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◼️番外編 これが武蔵の生きる道

兵法者、町もつくる

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 新免(宮本)武蔵が自身の兵法を継ぐ者として養子に取った三木之助は、主君本多忠刻(ただとき)に殉じて亡くなった。
 忠刻の正室である千姫は夫を亡くした悲嘆に暮れながら、姫路を去って江戸に帰っていった。

 自身を厚遇してくれた忠刻の死はもとより、まだ若い養子を失った衝撃が大きく、武蔵はただただ悲嘆に暮れていた。

 福山にいる三木之助の実父・中川志摩助は、「主君に殉ずることを許されるほど近くに仕えられたのはたいへん名誉なことで、幸いだっだと思う」と文を寄越してきた。中川も武蔵に負けず劣らず悲しく感じていたにちがいない。しかし、養子とはいえ初めての子を亡くした武蔵の心中を思いやってそのように書いたのである。

 武蔵は逗留している寺で中川の文を読んで涙にくれるばかりで、自身の兵法者としての未来すら考えられなくなっていた。
 その様子を耳にした姫路藩の次代本多政朝(まさとも)は、武蔵に新たな養子を取ってもらったらよいのではないかと考え、播磨の諸藩に人選を依頼した。兄の忠刻が武蔵を高く買っていたのをよく知っていたからである。
 その結果、播州の田原某の子で伊織という少年がよいということになり、明石藩の小笠原忠真(ただざね)が伊織を近習として採るという話がまとまった。

 奇しくも再び、武蔵が播州出身であることが尊重される内容になった。

 武蔵は姫路城に呼び出され、本多政朝みずから新しい養子の話をした。武蔵はありがたくその話を聞いたが、はじめは乗り気がしなかった。また一から指南を始めることが億劫になってもいたのだ。それを見越していた政朝は、「とりあえず会ってみてほしい」と伊織を呼んだ。武蔵は力なくゆっくりと少年を見た。
 快活そうな少年だと武蔵は思った。
「お初にお目にかかります。田原伊織貞次と申します。新免様のお話は播州すみずみまで広まっております。それがしもお噂を耳にし、姫路に出仕させていただきたいと父に頼んでいたのでございます。ぜひそれがしを養子に取ってくださいませ」
 ハキハキと話す少年に武蔵は圧倒されていた。
 その日は、「考えさせてほしい」と答えた武蔵だった。いったん寺に戻った武蔵の元に、また便りが届いていた。

〈生あるうちは道を行かねばならぬ。
 それが亡きものに心を尽くすことにもなるのではなかろうか〉
 水野勝成からの私信だった。
 武蔵はその文を見て、ぼうっと文を照らすろうそくの灯りを眺めていた。

 日向殿(勝成)には世話になってばかりじゃ。
 わしがしたことといえば大坂の陣で美作殿(勝成の息子、勝重)をお守りしたぐらいなのに……。三木之助の養子の件のみならず、「親藩(※1)でも名を売っておけ」と尾張藩の徳川義直公に兵法指南役としてわしを推挙してくれたこともあった。姫路でこのような厚遇を受けられるのも、日向殿の取り計らいがあってのこと。わしの道を明るいものにしようと、心を配ってくださっておるんじゃ。
 きっと日向殿も同じような恩を三村家で受けたんじゃろう。
 それにしても、これは大恩じゃ。
 ちぃとは返さんと、くたばれぬ。

 武蔵は憑き物が落ちたような、さっぱりとした気持ちになった。そして、再び姫路に赴き伊織を養子にすることを願い出たのである。

 伊織が出仕するのに伴い、武蔵は播州明石に赴いた。福山城より少し前に築城された、海を臨む城である。
 瀬戸内海の要衝、西国への抑えという役割は福山も明石も同じである。ただ、藩主の性格の違いが出るものかもしれない、と武蔵は思う。以前に街道から明石城を眺めた時に櫓(やぐら)の多い城だと感心したものだった。日向守もこれに倣ったのかもしれない。ただ、明石城に天守はない。ドカンとした黒い天守を築くところが日向守らしいところなのだ。

 明石の藩主である小笠原忠真は武蔵と伊織を文字通り両手を広げて歓迎した。
 打診を受けての登城なので嫌がられることはないだろうと踏んでいたが、あまりにも歓迎されるので、仕官する当の伊織以上に武蔵も戸惑っていた。

「殿様、もしや水野日向守が強く推挙くださったのでしょうか」
 恐る恐る武蔵が尋ねると、忠真ははて、という顔をしている。
「日向殿というよりは、美作殿(勝成の子、勝重)の方かのう。貴殿は知らぬことやもしれぬが、美作殿とわしの兄忠脩(ただなが)は上様の小姓として江戸に上がっておった。竹馬の友と言っておったんじゃ。しかし、その兄も父も大坂の陣で亡うなって、わしばかりが生き残った」
「さようでしたか……」と武蔵も伊織もうつむく。

「ああ、すると美作殿がわしに心のこもったお悔やみを申された。ともに過ごした友だから言えるようなまことに温かい言葉で、聞いとるわしは男泣きに泣くしかなかった。武蔵どの、貴殿があの大戦で美作殿の楯になって、弁慶のように敵をバッサバサとなぎ倒したというのは有名な話。義経ならぬ兄の竹馬の友である美作殿。その人を守り抜いた無双の武者、武蔵殿。わしはその話を聞いて以来、ずっと貴殿を迎えたいと思っておった」

 楯になって弁慶のように敵をバッサバサとなぎ払う……。
 弁慶は鑓じゃったかと……。
 ちぃとばかし違うような気もするんじゃが。
 確かに、武蔵が名にあるのは同じじゃが……それぐらいであろう。

 いずれにしても、明石藩主ともよい関係を築いていけるという明るい自信を抱いた武蔵だった。伊織も人に物怖じしない性格だったので、仕官するのに問題はなく、すぐに環境に馴染んでいった。
 そして藩主の小笠原忠真は他の面でも武蔵に期待をしていた。
「武蔵殿、貴殿は諸国を長く旅をしてきて広い見識をお持ちだと思う。ぜひ明石の町割(設計)にも意見をいただきたい」
 このとき、明石城は完成していたが城下町を作るのはまだまだ途上だった。山陽(西国)街道ぞいにどれほど便利な町を作ったらよいか、多くの城下町を見ている人間が必要とされていたのだ。武蔵はこの話に大いに乗り気になった。少しずつ体系化している円明流兵法を実地で指南していくのと合わせて、武蔵はこの新しい仕事にも喜び勇んで取り組んだ。

 今日まで、武蔵が町割、作庭をしたと伝えられる場所が明石に残っている。

 寛永9年(1632)、小笠原忠真は豊前小倉城に転封となった。新免伊織が主君とともに小倉に移ったことは言うまでもないが、武蔵も小倉に拠点を置くことにした。豊後日出(ひじ)で武蔵の養父・新免無二が晩年を過ごしたこともある。何よりはるか昔、関ヶ原合戦の際、豊前で黒田官兵衛・長政親子のもとで戦働きをしたのが懐かしく思い出される。

 自身の出身がどこなのか、それは武蔵にとって記録以上の意味を持たなかった。三木之助がいた姫路、伊織といる明石に小倉。自分の還る場所、故郷と言える場所はそれだけでよいのではないだろうか。
 放浪するのは潮時なのだろう。
 これからは、自分の小さな場所を持つだけでよいのではないだろうか。

 武蔵は幸せを感じていた。
 彼はこの時50歳だった。


◼️

 寛永14年(1637)の春頃、参勤交代中で江戸にいる水野日向守勝成から便りが届いた。江戸に武蔵の兵法をぜひ習いたいという者が多くいる。長居しなくてもよいが、しばらく江戸に物見遊山で来ないか。
 そのような内容だった。

 武蔵は久しぶりに勝成に会いたいと思った。何より今、自分の場所を見つけたことを報告したいという気持ちが湧き上がっていた。
 忠真と伊織に告げると、行ってきたらいいと喜んで送り出してくれた。居所のない放浪者ではない。小倉藩の兵法指南役という肩書きで堂々と赴けるのである。
 武蔵は万感の思いを持って関門海峡を船で渡っていった。

 江戸に着いて、武蔵は文で勝成に案内された備後福山藩の中屋敷に赴いた。江戸は初めてであっちへ行ったりこっちへ行ったりしていたが、ようやくたどり着く。江戸城から一里足らず、蓮の美しい池の側の大きな屋敷だった。昔ならば怯んでしまうところだが、武蔵はもう落ち着いている。

「拙者、豊前小倉藩の兵法指南役、新免武蔵と申します。こたび水野日向守様にお呼びいただき、まかりこしました」

 しかし、出てきた女性を見て、またもや武蔵は心の臓が止まるほどたまげてしまうのである。

「まことにお久しぶりです、武蔵どの。お待ちしておりました」

 目の前にいるのは、何十年経とうが見間違えることのない、おとくであった。髪の毛は武家の女性らしく結い上げており、小袖も以前より鮮やかなものを身につけて、年齢も加わっているが、おとくに相違なかった。

「おとく様、なぜここに……」
 武蔵はそれだけ、やっと口にしたが、あとはもう何も出てこない。

「ええ、それも合わせてお話したいことがたくさんございますけえ。どうぞ、お上がりくださいませ。あ、そうそう、これはまだ、大事に持っております」

 おとくはにっこりと笑って、どんぐりの詰まった袋を武蔵の前で振ってみせた。


※1 親藩……徳川家康直系の子(男子)が任された藩。小規模ながら枢要な地が与えられた。続いて譜代(永年の功労者あるいは直系ではないが血縁がある)、外様(とざま、それ以外)となる。
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