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第2章 お母さんによく眠れるサッシェを
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翌日、花穂はまだ入院している有紗の見舞いに出向いた。
病室を訪れると、有紗は身体を起こして雑誌を読んでいるところだった。
ノーメイクの彼女は美人であることには変わりないけれど、以前会ったときよりも親しみが湧いた。
花穂に気づくとパタリと雑誌を閉じて、微笑む。表紙には赤ちゃんの写真と、おむつ姿のひよこのイラストが描かれている。
「あのときは本当にお世話になりました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」
「いいえ。お元気になられてよかったです。その後、順調ですか」
「ええ、安定しています。あと二、三日で退院できそうです」
にっこりと笑う顔は相変わらず寂しそうだけれど、この前よりは幾分元気そうだ。
それから、とりとめもなくおしゃべりをした。
今見ていた雑誌のスタイの特集が可愛くて目移りしたこと。離乳食はなるべく手作りしたいとか、衣類はオーガニックで……とか。それから、最近のテレビドラマや、芸能人のゴシップ。結婚前はネイルに凝っていたこと。
「こんなふうに女の子とおしゃべりしたの、久しぶり。きてくれて本当にありがとう」
「いえ、わたしは何も……」
「おしゃべりできただけで嬉しいの。仕事を辞めてからこんな時間を持てることがあまりなくて。友だちとは電話でときどき話すけれど、向こうも働いていたりママだったりで、あまり自由にならなくて……あっ、後悔してるんじゃないの。ただ、少し寂しくて」
有紗は明るい声を作る。
後悔はしていない。だけど……。
もしかしたら、自分の母親もそんな孤独やジレンマを抱きながら育ててくれたのかな。
「今日は、有紗さんに紹介したい子がいるんです」
「……え、どなた? あっ、もしかして、あなたのお子さん?」
有紗はきょろきょろと視線を巡らせる。期待を含んだキラキラした目をしていた。
「い、いえっ、わたしはまだ結婚もしていないし、子どもも……あ、いつかは欲しいって思っているんですけど」
「そ、そうですよね。まだお若いし……ごめんなさい、早合点で」
「それで、紹介したい子って?」
有紗は小首を傾げて微笑む。すっかり花穂に心を許してくれた様子だ。
それを見て、花穂は本当に大丈夫かなと不安になる。
今から言うことは、有紗にとっては常軌を逸した話だ。気味悪がられたり、怖がられたりする可能性もある。マオはそれを危惧していたのだろう。
ううん、大丈夫。だって、エウ君はとても可愛らしい子だもの。
花穂は深呼吸をして気持ちを落ち着かせたあと、有紗と向き合った。
そして、預かっていた麦わら帽子を、そっとエウの頭に載せた。
「ここに、いるんですよ」
「帽子が、浮いている……?」
驚く有紗に、エウは怯んだように花穂の後ろに隠れた。膝辺りに頼りない腕が巻きついているのがわかる。
「お母さん……」
やっと絞り出した声で、それだけ言った。
子どもの心細そうな声に、胸がキリキリと痛む。
有紗には、聞こえたのだろうか。訝しげな表情からはわからなかった。
どうか、どうか怖がらないで……そう祈りながら、言葉を継ぐ。
「あの……信じてもらえないかもしれませんが、この子は、有紗さんの最初のお子さんです」
「何を言っているの……あの子は死産で……」
言いかけて、有紗は眉間に皺を寄せ、花穂を見る。怪しまれても無理はない。
「どうして、あなたがそれを知っているの?」
「この子……わたしたちはエウ君と呼んでいるのですが、ちょっとご縁があって、知り合ったんです」
「あの子の幽霊ってこと?」
「その呼び名は相応しくない気がしますが……わかりやすく言うと、そうかもしれません」
有紗は、花穂をじっと見つめていた。今言われたことをどう受け止めていいのかわからない様子だ。
やがて、有紗は疑念を顔に貼りつけたまま、宙に浮いた麦わら帽子にそっと問いかける。
「エウ君……? もう一度、呼んでくれる? わたしを……」
「お母さん……」
「小さな男の子の声ね。あの子が生きていたら、六歳になるの。ランドセルを選んでいる頃かなって、ときどき想像するのよ。あの子は、何色がいいって言うかなって……」
そこまで言うと有紗は声を詰まらせて、口元に手を当てた。目尻には涙が光る。
「本当に、あの子なの? 本当にここにいるの……?」
花穂は答えなかった。問いかけているけれど、有紗の中にはもう、答えが出ている。愛おしそうな視線がそれを物語っていた。
「触れられるの? この子に」
「もちろん」
そろそろと手を伸ばし、帽子の位置を頼りに、その頬を探り当てる。くすぐったそうに、帽子がふわふわと揺れていた。
「温かい……それに、柔らかい。本当に、子どもを触っているよう……」
「触ってるよ、お母さん」
有紗は大きな目をさらに見開き、両手で目の前の空間を抱き締める。その手が何度も、宙を行ききする。
エウの存在を確かめるように、最初は戸惑いながら、やがて確信を持ってその見えない子どもを腕の中に引き寄せて。
「……ごめんなさい。生んであげられなくて……本当に、ごめんなさい。あなたに、会いたかったの。本当に、会いたかったのよ……」
「どうして、謝るの」
不思議そうな声でエウが問う。有紗のパジャマの袖口にきゅっと皺が寄る。エウが掴んでいるのだ。
「わたしが悪かったの。あなたがおなかにいるのに、無理をして仕事をして……わたし、ダメなお母さんだった」
「お母さんはダメじゃないよ。お仕事頑張りたかったのも知ってるし、僕に会いたかったのも知ってる。ずっとお母さんのそばにいたからわかるよ」
「そう……そばにいてくれたの。いてくれたのね。優しい子。それになんて可愛い声……あなたに会えるなんて、思いもしなかった」
「お母さん、くすぐったいよ……っ」
身体中撫で回されて堪りかねたのか、エウがコロコロと笑い声を発した。
「あっ、そうだ。花穂ちゃん、お願いします」
急に思い出したように、花穂の手をちょんちょんと突いてくる。待ってましたとばかりに、花穂は鞄からラッピングされたプレゼントをエウに渡した。
「お母さんにこれ、あげる」
「もしかして、ときどきプレゼントをくれたのは……あなたなの?」
頷いた拍子に帽子が傾き、落ちそうになる。それはまたすぐに頭の位置に戻った。
「これね、僕が描いたんだ。それでね、縫ってもらったの」
包みを解く有紗に、エウはそう説明する。包装が解かれた途端、サッシェからふわりと優しい香りが漂う。
「すごいわ。なんて上手に可愛く描けているの。それに、とてもいい香りね。気持ちが安らぐような……」
「眠れるようになる?」
「ええ、ええ……きっと、あなたの夢を見るわ」
有紗は泣いているけれど笑っている。
幸せそうに目を細めて、両手でエウの頬を包んでいる。帽子の下には何も見えないけれど、そこには確かなぬくもりがある。
一瞬、有紗によく似た、目のぱっちりとした男の子の顔が、見えた気がした。
病室を訪れると、有紗は身体を起こして雑誌を読んでいるところだった。
ノーメイクの彼女は美人であることには変わりないけれど、以前会ったときよりも親しみが湧いた。
花穂に気づくとパタリと雑誌を閉じて、微笑む。表紙には赤ちゃんの写真と、おむつ姿のひよこのイラストが描かれている。
「あのときは本当にお世話になりました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」
「いいえ。お元気になられてよかったです。その後、順調ですか」
「ええ、安定しています。あと二、三日で退院できそうです」
にっこりと笑う顔は相変わらず寂しそうだけれど、この前よりは幾分元気そうだ。
それから、とりとめもなくおしゃべりをした。
今見ていた雑誌のスタイの特集が可愛くて目移りしたこと。離乳食はなるべく手作りしたいとか、衣類はオーガニックで……とか。それから、最近のテレビドラマや、芸能人のゴシップ。結婚前はネイルに凝っていたこと。
「こんなふうに女の子とおしゃべりしたの、久しぶり。きてくれて本当にありがとう」
「いえ、わたしは何も……」
「おしゃべりできただけで嬉しいの。仕事を辞めてからこんな時間を持てることがあまりなくて。友だちとは電話でときどき話すけれど、向こうも働いていたりママだったりで、あまり自由にならなくて……あっ、後悔してるんじゃないの。ただ、少し寂しくて」
有紗は明るい声を作る。
後悔はしていない。だけど……。
もしかしたら、自分の母親もそんな孤独やジレンマを抱きながら育ててくれたのかな。
「今日は、有紗さんに紹介したい子がいるんです」
「……え、どなた? あっ、もしかして、あなたのお子さん?」
有紗はきょろきょろと視線を巡らせる。期待を含んだキラキラした目をしていた。
「い、いえっ、わたしはまだ結婚もしていないし、子どもも……あ、いつかは欲しいって思っているんですけど」
「そ、そうですよね。まだお若いし……ごめんなさい、早合点で」
「それで、紹介したい子って?」
有紗は小首を傾げて微笑む。すっかり花穂に心を許してくれた様子だ。
それを見て、花穂は本当に大丈夫かなと不安になる。
今から言うことは、有紗にとっては常軌を逸した話だ。気味悪がられたり、怖がられたりする可能性もある。マオはそれを危惧していたのだろう。
ううん、大丈夫。だって、エウ君はとても可愛らしい子だもの。
花穂は深呼吸をして気持ちを落ち着かせたあと、有紗と向き合った。
そして、預かっていた麦わら帽子を、そっとエウの頭に載せた。
「ここに、いるんですよ」
「帽子が、浮いている……?」
驚く有紗に、エウは怯んだように花穂の後ろに隠れた。膝辺りに頼りない腕が巻きついているのがわかる。
「お母さん……」
やっと絞り出した声で、それだけ言った。
子どもの心細そうな声に、胸がキリキリと痛む。
有紗には、聞こえたのだろうか。訝しげな表情からはわからなかった。
どうか、どうか怖がらないで……そう祈りながら、言葉を継ぐ。
「あの……信じてもらえないかもしれませんが、この子は、有紗さんの最初のお子さんです」
「何を言っているの……あの子は死産で……」
言いかけて、有紗は眉間に皺を寄せ、花穂を見る。怪しまれても無理はない。
「どうして、あなたがそれを知っているの?」
「この子……わたしたちはエウ君と呼んでいるのですが、ちょっとご縁があって、知り合ったんです」
「あの子の幽霊ってこと?」
「その呼び名は相応しくない気がしますが……わかりやすく言うと、そうかもしれません」
有紗は、花穂をじっと見つめていた。今言われたことをどう受け止めていいのかわからない様子だ。
やがて、有紗は疑念を顔に貼りつけたまま、宙に浮いた麦わら帽子にそっと問いかける。
「エウ君……? もう一度、呼んでくれる? わたしを……」
「お母さん……」
「小さな男の子の声ね。あの子が生きていたら、六歳になるの。ランドセルを選んでいる頃かなって、ときどき想像するのよ。あの子は、何色がいいって言うかなって……」
そこまで言うと有紗は声を詰まらせて、口元に手を当てた。目尻には涙が光る。
「本当に、あの子なの? 本当にここにいるの……?」
花穂は答えなかった。問いかけているけれど、有紗の中にはもう、答えが出ている。愛おしそうな視線がそれを物語っていた。
「触れられるの? この子に」
「もちろん」
そろそろと手を伸ばし、帽子の位置を頼りに、その頬を探り当てる。くすぐったそうに、帽子がふわふわと揺れていた。
「温かい……それに、柔らかい。本当に、子どもを触っているよう……」
「触ってるよ、お母さん」
有紗は大きな目をさらに見開き、両手で目の前の空間を抱き締める。その手が何度も、宙を行ききする。
エウの存在を確かめるように、最初は戸惑いながら、やがて確信を持ってその見えない子どもを腕の中に引き寄せて。
「……ごめんなさい。生んであげられなくて……本当に、ごめんなさい。あなたに、会いたかったの。本当に、会いたかったのよ……」
「どうして、謝るの」
不思議そうな声でエウが問う。有紗のパジャマの袖口にきゅっと皺が寄る。エウが掴んでいるのだ。
「わたしが悪かったの。あなたがおなかにいるのに、無理をして仕事をして……わたし、ダメなお母さんだった」
「お母さんはダメじゃないよ。お仕事頑張りたかったのも知ってるし、僕に会いたかったのも知ってる。ずっとお母さんのそばにいたからわかるよ」
「そう……そばにいてくれたの。いてくれたのね。優しい子。それになんて可愛い声……あなたに会えるなんて、思いもしなかった」
「お母さん、くすぐったいよ……っ」
身体中撫で回されて堪りかねたのか、エウがコロコロと笑い声を発した。
「あっ、そうだ。花穂ちゃん、お願いします」
急に思い出したように、花穂の手をちょんちょんと突いてくる。待ってましたとばかりに、花穂は鞄からラッピングされたプレゼントをエウに渡した。
「お母さんにこれ、あげる」
「もしかして、ときどきプレゼントをくれたのは……あなたなの?」
頷いた拍子に帽子が傾き、落ちそうになる。それはまたすぐに頭の位置に戻った。
「これね、僕が描いたんだ。それでね、縫ってもらったの」
包みを解く有紗に、エウはそう説明する。包装が解かれた途端、サッシェからふわりと優しい香りが漂う。
「すごいわ。なんて上手に可愛く描けているの。それに、とてもいい香りね。気持ちが安らぐような……」
「眠れるようになる?」
「ええ、ええ……きっと、あなたの夢を見るわ」
有紗は泣いているけれど笑っている。
幸せそうに目を細めて、両手でエウの頬を包んでいる。帽子の下には何も見えないけれど、そこには確かなぬくもりがある。
一瞬、有紗によく似た、目のぱっちりとした男の子の顔が、見えた気がした。
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