水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽

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◼️番外編 清正の妻、福山の空を見上げる

熊本城の受け取り

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  ◆肥後のお家騒動

 二代目の肥後藩主・加藤忠広はなぜ幕府から改易の沙汰を受けることになったのだろうか。ここでそれを述べておく。

 本来、改易の沙汰は初代藩主の清正の頃にもっとも危ぶまれていたことであった。
 なぜなら、清正が秀吉の子飼いの武将だったからだ。豊臣家、豊臣恩顧の武将を慎重に排除して幕府を開いた徳川家康からすれば、その息がかかった者は消えてもらうべき存在だった。そうでないにしても徳川の系譜でない、いわゆる「外様」は江戸から離れてさえいれば領地を安堵されたが、幕府の中では格下の扱いになった。薩摩の島津家などはそのよい例であろう。江戸に赴くにも、領地が遠い大名は金銭的にも人員的にもたいへんな
負担をしなければならなかった。
 外様の中でも秀吉の直臣だった福島正則、加藤清正のふたりはもっとも目を付けられていた。豊臣への恩がある彼らはいつ寝返ってもおかしくない存在とみなされていたからだ。

 ただ、清正の死は急だった。
 徳川と激しく対立する豊臣秀頼・生母淀の方の間を調整しようと奔走していた、まさにそのときに急逝してしまった。

 このとき、清正の長男・虎熊は夭逝しており、二男の忠正と三男の忠広のどちらかが跡目を継ぐかという話になった。どちらも側室の子だったが、元服したばかりの三男・忠広に家督を譲ることが決められた。
 忠正はそれを不服に思って出奔してしまう。
 このときに幕府は何かと難癖を付けて、加藤家から肥後を取り上げることができたかもしれない。しかし、そうはならずに家は存続した。

 一方、安芸・備後を任された福島正則はそうはならなかった。
 大坂の陣が終わり家康も世を去った後のこと、福島は豪雨で傷んだ広島城の修築を幕府に無断で行ったとして、改易の沙汰を受けたのである。
 これには確かに多少、福島正則の失点もあった。修繕ならば報告は後でよいだろうという気持ちもあっただろう。そこを突かれたのだ。ただ、改易はそれだけの理由からではない。福島は大坂の陣の際に大阪城に兵糧を入れていた、豊臣を援助していたという事実もあったのだ。これまでの恩があったとしても、敵に兵糧を入れたのは裏切りである。

 二代目将軍秀忠も、西国の外様大名の力を極力小さくしようと考えていた。福島正則の処断もその考えにもとずくものだっただろう。しかし、その代にも加藤家が取り潰されることはなかった。

 慶長16年(1611)以降、加藤忠広を家臣団が補佐して藩が運営される。清正の正室・清浄院(しょうじょういん、俗名かな)が後見し、側室の正応院(俗名は不詳、忠広の生母)も側にいる。そして琴姫という妻を娶り子も成した。この頃までの忠広には何の不安もなかっただろう。

 大坂の陣が終わり、忠広は江戸に常駐することになった。実母の正応院もともに赴き、以降は江戸住まいとなる。国許の熊本は留守居の家臣団と正妻のかなが在城することとなる。

 一方、かなが産んだ八十(やそ)姫は元和3年(1619年)、家康の十男・頼宣に嫁いだ。かつて家康と約束しずっと婚約中の状態であった。約束は八十が生まれた頃のものだったと思われる。
 このとき八十は勝成の養女となってから婚礼に臨んでいる。
 頼宣は駿河国を預かっていたが翌々年には紀州に移封となり、八十もともに紀州に向かった。二人は仲睦まじい夫婦となる。

 八十の輿入れは加藤家の安泰に一役も二役も買ったといってよい。もともとの約束だったとはいえ、二代将軍の秀忠が反古にすることも十分に考えられる。勝成の養女として嫁いだのも、そのための配慮だったのではないかと思われる。勝成は家康の従兄弟であり、譜代大名なのでまったく申し分ない。もちろん、かなも家康のいとこなのだが、嫁に出たら出た先の家に属するのである。

 いずれにしてもこの婚姻で加藤家は親藩の外戚となりその立場はさらに磐石になるはずだった。

 しかし、熊本の国許では不穏な空気が流れる。その契機は家臣団の不協和音だ。八十の輿入れと相前後して表面化した「事件」だった。

 元和4年(1618)年、加藤家の政務相談役を担っている棒庵という僧が幕府老中に対して目安(訴状)を提出した。
 家老のうち、加藤美作守親子と玉目丹波守が専横な振る舞いをし家中が二手に分裂しているので、詮議してほしいーーという内容だった。

 藩主不在の家中分裂である。江戸詰めの忠広は仰天し、熊本にいる公母のかなにとりなしを依頼した。かなもことが穏便に済むように取りはからったようだが、いったん幕府に訴状を出されてしまった加藤・玉目派の怒りは収まらない。
 棒庵の目安に対して今度は加藤美作が反論をし、棒庵をあしざまに罵った。そして棒庵も再び……と応酬が続き、幕府がじかに裁定しなければ始末がつかない状況になった。
 家臣団(年寄)4人と棒庵の派を「馬方」、加藤美作と玉目氏の派を「牛方」とし、このお家騒動は「牛方馬方騒動」と呼ばれることになる。馬方が馬の世話をしていたという意味ではなく、加藤右馬丞という家臣がいたからではないかと思われる。双方に加藤がいるためにそのような喩えが使われたのだろう。
 本来ならば、藩主が国許にいないこのとき、正室のかなの意見は第一に聞かれるべきものである。それで制止できないのだとすれば、単なる喧嘩以上に根が深いものだったのだろう。藩主実母の家である玉目氏の力も相当に強かったはずなので、風向きが変われば正室対側室の戦いにすり替えられていたかもしれない。

 この種の対立はどちらかに白黒をはっきりつけられるものではない。かなは騒動に関して中立を守っていたが賢明な判断だった。

 この騒動は収まらないまま、二代将軍徳川秀忠の御前で査問を受けるまでにいたる。今でいうなら最高裁まで進むより大事であった。

 そして、加藤美作と玉目氏の「牛方」が敗訴し、処分が下される。諸家御預けが26人、切腹7人、暇出し4人となる。加藤美作と玉目丹波守は御預けで、かなり寛大な処置だった。これだけの大騒ぎになり将軍の裁定まで受けたのだから、発端になった当事者には死が命じられても不思議ではない。

 加えて、藩が取り潰しになっても文句はいえないような不祥事であった。しかし、藩には厳しい咎めはなく騒動は収まった。

 これは今回の改易の理由ではない。

 沙汰があったのはこれより十数年も後だ。ただ、このときの大騒動が藩主の忠広の心を不安定にした遠因のひとつだったかもしれない。自分が江戸にいる間に国許で不祥事が起こる。自分に直接責任がなくても、周りから統治能力がないとみなされる。家臣らが自分を脇に置いているような気分にもなる。信頼ができなくなる。そのようなことである。

 江戸の忠広には他にも心配ごとがあった。
 取り巻く女性たちの不仲やあつれきである。


  ◆江戸の女性のあつれき

 肥後熊本藩の江戸屋敷には忠広の実母・正応院がいる。そして清正の最初の妻の娘である「あま姫」、忠広の正室である「琴姫」も追って江戸に入ってきた。婚姻は慶長19年(1614)だったが、途中まで肥後に在住していたのである。

 春日局が江戸城の奥を取り仕切っているように、藩主の実母である正応院は江戸屋敷の采配を取り仕切ってきたのだが、それが少しずつ変わってきた。

 将軍秀忠の養女として輿入れした琴姫の扱いは難しかった。彼女の母は家康の実の娘・振姫である(父は蒲生氏)。肥後の出である正応院からすれば格上の立場になるので、めったな扱いをすれば、ただちにとがめられる。琴姫はまずあま姫と折り合いが悪くなった。嫁と小姑のいがみ合いということになる。いつの時代にもみられる事象だが、琴姫は背中に将軍家を背負っているだけに、根本的な解決をはかるのはなかなか難しい。

 忠広と琴姫の結婚はそもそも加藤家と徳川のつながりを太くするための婚姻だった。
 それが正応院の神経に障るものにもなっていた。常に将軍家に気を使わなければならない。彼女の出自である玉目氏も牛方・馬方騒動で肥後を追われている。藩主を産んだ身でも心細く感じてもいたはずである。
 そして息子に依存する度合いが濃くなっていく。

 正応院に降りかかったのは「内」でのあつれきにとどまらなかった。庇護する寺院の絡みで、家康の側室・お万の方(養珠院)ともいさかいを持つことになってしまったのだ。お万は家康の息子を2人産んでいる。一人は徳川頼宣、もう一人は水戸徳川家の家祖徳川頼房である。つまり八十の夫の母なのだ。
 もっとも、寺社がらみの話は本人同士というより寺院の僧侶同士の宗論対決によるので、正応院に責任を負わせるには荷が重いだろう。結果、彼女が心の頼りにしていた僧は追われて信濃に去ることになる。お万の支持する僧が主流となり、正応院は苦汁を飲む結果となった。

 このような実母の苦境と国許の政事から長く離れていることなどが影響したのか、忠広の心も軌道を外れていくことになる。


  ◆忠広の不可解な行動、光正の起こした事件

 改易の沙汰が下された寛永9年(1632)より前からすでに、忠広の行動は怪しくなっていた。飲酒が頻繁になり、言動も乱暴になったと細川家の文書には記されている。その心のうちは量れないが、飲酒が悪い影響を与えていたのは間違いない。

 この年の1月末に二代将軍・徳川秀忠はこの世を去った。
 忠広はその直後に側室とその子どもたち(藤松・亀姫)を伴って、幕府に無断で肥後に帰ってしまった。
 この行為はまったくありえないものだった。
 言うまでもないが、将軍は自身の長たる人である。すべての大名家が喪に服して江戸に留まっている。しかも、幕府に何の断りもない。通常の状態でも願い出て許可を得ることは必須である。不穏だと指摘されても仕方のない行為だった。

 事態はさらに救いようのない方に向かう。

 三代将軍となった徳川家光はこの年4月に日光東照宮を詣でることになっていた。初代将軍・家康の17回忌法要と自身の将軍宣下を報告するためである。

 その直前に忠広の嫡子・光正が書いたという、家光暗殺を企てる謀書が発見されたのだ。
 日光参詣の折に家光を暗殺するべく計画を立てていたというのである。光正がひとりで思いついたことではない。この事件には駿河大納言忠長がかんでいたと幕府は考えた。

 駿河大納言、徳川忠長は家光の実弟だ。兄弟とも秀忠とお江の方夫妻の子である。しかし、この兄弟の関係はずっと険悪なものだった。

 世継ぎとして生まれ春日局に養育される家光より、夫妻は利発な忠長を可愛がっていた。じきに忠長が世継ぎになるのではないかという風評も立つ。不穏な空気が江戸城に漂い、両者の一挙手一投足に注目が集まった。
 大御所・家康の裁断で次期将軍は当初通り家光であると宣言されてこの事態は収拾した。

 しかし、このことは忠長に根深い恨みの感情を植え付けた。長じて彼は傲岸不遜の性格をあらわし、父の秀忠からも遠ざけられた。日々酒色に溺れ、禁猟地で狩りを行い、近習らをたびたび殺害するなど乱心ぶりが顕著になったといわれる。

 寛永9年春の時点で、忠長は蟄居を命じられた先の甲府にいる。加藤光正と彼が連絡を取り合っていた、または光正に家光殺害を指示したというような文書は発見されていない。あるのは光正が家光の暗殺をほのめかしたといわれる文書だけである。
 ただ忠長の意志だとしても、熊本藩の嫡子である光正がいきなり三代将軍を暗殺するというのは突拍子もない話である。
 
 大納言の関与を疑う幕府も、ことの判断には慎重の上に慎重を要した。最終的には忠長も処分しなければならないのだ。
 忠広の突然の帰国も咎めるに十分な理由だったが、将軍暗殺未遂というのは程度が甚だしく比較にならない。

 あるいは、忠広の無断の帰国がこの謀書事件に起因する可能性もないとはいえない。もしあらかじめ知っていたら、あまりのことの大きさに動転して逃げ出したのだとしても不思議はないからである。

 幕府の結論は「黒」だった。

 光正は江戸で蟄居を命じられ、泉岳寺に留まることになった。父の忠広も肥後から戻るように呼び出され、さきに述べたように、池上本門寺に留められる。



 そして、寛永9年5月29日、加藤忠広と光正親子に肥後54万石の城地召し上げと、各人の配流が下される。忠広は出羽庄内へ、光正は飛騨高山である。


  ◆熊本城の受け取り

 寛永9年7月にときを戻す。

 上使衆の一行は肥後国に入り、北部の山鹿(やまが)に到着する。山鹿はかつて、有力な国人領主の隈部氏が拠点としていた土地だ。

 勝成は山鹿の主城だった城村城(じょうむらじょう)の姿を馬上から探す。
 そして遠巻きながら、その姿が打ち壊されてすでになく、背の高い夏草が青々と生い茂る台地になっているのを見た。
 その草むらには蝶が戯れて、鮮やかに舞っている。馬をいったん止めて勝成はそれを眺める。後ろに付いている勝重は側の者に目配せして、一同に止まるように命じる。
 休憩になった。

 山鹿からは豊後日田からの石川勢も落ち合い、全軍が総結集する。そこで皆軍備を整え、熊本城に入場するのである。そのときは福山藩が先陣になるとあらかじめ決めてあった。したがって、のんびり景色を見るのもこの辺りまでが限度だろう。

「山鹿がかような場になるとはのう……」

 かつてここが九州平定と呼ばれる戦いの、もっとも大きな決戦のひとつの舞台だったことを思い出す。あれからどれぐらい経ったのだろう。
 世の中は変わり、世代も変わり、人がウンカのように取り囲んでいた城はもうなく、夏草だけが生い茂っている。

「国破れて山河あり 城春にして草木深し……」

 中国の古い詩をつぶやいて、勝成は城址に立つ。

 すると、草むらから紫に近い濃い青の、大きな蝶がふわふわと飛んでいるのが見えた。九州だけに見られる蝶なのだろうか。優雅に舞うその姿に、勝成はしばらく見とれていた。
 あれは肥後の武将だろうか。
 それとも清正か。
 そして誰にともなく「うん、うん」とうなずいてから勝重の方を見た。

「さあ、行こみゃあ」

 7月21日、一行は山鹿に到着した。ここで熊本城受け取りの次第を打ち合わせる。
 翌朝出立、熊本城へのちょうど中間にあたる植木野で別動隊とも合流する。万を越える軍勢が集まり、一路熊本城に向かう。先頭に立つのは幕府上使衆筆頭の稲葉と備後福山藩主の水野勝成である。大人数のため行列は延々と続くが植木野から熊本城までは4里(16km)もないので、さほど時間はかからない。同日午後には熊本城に至り、総勢1万3000人が城をぐるりと取り囲む。

 細川方からは場内の総意が明け渡しに応じる趣旨であると上使衆に伝わっている。しかし藩主のいない城のことである。万が一のときに備え鉄砲隊3百が各門に陣を備えた。
 一同が固唾を飲んで見守る中、熊本城の各門が重い音を立てて開け放たれた。上使衆は一礼の後、黙々と場内へ歩を進める。目指すは本丸である。
 城内には上使衆の歩む、「ザッ、ザッ、ザッ」という音しか響かない。

 何と静かなことか。

 本丸の広間には家老らを始め熊本城に勤める者が一同に座して上使衆を迎える。
 皆が座につくと、稲葉正勝が城地召し上げと藩主親子の配流の沙汰状を読み上げる。
 熊本城の一同はひれ伏し、筆頭家老が「万事承りつかまつり候」と述べ幕府の裁定に従うと述べる。

 勝成は城受け渡しの相手方に目を凝らす。
 かなの姿が見当たらない。
 不安が勝成の胸にむら雲のように押し寄せる。
 勝重はちらりと前に座す父の背中を見やって、その不安を悟る。

「さて、おそれながら、清浄院さまはどちらに」
 そう尋ねたのは勝重であった。
 勝成は軽くはねるように、背後の息子を振り返って再び前に向き直った。
 筆頭家老は静かに言う。
「別間にてお控えになっておられます」

 勝成には焦りの表情が浮かぶ。稲葉の方を見ると彼も勝成を見て深くうなずく。勝成はすっと立ち、「案内をいただけるか」と告げる。

 清浄院の控えている部屋に案内された勝成は襖の前でいったんごくりと唾を飲み込む。なぜそれほど気が急いていたのかというと、最悪の場合を思い浮かべていたからである。

 かなが自害するのではないかと思っていたのだ。

 勝成は、「失礼」と告げて襖を静かに開ける。
 そこには落飾した姿の女性が正座して目を瞑っていた。膝の前の床には脇差(短めの刀)が置かれている。

「かな、かななのか……」
 女性は目を開いて、「兄上?」と問う。
「そうじゃ、わしじゃ……」と言ったきり、勝成は胸が一杯になってしばらく言葉を継げなくなる。

「兄上、ずいぶんとお久しゅうございます。白髪はずいぶん増えたようですが、息災のご様子で何よりです」
「あほぅ、わしゃもう古稀じゃ。白髪は当たり前じゃろう」と勝成は目を涙で潤ませつつ妹に言う。

 彼女の前に置いてあった脇差にはどのような意味があるのか、勝成は聞こうと思ったができなかった。

 35年ぶりの再会が無事にかなった喜びが大きすぎたのだ。


・九州時代の勝成については本編のほか、番外編『中津城の惨劇』や『肥後の春を待ち望む』にも出てきます。特に肥後の国人一揆、柳河藩との関わりについては『肥後』をご参照ください。

・参考図書 『加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究』(福田正秀著 熊本城顕彰会)ブイツーソリューション
『江戸大名廃絶物語 歴史から消えた53家』新人物往来社編
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