水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽

文字の大きさ
65 / 89
◼️番外編 清正の妻、福山の空を見上げる

清正の道と柳河の人々

しおりを挟む

  ◆加藤清正という男

 なぜ加藤家は改易になったのだろうか。

 その理由の前に、初代藩主から少し語り起こしていこう。
 肥後熊本藩の初代藩主は加藤清正。虎退治の伝説も残る、戦国時代後期の勇将である。

 彼は小姓として幼少から秀吉(当時は木下もしくは羽柴、のちに豊臣)に仕えてきた。本能寺で織田信長が倒れた後、秀吉と柴田勝家の直接対決となった戦いで活躍し、賤ヶ岳の七本槍の一とされる。行政面でも手腕を発揮したが、以降は秀吉麾下での四国攻略・九州平定で活躍し、武将として名を上げた。その功を認められ、肥後国を半分ずつ小西行長と分けて領することになる。
 その頃はまだ隈本と呼ばれていた城を中心に清正は城下の整備を始める。
 九州平定と呼ばれる戦いで地元の国人(豪族)が反乱を起こしほとんどが処断されていた。人も土地も荒れ果ている。清正は荒れ地を耕し肥沃な大地を作ろうとしていた。そして大規模な治水工事など人手や時間のかかる大事業に取りかかった。

 その大事業は秀吉の朝鮮出兵でいったん中断した。

 朝鮮に渡海する兵站基地として九州は多大で過重な貢献を強いられた。各地から数千から万にのぼる兵を率いて、肥前から出発していく。九州の各地を任された将は領地の統治を丸々放り出すしかない。清正も小西行長も同様だった。そしてそれは断続的に6年も続いたのである。

 朝鮮出兵ーーのちに文禄・慶長の役と呼ばれるーーは豊臣秀吉の死で終結をはかることができた。そうでなければ、この時点で日本最大の外征は区切りをつけられなかったかもしれない。

 政権は、秀吉の遺児・秀頼を後継に立て、五大老・五奉行が補佐する形を取ることで維持される。しかし、五大老筆頭の徳川家康と五奉行の筆頭である石田三成の対立はいかんともしがたいものになっていた。

 慶長6年(1600)9月、ついに両者は雌雄を決することになる。
 関ヶ原の戦いである。
 この天下分け目の戦いは1日で勝敗を決し、徳川家康率いる東軍に軍配が上がる。石田三成、小西行長を始めとする敗軍の将たちは捕えられ、京都で処刑された。
 それに付随する戦闘は他の地域でも起こり、九州では収拾に時間がかかったことは記しておかねばならない。家康の側に付いた加藤清正はこのとき九州で、西軍に付いた立花宗茂(宗茂の名は後のもの)の柳河城開城や、小西行長の宇土城攻めにあたっている。

 戦後の論功行賞で清正は小西行長の領していた土地も含めて肥後一国まるまる54万石を任されることになった。清正は引き続き肥後を治めることに情熱を注いだ。

 それもつかの間、慶長16年(1611)、彼は大坂から肥後に戻る船上で体調を崩した。毒を盛られたのではないかという噂もあったが、症状じたいは脳梗塞のそれだった。何とか肥後まで持ちこたえ、人事不省に陥った。そして、家族に看取られてこの世を去った。享年49歳、誰もに衝撃を与えるほどの、突然すぎる死であった。


  ◆柳河から肥後国へ

 さて、ときをいったん進めよう。
 
 上使衆は小倉で熊本城の様子をあらかたつかむことができた。それによると、城内では籠城に出て上使衆と全面対決するつもりはなく、熊本城を明け渡すことで一致しているということだった。戦を辞さない覚悟で大挙集結した一行は少し気が抜けたような、安堵したような心持ちになっている。総司令官の稲葉正勝も張り詰めていた緊張が解けたようだ。
 城受け取りの段取りをきちんと果たすことさえ考えればいい。戦闘を回避できるのは、喜ばしいことだった。何しろ大坂夏の陣以降17年、戦らしい戦は起こっていないのだから。


 勝成は夜、外に出てひとり小倉の月を眺めていた。
 そこへ、息子の勝重がやってくる。
「殿、戦にならんのじゃったら、あまり大挙して押し寄せんでもええのじゃないでしょうや」と勝重は父親に問うてみる。
「いや、やはり皆で赴くんが肝要じゃと思う」
「相手を圧するためでしょうや」と勝重はさらに問う。
 勝成はふっと笑って、月を眺めて答える。
「加藤清正が人生をかけて育てた肥後の地を返上してもらうんじゃ。それに、ずっと在郷の家臣もおるじゃろう。いる人間皆で受け取らにゃあいかん。礼節というやつじゃ」
 勝重は納得してうなずく。
「父上は、清正公(せいしょうこう)をじかに知っとるんでしたな……」
「あやつは尾張の生まれで、わしは三河じゃ。それだけで通ずるものはあった。(肥後の)宇土城で反乱が起こったときはともに鑓を振るったで、いくさ場をともにした友じゃ。じゃけえ、肥後にはわしも並々ならぬ思い入れがある……かなもおるしのう」
「叔母上ですな。わしは会うたことがございませんが」
「わしも、嫁入りのときにしか会うとらん。いつの話か」と勝成は苦笑いする。

 勝重はひそかに叔母のかなに会うことを楽しみにしていた。もし籠城戦などになったら叔母の命も危険にさらされるので心配の方が大きかったのだが、今はそれも和らいだ。
「叔母上は開城後、どうされるのでしょう」
「かなの望みを聞いてからじゃが、とりあえずは福山に逗留してもらおうと思うとる。そこから紀州なり江戸なりに行くかもしれんな。それは、無事に城の受け渡しが済んでからのことじゃ。気を抜いたらいかんで。急に様子が変わることもある」
 勝重はうなずいて去っていった。

 勝成はその後もしばらく月を眺める。そしてポツリとつぶやく。
「わしは、肥後にえっと置いてきたもんがあるんじゃのう……」

 上使衆一行は翌日肥後に向けて出立した。小倉から肥後までは40里(160km)余り、山間を抜けて豊前街道を進んでいく。途中途中で勝成に過去の記憶が甦ってくる。彼が鑓を持って駆けていた頃のことを。
 山間を抜けて筑後に抜ける街道である。
 鳥栖、久留米、柳河、南関(なんかん)。
 南関からは肥後に入る。



 柳河では藩の一同が勢揃いし、一行を出迎える。
 勝成はふっと当時は統虎という名だった藩主・立花宗茂の姿を思い出す。このとき宗茂はほぼ江戸詰めになっていて、柳河にはいない。宗茂は先代将軍・秀忠に御相伴衆という役目を任ぜられ、以降は国許に戻ることがほぼなくなった。それでも勝成はなにやら懐かしく、きょろきょろと藩の人間を見ている。すると柳河藩留守居役の老臣がひとり、勝成を見て声をかけてきた。

「水野日向さま、拙者は柳河藩家老、由布惟次(ゆうこれつぐ)と申します。覚えておられっとか……山鹿(やまが)の附城に兵糧入れをしたときに同道した者です」※

 勝成は目を丸くして、満面の笑顔になる。
「おう、もしやあのとき立花の長老じゃった由布雪下(せっか)殿のご子息か。懐かしいのう……なにやら雪下殿によう似とる。親子じゃのう」
「親子ですからな……いや、長らえるとよいことがあるものです。まさか、ばり出世しんしゃった六左衛門殿に再びお目にかかることができるとは……」

 老臣の父、雪下はとうに鬼籍に入っている。皆、途切れなく続く戦いの日々を生き抜いてきた猛者であり、ときには敵味方に分かれても同朋だという意識があった。命を賭けて戦ってきた武士の矜持とでもいおうか。

 続いてまた、老いた男と中年の男が揃って勝成の前に出る。
「拙者、柳河藩家老の十時与左衛門(とときよざえもん、惟益)、こちらは同族の惟昌にございます」
「おう、十時……十時か! こりゃまた……摂津(連貞)はどこにいる?」と勝成はかつての鑓仲間を探して、キョロキョロと辺りを見回す。
「水野日向さま、父は今こちらに出られないのです」と惟昌が恐る恐る勝成に告げる。
「お、貴殿が摂津どののご子息か。摂津どのはいかがされた? 息災か?」
「父は脚を悪くしておりまして、今は家にて静養しとります。最近は物忘れもようしようけん……ここにはこれんやったとです」

 歳を取れば普通に現れる現象である。どんなに頭が切れようと、どんなに鑓がうまく使えてもそれは平等にやってくるのだ。それは十分に分かっているが、勝成は何ともいえない寂しさを感じていた。

 柳河藩きっての猛者、十時摂津連貞とは肥後の城に兵糧を入れる戦いで、同じ隊として鑓を振るいまくったもんじゃったが……もう昔話をするのも叶わんのじゃのう。

 勝成は、ここにしか書けないが、おいおい泣き出しそうになっていた。


 勝成が泣きそうなときにする仕草を、息子の勝重はよく知っている。場を選ぶようにはなったが、この父はとても涙もろいのだ。しかし泣きそうになる心情は理解できる。
 この頃まで勝重が父とともに戦に出たのは、大坂冬の陣と夏の陣だけである。それだけでも、父の武勇譚が口から出まかせではないことを身を持って知ることができた。大坂夏の陣の道明寺、天王寺の戦闘では鬼神のように強く、どんな敵もバッサバサとなぎ倒していく父の姿を目の当たりにし畏怖さえ覚えたものだった。50歳の父のあの姿を思えば、若い頃はさぞかし凄まじい男だったに違いない。
「殿は九州でも名が通っておるのですな」と勝重はしみじみと言う。
「ああ、しかし皆どえりゃあ歳を取った。生きとるちゅうだけでも御の字じゃ」と父は息子を見る。
「そがいいうても、九州ではいまだに六左衛門の方が高名なようです」と勝重が告げると、勝成は笑う。

「えっと通りようた道、山鹿ももうすぐじゃ」


・九州時代の勝成については本編のほか、本項番外編『中津城の惨劇』や『肥後の春を待ち望む』にも出てきます。特に柳河藩との関わりについては『肥後』をご参照ください。

・参考図書 『加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究』(福田正秀著 熊本城顕彰会)ブイツーソリューション/『人物叢書 立花宗茂』(中野等著 吉川弘文館)

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

処理中です...