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居候、成羽の水に馴染む
長八としのの仇を討つ
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<ご注意ください>今回のお話には残酷な表現、暴力的な表現が一部含まれています。
あらかじめご了承ください。
「おぬし、まだ六左衛門を追わせておるのか。もう五、六年も前のことやないか」
ところは豊前中津城である。黒田長政の部屋に父が入ってきた。
宇喜多秀家の書状を目にした黒田官兵衛孝高が息子にひとこと言わねばとやってきたのである。
六左衛門の追跡は吉川広家の意向もあり中止するとの内容である。屑かごに捨てられていた書状をたまたま女中が乱雑に始末しており、それを官兵衛が目にしたのである。
長政は憮然とした顔で答えた。
「あの男は虫が好かないのでござる」
「元はといえば、おぬしが主君の風を笠に着て、恥をかかせたから逃げたのであろう。それに、今は再び唐入りを待つ身。些事にこだわってはならぬ。いいかげんにしておけ」
穏やかに諭しながら、内心官兵衛は嘆いた。
小さき男よ。軍師として緒戦で働いてきた父には負けんという意地か反動か、長政は武勇一番を常に目指している。さきの文禄の役でも隊を率いて堂々たる戦いぶりだった。それはよいのだが、好き嫌いが顕著で、人に軽んじられると激高し徹底的に叩きのめす。目上の年長者にはとことん尽くすが、目下の扱いは冷たい。俗にいう「外面がよい」ということだ。目上から見れば、御しやすい家来になるが、人望が厚いとはいえない。六左衛門のことにしてもそうじゃ。彼が暴れ者なのはその通りだが、人間としての情の篤さは息子とは比べ物にはならない。
しかし、それはわしにも責任がある。
官兵衛が長政を徹底的に叱れないのには理由があった。
はるか昔、織田信長の播磨攻めのさなか、信長に謀反を起こした荒木村重の説得にあたるため、官兵衛は村重の有岡城に入った。そのとき息子の長政は織田に人質にとられている。官兵衛は真剣に交渉にあたったものの、村重の説得に失敗し幽閉されてしまった。その期間は一年の長きに及んだ。
一年である。業を煮やした織田信長は官兵衛が寝返ったものと憤り、人質長政の成敗を命じた。
しかし、長政は命拾いした。
すんでのところで竹中半兵衛が長政を救い出し領地に匿まったのである。それどころか、長政と同じ年頃の子供の首を長政のものだと言って信長に送ることまでしたのだ。
官兵衛が長い幽閉で歩くことさえままならなくなりながら、よろよろと太陽の下に出て思ったことは家族の、何より人質に出した長政の身であった。
無事であると知り、涙を溢れさせながら息子に再会したとき、官兵衛は仰天した。
せがれは変わった。有岡城に向かう前に見た、素直で明るい子どもの面影がもうどこにもない。眼光がやたらと鋭く鼻っ柱ばかり強くなっていた。人質の暮らしの中で、父が自分を裏切ったという疑心にまみれて、あれの心にいびつなものが生じたのだとしか思えない。
それはわしのせいなのじゃ。
官兵衛は思い出している。
六左衛門か、あやつもカッとしやすいたちだった。
黒田家を出た直接の理由はささいなことだった。太閤殿下の元へ参じるため、船で堺まで行く途上のこと。長政が戯れに六左衛門に船の帆をかけさせようとした。その心得のないのは全員分かっているから、ただ恥をかかせようとしたに決まっている。しかし、剛胆さでは六左衛門が上だった。帆を抱えて柱にどんどん上り、てっぺんから大声で叫んだ。
「掛け方がちぃとも分からんで、適当にするぞ」
適当に帆をかけたらどうにもならない。今度は漕ぎ手やら他の人間が青くなった。結局、同行していた黒田家中の後藤又兵衛基次が長政をなだめ、その場はおさまった。
後藤は黒田十二将の筆頭に立つ重臣、その武勇で広くその名を知られていた。その又兵衛が黒田家の中で唯一六左衛門を高く買っている。二人は似たところがあった。長政はまたそれが気に入らないのである。
一同は主の手前黙っていたが内心六左衛門の剛胆ぶりを賞賛した。長政は狙いが外れたことに内心地団駄を踏み、今度は船を操るよう命じた。六左衛門はかなり憤慨したようだが、それでも黙って他の者とともに船を操る手伝いをしていた。その頃には堪忍袋の緒が切れていたのだろう。次に停泊した備後鞆の津で船を降り、そのまま逃げた。
長政は六左を完全に服従させたかったのだ。又兵衛が肩を持ったのが火に油だった。しかし、全ては長政の嫉みゆえじゃ。浅ましく馬鹿なことをしたものだ。
いや、六左衛門と長政が袂を分かつことになった根はもう少し深い。
いずれにしても、それを腹に据えかねて未だに六左衛門を追わせるなど、陰湿で始末に負えない。もうそんなことをしている場合ではないと分からないのか。
官兵衛はため息をついて、息子の部屋から退出した。
官兵衛によれば「情が篤い」と評価されている六左衛門は、冬の備中で温かく過ごしている。しかし冬の朝は誰にとっても凍えるほど寒い。
如月の凍えるような朝、おとくは炊事など中の仕事を終えると麦踏みに出かけた。これは小さい頃からの習慣で、外に出る機会の減る冬のささやかな楽しみでもあった。
「おとく、今日はお天道さんも出んけえ、早よ戻ってきんさい」
きよが後ろから声をかける。
「はい、わかりました」とおとくは蓑を付けて、笠を手に取る。
おとくが出て少し後に、おさんが顔を出した。
「おとくは麦踏みに出たの? 早いのね」
きよはにこにことうなずいた。
「あの娘は麦の神様のお使いでしょうや。今に近在の麦畑を全部踏んでしまいますなあ。年寄りなんかは麦踏みもえらいことですけ、皆喜んどりますよ」
「わたしも様子を見に行こう」とおさんが弾んだ調子で言う。
おきよは大仰にかぶりを振った。
「きょうは小雪がちらついとります。お嬢さまはお身体に障りますけん」
おさんはにこりとして言った。
「暖かくして、笠をかむっていくから」
「はぁ、でも気をつけてくださいませ」
きよはため息をついておさんに笠をとってやった。その様子を通りかかった六左衛門が見て言った。
「おとくもおさん殿も朝から出かけるんか。精がでるもんじゃ。わしゃさぶうてかなわん。また、布団に戻るかのう」
きよがたしなめてぴしゃりと言う。
「怠けとったらいけんよ。六左殿も麦踏みしてみんさい。女子ふたりばかりで行かせるんですかいや」ときっと六左衛門をにらんだ。
「承知っ、きよにはかなわん。くわばらくわばら」
六左衛門は綿入れを着込んで麦畑に急いだ。吐く息が白い。
おとくはのう、麦踏みが道楽とは全く殊勝なもんじゃ。一人ごちていると村人とすれ違った。
「こりゃ三村様の。おはようございます。見回りでございますか」
「はい」と六左衛門が答える。
「六左衛門様がいらしてから、この辺りもずいぶん平穏になりました」と村人は明るく告げる。
「いや、そんな」と謙遜する六左衛門を見て、村人は笑う。
「悪さをする子らぁにも、いい加減にせんと鬼の六左が懲らしめに来ると言うとります。てきめんですわ」
六左は苦笑した。鬼か、鬼っちゅうんは戦の時ぐらいしか役に立たぬ。麦踏みが得意な方がよほど人のためじゃ。
「いや、平和なんが何よりですけぇ。鬼は麦踏みに行くばかりですんじゃ」
「全くありがてぇことじゃ。おとくさんも日が出る前から毎日畑に出て、誰に頼まれたわけでもない。えらいことじゃが、いつもにこにこしとる」
「ええ、あの娘はいつもそうです。それでわしも働かされとるんじゃ」
村人はかっかっかと笑った。
「まるで嫁の尻に敷かれとる亭主じゃ。まあ、ようおつとめくんさい」
六左は村人を見送りながら、白い息を長く吐いた。わしも帰参して、みんなが快く迎えてくれて、本当に過ぎたことじゃ。こんな平穏な日がずっと続くなら、どんなにええことじゃろう。しかし、今朝のような寒い日も皆が一生懸命働いていることを考えると、今の自分の立場は中途半端のように思えて仕方ない。居候も長くいるならば、それなりの礼を考えなければならぬのではなかろうか。
後刻、麦踏みの礼にと、村人が屋敷に酒徳利を何本も持参してきた。
今年はいい酒ができたと誇らしげである。その徳利の束を見て、六左はふと思いついた。
「お屋形様、この徳利を一本もらうわけにはいかんじゃろうか」
「これはおとくがもらったもんじゃ、わしも戴きたい時はおとくの許しを得んとな」と親成がにやにやして言う。
おとくはびっくりしている。
「何をおっしゃいます。こちらはお屋形様にいただいたものですから」
六左衛門は笑いながら言う。
「炭焼きの長八のところに持っていってやろうかと思うてのう」
親成も同意したようにうなずく。
「おう、持っていってやりゃあええ。何しろおぬしの命の恩人じゃけえの」
六左衛門が馬に乗って走り出すと、月が昇っていた。雪は止んで晴れてきたようだ。しかし本当に凍えるような夜である。このような日は道も凍る、急ぐか。
走り続けて長八のあばら家に着くと、何かおかしいことに気がついた。
灯りが点いていない。留守か。
そのくせ、木の扉はかすかに開いている。こんな寒い日にである。
「まさか……」
六左衛門が刀を抜き近づくと植え込みの影から男二人が飛び出してきた。
長八ではない。
六左衛門は相手の顔をそれ以上改めることなく瞬時に斬り伏せ、家屋に飛び込んだ。開け放たれた木の扉から指す月の光が冷たく差し込んで、中がほの明るく照らされた。
はじめに目に映ったのは、投げ出された男の両足だった。六左衛門は奥に目をやった。男が何かにまたがって息荒く腰を振っているのが見える。脇にはもうひとりの男が自分の一物を握り手を激しく動かしている。
「外道めっ!」
六左衛門はためらうことなく、刀を上段に構え、またがっている方の男の背に力一杯に振りおろした。
「ぎゃあっ!」
その声で我に返ったもうひとりが、脇にある短刀を掴む間もなく、返す刀が男の半身を切り裂いた。返した刀で斬った男が声もなくどさっと倒れた。六左衛門はまたがった姿勢のまま、けいれんしている男を思いきり蹴り落とした。そして叫んだ。
「しの、しのっ、六左衛門じゃっ」
返事はない。六左衛門はしのの痩せた身体を抱き、露わになった乳房に耳をあてた。動いていない。心臓も脈も止まっている。目を移すと、月の灯りだけでもはっきり分かるほど、しのの顔は腫れ上がっていた。まだぬくもりの残る頬を撫でながら、六左衛門はめまいがするほど激しい憤怒を覚えた。
死ぬまで殴られながら陵辱され、さらに死んだ身体を犯されていたのだ。彼は叫んだ。
「うおぉおおーっ」
六左衛門は憤怒のあまり息を荒げながらも、しのを床に横たえ寝間着を合わせてやった。その時、後ろで腹を斬られた男が哀れな声を出した。
「うう、助け……」
六左衛門は爆発した。その後は覚えていない。
気がつくと、その男は脳漿も腸も分からないほどずたずたに裂かれ、赤い屍となっていた。
長八は戸の手前で腹や胸を何カ所も刺されて死んでいた。
鍬や匕首(あいくち)を使った跡はない。防戦する間もなく襲われたのだ。六左衛門は長八を抱えてしのの隣に横たえた。
しばらく両手を合わせると、あとは何もする気になれなかった。
外に出ると、月だけが冷たく輝き続けている。雪はいつ止んだのか、六左衛門は覚えていなかった。見ると、持参した酒徳利が軒下にごろんと転がっている。
備前の徳利は放り投げてもびくともしない。
その頑丈さが屍になったふたりの脆さと交錯した。
六左は家の脇の木に自ら思い切り頭突きをくらわせた。何度も何度もぶつけた。額から血が流れて目に入る。涙が混じり、顔中が赤く染められても、六左は止めなかった。
翌朝、幽鬼の形相で戻った血塗れの六左衛門を見て親成は仰天した。
「炭焼きの長八としのが賊に襲われて、死んだ」と六左衛門は独り言のように言った。
「おまえが賊を成敗したんか」
六左衛門はこくりとした。親成は目をぎゅっと閉じ、唇を噛んだ。そしてすぐに長八の家に人を走らせた。
「六左、すぐに血を洗い流し、休め。後はわしがやる」と親成が告げる。
六左衛門にはその声が届かない。
「ああ、わしがもう少し、もう少し早よう行けば、二人ともあんな、あんな惨い目に合わずに済んだんじゃ。あんな……」と六左衛門は膝をがくりとついて、頭をかきむしった。
「分かっとる。分かっとる……今は考えるな」
「わしは、わしはああああああっ」
六左衛門は地に伏して、地を叩いて嗚咽を上げた。
おさんはその姿を見て、凍り付いたように立ち尽くしていた。確かに血塗れのその姿は誰もが怖じ気づく異形であった。
おきよは、「早くさらしをたらいの水に浸して、持っといで」と小声で言い、台所におとくを走らせた。この場で一番冷静だったのは、おきよだっただろう。おとくが大きなたらいに湯水を張って持ってくると、おきよはためらうことなく六左に立ち上がるよう促して、着物を脱がせはじめた。
「おとく、顔を拭いてあげんさい」
おとくは濡らしたさらしの端切れを手に、六左衛門を見た。額が腫れあがり、傷だらけで、ぱっくりと割れている。血はもう止まっている。顔は血と汗と涙でどろどろになっていた。
その目は宙を舞うように空っぽである。
おとくは彼がひどく憤っているのとともに、大事な人を喪ったことにたいへんな衝撃を受けていることがわかった。
そのうち、六左衛門の瞳がおとくの姿を認めた。
その瞳はおとくをとらえたまましばらく静止したままになった。
おとくもずっと彼の瞳にとどまった。
少しして、六左衛門は目をつむった。それを合図にして、おとくは布でおそるおそるその顔を丁寧に、撫でるように優しく拭いていく。拭いて新しい端切れに換え、拭いては換えた。
長八夫妻の葬儀は親成が手配し、しめやかに行われた。飲んでもらうはずだった備前徳利の酒も供えられていた。
親成は夫妻を襲った男どもを成敗した勝成を慰めた。
「おぬしが仇を打った。野放しにしとったら、同じような目に遭う者がまだ出たかもしれん。成羽で狼藉を働けば、どんな報いが来るか、知らしめることにもなった。近在の者も皆感謝しとるけえ、もう自分を責めるな」
「いくらあやつらを八つ裂きにしても、二人はもう戻ってきゃせんのじゃ」
六左衛門が言える言葉はそれしかなかった。
あらかじめご了承ください。
「おぬし、まだ六左衛門を追わせておるのか。もう五、六年も前のことやないか」
ところは豊前中津城である。黒田長政の部屋に父が入ってきた。
宇喜多秀家の書状を目にした黒田官兵衛孝高が息子にひとこと言わねばとやってきたのである。
六左衛門の追跡は吉川広家の意向もあり中止するとの内容である。屑かごに捨てられていた書状をたまたま女中が乱雑に始末しており、それを官兵衛が目にしたのである。
長政は憮然とした顔で答えた。
「あの男は虫が好かないのでござる」
「元はといえば、おぬしが主君の風を笠に着て、恥をかかせたから逃げたのであろう。それに、今は再び唐入りを待つ身。些事にこだわってはならぬ。いいかげんにしておけ」
穏やかに諭しながら、内心官兵衛は嘆いた。
小さき男よ。軍師として緒戦で働いてきた父には負けんという意地か反動か、長政は武勇一番を常に目指している。さきの文禄の役でも隊を率いて堂々たる戦いぶりだった。それはよいのだが、好き嫌いが顕著で、人に軽んじられると激高し徹底的に叩きのめす。目上の年長者にはとことん尽くすが、目下の扱いは冷たい。俗にいう「外面がよい」ということだ。目上から見れば、御しやすい家来になるが、人望が厚いとはいえない。六左衛門のことにしてもそうじゃ。彼が暴れ者なのはその通りだが、人間としての情の篤さは息子とは比べ物にはならない。
しかし、それはわしにも責任がある。
官兵衛が長政を徹底的に叱れないのには理由があった。
はるか昔、織田信長の播磨攻めのさなか、信長に謀反を起こした荒木村重の説得にあたるため、官兵衛は村重の有岡城に入った。そのとき息子の長政は織田に人質にとられている。官兵衛は真剣に交渉にあたったものの、村重の説得に失敗し幽閉されてしまった。その期間は一年の長きに及んだ。
一年である。業を煮やした織田信長は官兵衛が寝返ったものと憤り、人質長政の成敗を命じた。
しかし、長政は命拾いした。
すんでのところで竹中半兵衛が長政を救い出し領地に匿まったのである。それどころか、長政と同じ年頃の子供の首を長政のものだと言って信長に送ることまでしたのだ。
官兵衛が長い幽閉で歩くことさえままならなくなりながら、よろよろと太陽の下に出て思ったことは家族の、何より人質に出した長政の身であった。
無事であると知り、涙を溢れさせながら息子に再会したとき、官兵衛は仰天した。
せがれは変わった。有岡城に向かう前に見た、素直で明るい子どもの面影がもうどこにもない。眼光がやたらと鋭く鼻っ柱ばかり強くなっていた。人質の暮らしの中で、父が自分を裏切ったという疑心にまみれて、あれの心にいびつなものが生じたのだとしか思えない。
それはわしのせいなのじゃ。
官兵衛は思い出している。
六左衛門か、あやつもカッとしやすいたちだった。
黒田家を出た直接の理由はささいなことだった。太閤殿下の元へ参じるため、船で堺まで行く途上のこと。長政が戯れに六左衛門に船の帆をかけさせようとした。その心得のないのは全員分かっているから、ただ恥をかかせようとしたに決まっている。しかし、剛胆さでは六左衛門が上だった。帆を抱えて柱にどんどん上り、てっぺんから大声で叫んだ。
「掛け方がちぃとも分からんで、適当にするぞ」
適当に帆をかけたらどうにもならない。今度は漕ぎ手やら他の人間が青くなった。結局、同行していた黒田家中の後藤又兵衛基次が長政をなだめ、その場はおさまった。
後藤は黒田十二将の筆頭に立つ重臣、その武勇で広くその名を知られていた。その又兵衛が黒田家の中で唯一六左衛門を高く買っている。二人は似たところがあった。長政はまたそれが気に入らないのである。
一同は主の手前黙っていたが内心六左衛門の剛胆ぶりを賞賛した。長政は狙いが外れたことに内心地団駄を踏み、今度は船を操るよう命じた。六左衛門はかなり憤慨したようだが、それでも黙って他の者とともに船を操る手伝いをしていた。その頃には堪忍袋の緒が切れていたのだろう。次に停泊した備後鞆の津で船を降り、そのまま逃げた。
長政は六左を完全に服従させたかったのだ。又兵衛が肩を持ったのが火に油だった。しかし、全ては長政の嫉みゆえじゃ。浅ましく馬鹿なことをしたものだ。
いや、六左衛門と長政が袂を分かつことになった根はもう少し深い。
いずれにしても、それを腹に据えかねて未だに六左衛門を追わせるなど、陰湿で始末に負えない。もうそんなことをしている場合ではないと分からないのか。
官兵衛はため息をついて、息子の部屋から退出した。
官兵衛によれば「情が篤い」と評価されている六左衛門は、冬の備中で温かく過ごしている。しかし冬の朝は誰にとっても凍えるほど寒い。
如月の凍えるような朝、おとくは炊事など中の仕事を終えると麦踏みに出かけた。これは小さい頃からの習慣で、外に出る機会の減る冬のささやかな楽しみでもあった。
「おとく、今日はお天道さんも出んけえ、早よ戻ってきんさい」
きよが後ろから声をかける。
「はい、わかりました」とおとくは蓑を付けて、笠を手に取る。
おとくが出て少し後に、おさんが顔を出した。
「おとくは麦踏みに出たの? 早いのね」
きよはにこにことうなずいた。
「あの娘は麦の神様のお使いでしょうや。今に近在の麦畑を全部踏んでしまいますなあ。年寄りなんかは麦踏みもえらいことですけ、皆喜んどりますよ」
「わたしも様子を見に行こう」とおさんが弾んだ調子で言う。
おきよは大仰にかぶりを振った。
「きょうは小雪がちらついとります。お嬢さまはお身体に障りますけん」
おさんはにこりとして言った。
「暖かくして、笠をかむっていくから」
「はぁ、でも気をつけてくださいませ」
きよはため息をついておさんに笠をとってやった。その様子を通りかかった六左衛門が見て言った。
「おとくもおさん殿も朝から出かけるんか。精がでるもんじゃ。わしゃさぶうてかなわん。また、布団に戻るかのう」
きよがたしなめてぴしゃりと言う。
「怠けとったらいけんよ。六左殿も麦踏みしてみんさい。女子ふたりばかりで行かせるんですかいや」ときっと六左衛門をにらんだ。
「承知っ、きよにはかなわん。くわばらくわばら」
六左衛門は綿入れを着込んで麦畑に急いだ。吐く息が白い。
おとくはのう、麦踏みが道楽とは全く殊勝なもんじゃ。一人ごちていると村人とすれ違った。
「こりゃ三村様の。おはようございます。見回りでございますか」
「はい」と六左衛門が答える。
「六左衛門様がいらしてから、この辺りもずいぶん平穏になりました」と村人は明るく告げる。
「いや、そんな」と謙遜する六左衛門を見て、村人は笑う。
「悪さをする子らぁにも、いい加減にせんと鬼の六左が懲らしめに来ると言うとります。てきめんですわ」
六左は苦笑した。鬼か、鬼っちゅうんは戦の時ぐらいしか役に立たぬ。麦踏みが得意な方がよほど人のためじゃ。
「いや、平和なんが何よりですけぇ。鬼は麦踏みに行くばかりですんじゃ」
「全くありがてぇことじゃ。おとくさんも日が出る前から毎日畑に出て、誰に頼まれたわけでもない。えらいことじゃが、いつもにこにこしとる」
「ええ、あの娘はいつもそうです。それでわしも働かされとるんじゃ」
村人はかっかっかと笑った。
「まるで嫁の尻に敷かれとる亭主じゃ。まあ、ようおつとめくんさい」
六左は村人を見送りながら、白い息を長く吐いた。わしも帰参して、みんなが快く迎えてくれて、本当に過ぎたことじゃ。こんな平穏な日がずっと続くなら、どんなにええことじゃろう。しかし、今朝のような寒い日も皆が一生懸命働いていることを考えると、今の自分の立場は中途半端のように思えて仕方ない。居候も長くいるならば、それなりの礼を考えなければならぬのではなかろうか。
後刻、麦踏みの礼にと、村人が屋敷に酒徳利を何本も持参してきた。
今年はいい酒ができたと誇らしげである。その徳利の束を見て、六左はふと思いついた。
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おとくはびっくりしている。
「何をおっしゃいます。こちらはお屋形様にいただいたものですから」
六左衛門は笑いながら言う。
「炭焼きの長八のところに持っていってやろうかと思うてのう」
親成も同意したようにうなずく。
「おう、持っていってやりゃあええ。何しろおぬしの命の恩人じゃけえの」
六左衛門が馬に乗って走り出すと、月が昇っていた。雪は止んで晴れてきたようだ。しかし本当に凍えるような夜である。このような日は道も凍る、急ぐか。
走り続けて長八のあばら家に着くと、何かおかしいことに気がついた。
灯りが点いていない。留守か。
そのくせ、木の扉はかすかに開いている。こんな寒い日にである。
「まさか……」
六左衛門が刀を抜き近づくと植え込みの影から男二人が飛び出してきた。
長八ではない。
六左衛門は相手の顔をそれ以上改めることなく瞬時に斬り伏せ、家屋に飛び込んだ。開け放たれた木の扉から指す月の光が冷たく差し込んで、中がほの明るく照らされた。
はじめに目に映ったのは、投げ出された男の両足だった。六左衛門は奥に目をやった。男が何かにまたがって息荒く腰を振っているのが見える。脇にはもうひとりの男が自分の一物を握り手を激しく動かしている。
「外道めっ!」
六左衛門はためらうことなく、刀を上段に構え、またがっている方の男の背に力一杯に振りおろした。
「ぎゃあっ!」
その声で我に返ったもうひとりが、脇にある短刀を掴む間もなく、返す刀が男の半身を切り裂いた。返した刀で斬った男が声もなくどさっと倒れた。六左衛門はまたがった姿勢のまま、けいれんしている男を思いきり蹴り落とした。そして叫んだ。
「しの、しのっ、六左衛門じゃっ」
返事はない。六左衛門はしのの痩せた身体を抱き、露わになった乳房に耳をあてた。動いていない。心臓も脈も止まっている。目を移すと、月の灯りだけでもはっきり分かるほど、しのの顔は腫れ上がっていた。まだぬくもりの残る頬を撫でながら、六左衛門はめまいがするほど激しい憤怒を覚えた。
死ぬまで殴られながら陵辱され、さらに死んだ身体を犯されていたのだ。彼は叫んだ。
「うおぉおおーっ」
六左衛門は憤怒のあまり息を荒げながらも、しのを床に横たえ寝間着を合わせてやった。その時、後ろで腹を斬られた男が哀れな声を出した。
「うう、助け……」
六左衛門は爆発した。その後は覚えていない。
気がつくと、その男は脳漿も腸も分からないほどずたずたに裂かれ、赤い屍となっていた。
長八は戸の手前で腹や胸を何カ所も刺されて死んでいた。
鍬や匕首(あいくち)を使った跡はない。防戦する間もなく襲われたのだ。六左衛門は長八を抱えてしのの隣に横たえた。
しばらく両手を合わせると、あとは何もする気になれなかった。
外に出ると、月だけが冷たく輝き続けている。雪はいつ止んだのか、六左衛門は覚えていなかった。見ると、持参した酒徳利が軒下にごろんと転がっている。
備前の徳利は放り投げてもびくともしない。
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六左は家の脇の木に自ら思い切り頭突きをくらわせた。何度も何度もぶつけた。額から血が流れて目に入る。涙が混じり、顔中が赤く染められても、六左は止めなかった。
翌朝、幽鬼の形相で戻った血塗れの六左衛門を見て親成は仰天した。
「炭焼きの長八としのが賊に襲われて、死んだ」と六左衛門は独り言のように言った。
「おまえが賊を成敗したんか」
六左衛門はこくりとした。親成は目をぎゅっと閉じ、唇を噛んだ。そしてすぐに長八の家に人を走らせた。
「六左、すぐに血を洗い流し、休め。後はわしがやる」と親成が告げる。
六左衛門にはその声が届かない。
「ああ、わしがもう少し、もう少し早よう行けば、二人ともあんな、あんな惨い目に合わずに済んだんじゃ。あんな……」と六左衛門は膝をがくりとついて、頭をかきむしった。
「分かっとる。分かっとる……今は考えるな」
「わしは、わしはああああああっ」
六左衛門は地に伏して、地を叩いて嗚咽を上げた。
おさんはその姿を見て、凍り付いたように立ち尽くしていた。確かに血塗れのその姿は誰もが怖じ気づく異形であった。
おきよは、「早くさらしをたらいの水に浸して、持っといで」と小声で言い、台所におとくを走らせた。この場で一番冷静だったのは、おきよだっただろう。おとくが大きなたらいに湯水を張って持ってくると、おきよはためらうことなく六左に立ち上がるよう促して、着物を脱がせはじめた。
「おとく、顔を拭いてあげんさい」
おとくは濡らしたさらしの端切れを手に、六左衛門を見た。額が腫れあがり、傷だらけで、ぱっくりと割れている。血はもう止まっている。顔は血と汗と涙でどろどろになっていた。
その目は宙を舞うように空っぽである。
おとくは彼がひどく憤っているのとともに、大事な人を喪ったことにたいへんな衝撃を受けていることがわかった。
そのうち、六左衛門の瞳がおとくの姿を認めた。
その瞳はおとくをとらえたまましばらく静止したままになった。
おとくもずっと彼の瞳にとどまった。
少しして、六左衛門は目をつむった。それを合図にして、おとくは布でおそるおそるその顔を丁寧に、撫でるように優しく拭いていく。拭いて新しい端切れに換え、拭いては換えた。
長八夫妻の葬儀は親成が手配し、しめやかに行われた。飲んでもらうはずだった備前徳利の酒も供えられていた。
親成は夫妻を襲った男どもを成敗した勝成を慰めた。
「おぬしが仇を打った。野放しにしとったら、同じような目に遭う者がまだ出たかもしれん。成羽で狼藉を働けば、どんな報いが来るか、知らしめることにもなった。近在の者も皆感謝しとるけえ、もう自分を責めるな」
「いくらあやつらを八つ裂きにしても、二人はもう戻ってきゃせんのじゃ」
六左衛門が言える言葉はそれしかなかった。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
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*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
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