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◼️番外編 中津城の惨劇
城井鎮房を騙し討ちする
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※このお話には一部残酷な表現があります。あらかじめご了承ください。
世は戦国の天正十五年(一五八七)である。
豊臣秀吉の全国統一は総仕上げの段階に入っていた。残っているのは九州の地である。彼は自身の持つ総力を結集し、島津氏を始めとする九州の有力諸侯を次々と叩き潰しにかかった。加藤清正、小西行長、佐々成政、黒田孝高(官兵衛)、仙石秀久ら秀吉配下の将に加え、中国・四国攻略の際に恭順した毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、長宗我部元親らも大軍を編成し乗り込んでいる。さらに地元の九州でも早々に秀吉に恭順の意を示した国人領主らを巻き込んで、その軍勢は膨大な人数に膨らんでいた。
しかし、秀吉の大軍を前にしても恭順しない国人領主らは少なからずいた。そのような領主らは控えめに言ってもかなり手ごわかった。
九州を二分する勢いだった大友氏、島津氏がとうに秀吉と和睦を結んでいた。それでも、新たにこの地に配された秀吉配下の将に反旗を翻す者も続出した。もっとも激しかったのは佐々成政が入った肥後で起こった隈部氏を中心とする国人一揆だった。この一揆を鎮圧するために、加藤清正、黒田官兵衛・長政、立花宗茂などの諸将による大規模な軍勢を派遣しなければならないほどだった。
この辺りから、秀吉配下の諸将たちは敵をなきものにするために手段を選ばなくなる。秀吉からすれば、これは天皇の命により行なわれる「征伐」であり、自軍が敗北するなどということは決してあってはならないことだった。そして、この九州「征伐」は来る朝鮮出兵の足場を築くために必要不可欠のことだったのである。
九州全土に在する多くの国人領主や民からすれば、それは容赦のない侵略に過ぎなかったのだが。
その頃、豊前六郡を新たに任されることになった黒田孝高(官兵衛)が中津城に拠点を置くこととなった。
その領内にある城井谷城主、城井鎮房(きいしげふさ)は秀吉に恭順する姿勢を見せていたものの、本心からのものではなかった。城井氏は下野宇都宮氏の系統で由緒ある一族であったから、ぽっと出の関白秀吉など何するものぞ、という思いもあっただろう。
伊予への転封と城井家伝来の宝物の供出を求める内容の朱印状を安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が持参したときには、その受け取りを拒みさえした。しかし、「それでは一気に攻め滅ぼされるのは必定」と間に入って説得する者があった。そこで鎮房が折れて城井谷城から出ることを承知した。
ここで城井鎮房が伊予に移ることまで承知していれば、その後の悲劇は起こらなかったに違いない。
秀吉は鎮房が城を出ただけでは許さなかった。頑として伊予に移るよう命じた。一方の鎮房は生来の地を動く気はない。
要求に応えるつもりはかけらもないのだから交渉の意味はない。
鎮房はついに秀吉の命に逆らう決意をする。
同年の十月、意を決した城井勢は城井谷城を急襲し、城を奪取した。ちょうど大規模な国人一揆が肥後で巻き起こっていた頃である。秀吉の大軍の多くは肥後に向かっていた。豊前を任されていた黒田家も官兵衛が肥後に向かい、息子の長政が中津城を守っていた。
城井谷城を奪還した鎮房の討伐は長政が担うこととなった。
自軍と比べれば寡勢の鎮房などすぐに下せる、そこまで思っていなかったとしても果敢に攻め入れば成功すると長政は考えていた。しかし、地の利にしても、兵の統率にしても、城井谷城の内部についてもよく知っているのは鎮房のほうである。同時に起こっていた肥後の国人一揆にしても、待ち伏せて波状的に敵を急襲するなど、地の利を最大限に生かした抵抗にあって、数ヶ月も決着がついていなかったのである。
それに応戦するのは名うての戦巧者でもたいへん難しいことである。
意気揚々と出陣していった長政であったが、待ち伏せの急襲にあって自軍の犠牲者も多く出した末に城井谷城にようやく至った。しかし、その守りは堅く攻めあぐねた。
黒田が劣勢になっていると判断した長政の家臣、後藤又兵衛基次は、「今日はここで兵を引いたほうがよいかと存じまする」とあるじに告げた。
それを聞き入れて退却しようとしたところ、城井谷城から弓鉄砲が矢のように放たれた。黒田勢が射られ撃たれて倒れる。長政は憤怒の形相で退却せざるを得なかった。
結局、中津に戻った黒田官兵衛が収拾にあたることとなった。城井谷城攻めは長期戦で構え、兵糧を絶つ方法に切り替えた。その間に豊前国の国人衆をそれぞれ調略し、あるいは確実に攻め落として黒田側に付け、その上で再度鎮房と交渉を持ったのである。そこまでに二ヶ月を費やしていた。
周辺をすでに塗りつぶされたのだから仕方ない。鎮房は自身の娘、鶴姫らを人質に出す条件をのんで、城を明け渡した。
翌天正十六年(一五八八)四月、中津城の一角で二人の男がひそひそと話していた。
「たばかるか」
黒田家に客分として加わっている六左衛門という流れ牢人が吐き捨てるようにつぶやく。それを聞きとがめて家臣の後藤又兵衛基次がにらみつける。
「六左、しまいまで言うな。あるじは急いどる。手段を選べる時やない。これを引き伸ばせば、われらも佐々の二の舞ぞ。それは分かっとろうが」
六左衛門は渋い顔をする。
彼は去年佐々成政に世話になっていた。肥後の国人一揆でも先頭を切って奮迅したが、結局佐々は不始末の責を問われ、尼崎の寺で蟄居中である。おそらく生きて寺を出ることはないだろう。六左衛門もまた食い扶持を失って、仕える先を探して転々としなかればならなかったのである。
「分かっとる。国人一揆がいかに激烈なものであるか。貴殿もだで」
又兵衛も六左衛門も違うあるじの下にいたとはいえ、お互いの活躍は知っている。六左衛門は佐々成政のもとでは客分にも関わらず、副将まで務めていたのだ。
「なれば、こたびのことも承知せんか。先頭を切れとは言わん。それはわしがやる。おぬしは加勢すればよい」
「それも癪な。おぬしの手柄になるで」
六左衛門の子どものような言い分に又兵衛は苦笑した。
「分かっとらんな。これはいわば汚れ仕事、武士として何の栄誉にもならんわい。わしは幼少より黒田家に恩義ある身、やらねばならぬ道理じゃ。おぬしは違うやろうが」
「正直どんな道理にせよ、たばかるなどクソじゃと思うとる」
あけすけな物言いだったが、又兵衛はその正直さに清清しさを覚える。
この男にとっては、正面切って敵と対峙するのが戦なのだ。嘘や裏切りはいくらでもあるというのに。それに気づかず、あるいは無視してここまで来たのだから見上げたものだ。又兵衛は夜空を仰いでため息をついた。
「お屋形ならば、かような道は選ばぬがのう」
いま、黒田家当主の官兵衛孝高はまた肥後に出ている。黒田家に旧くから仕える家臣は二手に分かれた。中津城にいるのは官兵衛の息子長政と彼の家臣、黒田一成、毛屋武久、そして後藤又兵衛らである。
この日、四月二十日、城井鎮房は黒田家との和議を受けての酒宴に招かれていた。城井では和議を結ぶにあたって、嫡男朝房と姫を人質として黒田に差し出していた。鎮房はそれでも不穏な空気を感じていたので、最小限の供を連れて中津城に登城することにした。城井家臣らは一様に心配した。
「お屋形様、あまりにも危険過ぎまする。われら皆警固に付くべきと存じます」
鎮房は頷きつつも、家臣らに静かに説いた。
「黒田官兵衛は卑怯な策を弄する将ではない。いざとなれば、備中高松城のごとく、わしが詰め腹を切ればよい話であろう」
一同はそれならばなおさら付いていくとの意を強く鎮房に訴える。鎮房も皆が付いてくると言うのだから止めるわけにもいかない。
長政からは、「中津城の普請が終了していないため、入りきれないご家中は中津城からほど近い合元寺に控えられよ」との報せを受けていた。それに従い四十人余りの家臣と兵が合元寺に詰めることとなった。
その際、小姓の松田小吉が後方から声を上げた。
「殿、恐れながら私をお側に付けて登城下さいませ。必ず殿をお守りいたしまする」
小吉は言上した。数えで十九とまだ若いが、鑓刀の腕前は家中でも一、二を争うほどの腕前である。これには他の者も異論をはさむ余地がない。
中津城では黒田長政がにこやかに鎮房一行を出迎えた。
「ようこそお越しくだされた。父はいま肥後に向かっており不在であるが、今後末永く交誼を結ばせていただければ幸甚にござる」
「お心遣い、誠に痛み入りまする」と鎮房は神妙に応えた。
宴もたけなわの頃だった。
襖がばっと開かれ、鎧刀で身を固めた一団が現れた。それを合図に座についていた者たちもばっと刀を構える。城井鎮房はこの事態を想定していたため、慌てはしなかった。
「やはり、さようか」
松田小吉らが鎮房を守ろうと前に出る。
「卑怯千万、うぬら、たばかりおったな!」と小吉が刀を抜く。
兵が小吉に襲い掛かる。かれが応戦している隙に、鎮房が背後から袈裟懸けに切りつけられた。ぎゃっ、という声を上げて鎮房はどたっとうつぶせに倒れた。
「お屋形様っ!」
小吉は絶望に襲われた。かくなる上は合元寺にいる皆に変事を報せねば。瞬時に向きを変え、敵を突き飛ばすと外に向かって走り出した。
「追えっ!」
小吉の足は速かった。そして追いつく者に対して、鑓刀の腕も十分に発揮された。一人、二人、三人、彼は十九人の追っ手を次々と切り伏せた。
小吉は走った。ただ走った。
息を切らして寺に向かおうとする小吉の前に、一人の男が立ちはだかった。そして、眉を八の字にしかめ、目を細めて静かに言った。
「無駄じゃ、寺にも手がまわっとる。今頃は皆あの世じゃ」
立ちはだかった男、流れ牢人の六左衛門はゆっくり刀を抜いた。
六左衛門の言ったことは間違いではなかった。
合元寺にも黒田勢が差し向けられ、城井家の一団に不意に襲い掛かった。ろくに抵抗する間も与えられず、城井家の者たちは次々と討たれていった。寺は包囲されていて逃げ出す隙間もない。殺戮の寺は床も天井も梁も敷居もなく、庭から塀に至るまで鮮血に染まった。
控えていた四十人、皆殺しだった。
中津城にいた者も皆討たれた。
小吉は合元寺のありさまは知りえなかった。しかし、六左衛門の一言が意味することは十分理解できた。彼は言葉の主に向かって叫んだ。
「うぬら、何と卑怯な。お屋形は官兵衛ならかような真似はすまい、いざというときはわしが詰め腹切れば済むとお覚悟まで決めておられた。うぬらを信用しておったのに……」
小吉の憤怒の表情を見て、六左衛門は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「鬼でもかような真似はすまいよ。しかし、他生の縁かや、わしは貴殿を倒さねばならぬようだで。せめて名を……」
六左衛門の静かなもの言いが小吉の錯乱しかけた心を正気に引き戻した。小吉は刀を中段に構えて名乗った。
「拙者、豊前国城井家中、松田小吉と申す」
「水野六左衛門、お相手つかまつる」
小吉渾身の一太刀が六左の脳天に振り下ろされる。それより一瞬早く、六左は身を屈め前に踏み出し、小吉の腹を突いた。走り続けた疲れで判断が一瞬遅れたのだ。
「うっ」と呻いて、小吉はどさっと仰向けに倒れた。
抜いた刀から鮮血がほとばしる。六左は苦しめずにとどめを刺すべきと思い、再び刀を握りしめる。
すると、小吉がわずかに残った力を振り絞って絶え絶えに声を出した。
「首はおぬしにくれてやる。だが、姫は……姫だけはどうかお助けあれ……」
そこまで言うと、小吉は息絶えた。
六左衛門は首を取らなかった。
その代わり、遺体を肩に担ぎ中津城に戻った。そして、小吉の主君の遺体の隣に横たえた。
後藤又兵衛が驚いて、「抱えてきたのか」と問うと、六左はこともなげに言い放つ。
「わしゃ数えた。あの窮地で十九人を切り捨てるなぞ、敵ながらあっぱれなり。せめて必死に守った主君とともに葬ってはやれまいか」
又兵衛は血まみれの六左衛門に武士の何たるかを見た。しかし、今はそれ以上言わせるわけにはいかない。
「おぬしはそういう奴じゃ。だが、それは若の前では決して口にしてはならぬ」
このような場で敵を賞賛するようなことを言ったら、長政が怒ることは火を見るより明らかである。
後藤又兵衛はかつて黒田官兵衛に庇護され成長した。しかし、荒木村重が織田信長に謀反を起こした際、後藤一族が軒並み村重に付いたため、又兵衛も黒田家を出ざるをえなかった。その後、又兵衛は仙石秀久に仕官していたが、耳川の戦いで仙石秀久が逃亡するという事件があった後、黒田家に復した。いわゆる出戻りである。従って彼は長政のことも小さい頃からよく知っていた。
しかし、乱世の十年は激しいものだった。三つ子の魂百までというが、すでにわしが知る若ではないようだ、と再会のときに又兵衛はちらりと感じた。素直で快活な少年ではない、神経質で粘着質な男が目の前にいた。それでも、官兵衛は健在で黒田家は磐石だったので、成長した嫡男の性格はあまり問題にはならなかった。又兵衛は黒田家の新天地、豊前で活躍できることを心から誇りに思っていた。
素牢人の六左衛門とは最初仙石秀久の家中で出会った。ともに鑓の名手であるという自負を持ち、豪快な気性の二人は他でも何かと気が合った。共に流れ者でもあり、境遇も通ずるものがある。場は四国から九州へと変わって、次に又兵衛が六左に再会したのは肥後の国人一揆であった。六左衛門は佐々成政の客分として戦っていた。又兵衛は黒田家に落ち着いたものの、六左衛門は流れていたところにまたひょっこり再会し、黒田家に誘ったのだ。鼻っ柱が強く喧嘩沙汰ばかり起こすが、根は明るく正直で人懐っこい。又兵衛は六左衛門をたいそう気に入っていた。
黒田長政が憮然とした表情で現れる。
「お屋形には早馬を出した。姫は牢に入れておけ。後で始末する」
官兵衛と長政は事前に今回の件について打ち合わせしていたが、姫を牢に入れ始末するというのは官兵衛の指示とは異なっていた。姫と侍女は縁者のいる地に逃がせと長政は命じられていたのである。
一同はごくりと唾を飲んだ。
姫は当然何らかの手段で落ち延びさせるものと思っていたからである。「始末」という言葉の意味を皆が咀嚼する中、六左衛門が声を上げた。
「姫は逃がすのではござらんのでしょうや」
一同が客分の方を見た。長政は一瞬顔を引きつらせたが、冷静を保って答えた。
「いや、元を断たねば禍根を残す。父と行動を共にしておる鎮房の嫡男、朝房も討つことになるだろう。女子供とて容赦はせぬ」
皆黙って聞いていたが、これまでの黒田家のやり方とは違う、と誰もが感じていた。今は亡骸になっている鎮房もそのやり方に一縷の望みをつないで城に来たのだ。
また、いま長政に付いている後藤又兵衛も黒田一政も元は敵方にあたり、いつ成敗されてもおかしくはない身だったのだ。それを官兵衛に救われ育てられたのである。その情の篤さが黒田の家風だと思い仕えてきたのだから、やはり言わずにはいられない。
「若、お屋形様も承知されておられるのでしょうや……」
長政はくわっと目を見開いた。
「今城を任されとるんはわしやぞ。誰に向かってものを言うとるんや。黙らんかっ!」
一同は沈黙した。
その時、六左衛門の脳裏に小吉の最期の言葉が蘇った。姫はどうか助けてほしいと、鬼もなさぬことをした敵に懇願したのだ。そう思うともう止まらない。
「確かに、若君仰せの通りなれど、和議を結んだ人質を女子供まで成敗されるとはいささか厳しすぎるのでは」
なおも食い下がる六左衛門に長政は真っ赤になって怒りを爆発させた。
「ぬしゃ誰に向かってものを申しておるんや。たかだか素牢人の分際で! 今ここで成敗してくれるわっ!」
又兵衛はいかん、と慌てて前に出た。
「若、この者はまだよう勝手を知らぬのです。しかし、さきの戦でもよう働いております。どうか、又兵衛に免じてこの場は収めていただけませぬか」
内心は六左衛門の言うとおりだと思っている黒田一成も伏して懇願した。
「私からも伏してお願い申し上げます。この者の扱いは殿が戻られてから決めてもよいかと存じます」
一成にまで伏されては長政も矛を収めざるを得ない。しばらく沈黙した後、一同に言い渡した。
「二日後、鶴姫らを磔(はりつけ)に処す。万事整えておけ」
世は戦国の天正十五年(一五八七)である。
豊臣秀吉の全国統一は総仕上げの段階に入っていた。残っているのは九州の地である。彼は自身の持つ総力を結集し、島津氏を始めとする九州の有力諸侯を次々と叩き潰しにかかった。加藤清正、小西行長、佐々成政、黒田孝高(官兵衛)、仙石秀久ら秀吉配下の将に加え、中国・四国攻略の際に恭順した毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、長宗我部元親らも大軍を編成し乗り込んでいる。さらに地元の九州でも早々に秀吉に恭順の意を示した国人領主らを巻き込んで、その軍勢は膨大な人数に膨らんでいた。
しかし、秀吉の大軍を前にしても恭順しない国人領主らは少なからずいた。そのような領主らは控えめに言ってもかなり手ごわかった。
九州を二分する勢いだった大友氏、島津氏がとうに秀吉と和睦を結んでいた。それでも、新たにこの地に配された秀吉配下の将に反旗を翻す者も続出した。もっとも激しかったのは佐々成政が入った肥後で起こった隈部氏を中心とする国人一揆だった。この一揆を鎮圧するために、加藤清正、黒田官兵衛・長政、立花宗茂などの諸将による大規模な軍勢を派遣しなければならないほどだった。
この辺りから、秀吉配下の諸将たちは敵をなきものにするために手段を選ばなくなる。秀吉からすれば、これは天皇の命により行なわれる「征伐」であり、自軍が敗北するなどということは決してあってはならないことだった。そして、この九州「征伐」は来る朝鮮出兵の足場を築くために必要不可欠のことだったのである。
九州全土に在する多くの国人領主や民からすれば、それは容赦のない侵略に過ぎなかったのだが。
その頃、豊前六郡を新たに任されることになった黒田孝高(官兵衛)が中津城に拠点を置くこととなった。
その領内にある城井谷城主、城井鎮房(きいしげふさ)は秀吉に恭順する姿勢を見せていたものの、本心からのものではなかった。城井氏は下野宇都宮氏の系統で由緒ある一族であったから、ぽっと出の関白秀吉など何するものぞ、という思いもあっただろう。
伊予への転封と城井家伝来の宝物の供出を求める内容の朱印状を安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が持参したときには、その受け取りを拒みさえした。しかし、「それでは一気に攻め滅ぼされるのは必定」と間に入って説得する者があった。そこで鎮房が折れて城井谷城から出ることを承知した。
ここで城井鎮房が伊予に移ることまで承知していれば、その後の悲劇は起こらなかったに違いない。
秀吉は鎮房が城を出ただけでは許さなかった。頑として伊予に移るよう命じた。一方の鎮房は生来の地を動く気はない。
要求に応えるつもりはかけらもないのだから交渉の意味はない。
鎮房はついに秀吉の命に逆らう決意をする。
同年の十月、意を決した城井勢は城井谷城を急襲し、城を奪取した。ちょうど大規模な国人一揆が肥後で巻き起こっていた頃である。秀吉の大軍の多くは肥後に向かっていた。豊前を任されていた黒田家も官兵衛が肥後に向かい、息子の長政が中津城を守っていた。
城井谷城を奪還した鎮房の討伐は長政が担うこととなった。
自軍と比べれば寡勢の鎮房などすぐに下せる、そこまで思っていなかったとしても果敢に攻め入れば成功すると長政は考えていた。しかし、地の利にしても、兵の統率にしても、城井谷城の内部についてもよく知っているのは鎮房のほうである。同時に起こっていた肥後の国人一揆にしても、待ち伏せて波状的に敵を急襲するなど、地の利を最大限に生かした抵抗にあって、数ヶ月も決着がついていなかったのである。
それに応戦するのは名うての戦巧者でもたいへん難しいことである。
意気揚々と出陣していった長政であったが、待ち伏せの急襲にあって自軍の犠牲者も多く出した末に城井谷城にようやく至った。しかし、その守りは堅く攻めあぐねた。
黒田が劣勢になっていると判断した長政の家臣、後藤又兵衛基次は、「今日はここで兵を引いたほうがよいかと存じまする」とあるじに告げた。
それを聞き入れて退却しようとしたところ、城井谷城から弓鉄砲が矢のように放たれた。黒田勢が射られ撃たれて倒れる。長政は憤怒の形相で退却せざるを得なかった。
結局、中津に戻った黒田官兵衛が収拾にあたることとなった。城井谷城攻めは長期戦で構え、兵糧を絶つ方法に切り替えた。その間に豊前国の国人衆をそれぞれ調略し、あるいは確実に攻め落として黒田側に付け、その上で再度鎮房と交渉を持ったのである。そこまでに二ヶ月を費やしていた。
周辺をすでに塗りつぶされたのだから仕方ない。鎮房は自身の娘、鶴姫らを人質に出す条件をのんで、城を明け渡した。
翌天正十六年(一五八八)四月、中津城の一角で二人の男がひそひそと話していた。
「たばかるか」
黒田家に客分として加わっている六左衛門という流れ牢人が吐き捨てるようにつぶやく。それを聞きとがめて家臣の後藤又兵衛基次がにらみつける。
「六左、しまいまで言うな。あるじは急いどる。手段を選べる時やない。これを引き伸ばせば、われらも佐々の二の舞ぞ。それは分かっとろうが」
六左衛門は渋い顔をする。
彼は去年佐々成政に世話になっていた。肥後の国人一揆でも先頭を切って奮迅したが、結局佐々は不始末の責を問われ、尼崎の寺で蟄居中である。おそらく生きて寺を出ることはないだろう。六左衛門もまた食い扶持を失って、仕える先を探して転々としなかればならなかったのである。
「分かっとる。国人一揆がいかに激烈なものであるか。貴殿もだで」
又兵衛も六左衛門も違うあるじの下にいたとはいえ、お互いの活躍は知っている。六左衛門は佐々成政のもとでは客分にも関わらず、副将まで務めていたのだ。
「なれば、こたびのことも承知せんか。先頭を切れとは言わん。それはわしがやる。おぬしは加勢すればよい」
「それも癪な。おぬしの手柄になるで」
六左衛門の子どものような言い分に又兵衛は苦笑した。
「分かっとらんな。これはいわば汚れ仕事、武士として何の栄誉にもならんわい。わしは幼少より黒田家に恩義ある身、やらねばならぬ道理じゃ。おぬしは違うやろうが」
「正直どんな道理にせよ、たばかるなどクソじゃと思うとる」
あけすけな物言いだったが、又兵衛はその正直さに清清しさを覚える。
この男にとっては、正面切って敵と対峙するのが戦なのだ。嘘や裏切りはいくらでもあるというのに。それに気づかず、あるいは無視してここまで来たのだから見上げたものだ。又兵衛は夜空を仰いでため息をついた。
「お屋形ならば、かような道は選ばぬがのう」
いま、黒田家当主の官兵衛孝高はまた肥後に出ている。黒田家に旧くから仕える家臣は二手に分かれた。中津城にいるのは官兵衛の息子長政と彼の家臣、黒田一成、毛屋武久、そして後藤又兵衛らである。
この日、四月二十日、城井鎮房は黒田家との和議を受けての酒宴に招かれていた。城井では和議を結ぶにあたって、嫡男朝房と姫を人質として黒田に差し出していた。鎮房はそれでも不穏な空気を感じていたので、最小限の供を連れて中津城に登城することにした。城井家臣らは一様に心配した。
「お屋形様、あまりにも危険過ぎまする。われら皆警固に付くべきと存じます」
鎮房は頷きつつも、家臣らに静かに説いた。
「黒田官兵衛は卑怯な策を弄する将ではない。いざとなれば、備中高松城のごとく、わしが詰め腹を切ればよい話であろう」
一同はそれならばなおさら付いていくとの意を強く鎮房に訴える。鎮房も皆が付いてくると言うのだから止めるわけにもいかない。
長政からは、「中津城の普請が終了していないため、入りきれないご家中は中津城からほど近い合元寺に控えられよ」との報せを受けていた。それに従い四十人余りの家臣と兵が合元寺に詰めることとなった。
その際、小姓の松田小吉が後方から声を上げた。
「殿、恐れながら私をお側に付けて登城下さいませ。必ず殿をお守りいたしまする」
小吉は言上した。数えで十九とまだ若いが、鑓刀の腕前は家中でも一、二を争うほどの腕前である。これには他の者も異論をはさむ余地がない。
中津城では黒田長政がにこやかに鎮房一行を出迎えた。
「ようこそお越しくだされた。父はいま肥後に向かっており不在であるが、今後末永く交誼を結ばせていただければ幸甚にござる」
「お心遣い、誠に痛み入りまする」と鎮房は神妙に応えた。
宴もたけなわの頃だった。
襖がばっと開かれ、鎧刀で身を固めた一団が現れた。それを合図に座についていた者たちもばっと刀を構える。城井鎮房はこの事態を想定していたため、慌てはしなかった。
「やはり、さようか」
松田小吉らが鎮房を守ろうと前に出る。
「卑怯千万、うぬら、たばかりおったな!」と小吉が刀を抜く。
兵が小吉に襲い掛かる。かれが応戦している隙に、鎮房が背後から袈裟懸けに切りつけられた。ぎゃっ、という声を上げて鎮房はどたっとうつぶせに倒れた。
「お屋形様っ!」
小吉は絶望に襲われた。かくなる上は合元寺にいる皆に変事を報せねば。瞬時に向きを変え、敵を突き飛ばすと外に向かって走り出した。
「追えっ!」
小吉の足は速かった。そして追いつく者に対して、鑓刀の腕も十分に発揮された。一人、二人、三人、彼は十九人の追っ手を次々と切り伏せた。
小吉は走った。ただ走った。
息を切らして寺に向かおうとする小吉の前に、一人の男が立ちはだかった。そして、眉を八の字にしかめ、目を細めて静かに言った。
「無駄じゃ、寺にも手がまわっとる。今頃は皆あの世じゃ」
立ちはだかった男、流れ牢人の六左衛門はゆっくり刀を抜いた。
六左衛門の言ったことは間違いではなかった。
合元寺にも黒田勢が差し向けられ、城井家の一団に不意に襲い掛かった。ろくに抵抗する間も与えられず、城井家の者たちは次々と討たれていった。寺は包囲されていて逃げ出す隙間もない。殺戮の寺は床も天井も梁も敷居もなく、庭から塀に至るまで鮮血に染まった。
控えていた四十人、皆殺しだった。
中津城にいた者も皆討たれた。
小吉は合元寺のありさまは知りえなかった。しかし、六左衛門の一言が意味することは十分理解できた。彼は言葉の主に向かって叫んだ。
「うぬら、何と卑怯な。お屋形は官兵衛ならかような真似はすまい、いざというときはわしが詰め腹切れば済むとお覚悟まで決めておられた。うぬらを信用しておったのに……」
小吉の憤怒の表情を見て、六左衛門は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「鬼でもかような真似はすまいよ。しかし、他生の縁かや、わしは貴殿を倒さねばならぬようだで。せめて名を……」
六左衛門の静かなもの言いが小吉の錯乱しかけた心を正気に引き戻した。小吉は刀を中段に構えて名乗った。
「拙者、豊前国城井家中、松田小吉と申す」
「水野六左衛門、お相手つかまつる」
小吉渾身の一太刀が六左の脳天に振り下ろされる。それより一瞬早く、六左は身を屈め前に踏み出し、小吉の腹を突いた。走り続けた疲れで判断が一瞬遅れたのだ。
「うっ」と呻いて、小吉はどさっと仰向けに倒れた。
抜いた刀から鮮血がほとばしる。六左は苦しめずにとどめを刺すべきと思い、再び刀を握りしめる。
すると、小吉がわずかに残った力を振り絞って絶え絶えに声を出した。
「首はおぬしにくれてやる。だが、姫は……姫だけはどうかお助けあれ……」
そこまで言うと、小吉は息絶えた。
六左衛門は首を取らなかった。
その代わり、遺体を肩に担ぎ中津城に戻った。そして、小吉の主君の遺体の隣に横たえた。
後藤又兵衛が驚いて、「抱えてきたのか」と問うと、六左はこともなげに言い放つ。
「わしゃ数えた。あの窮地で十九人を切り捨てるなぞ、敵ながらあっぱれなり。せめて必死に守った主君とともに葬ってはやれまいか」
又兵衛は血まみれの六左衛門に武士の何たるかを見た。しかし、今はそれ以上言わせるわけにはいかない。
「おぬしはそういう奴じゃ。だが、それは若の前では決して口にしてはならぬ」
このような場で敵を賞賛するようなことを言ったら、長政が怒ることは火を見るより明らかである。
後藤又兵衛はかつて黒田官兵衛に庇護され成長した。しかし、荒木村重が織田信長に謀反を起こした際、後藤一族が軒並み村重に付いたため、又兵衛も黒田家を出ざるをえなかった。その後、又兵衛は仙石秀久に仕官していたが、耳川の戦いで仙石秀久が逃亡するという事件があった後、黒田家に復した。いわゆる出戻りである。従って彼は長政のことも小さい頃からよく知っていた。
しかし、乱世の十年は激しいものだった。三つ子の魂百までというが、すでにわしが知る若ではないようだ、と再会のときに又兵衛はちらりと感じた。素直で快活な少年ではない、神経質で粘着質な男が目の前にいた。それでも、官兵衛は健在で黒田家は磐石だったので、成長した嫡男の性格はあまり問題にはならなかった。又兵衛は黒田家の新天地、豊前で活躍できることを心から誇りに思っていた。
素牢人の六左衛門とは最初仙石秀久の家中で出会った。ともに鑓の名手であるという自負を持ち、豪快な気性の二人は他でも何かと気が合った。共に流れ者でもあり、境遇も通ずるものがある。場は四国から九州へと変わって、次に又兵衛が六左に再会したのは肥後の国人一揆であった。六左衛門は佐々成政の客分として戦っていた。又兵衛は黒田家に落ち着いたものの、六左衛門は流れていたところにまたひょっこり再会し、黒田家に誘ったのだ。鼻っ柱が強く喧嘩沙汰ばかり起こすが、根は明るく正直で人懐っこい。又兵衛は六左衛門をたいそう気に入っていた。
黒田長政が憮然とした表情で現れる。
「お屋形には早馬を出した。姫は牢に入れておけ。後で始末する」
官兵衛と長政は事前に今回の件について打ち合わせしていたが、姫を牢に入れ始末するというのは官兵衛の指示とは異なっていた。姫と侍女は縁者のいる地に逃がせと長政は命じられていたのである。
一同はごくりと唾を飲んだ。
姫は当然何らかの手段で落ち延びさせるものと思っていたからである。「始末」という言葉の意味を皆が咀嚼する中、六左衛門が声を上げた。
「姫は逃がすのではござらんのでしょうや」
一同が客分の方を見た。長政は一瞬顔を引きつらせたが、冷静を保って答えた。
「いや、元を断たねば禍根を残す。父と行動を共にしておる鎮房の嫡男、朝房も討つことになるだろう。女子供とて容赦はせぬ」
皆黙って聞いていたが、これまでの黒田家のやり方とは違う、と誰もが感じていた。今は亡骸になっている鎮房もそのやり方に一縷の望みをつないで城に来たのだ。
また、いま長政に付いている後藤又兵衛も黒田一政も元は敵方にあたり、いつ成敗されてもおかしくはない身だったのだ。それを官兵衛に救われ育てられたのである。その情の篤さが黒田の家風だと思い仕えてきたのだから、やはり言わずにはいられない。
「若、お屋形様も承知されておられるのでしょうや……」
長政はくわっと目を見開いた。
「今城を任されとるんはわしやぞ。誰に向かってものを言うとるんや。黙らんかっ!」
一同は沈黙した。
その時、六左衛門の脳裏に小吉の最期の言葉が蘇った。姫はどうか助けてほしいと、鬼もなさぬことをした敵に懇願したのだ。そう思うともう止まらない。
「確かに、若君仰せの通りなれど、和議を結んだ人質を女子供まで成敗されるとはいささか厳しすぎるのでは」
なおも食い下がる六左衛門に長政は真っ赤になって怒りを爆発させた。
「ぬしゃ誰に向かってものを申しておるんや。たかだか素牢人の分際で! 今ここで成敗してくれるわっ!」
又兵衛はいかん、と慌てて前に出た。
「若、この者はまだよう勝手を知らぬのです。しかし、さきの戦でもよう働いております。どうか、又兵衛に免じてこの場は収めていただけませぬか」
内心は六左衛門の言うとおりだと思っている黒田一成も伏して懇願した。
「私からも伏してお願い申し上げます。この者の扱いは殿が戻られてから決めてもよいかと存じます」
一成にまで伏されては長政も矛を収めざるを得ない。しばらく沈黙した後、一同に言い渡した。
「二日後、鶴姫らを磔(はりつけ)に処す。万事整えておけ」
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