ハーブガーデンはいつも雨上がり

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第1章 彼女の香りと天気雨

§4§

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 ハーブガーデン・コイウラは水曜日が定休日で、あとは交代でもう一日。花穂は休みを利用して、再び街へとやってきた。駅前は通勤や通学の人たちが慌ただしく行き交っている。

 おせっかいだと言われたけれど、何かできることはないかと思って。
 求めている香りの正体がわかれば。もう一歩前に進む気になるかもしれないし。

 花穂は日向子に接触を試み、公園に向かった。ポーはここで彼女を待っていたし、よく通りかかるのだろう。

 今日はポーの姿は見えなかった。さすがにいつもいるというわけではないのだろう。
 腰を据えて待つつもりで居場所を探していると、見覚えのある人物が向こう側から歩いてくる。

 日向子だ。ポニーテールで、背筋を伸ばして颯爽とした姿だった。思いがけず早く出会ってしまい、心の準備ができず花穂は尻込みする。

 どうしよう、声をかけるといっても……なんて? 同性とはいえ、知らない人に声かけられたら怪しむよね……。

 迷っている間に、彼女はどんどん近づいてくる。

 どうしよう、どうしよう……。

 勇気が出ないまま、日向子とすれ違う。
 そのとき、ほんのりといい香りが鼻孔をくすぐった。

 確かに、夏の朝みたいな香りだ。爽やかで、希望に満ちた気持ちになる。
 夏休みに早起きして、朝顔や向日葵に水をあげたときのような、生き生きとした緑のにおい。

「あっ、あの……っ」

 花穂は思いきって声をかけた。日向子は小首を傾げてこちらに向き直り、花穂を見つめている。

「はい、なんでしょう?」
「ええっと、突然すみません。その、すれ違ったとき、あんまりいい匂いがしたものだから。何の香りか、教えていただけないかなーと」
「そうですか? 香水はつけてないけど……」

 日向子は少し驚いて、自分のうなじあたりを撫でる。

「とても自然な香りがしました。緑の匂いというか……」
「ああ、それならたぶん……」

 ぱっと花が咲くように笑う。そして彼女が香りの正体を口にしようとしたとき。
 どこからか、にゃーんと親しげに鳴く猫の声が聞こえてきた。

「あっ、ちょっと待ってください」

 公園の植え込みから茶虎の猫が現れて、日向子の足元をぐるぐると回ったあと、ごろりと寝転んだ。他にも数匹の猫がこちらを見つめている。

「わっ、可愛い。野良猫かな。すごく人懐っこいですね」
「この子たちはね、地域猫といって、有志が交代でお世話をしているの。片方の耳が少しだけカットしてあるでしょう? あれは避妊手術をした印」

 日向子はベンチに座り、鞄から餌とお皿を取り出した。すると猫たちは我先にと日向子の元に集まってくる。

 その中に、二匹の黒猫がいた。特に日向子に懐いているようで、撫でられて幸せそうに目を細めている。

「そっくりですね。兄弟かな」
「うん。本当はもう一匹いたんですけど……」

 日向子の声音は暗い。花穂は黙って、周りで寛ぐ猫たちを眺めて話の続きを待った。

「野良猫ってね、すぐ死んじゃうの。寿命は寿命は四、五年だって」
「え……。そんなに短いの? 猫って十年くらいは生きるものだと思ってました」
「飼い猫なら、そうですね。だけど外は事故とか病気とかいろいろ……危ないことがいっぱいあるから」
「そっかぁ……野生って厳しいね」

 花穂が何気なく発した言葉に、日向子は眉をしかめた。悲しみと怒りが入り交じった表情だ。

「野生じゃないですよ。猫はみんな元々飼い猫。外で繁殖した子も、ご先祖を辿れば飼い猫なんです」
「ご、ごめんなさい。知らなくて……」

 日向子は目を伏せ、静かに首を振った。

「この黒猫たちは、この公園で生まれたみたいです。だけど、お母さんの姿がなくて……心配で、餌をあげていたんです」
「だから、この子たち日向子さんが大好きなんですね」
「大好き……?」
「ええ。だってこんなに安心した顔を見せてくれるんだから」

 花穂の言葉を後押しするように、黒猫の一匹がこちらを見てにゃーんと鳴いた。手を差し出すと、恐る恐る、指先の匂いを嗅ぎにくる。
 それを見て、日向子も笑みを零した。

「本当は家で飼いたかったんですけど、うちはお店をやっているから両親が許してくれなくて。わたしもそのときには野生動物なんだから仕方ないって思ってました」
 日向子の表情が曇る。何かに耐えるように一点を見つめて、言葉を継いだ。
「だけど、台風がきたときにはやっぱり心配で、様子を見に行ったんです」

 先の展開を悟ってしまう。花穂は固唾を呑んで、ただ聞いているしかできなかった。

「この子たちは物陰に隠れてたけど、一番小さいのがいなくて……見つけたときには、もうほとんど息をしていなくて、病院に連れて行ったけど、ダメだった」

 やっぱり……そっか。
 花穂は長いため息をついた。話を聞いただけでこんなに悲しい気持ちになるのだから、日向子はそのとき、どれほど胸を痛めただろう。

「ごめんなさい、初対面の人にこんな話」
「そんなこと。勉強になりました。わたし、何にも知らなくて」
「知ってもらえて嬉しい」

 日向子は晴れやかな顔で笑う。
 いい子だな、ポーさんが好きになる気持ち、よくわかる。
 手を振って別れたところで、結局、日向子の香りの正体を聞くのを忘れてしまったことに気づいた。
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