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第4章 思い出のマローブルー
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雨が降っていた。天から放たれる銀の針のように、冷たく身体に刺さる。酷くみじめな気分だった。
深夜の住宅街、こんな雨の中を好き好んで歩く者はいない。ときおりカーブミラーに車のライトが反射して、歪な月が現れては消える。
アスファルトは濡れて黒く染まり、街灯の明かりは雨に溶けて滲んでいた。
足はとても重かった。黒いパンプスはずぶ濡れで、つま先は冷えて感覚がない。
『終わりにしよう』
聞きたくなかった言葉が、何度も何度も頭の中を巡る。
彼の声は少し震えていた。
俯いて、前髪が全部下がって顔が見えなかった。
『花穂が悪いんじゃない。嫌いになったわけでもない。ただ……疲れたんだ。ごめん、本当にごめん……』
ずるいよ。嫌いになったわけじゃないなんて。
湧き上がる怒りを、雨粒が冷ましていく。
怒るのも悲しむのもパワーが必要だ。なのにその力は空からの水に溶けて流れてしまう。
終わりの日はいつだったっけ。昨日のことなのか、三日前か、一週間? 一ヶ月? いや、もっとかな……。
気持ちはとても平坦だった。淡々と日々は流れていく。いつも通りに出勤して、仕事を頼まれたら嫌な顔ひとつせず引き受けて、休日には友だちと出かけた。
ごく普通の日常に呑まれていく。
失恋ってこんなものなのかな。それほどショックを受けていないのかな。
けっこう、なんでもないことなのかな……。
ため息を零して、ずいぶん遅い時間に会社を出た花穂は、傘を広げる。
あの日からずっと、雨が降っている。
別れを告げられた日から、ずっと。傘を乾かす暇もないくらい、雨は降り続いている。
オフィス街の景色は滲んで、幹線道路ではテールランプがゆらゆらと歪んだ軌跡を描く。
おかしいな。傘を差しているのに、こんなに身体中が濡れて冷たい。
お風呂に入りたいな。このところ忙しくてシャワーだけで済ませていたから、ゆっくり湯船に浸かりたい。自分へのご褒美に、奮発して買ったバスソルトを入れて。
あれは、なんて香りだったかな……。
考えながら、花穂はゆらゆらと歩いた。誰かに呼び止められた気がした。
閃光が網膜を焼く。視界が真っ白になって、何も見えなくなった。
ピッピッ――機械音が微かに聞こえた。どうしてこんな音が鳴っているのかわからない。
身体は重くて動かない。息がしづらい。光は見えない。真っ暗で、怖い……。
どうしてこんなことになったんだろ。
もう、嫌だな。いろんなことが億劫で、全部やめてしまいたい。
何を? 何をやめてしまうの。
よくわからないけれど、とにかく疲れた。とてもとても、疲れていた。
何かをやめるにしても、行動を起こさなければいけない。ただじっとしていても、その何かは勝手に去ってはくれないようだ。
仕方がない。あと少し、少しだけ頑張らないと。
思い切って瞼を開けた。すると視界は一面緑に覆われていた。
眩しさに目を眇める。輝くグリーンは瑞々しく、葉には小さな水滴を載せている。
雨上がりかな。空気は澄んで、清々しかった。思い切り、息を吸い込んでみる。
身体の中が清浄な風に洗われていく。
「いい香り……」
花穂は歩き出す。そこがどこかもわからないまま。ただ、さらさらと自分から何かが剥がれ落ちていくのを感じていた。その度に身体は軽くなった。
「綺麗なところ……」
一面の緑、それからラベンダー、マーガレットを小さくしたような花、黄色い花火のようなものもあった。植物はどれも瑞々しく、葉を小さな水滴で飾っていた。
雨が、降ったのかもしれない。
空気が澄んでいるのはきっと、雨が埃や塵を洗い流してくれたから。
しばらく歩くと、萌葱色の二階建ての家が見えた。何かに誘われるように、花穂はその家へと歩いた。
深夜の住宅街、こんな雨の中を好き好んで歩く者はいない。ときおりカーブミラーに車のライトが反射して、歪な月が現れては消える。
アスファルトは濡れて黒く染まり、街灯の明かりは雨に溶けて滲んでいた。
足はとても重かった。黒いパンプスはずぶ濡れで、つま先は冷えて感覚がない。
『終わりにしよう』
聞きたくなかった言葉が、何度も何度も頭の中を巡る。
彼の声は少し震えていた。
俯いて、前髪が全部下がって顔が見えなかった。
『花穂が悪いんじゃない。嫌いになったわけでもない。ただ……疲れたんだ。ごめん、本当にごめん……』
ずるいよ。嫌いになったわけじゃないなんて。
湧き上がる怒りを、雨粒が冷ましていく。
怒るのも悲しむのもパワーが必要だ。なのにその力は空からの水に溶けて流れてしまう。
終わりの日はいつだったっけ。昨日のことなのか、三日前か、一週間? 一ヶ月? いや、もっとかな……。
気持ちはとても平坦だった。淡々と日々は流れていく。いつも通りに出勤して、仕事を頼まれたら嫌な顔ひとつせず引き受けて、休日には友だちと出かけた。
ごく普通の日常に呑まれていく。
失恋ってこんなものなのかな。それほどショックを受けていないのかな。
けっこう、なんでもないことなのかな……。
ため息を零して、ずいぶん遅い時間に会社を出た花穂は、傘を広げる。
あの日からずっと、雨が降っている。
別れを告げられた日から、ずっと。傘を乾かす暇もないくらい、雨は降り続いている。
オフィス街の景色は滲んで、幹線道路ではテールランプがゆらゆらと歪んだ軌跡を描く。
おかしいな。傘を差しているのに、こんなに身体中が濡れて冷たい。
お風呂に入りたいな。このところ忙しくてシャワーだけで済ませていたから、ゆっくり湯船に浸かりたい。自分へのご褒美に、奮発して買ったバスソルトを入れて。
あれは、なんて香りだったかな……。
考えながら、花穂はゆらゆらと歩いた。誰かに呼び止められた気がした。
閃光が網膜を焼く。視界が真っ白になって、何も見えなくなった。
ピッピッ――機械音が微かに聞こえた。どうしてこんな音が鳴っているのかわからない。
身体は重くて動かない。息がしづらい。光は見えない。真っ暗で、怖い……。
どうしてこんなことになったんだろ。
もう、嫌だな。いろんなことが億劫で、全部やめてしまいたい。
何を? 何をやめてしまうの。
よくわからないけれど、とにかく疲れた。とてもとても、疲れていた。
何かをやめるにしても、行動を起こさなければいけない。ただじっとしていても、その何かは勝手に去ってはくれないようだ。
仕方がない。あと少し、少しだけ頑張らないと。
思い切って瞼を開けた。すると視界は一面緑に覆われていた。
眩しさに目を眇める。輝くグリーンは瑞々しく、葉には小さな水滴を載せている。
雨上がりかな。空気は澄んで、清々しかった。思い切り、息を吸い込んでみる。
身体の中が清浄な風に洗われていく。
「いい香り……」
花穂は歩き出す。そこがどこかもわからないまま。ただ、さらさらと自分から何かが剥がれ落ちていくのを感じていた。その度に身体は軽くなった。
「綺麗なところ……」
一面の緑、それからラベンダー、マーガレットを小さくしたような花、黄色い花火のようなものもあった。植物はどれも瑞々しく、葉を小さな水滴で飾っていた。
雨が、降ったのかもしれない。
空気が澄んでいるのはきっと、雨が埃や塵を洗い流してくれたから。
しばらく歩くと、萌葱色の二階建ての家が見えた。何かに誘われるように、花穂はその家へと歩いた。
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