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人間編【猿生交換】

第7話 待ち人

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 共依存。
 相手のためでしか自分の意思を決定できない状態。
 相手がいなければ自分の言動が決められない状態。
 実に不健康。
 そして実に不誠実。
 相手のためと言いながら相手の都合の良い様に行動する。
 暴力行為を止めず、「犯罪者になってしまうから」と許してしまう。
 元凶を正さずに、周りが合わせてしまう。
 それのなにが「そのひとのため」か。
 当の本人はその矛盾に蓋をする。
 見て見ぬ振りをする。
『自分が許せばそれで丸く収まる』
 それは本当に相手のためだろうか。

 この女も、猿野ましの れいも、相手のためで、自分のためなのだろうか。


「私は明日でこの場を離れます」


 不意に告げた。
 彼女はいつもと変わらず、柵に両腕を乗せながら荒れた海を眺める。
 私の方は見向きもせず「あらあら」と軽くあしらった。


「私のこの場での作業は終えたので、こちらに来るのは本日で最後となります」
「そうなのですねぇ。お話しできてたのしかったです。お元気で」
「貴方も、お元気で」


 実につまらない時間でした。
 軽く頭を下げ、振り返らずに離れた。
 向こうも私の姿を見ることはなかっただろう。
 彼女の興味は一人の男にしかない。
 周りがどう思おうとも、彼女に取っての世界は彼だけなのだ。
 彼が林檎を檸檬と言えばそうだし。
 彼が「この消費者金融は安全だ」と言えば、彼女は安全なものとして言われるがままに使うだろう。
 そして、生きていた頃の彼が「死ぬ」と言っていないのだから、彼女の中では彼は『死んでいない』。

 彼女はここ。
 自殺の名所で、すでに死んだ彼を待ち続ける。

 彼女と話して、彼女の求めるのがわかった。
 わかったから、私はもうここに来る必要はない。
 ……いや、明日は最後の挨拶にこようか。

 ドアノブを回した。





 ―――――……





 あたし、猿野ましの れい猿臂えんぴを伸ばした。
 届かないかもしれないと思いつつも、どうしても欲しかった。
 届きますようにと腕を伸ばした。

 あたし、猿野ましの れいは木から落ちた。
 当然です。
 届きようがない枝に腕を伸ばしたのですから。

 あたし、猿野ましの れいは実に滑稽だったでしょう。
 猿猴えんこうが月。
 自分の能力を過信して……いえ、無いものをあると思っていた。
 あたしには無理だとわかっていた。
 猿の水練。
 やるしかなかった。
 それは。
 それが。
 あの人が望んだことだったから。

 あたし、猿野ましの れいは、まさに猿でしかなかった。
 否定したい。
 否定できない。
 あたしの力だけじゃあだめだった。
 誰かに否定してほしかった。
れいでもできることがあるよ』と。

 あたし、猿野ましの れいはひたすらに待っていた。
 待って、待って、待ち続けて。
 ついにこの日が来てくれた。

 話し相手になっていた人はもう来ないと言っていたのに、後ろから地面を擦る音がする。
 こんな辺鄙なところにまた別の人が来たのか。
 少しばかりの興味が、首を動かした。
 服が風に揺れている。
 乱れた髪を抑える手が、顔を露わにした。


「よぉ」
「あ……あぁ……!」


 よしくん……っ!


 体を捻って、駆け出した。
 緩やかな坂だが岩場。
 待ち続けたあたしの棒の様な足は何度もよろけ、何度も転んだ。
 それでも、両手を広げて待ってくれている人の胸に飛び込んだ。


「よしくん! よしくん! 無事でよかったぁ!!」
「䨩。ごめんな。心配かけた」


 ああ、懐かしい香り。
 ああ、懐かしい声。
 ああ、ああ、ああぁ……。

 この日がくるのを、どれだけ待っていたか……!
 挫けなくてよかった!
 信じてよかった!
 やっぱりあたしは間違ってなかった!!
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