は、未来に生まれてくるのさ。生まれ変わりになるんだ」
 その言葉を聞いて、岡崎は、未来になると、つかさに会えるように思えた。
「岡崎君、それが、時間を繰り返すというようなものなんだよ」
「どういうことですか?」
「岡崎君の未来はこの僕であり、つかさの未来は、彼女になるのさ。この世の中での輪廻のようなものだね」
 そういって、彼は冷凍保存から助けた女性を抱き起こし、どこへとも消えて行った。
 岡崎は、その時の女性と将来出会うような気がした。
 将来レポーターになった岡崎は、自分がインタビューした最初の相手がその時に男が助けた女、つまりはつかさの母である愛梨であるということを、分かっていた。
「お父さんは、結局『何となく歪んだ未来』を作っただけなんだな……」
 と、岡崎は呟いたのだが、本当に声になっていたのかどうか、分からない……。

                 (  完  )

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