水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽

文字の大きさ
59 / 89
◼️番外編 これが武蔵の生きる道

かけがえのない絆

しおりを挟む

 大和郡山藩主、水野日向守勝成の正室であるお珊(おさん)はまだ日が開けきらない時間に目が覚めた。また眠る気にはなれなかったので、少し散歩に出てみようと思い、侍女とともに建屋の外に出た。

 まだ空には煌々と月が輝いている。

 彼女は髪を結い上げておらず、後ろひとつに束ねただけにしている。少しだけ白いものが見られるが、その年齢に比べればまだまだ美しく艶のある黒髪だった。さっくりと小袖を身につけているが、きっちりとしていないさまがまた艶っぽい。

 武家の女性のたしなみとされているお歯黒はしていない。お珊はもともと歯の具合がよくなく、その治療や予防もかねて、長くお歯黒を使っていたがまったく効果はなかった。それなので、この頃には煩わしいと塗るのを止めていた。もともと噛み合わせも悪かったのだろう。歯に起因する偏頭痛がしばしば彼女を苦しめた。
 それに加えて、長く体調もよくなかったので、彼女は若い頃から物憂げな表情をしていることが多かった。

 唇に紅を差し、物憂げな表情をすると彼女は、見慣れた周りの者でもドキリとするほど艶かしかった。

 月の下を歩いていると、お珊の耳に威勢のよい男性の声が飛び込んできた。
「やあっ!」
「そりゃあっ!」
 お珊は声のする方にゆっくりと進んでいく。
 月明かりの下で、男と少年が木刀で立ち会っている。お珊はああ、と納得して微笑みながら眺める。すでに夫の勝成から、新免武蔵が中川志摩助の三男を養子に取って、姫路の本多家に仕官させるという話を聞いていたのだ。

 ああ、このような光景はまことに懐かしい。

 お珊は過ぎ去った日々に思いを馳せる。
 備中成羽の三村親成(ちかしげ)の館に勝成がーー当時は六左衛門と言っていたがーー居候していた頃の話である。六左衛門は時折、親成の養子である親良(ちから、親成の甥にあたる)に鑓刀の稽古をつけていた。稽古というよりは童の遊びのようだったけれど、とお珊はクスリと笑う。それに比べて、今目の前にしているのは、真剣な稽古だと感じる。

 武蔵は養子になった少年、三木之助の構えをよく見ている。
「上・中・下段の構えはしっかりしとってええのう。はじめよりも格段にようなった。ただ、まだ柄を握るときに力を入れすぎとるんじゃ、指で優しく包むようにやってみんさい」
「はいっ!」

 ふと、武蔵は女性がこちらを見て立っているのに気がつく。そして、仰天する。

 なんと美しい、妖艶な女性だろうか。

 武蔵はあまり、いや、ほとんど女性と関わることがなかった。相手にどのように見られるか分かっているので、自分から避けるようにしているのである。そのような武蔵でもハッとして見入ってしまうほど、その女性は美しかったのだ。

 お珊に気がついた三木之助がぱっと頭を下げる。
「お方様、おはようございます。もしや、うるさくて目覚めてしまわれたのでは?」
「まさか、寝所までは届いてきませぬ。それにしても、早くから精の出ることね」とお珊は笑う。
 その会話を聞いた武蔵も、慌てて居ずまいを正してきちっと頭を下げる。
「これはこれは、奥方様にお初にご対面かない恐悦至極に存じます。拙者、新免武蔵と申します」

 お珊は笑っている。
「いえ、武蔵どの、わたくしは初めてではございませんの」
「えっ、かように美しい方を見て、覚えていないはずが……」
「もうだいぶ前のことです」
「もしや、成羽にいらっしゃったのですか」と武蔵が尋ねる。
 お珊はうなずく。
 かれこれ22年前のことになる。関ヶ原の合戦の少し前に、武蔵は備中成羽にいたおとくに会いに行ったことがある。ちょうどおとくは勝成の子、長吉(勝重)を出産したばかりだった。武蔵はおとくと話をし、長吉の顔を眺めて去って行ったのである。そこから武蔵はしばらく九州で過ごすことになった。
「成羽にいらしたとき、こっそり拝見しましたの。おとくの幼馴染みはどんな方だろうって」
「それはそれは、さぞかしがっかりされたでしょう」と武蔵は頭をかく。
「いいえ、まっすぐで素敵な方だと思いました」
 武蔵は真っ赤になる。
 脇にいる三木之助は師匠であり養父になった男の動揺を見て何事かを察したらしい。そっと礼をしてその場を去って行った。

「姫路にはいつ?」とお珊が尋ねる。
「10日ほど後には」

 姫路の本多忠刻(ただとき)の元へは武蔵と三木之助の2人で向かう予定だ。それまでの間、三木之助と親子としての絆を結び、子の武芸の力を見定め指導してやらねばならない。勝成が言うような「一子相伝」が短い間でできるものではないが、基本としている部分だけでも伝えておきたいと武蔵は考えていた。それは三木之助も同じ気持ちだったようで、みずからできる限り指導してほしいと申し出てきたのだった。師弟の気合さえ合っていれば何の問題もない。突然結び付くことになったわけだが、この2人は相思相愛とみてよさそうだった。

「そう、武蔵どのと三木之助なら大丈夫。これなら、おとくも安心するでしょう」
「おとく様とやりとりをされているのですか」と武蔵は尋ねる。
「ええ、おとくとわたくしは、姉妹も同然なのよ」とお珊はうなずく。武蔵はその言葉を聞いて少し思案顔になる。そして、しばらく黙ったのちに思いきって尋ねる。
「お方様は、おとく様が再嫁されたことを、どう思われとりますんじゃろうか」
 水野勝成の最初の妻はおとくだった。
 おとくの望みで離縁することとなり、お珊が新たに正室として入ったのだ。
 お珊は白みはじめた空を見上げる。
「そうね……、武蔵様だから教えましょう。殿と初めて会ったときもおとくが一緒だったの。わたくしは狼藉ものから守ってくださった殿に一目惚れしてしまったの。気持ちはお伝えしたわ。殿も応えてくれると信じていたのだけれど……殿の気持ちを揺らしたのはおとくの方でした。ですから、わたくしは諦めることにしたの」
「そうなのですか……」と武蔵はうつむく。自分もそのようにおとくのことを諦めたので、他人事と思えなかったのだ。
「どこかの性悪女が相手ならば、私もそうはしなかったでしょう。でもおとくは本当に性根のまっすぐな優しい娘で、わたくしも大好きだった。
 でもね、おとくは優しすぎたの。わたくしの気持ちも知っていたから悩んで、そしてついにはわたくしを正室にすることを殿に認めさせて、自分は去っていった」
 武蔵はまだうつむいていたが、ぽつりと言った。
「お方さまもおとくさまも、優しすぎたのでございましょう……」
「ありがとう。武蔵どの、わたくしはこう思っているのです。おとくも殿もわたくしも皆、大切なときをともにしてきた家族で、ずっと変わることのない、かけがえのないものだと。今夫婦であるとか、そのような形ではない。諦めたり、失くしたりするものではないと思っているのです」

 お珊の言葉はたおやかに、力強く武蔵の耳に響いた。

 わしもそのように思える絆を持つことができたら。いや、すでにもう与えてもらっておるのかもしれん。

 そして、武蔵と三木之助は姫路に出発した。このときには二人とも心を通わせることができており、気兼ねもなくなっていた。藩主の勝成は江戸に呼ばれていて二人を見送ることはなかったが、道中、武蔵を兵法指南として迎えるよう諸藩に伝えておくと請け負った。
「殿、何から何まで本当に面倒をかけてしまい、礼の申しようもござらぬ」と武蔵は頭を下げた。

 勝成はニカッと笑って言う。
「またおぬしの放浪の旅が始まるんじゃのう。しかし今度は、寄る辺なく孤独な旅ではない。人もようけおって、明るいお天道様の当たる、おぬしだけのまっすぐな道じゃ。のう」

 武蔵はうん、うんとうなずくようにして、勝成の真似をして笑った。

 姫路に到着した武蔵と三木之助は藩主の忠刻はじめ家中の皆に温かい出迎えを受けた。三木助は小姓として城に入る。武蔵はすぐに出立しようとしたが、藩主の忠刻が引き留めた。彼の話が聞きたいというのである。三木之助にもう少し剣術の指導をしたいと思っていたこともあった。そこで武蔵はしばらく留まって藩主や家臣に話をしたり、小姓たちに剣術の指導をして過ごした。

 しばらく姫路に留まった後、武蔵はまた旅に出ることにした。しかしあてどもない旅でも、立ち寄る場所、戻りたい場所というのができた。なので、放浪のための放浪ではない。

 彼だけの、まっすぐな道を歩いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

処理中です...