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◼️番外編 於大の方 慶長上洛記
竹千代への思い
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三河刈屋では春から、亀城(きじょう、刈屋城のこと)の普請を始めることとなっていた。
当主である水野藤十郎勝成は城の外まで出て石垣の状態を見ながら普請の相談をしている。家臣が不意に勝成に尋ねる。
「あちらの椎ノ木(しいのき)屋敷はいかがなされますか。少し古色が出とりますで」
勝成はうーむ、と手をあごにあてて思案する。
「いや、あれはそのままにて遺す。手入れだけはきちんとせねばなるまい」
椎ノ木屋敷とは刈屋城のほど近くにある水野家の別邸である。文字通り大きな椎が立つことに由来している。
ここにはかつて、於大の方が住んでいた。松平広忠に離縁され、まだ二歳にもならない子を置いて家を出た後のことである。自分に非があっての離縁ではない。さぞかし、複雑な心持ちだったことだろう。
この屋敷で於大は気持ちの整理を付けて、久松家に再び嫁いでいったのである。
その屋敷をどうこうするなど、勝成には考えもつかなかった。
「於大の伯母も、上洛の帰途に立ち寄って見たいと言うかもしれんしのう」
空は薄曇りだが日は地上まで届いている。もう伯母は京都に着いただろうか、と勝成は思う。
ーーー
於大の一行は慶長7年(1602)2月に伏見城に到着した。内府・徳川家康がみずから一行を出迎える。
このときの伏見城は真新しい。というより、まだ普請が済んでいない部分もある。再建していたのだ。
伏見城は初めに建てられてから、まだ10年しか経っていない。それにも関わらず、元の形は残っていないし、同じ場所に建ってもいない。
当初、豊臣秀吉が居城として築いた伏見城だが、文禄5年(1596)に大きな地震があり倒壊の憂き目にあった。その後すぐ元の場所より北東の木幡山に城を再建したのだが、ほどなくして秀吉は世を去ることになる。その遺児・秀頼と母・淀の方は秀吉の遺言で大坂城に移った。結局、家康が五大老の筆頭としてこの城を預かり、政務を執ることになったのである。
それで話は終わらない。
慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が起こる。家康の東軍、石田三成の西軍が激突した天下分け目の戦いである。その前哨戦で伏見城は石田方の襲撃を受け、火を放たれたのだ。城は焼け落ちた。
それをこのとき再建していたのである。
本来なら、家康は城の普請が終わるのに合わせて母を招きたいと思っていたのだ。
「母上、こんな真冬に旅をさせて申し訳ない。ささ、すぐに温かい部屋で休んでくだされ。久松の皆さまも大儀でござった」と家康が母の手を取る。
於大は何も言わず、家康の顔を見ている。家康がどうしたことかと母を見ると、彼女は、
「おまえさまも、ずいぶんと老けたでや」と言った。
「それはもう還暦だもんで」と家康が苦笑する。
家康は久しぶりに会う母もまた老けたと思う。尼装束なので白髪が目立つなど変化は見えない。シワは増えているが、それよりも、ずいぶんと母の身体は小さくなったように見えて、家康は胸を衝かれるような思いがする。
「おまえさまも、どえりゃあ苦労しとったんでや」と小さな母がポツリと言う。家康は思わず目をしばたく。
しかしやはり、老いた身体に冬の旅は辛いものだったようだ。その晩から於大は熱を出して寝込むこととなった。
「私が出立すると無理を言うたんだがね。皆を責めんでやってちょうでぇませ」と彼女ははあはあと息をしながら家康に言う。
「責めるなどいたしませんで……とにかく今は休んで下され」
母がようやく眠りに就くと、家康はしばらくそのまま、行灯(あんどん)に照らされた母の寝顔を見ている。
そうっと襖を開けて、久松康元が家康を見る。家康はようやく立ち上がり、母の寝所を出て別室に康元を連れ立っていく。もちろん母の側には侍女や薬師、医者が常時控えている。家康はひれ伏し続ける康元に、頭を上げるように言う。
「しかし、母御はなぜ真冬なのに出立したんか、それがようわからんで」と家康は言う。
久松康元も、「そうなのです。皆で止めたのですが……」と不思議そうな顔をする。
「まぁ、ここなら温う(ぬくう)しておられるし、医者もおる。わしも母の看病などしたことがないでや、ええ機会じゃ」
母の熱は2~3日すると次第に下がり、食事も普通に取れるようになる。一同はほっとした。
一週間ほどして、母に付いていた久松の息子と孫も、於大の回復を見て帰途についた。もうすぐ春になりつつあるが、まだまだ旅には厳しい。道中を心配する母に、康元は、
「母上のときよりずっと楽ですで」とつぶやく。
「ずっと、見守ってくれとって、難儀なことでしたな」と母は息子をじっと見る。
「何も……」と言いかけて息子は黙った。何か言葉をはさんではいけないような気がした。
母はこれまで見たことのないような、優しい笑顔を見せて、見送りに立つ。久松の一行は何度も頭を下げ、ときどき振り返りながらゆっくりと去っていった。
春が来るまで於大は近隣を散策するなど、のんびりと過ごしていた。家康が母が来ると想定していたのは4月だったので、予定もそれに合わせていたのだ。伏見城の近隣には、伏見稲荷や醍醐寺がある。
家康が母に見せたかったのは醍醐寺の桜、とりわけ見事な枝垂れ桜だった。これにはみずから母を案内して出かけた。
「まぁまぁ、おまえさまの言う通り、まこと見事な桜だで」と於大はまぶしそうに花が揺れる姿を見上げる。
「これを母御にお見せしたかったのです」と家康は母に微笑む。
「私もあと何回桜を見りゃあせることか……」と於大がぽつりとつぶやく。家康は思い切りかぶりを振って否定する。
「何度でも見りゃあせますで」
母は何も言わずに、ただ桜を眺めていた。
家康が組んだ予定のなかで最も重要だったのは宮中参内(きゅうちゅうさんだい)である。宮中で家康は内大臣を任ぜられているが、その生母として正式に御所に赴くのである。さきに述べた通り、於大は家康の生母であるが別の家に再嫁しているため、通例ならば生母として御所に行くのは難しい。家康がさまざま手だてを講じたすえに、参内が叶うこととなったのである。
参内に先だって、於大は豊臣家への礼を失してはならないとして、まず、秀吉の妻おねが隠棲する高台院を訪れた。5月15日のことである。これはさほど緊張する面会ではない。もともとおねは尾張の武士の娘であり、家康とも交流があったからである。
続いて、5月22日には宮中参内し、翌23日には豊臣秀吉を祀る豊国社に詣でている。
夏の盛りを避けて三河に帰るつもりでいた於大だった。
しかし、夏が終わる前に彼女は突然の病に倒れた。高い熱を出して伏見城の一室で臥せたきりになる。医師も薬師も手を尽くしていたが、どうにも症状は改善しなかった。
家康が母に付いて夜を過ごしていたときのことである。うとうとしていた家康は、母の声で目が覚めた。
「竹千代、竹千代ぉ……許して……」
母は夢を見ているのだ。
どんな夢なのか家康には容易に分かった。
母は松平家から離縁されて出ていくときの光景を見ているのだ。母はすすり泣いて、シワだらけの目からは幾筋もの涙がこぼれていた。
こんなに、今でも夢でうなされるほどに、悲しんでいたのだ。まだ物心もついていない自分を置いて出たことを。もうその竹千代も還暦になるほど時間が経っているのに。
「母上、竹千代はここにおりますぞ、ここにおりますぞ」
家康は母の手を自分の両の手で握る。母の手に彼の涙がぽとり、ぽとりと落ちる。すると、母が目を覚ました。
「内府どの、あんまり母にばかり構うとったらいけませんで、みずからのお務めを……」
家康は涙に濡れた目で、ただうなずくことしかできなかった。
於大の方(伝通院)は8月28日、伏見城内で亡くなった。75歳だった。葬儀は京都東山の知恩院で盛大に営まれた。家康は知恩院を徳川の永代菩提所にさだめ、寺領703石を寄進する。
のちに、於大の遺骨は江戸小石川の伝通院に葬られ、三河国岡崎の大泉寺には遺髪が預けられた。
生き別れになった親子は、ようやく最後にゆっくりと、ともに過ごすことができたのである。
(次が番外編の最終回になります。つづく)
当主である水野藤十郎勝成は城の外まで出て石垣の状態を見ながら普請の相談をしている。家臣が不意に勝成に尋ねる。
「あちらの椎ノ木(しいのき)屋敷はいかがなされますか。少し古色が出とりますで」
勝成はうーむ、と手をあごにあてて思案する。
「いや、あれはそのままにて遺す。手入れだけはきちんとせねばなるまい」
椎ノ木屋敷とは刈屋城のほど近くにある水野家の別邸である。文字通り大きな椎が立つことに由来している。
ここにはかつて、於大の方が住んでいた。松平広忠に離縁され、まだ二歳にもならない子を置いて家を出た後のことである。自分に非があっての離縁ではない。さぞかし、複雑な心持ちだったことだろう。
この屋敷で於大は気持ちの整理を付けて、久松家に再び嫁いでいったのである。
その屋敷をどうこうするなど、勝成には考えもつかなかった。
「於大の伯母も、上洛の帰途に立ち寄って見たいと言うかもしれんしのう」
空は薄曇りだが日は地上まで届いている。もう伯母は京都に着いただろうか、と勝成は思う。
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於大の一行は慶長7年(1602)2月に伏見城に到着した。内府・徳川家康がみずから一行を出迎える。
このときの伏見城は真新しい。というより、まだ普請が済んでいない部分もある。再建していたのだ。
伏見城は初めに建てられてから、まだ10年しか経っていない。それにも関わらず、元の形は残っていないし、同じ場所に建ってもいない。
当初、豊臣秀吉が居城として築いた伏見城だが、文禄5年(1596)に大きな地震があり倒壊の憂き目にあった。その後すぐ元の場所より北東の木幡山に城を再建したのだが、ほどなくして秀吉は世を去ることになる。その遺児・秀頼と母・淀の方は秀吉の遺言で大坂城に移った。結局、家康が五大老の筆頭としてこの城を預かり、政務を執ることになったのである。
それで話は終わらない。
慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が起こる。家康の東軍、石田三成の西軍が激突した天下分け目の戦いである。その前哨戦で伏見城は石田方の襲撃を受け、火を放たれたのだ。城は焼け落ちた。
それをこのとき再建していたのである。
本来なら、家康は城の普請が終わるのに合わせて母を招きたいと思っていたのだ。
「母上、こんな真冬に旅をさせて申し訳ない。ささ、すぐに温かい部屋で休んでくだされ。久松の皆さまも大儀でござった」と家康が母の手を取る。
於大は何も言わず、家康の顔を見ている。家康がどうしたことかと母を見ると、彼女は、
「おまえさまも、ずいぶんと老けたでや」と言った。
「それはもう還暦だもんで」と家康が苦笑する。
家康は久しぶりに会う母もまた老けたと思う。尼装束なので白髪が目立つなど変化は見えない。シワは増えているが、それよりも、ずいぶんと母の身体は小さくなったように見えて、家康は胸を衝かれるような思いがする。
「おまえさまも、どえりゃあ苦労しとったんでや」と小さな母がポツリと言う。家康は思わず目をしばたく。
しかしやはり、老いた身体に冬の旅は辛いものだったようだ。その晩から於大は熱を出して寝込むこととなった。
「私が出立すると無理を言うたんだがね。皆を責めんでやってちょうでぇませ」と彼女ははあはあと息をしながら家康に言う。
「責めるなどいたしませんで……とにかく今は休んで下され」
母がようやく眠りに就くと、家康はしばらくそのまま、行灯(あんどん)に照らされた母の寝顔を見ている。
そうっと襖を開けて、久松康元が家康を見る。家康はようやく立ち上がり、母の寝所を出て別室に康元を連れ立っていく。もちろん母の側には侍女や薬師、医者が常時控えている。家康はひれ伏し続ける康元に、頭を上げるように言う。
「しかし、母御はなぜ真冬なのに出立したんか、それがようわからんで」と家康は言う。
久松康元も、「そうなのです。皆で止めたのですが……」と不思議そうな顔をする。
「まぁ、ここなら温う(ぬくう)しておられるし、医者もおる。わしも母の看病などしたことがないでや、ええ機会じゃ」
母の熱は2~3日すると次第に下がり、食事も普通に取れるようになる。一同はほっとした。
一週間ほどして、母に付いていた久松の息子と孫も、於大の回復を見て帰途についた。もうすぐ春になりつつあるが、まだまだ旅には厳しい。道中を心配する母に、康元は、
「母上のときよりずっと楽ですで」とつぶやく。
「ずっと、見守ってくれとって、難儀なことでしたな」と母は息子をじっと見る。
「何も……」と言いかけて息子は黙った。何か言葉をはさんではいけないような気がした。
母はこれまで見たことのないような、優しい笑顔を見せて、見送りに立つ。久松の一行は何度も頭を下げ、ときどき振り返りながらゆっくりと去っていった。
春が来るまで於大は近隣を散策するなど、のんびりと過ごしていた。家康が母が来ると想定していたのは4月だったので、予定もそれに合わせていたのだ。伏見城の近隣には、伏見稲荷や醍醐寺がある。
家康が母に見せたかったのは醍醐寺の桜、とりわけ見事な枝垂れ桜だった。これにはみずから母を案内して出かけた。
「まぁまぁ、おまえさまの言う通り、まこと見事な桜だで」と於大はまぶしそうに花が揺れる姿を見上げる。
「これを母御にお見せしたかったのです」と家康は母に微笑む。
「私もあと何回桜を見りゃあせることか……」と於大がぽつりとつぶやく。家康は思い切りかぶりを振って否定する。
「何度でも見りゃあせますで」
母は何も言わずに、ただ桜を眺めていた。
家康が組んだ予定のなかで最も重要だったのは宮中参内(きゅうちゅうさんだい)である。宮中で家康は内大臣を任ぜられているが、その生母として正式に御所に赴くのである。さきに述べた通り、於大は家康の生母であるが別の家に再嫁しているため、通例ならば生母として御所に行くのは難しい。家康がさまざま手だてを講じたすえに、参内が叶うこととなったのである。
参内に先だって、於大は豊臣家への礼を失してはならないとして、まず、秀吉の妻おねが隠棲する高台院を訪れた。5月15日のことである。これはさほど緊張する面会ではない。もともとおねは尾張の武士の娘であり、家康とも交流があったからである。
続いて、5月22日には宮中参内し、翌23日には豊臣秀吉を祀る豊国社に詣でている。
夏の盛りを避けて三河に帰るつもりでいた於大だった。
しかし、夏が終わる前に彼女は突然の病に倒れた。高い熱を出して伏見城の一室で臥せたきりになる。医師も薬師も手を尽くしていたが、どうにも症状は改善しなかった。
家康が母に付いて夜を過ごしていたときのことである。うとうとしていた家康は、母の声で目が覚めた。
「竹千代、竹千代ぉ……許して……」
母は夢を見ているのだ。
どんな夢なのか家康には容易に分かった。
母は松平家から離縁されて出ていくときの光景を見ているのだ。母はすすり泣いて、シワだらけの目からは幾筋もの涙がこぼれていた。
こんなに、今でも夢でうなされるほどに、悲しんでいたのだ。まだ物心もついていない自分を置いて出たことを。もうその竹千代も還暦になるほど時間が経っているのに。
「母上、竹千代はここにおりますぞ、ここにおりますぞ」
家康は母の手を自分の両の手で握る。母の手に彼の涙がぽとり、ぽとりと落ちる。すると、母が目を覚ました。
「内府どの、あんまり母にばかり構うとったらいけませんで、みずからのお務めを……」
家康は涙に濡れた目で、ただうなずくことしかできなかった。
於大の方(伝通院)は8月28日、伏見城内で亡くなった。75歳だった。葬儀は京都東山の知恩院で盛大に営まれた。家康は知恩院を徳川の永代菩提所にさだめ、寺領703石を寄進する。
のちに、於大の遺骨は江戸小石川の伝通院に葬られ、三河国岡崎の大泉寺には遺髪が預けられた。
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