水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽

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◼️番外編 清正の妻、福山の空を見上げる

鞆の津で上使を待つ

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  ◆鞆の津で上使を待つ

 備後の海の玄関口、鞆(とも)の津はこの日もささやきほどの波しか立てておらず、一帯には潮風が爽やかに吹いている。

 寛永9年(1632年)7月のことである。

 静かな海に比して、陸のほうは常ならぬ人だかりができていた。海からやってくる客を迎える仕度をしているのだ。賓客を迎える高台の屋敷は隅々まで磨きあげられ、港の商家も総出で往来の清掃に出ていた。漁師が3人、港の際に祀られている力石を持ち上げて土台から磨いている。
 これは相当な腕力がないとできない。この石を持ち上げられるのが力持ちの証である。

 石の土台までせっせと掃除するのはやや大げさにも見えるが、皆がみな、それなりに自分の役割を果たそうと懸命なようだ。
「殿はもうすぐお城からご到着のようじゃ」と往来から来た男が告げる。
「鞆どのも一緒なんじゃろう?」と誰かが聞き返す。
「ああ、藩のご一行じゃあ」
「戦になるんかのう」と通りがかりの町家から顔を出した人が言う。
「殿がおればさようなことにはならんと思うんじゃが。何しろ妹君がおるのじゃけえの」
「殿なら大丈夫じゃ。ほれ、皆持ち場に戻りんさい」と商家の年配のあるじは、パンパンと手を叩く。



 殿とは備後福山藩主・水野日向守勝成、鞆殿とは藩主の息子・水野美作守勝重のことである。
 藩を築いた勝成は福山の民にたいそう人気がある。また、勝重は奉行所の置かれている鞆に居を置いているので、この町の人々には馴染みがある。

 もっとも、この頃は江戸に出向いていることが多く、国許には不在がちになっていた。

 客は海から船でやってくる。
 それを迎えるために、備後福山藩の一行が鞆の津に現れる。

「まあ、殿もこたびばかりは気が重いお役目じゃろうのう。幕府の御上使と、戦備えで肥後に出立するんじゃけ」と商家のあるじがぽつりとつぶやく。

 その日が暮れる前に、福山藩の一行が鞆に到着する。福山城から鞆の津までの距離は3里半(14km)ほどなので、それほど時間はかからない。

 藩主の勝成はいつもと様子が変わらない。
 馬上から鞆の町の人々に気さくに声をかけている。女性が生まれたばかりの赤子を抱いているのを見つけると相好を崩す。
「おう、丸々として可愛いのう。よう育ててくれみゃあ」
「ありがとうございます。ほれ、笑ってみんさい」と女は赤子に促すが、赤子はああーんと泣き出した。
「おう、おう、元気な泣き声、結構なことじゃ」と藩主は笑っている。

 このとき勝成は69歳。息子の勝重は35歳である。「人生50年」と幸若舞を舞って散ったのは、かの織田信長だったが、勝成にそれはあてはまらないようである。まだまだ馬に乗るのは造作ないし、若い頃ほどの迫力はないがまだ槍も振り回せる。
「いつでも戦で一番槍を果たせるぞ」というのが口癖である。

 息子の勝重は父がまだまだ壮健なのを見て、安堵している。
 この頃の常識的な考えでいえば、69歳にもなったらとうに家督を譲って隠退するものである。しかし、父に限ってはその習いがあてはまらないようだ。自身が50過ぎて立藩した福山の町がきちんと成長するまで見届けたいという使命感もあるだろう。

 いや、隠退云々という話ではない。そもそも父は常道というものを大きく外して生きてきたのだ。寿命を大きく外してもさほど不思議ではない。
 「裃(かみしも)は少し暑いのう」
 そう呟いて、勝重はしばしもの思う。

 そもそも今の自分の歳の頃、父は水野の実家から追い出された、あてどない放浪者に過ぎなかった。それだけならまだいいが黒田長政に憎まれ、追手を出されて逃亡する身だったのだ。
 放浪の末、備中の三村家の食客として世話になっていた父は、そこにつとめる娘に惚れ込んで……わしが生まれた。

 勝重は馬上の父の背中を眺めてふっと思う。
 それから潮の薫りに鼻をくすぐられている。

「ときの経つのはあっという間じゃのう」

 父がポツリとつぶやくのを息子は確かに聞いた。

「あっという間でしょうや」と無意識に返す。
「のう。わしが黒田の船から逃げ出したのはもう……どれぐらいじゃ」
「わしゃ生まれとりませんが、40年ほど前ではないでしょうや」と息子が苦笑して言う。
「ああ、そんなになるんかいのう。すると、かなに会うのも35年ぶりっちゅうことなんか……」と勝成はつぶやく。


  ◆肥後熊本に一行は向かう

 翌日、幕府からの船団が港に入る。彼らは大阪まで陸路をたどり、そこから船に乗ったのである。一団の総勢は先行したのが4000ともいわれる(追って3000)。船も相当な数で鞆の津ではかなり窮屈なように見える。福山から出る船も控えているのだ。陸からは渡し舟を出して、一行を続々と陸に上げていく。大忙しだ。
 荷揚げの様相を呈しているかもしれない。

「おう、遠路はるばるようお越しくだされた。ほんのわずかなひとときじゃが、今宵は鞆でゆるりとお過ごしくだされ」
 勝成と勝重は上使衆の正使である稲葉丹後守正勝をうやうやしく出迎える。そしてすぐにこれからの行程について綿密な打ち合わせに入った。これには勝重も加わる。

 稲葉丹後守は勝重と同じ年齢、30代半ばだ。勝成から見ればまだまだ若い。
 彼は三代将軍・徳川家光の乳母、春日局の実子である。その関わりで幼い頃から家光の小姓として仕え、幕府でも重きを置かれていた。勝重も幼少の頃にしばらく江戸へ小姓として上がっていたので、稲葉のことは知っている。
 春日局は徳川家康に任ぜられて家光の乳母になった人物なので、江戸城の奥における権勢はことのほか強かった。だが、稲葉はそれをかさに着るようなこともなく、篤実な少年だった。
 ときは流れる。
 将軍を譲って大御所になっていた徳川秀忠はこの年の早春に薨去した。将軍が徳川家光になったとき、稲葉は幕府の老中に任命されていた。いわゆる幕府の大物である。

 その「大物」がなぜはるばる江戸から下ってきたのか。福山藩の一勢を引き連れて、どこに行こうとしているのか。

 肥後熊本である。

 この年の5月22日、2代目肥後熊本藩主の加藤忠広が江戸城への出入りを禁じられ、その翌日市中の外にある池上本門寺に留め置かれた。そして、稲葉正勝が彼に正式に幕府の決定を伝える。

 熊本藩主・加藤家に改易の沙汰に処す、という決定である。
 このとき忠広の生母である先代の側室・正応院は熊本藩の江戸屋敷に居住していたが、改易を受けて同様に留め置かれる。忠広の嫡男・光正も謹慎の身となっている。
 一様に幕府の通達を静かに聞いた。

 江戸にいる3人はただちに配流先に出立する。藩主・忠広と生母・正応院は出羽庄内へ、嫡男・光正は飛騨に向かうよう命じられた。わずかな供を連れて、江戸屋敷をすべて明け渡しての出立である。

 それが6月初旬のことだった。

 なぜ加藤家が改易に至ったかは後にしるす。

 江戸での処分通達は万事済み、続いてなすべきは肥後熊本城の明け渡しである。

 簡単に事実のみを書いたが、熊本は石高50万石を超える外様の大藩である。
 江戸屋敷の規模も大きいが、国許はさらに巨大なのである。江戸の沙汰は無事に済んでも、肥後には大勢の家臣郎党がいる。改易に反対して城を死守しようと籠城することも考えられるのだ。
 当主が別の家に変わるということは、自分たちの明日の食い扶持がなくなるという意味である。悪くすれば浪人、運良く次の仕官先が決まったとしても、肥後ではなくはるか遠くの見知らぬ土地になるかもしれない。
 これまでの生活を失いたくないと思えば、抵抗するほかに道はないのである。

 国許の家臣らがそのように考えるだろうということは幕府側でも承知していた。戦備えで大挙して肥後に向かうのはそのような事情によるものであった。そこに備後福山藩が加わるのは、主に2つの理由による。

 そのひとつは、備後福山藩が譜代大名の藩で、西国の抑えとして位置付けられていたからである。全国の各藩は幕府によって、親藩(初代将軍徳川家康の子および孫が担う)、譜代藩(家康の縁戚かその代から功労のある直臣の直系が担う)、外様(その他の大名)の3つに分けられていた。
 福山藩主・水野勝成の父と家康の母はきょうだいである。勝成は長く放浪していた時期があって品行方正とはいえなかったものの、帰参して以降は家康に従い緒戦で功を上げてきた。そして、家康の時代は三河刈屋藩、大和郡山藩を預けられ、2代将軍秀忠の治世で備後福山藩という新藩を立ち上げることを許された。
 
 ふたつは、熊本藩に在城している初代藩主・加藤清正の正室・かな(清浄院ーしょうじょういん)が勝成の実の妹だからである。熊本藩の家臣らが籠城を構えるような状況になったとき、かなと勝成で交渉することができる。戦闘になる事態は稲葉としても絶対に避けたかった。かなの実兄で、「鬼日向」との別名がある勝成ならば収拾をはかる力強い武器になるかもしれない、と幕府は踏んだのである。もちろん、文字通りその武力にも期待をかけていた。

 勝成および福山藩はそのような事情で担ぎ出されたわけだが、当の藩主は最悪の事態になったときのことをおぼろげに想像して、たまらない気持ちになっていた。

 妹のかなが不憫で、不憫で仕方なかったのである。


  ◆上使衆、小倉へ

 7月10日頃、幕府上使の稲葉正勝と備後福山勢の一行は、鞆の津を船で出立した。ここから豊前小倉に行き、別動隊と合流するのである。上使衆の面々は以下の通りである。
 豊後日田藩・石川主殿頭忠総、陸奥磐城平藩・内藤左馬助政長、幕府勘定奉行・伊丹播磨守康勝、備後福山藩・水野日向守勝成、そして稲葉丹後守正勝の5人である。大名でないものもいるが、みな譜代の立場である。彼らのうち石川を除いて、小倉にいったん集結することになっている。

 この勢力だけでもたいそうなものだが、九州でもさらなる備えを構えていた。幕府老中の指示に従い、小倉藩の細川左少将忠利、福岡藩の黒田筑前守忠之、佐賀藩の鍋島信濃守勝茂らの外様大名勢もそれぞれの土地で臨戦態勢を取っている。

 先行した稲葉の一行が7月12日、福山勢が7月13日、内藤の一行が14日と続けて小倉に到着した。今度は小倉の津が大混雑になる番だった。じかに陸路肥後に向かう日田の石川勢も小倉に馳せて来たら、城下は立錐の余地もなくなっていただろう。

 小倉藩細川家では熊本藩の動静についてさりげなく探索を入れており、小倉の忠利と江戸の忠興の間でやりとりが頻繁に繰り返されている。年少の忠広が家督を継いで以降、小倉は幕府名代の目付のような役割をしていた。江戸であれ国許であれ、肥後の動向は幕閣に逐一報告されていた。
 このとき上使衆を大々的に迎えるのも、九州の玄関口にあるからというだけではないようだ。
 
 小倉藩の主従が応対に追われているのを見ながら、水野勝成は小倉城の姿をじっくりと眺めた。それは彼の記憶より、はるかに優雅な佇まいを見せている。

 小倉城はこのような城ではなかったのう。
 勝成は心のうちでつぶやき、頭の中で当時の像を描こうとする。在りし日の小倉城、そこには懐かしい顔がいくつもあった。人とともに当時の城の姿も浮かんできた。記憶が強烈に戻っているようだった。
 黒田孝高(官兵衛)と黒田長政親子、小早川隆景、吉川広家……今はもうこの世にいない者たちの顔が次々に浮かぶ。
 それはもう、45年も前のことだった。
 豊臣秀吉の命による九州平定の戦いが各所で繰り広げられていた頃である。勝成は放浪しつつ、秀吉麾下の将のもとで客分、遊軍として働いていた。そのため九州に関わりのある武将とは何かと縁があるのだ。

 45年か……と勝成は思う。

 もう、ほとんどが鬼籍に入った。同じ年頃の長政や広家が逝ったときには、いろいろあっただけにどえりゃあ淋しくなったもんだで。

 20代の頃を思い出して、20代の言葉でつぶやいてみるのだった。

 しかし今、我にかえって周りを見回すと大半がずいぶん若い者ばかりのように思える。勝成は自分の知己の人間を次々と思い浮かべてみる。

 今回福岡藩は領内に留まっているが、彼の旧知で藩の家老である黒田一成はまだまだ現役で活躍していると聞いた。若者の中に埋もれると付いていけないような歳にはなったが、活躍している同朋がいるということは老いた身に力を与えてくれる。まだまだ弱気にはなれまいと勝成は思い直す。

 勝成にとって、肥後行きは自身の来た道を振り返る道でもあった。
 ここからさらに、彼は若い頃の自分と再び出くわすような気分になるのだ。


・参考図書 『加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究』(福田正秀著 熊本城顕彰会)ブイツーソリューション
 
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