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第2章 お母さんによく眠れるサッシェを
§7§
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よかったね、エウ君。心の中でそう呟いて、花穂はそっと病室を出た。これ以上、親子の時間を邪魔するのも無粋だろう。
入院病棟の廊下は酷く明るい。白とパステルカラーが基調になった壁や扉、談話室には心和むような柔らかい色合いのインテリアに風景画。だけどどこかよそよそしい居心地の悪さを感じた。
それに、病院には特有のにおいがある。消毒液のにおいはもちろん、何かもっと、気持ちの奥底に訴えかけてくるような……生と死が交錯する場所が創り出す、におい。
少し酔ったような感じがして、花穂は足早に病院を出た。
外はいつの間にか日が暮れて、少し肌寒い。門を出てバス停に向かおうとすると、見覚えのある男性が通りの向こう側で佇んでいた。
あのときの……有紗が救急車で運ばれた日、病院の入り口で壮年の男性と言い合っていた人だ。
チェックのシャツにジーンズという、さしておしゃれとは言えないけれど、無難な格好。背中にはリュックを背負っていた。冴えない服装に反して、面立ちは整っていて、強い意志を感じさせる目元が印象的だった。
彼はしばらく入院病棟とじっと見つめたあと、その場に蹲ってしまった。膝を抱えて、苛立たしげにくしゃくしゃと髪を掻き回している。
どうしたんだろう。気分でも悪いんだろうか。花穂はそろそろと彼に近づく。
「大丈夫……ですか」
遠慮がちに声をかけてみるが、男は地面を見つめたままだ。
聞こえなかったのかと、花穂はもう一度、今度は少し大きな声で問いかける。
「あの、気分でも悪いんですか」
やはり反応はない。話しかけるなということだろうか。
それにしても、ちらりともこちらを見ないだなんて。よほど堅い意志で返事はしないと決めているのだろうか。
再び会えたのも何かの縁だ。花穂は思い切って、気になっていたことを訊いてみた。
「すみません。わたしのこと、もしかして知っています?」
彼は『かほさんに会わせてください』と壮年の男性に頼んでいた。
よくある名前だし、父親らしき人が娘の恋人を追い払うのもよくあるシチュエーションだ。
偶然だろうなと思いつつも、もしかしたら記憶の手がかりになるかもしれない。
しかし、花穂の勇気を裏切るように、男はなおも答えようとしない。
「もしもーし!」
ムキになってぶんぶんと手を振っても、男は無反応だ。
完全無視。
もしかして、エウのように透明な存在になってしまったのだろうか。
ふと不安になって、子どもっぽい深爪の指をひらひらさせる。
それから視線を落として、脚を見る。むくみやすくて太いのがコンプレックスで、いつもラインのわからないパンツや長いスカートばかり履いて隠していた。
自分的に不満はあるものの、普通だ。見えているし、不審な点もない。
男は頭を抱えたまま、ポケットからスマートフォンを取り出す。何をするでもなく、ただ待ち受けを見つめていた。
好奇心に駆られて、花穂はひょいと彼の手元を覗き込む。嫌ならさすがに今度は無視しないだろう。
ところが、男はやっぱり何も反応は見せない。視線はスマートフォンに注がれている。
「花穂……」
彼が見つめる待ち受け画面を見て、花穂は息を呑む。
そこには、はにかんだように笑う自分の顔があった。
入院病棟の廊下は酷く明るい。白とパステルカラーが基調になった壁や扉、談話室には心和むような柔らかい色合いのインテリアに風景画。だけどどこかよそよそしい居心地の悪さを感じた。
それに、病院には特有のにおいがある。消毒液のにおいはもちろん、何かもっと、気持ちの奥底に訴えかけてくるような……生と死が交錯する場所が創り出す、におい。
少し酔ったような感じがして、花穂は足早に病院を出た。
外はいつの間にか日が暮れて、少し肌寒い。門を出てバス停に向かおうとすると、見覚えのある男性が通りの向こう側で佇んでいた。
あのときの……有紗が救急車で運ばれた日、病院の入り口で壮年の男性と言い合っていた人だ。
チェックのシャツにジーンズという、さしておしゃれとは言えないけれど、無難な格好。背中にはリュックを背負っていた。冴えない服装に反して、面立ちは整っていて、強い意志を感じさせる目元が印象的だった。
彼はしばらく入院病棟とじっと見つめたあと、その場に蹲ってしまった。膝を抱えて、苛立たしげにくしゃくしゃと髪を掻き回している。
どうしたんだろう。気分でも悪いんだろうか。花穂はそろそろと彼に近づく。
「大丈夫……ですか」
遠慮がちに声をかけてみるが、男は地面を見つめたままだ。
聞こえなかったのかと、花穂はもう一度、今度は少し大きな声で問いかける。
「あの、気分でも悪いんですか」
やはり反応はない。話しかけるなということだろうか。
それにしても、ちらりともこちらを見ないだなんて。よほど堅い意志で返事はしないと決めているのだろうか。
再び会えたのも何かの縁だ。花穂は思い切って、気になっていたことを訊いてみた。
「すみません。わたしのこと、もしかして知っています?」
彼は『かほさんに会わせてください』と壮年の男性に頼んでいた。
よくある名前だし、父親らしき人が娘の恋人を追い払うのもよくあるシチュエーションだ。
偶然だろうなと思いつつも、もしかしたら記憶の手がかりになるかもしれない。
しかし、花穂の勇気を裏切るように、男はなおも答えようとしない。
「もしもーし!」
ムキになってぶんぶんと手を振っても、男は無反応だ。
完全無視。
もしかして、エウのように透明な存在になってしまったのだろうか。
ふと不安になって、子どもっぽい深爪の指をひらひらさせる。
それから視線を落として、脚を見る。むくみやすくて太いのがコンプレックスで、いつもラインのわからないパンツや長いスカートばかり履いて隠していた。
自分的に不満はあるものの、普通だ。見えているし、不審な点もない。
男は頭を抱えたまま、ポケットからスマートフォンを取り出す。何をするでもなく、ただ待ち受けを見つめていた。
好奇心に駆られて、花穂はひょいと彼の手元を覗き込む。嫌ならさすがに今度は無視しないだろう。
ところが、男はやっぱり何も反応は見せない。視線はスマートフォンに注がれている。
「花穂……」
彼が見つめる待ち受け画面を見て、花穂は息を呑む。
そこには、はにかんだように笑う自分の顔があった。
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