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■番外編 陸奥守の厄介痛
大坂夏の陣での痛恨事
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「詮なきこと」と政宗が父小十郎に告げた一件について、あらましだけ述べておく。
それはこの五月の、大坂夏の陣でのことだった。
政宗は東軍方の大和方面隊後方に着く形で参陣した。娘婿である松平忠輝隊の先に立つ形である。忠輝は徳川家康の六男で政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)を娶っている。
大和方面の先鋒大将は徳川家康の母方の従兄弟で三河刈屋藩主の水野勝成だった。とはいえ、さきの大坂冬の陣まで同じ戦に出たこともなく、政宗にとっては海のものとも山のものとも知れない男だった。冬の陣の後で勝成から刀を贈られたことがあり、心配りはできるのかと思った記憶があるぐらいだ。しかし、それで総勢三万といわれる方面隊を統率できるのかという疑問は持っていた。それもあったのだろう、政宗は水野の指示で動くのではなくあくまでも伊達隊として行動していた。連携がうまく取れていれば問題ないのだが、ときには齟齬も生じた。
彼らの初戦である道明寺で政宗は斬り込んだ先鋒隊の後を受け自身の鉄砲隊を動員して戦い、敵将の後藤又兵衛を倒し勝利を得た。しかし、続く誉田の戦いでは水野勝成が要請したにも関わらず、攻撃に出なかった。戦術の違いかと思われるが、感情的なすれ違いが生じていたかもしれない。
翌日、決戦となる天王寺の戦いで、ある「事件」が起こる。天王寺から大坂城にかけて激戦となり、大和方面隊先鋒の水野隊や松平忠明隊が敵を突破して進んでいた。この時点で他の隊も敵も旗印も入り乱れ、東西問わず討たれる者が多く出た。大混乱だった。戦に長けた者たちが第一線を退き、次の世代が主力だったことが大きな理由である。組織的な戦闘に慣れていないものばかりで、敵も何も入り乱れ白兵戦になってしまう事態が散見されたのである。
伊達隊はその中で十分に統率が取れており、鉄砲隊も本隊も整然と行動していた。彼らは大打撃を受けることなく他の屍を踏み越え、天王寺から大坂城へ向かった。
そこまではよかった。
伊達隊の進む先に、三百ほどの軍勢が見えた。見たところ待機しているようだったが、伊達隊は彼らを大坂城から出てきた西軍の手の者と思い、是非もなく鉄砲隊に一斉掃射を命じたのである。馬上にあった者がそれに気付き、「待てっ、違うぞっ!」と大声で叫んだが、それが最後だった。彼は真っ先に標的になり撃たれて馬から崩れ落ちた。伊達の鉄砲隊はたいへん優秀だった。三百人は次々と射抜かれ、あっという間に死人と瀕死の身体の山になった。
政宗は鉄砲隊の後ろから何ごとかと見ていたが、前に出てくる。そして倒れた人の山の中に、ひとつの旗印を見つけてしばらく沈黙した。
その旗印はこの戦で何度も目にしていた。
そしてようやく、一言だけ発した。
「これは……水野の沢瀉紋(おもだかもん)だ」
隊を率いていた片倉小十郎重綱は目を見開き、慌てて死人の山に駆けていった。そして、いくつかの沢瀉紋を見つけるとその場にしゃがみこんだまま頭を抱えて唸りはじめた。
「皆、戦闘態勢ではなかったようだ。待っておるところに不意打ちされた体だ。水野隊の一部だろう。弁明のしようもない」と政宗はつぶやくようにいう。
大和方面隊の味方を撃ったということだ。
片倉は政宗の前に駆けてくると、がばっとひれ伏した。
「殿、申し訳ありませぬ。申し訳ありませぬ」
政宗はその姿を見てただ黙っていた。
目の奥にズキッとした痛みを覚える。
そして、皆に聞こえるような大きな声で叫んだ。
「この者らは伊達隊の前を横切ろうとした。進軍中に横切る行為は甚だ危険、警告に応じなかったゆえ成敗した」
一同は、政宗の言葉を呆然と聞いた。
ひれ伏した片岡重綱も同様である。彼は政宗の言葉の意味を反芻していた。自軍の前を横切るのは立ちはだかるのも同じ、警告しても止めないならば攻撃する——確かにそれは戦闘中に通る道理である。何万もの大軍に出くわしたら通常は脇で通りすぎるのを待つのも慣習としてある。目の前の有り様はそれとは似て非なるものであるのだが。
政宗は「そうだった」で通すことにした。
大坂城では豊臣秀頼や母の淀の方らが自害したのち落城する。伊達隊が事件を起こした頃にはすでに先行している東軍が城内に乗り込んでいた。しかし、一隊が到着しないのを訝しんだ水野勝成が斥候を走らせ、まだかろうじて息のある者から伊達隊に皆撃たれたと聞かされたのである。その者もじき息絶えた。
一隊は大和国の神保相茂(じんぼすけしげ)の兵二八八人。彼らは水野隊直属として戦っていた。そして射抜かれた内には水野勝成の家臣・竹本左門も含まれていた。
全滅だった。
その件を聞き付けた大和方面隊の松平忠明が家康に抗議したため、家康と二代目秀忠は政宗に話を聞いた。そこで政宗はさきに自軍へ述べた通り、軍法違反だったという主張を繰り返した。話を聞いた家康は怪しんだが、政宗が主張した以上のことは問い詰めなかった。当事者の水野勝成から抗議がなされなかったこともある。後に伏見で行われた論功行賞でも、その件は蒸し返されなかった。政宗の息子、秀宗は伊予宇和島藩主に任命される。また、かねてより頼まれ約束していたことだが、片倉重綱は長宗我部盛親の姉妹である阿古姫を娶ることになった。加えて仙台藩で敗軍の将の縁者を数人引き受けることになった。
そちらも了承された。
この件は咎めなく幕引きとなったが、大御所家康と二代目秀忠の両者に大きな借りを作ってしまったと政宗はいたく感じている。借りだけではない。寄せられる信頼も褪せたと考えている。当事者の将である水野勝成も抗議はしてこなかったものの、きっと噴飯やる方ない心情のはずだ。
もうひとつ、気になることがあった。
娘婿の越後高田藩主・松平忠輝のことである。忠輝はこの戦で政宗の後ろに付き、華々しい活躍はしていない。そののち、家康が朝廷に戦の戦勝報告をする際に忠輝も呼ばれたのだが、彼は固辞した。それが直接の理由だろうか。家康は忠輝に二度と面会しないという書状を寄越してきた。実子に対してたいへん冷淡な態度だった。今後忠輝がどのような扱いになるのか心配なところである。
万事もろもろ徳川との関わりであるのを考えると今後はいっそう面倒になるであろうと察しがつく。何しろ、この戦で徳川の世が確立されたのだから。
これならばいっそ、大坂方に付いた方が楽だったやもしれぬ、と政宗はひとり笑えぬ冗談をつぶやく。
阿武隈川に沿って進む中、政宗は一行に命じて少し休憩を取らせる。仙台までもうあと一息なのだが、政宗が自身の頭を休ませたかったのかもしれない。空は抜けるように青く、川は悠々と流れている。ほどよい草むらを見つけると自身のいで立ちを気にせずゴロリと寝転んだ。城に戻ればすぐに脱げるのだ。気にするほどのことではない。
青い空ばかりが見える。
すると、片倉小十郎重綱が恐る恐る政宗の側に寄ってきた。
「殿、さきほどは……」
政宗はちらりと重綱の方を見る。
「ああ、おぬしが妻を迎える話をきちんとできなかった。まあ、仙台で仕事を片付けたらおぬしは白石に戻れ。わしからもきちんと書き付けておく……早い方がいいかもしれぬな」
重綱はうなずいてから、思いきって思いを打ち明ける。
「殿、まことに父の言う通りにございます。私は戦で功を立てるのに気が逸っておったのでございます。それが殿を厳しいお立場に置くようになってしまった。まるで見ていたかのような父の怒りよう、まことに身が震えました」
政宗は視線をゆっくりと空に向けて、落ち着いた声で話す。
「それはもう、気に病まずに捨ておけばよい。ただ、おぬしの父は病んでもまことに聡く篤実なこと。能うものなら、おぬしもそれに倣ってほしい。他に何も言うことはない」
膝まずいたまま深々と頭を下げて去る重綱の姿を政宗はぼんやりと見送る。そのとき、目の奥にズキンとする痛みを覚えた。
「またか、時たま痛むな」と政宗は感じたが、少し目を閉じていると落ち着くようだ。政宗はしだいにうとうととしてきた。
「殿、殿……もう一刻ばかり経っておりますぞ」という声にハッとして起き上がると、一行は皆仕度を整えて待機していた。それを見て、政宗は重臣から足軽まで皆の姿がとても愛おしいと感じた。
「待たせて済まぬ、行こうか」
そして、白石城に立ち寄った翌日、一行は無事に仙台城に帰還したのである。
それはこの五月の、大坂夏の陣でのことだった。
政宗は東軍方の大和方面隊後方に着く形で参陣した。娘婿である松平忠輝隊の先に立つ形である。忠輝は徳川家康の六男で政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)を娶っている。
大和方面の先鋒大将は徳川家康の母方の従兄弟で三河刈屋藩主の水野勝成だった。とはいえ、さきの大坂冬の陣まで同じ戦に出たこともなく、政宗にとっては海のものとも山のものとも知れない男だった。冬の陣の後で勝成から刀を贈られたことがあり、心配りはできるのかと思った記憶があるぐらいだ。しかし、それで総勢三万といわれる方面隊を統率できるのかという疑問は持っていた。それもあったのだろう、政宗は水野の指示で動くのではなくあくまでも伊達隊として行動していた。連携がうまく取れていれば問題ないのだが、ときには齟齬も生じた。
彼らの初戦である道明寺で政宗は斬り込んだ先鋒隊の後を受け自身の鉄砲隊を動員して戦い、敵将の後藤又兵衛を倒し勝利を得た。しかし、続く誉田の戦いでは水野勝成が要請したにも関わらず、攻撃に出なかった。戦術の違いかと思われるが、感情的なすれ違いが生じていたかもしれない。
翌日、決戦となる天王寺の戦いで、ある「事件」が起こる。天王寺から大坂城にかけて激戦となり、大和方面隊先鋒の水野隊や松平忠明隊が敵を突破して進んでいた。この時点で他の隊も敵も旗印も入り乱れ、東西問わず討たれる者が多く出た。大混乱だった。戦に長けた者たちが第一線を退き、次の世代が主力だったことが大きな理由である。組織的な戦闘に慣れていないものばかりで、敵も何も入り乱れ白兵戦になってしまう事態が散見されたのである。
伊達隊はその中で十分に統率が取れており、鉄砲隊も本隊も整然と行動していた。彼らは大打撃を受けることなく他の屍を踏み越え、天王寺から大坂城へ向かった。
そこまではよかった。
伊達隊の進む先に、三百ほどの軍勢が見えた。見たところ待機しているようだったが、伊達隊は彼らを大坂城から出てきた西軍の手の者と思い、是非もなく鉄砲隊に一斉掃射を命じたのである。馬上にあった者がそれに気付き、「待てっ、違うぞっ!」と大声で叫んだが、それが最後だった。彼は真っ先に標的になり撃たれて馬から崩れ落ちた。伊達の鉄砲隊はたいへん優秀だった。三百人は次々と射抜かれ、あっという間に死人と瀕死の身体の山になった。
政宗は鉄砲隊の後ろから何ごとかと見ていたが、前に出てくる。そして倒れた人の山の中に、ひとつの旗印を見つけてしばらく沈黙した。
その旗印はこの戦で何度も目にしていた。
そしてようやく、一言だけ発した。
「これは……水野の沢瀉紋(おもだかもん)だ」
隊を率いていた片倉小十郎重綱は目を見開き、慌てて死人の山に駆けていった。そして、いくつかの沢瀉紋を見つけるとその場にしゃがみこんだまま頭を抱えて唸りはじめた。
「皆、戦闘態勢ではなかったようだ。待っておるところに不意打ちされた体だ。水野隊の一部だろう。弁明のしようもない」と政宗はつぶやくようにいう。
大和方面隊の味方を撃ったということだ。
片倉は政宗の前に駆けてくると、がばっとひれ伏した。
「殿、申し訳ありませぬ。申し訳ありませぬ」
政宗はその姿を見てただ黙っていた。
目の奥にズキッとした痛みを覚える。
そして、皆に聞こえるような大きな声で叫んだ。
「この者らは伊達隊の前を横切ろうとした。進軍中に横切る行為は甚だ危険、警告に応じなかったゆえ成敗した」
一同は、政宗の言葉を呆然と聞いた。
ひれ伏した片岡重綱も同様である。彼は政宗の言葉の意味を反芻していた。自軍の前を横切るのは立ちはだかるのも同じ、警告しても止めないならば攻撃する——確かにそれは戦闘中に通る道理である。何万もの大軍に出くわしたら通常は脇で通りすぎるのを待つのも慣習としてある。目の前の有り様はそれとは似て非なるものであるのだが。
政宗は「そうだった」で通すことにした。
大坂城では豊臣秀頼や母の淀の方らが自害したのち落城する。伊達隊が事件を起こした頃にはすでに先行している東軍が城内に乗り込んでいた。しかし、一隊が到着しないのを訝しんだ水野勝成が斥候を走らせ、まだかろうじて息のある者から伊達隊に皆撃たれたと聞かされたのである。その者もじき息絶えた。
一隊は大和国の神保相茂(じんぼすけしげ)の兵二八八人。彼らは水野隊直属として戦っていた。そして射抜かれた内には水野勝成の家臣・竹本左門も含まれていた。
全滅だった。
その件を聞き付けた大和方面隊の松平忠明が家康に抗議したため、家康と二代目秀忠は政宗に話を聞いた。そこで政宗はさきに自軍へ述べた通り、軍法違反だったという主張を繰り返した。話を聞いた家康は怪しんだが、政宗が主張した以上のことは問い詰めなかった。当事者の水野勝成から抗議がなされなかったこともある。後に伏見で行われた論功行賞でも、その件は蒸し返されなかった。政宗の息子、秀宗は伊予宇和島藩主に任命される。また、かねてより頼まれ約束していたことだが、片倉重綱は長宗我部盛親の姉妹である阿古姫を娶ることになった。加えて仙台藩で敗軍の将の縁者を数人引き受けることになった。
そちらも了承された。
この件は咎めなく幕引きとなったが、大御所家康と二代目秀忠の両者に大きな借りを作ってしまったと政宗はいたく感じている。借りだけではない。寄せられる信頼も褪せたと考えている。当事者の将である水野勝成も抗議はしてこなかったものの、きっと噴飯やる方ない心情のはずだ。
もうひとつ、気になることがあった。
娘婿の越後高田藩主・松平忠輝のことである。忠輝はこの戦で政宗の後ろに付き、華々しい活躍はしていない。そののち、家康が朝廷に戦の戦勝報告をする際に忠輝も呼ばれたのだが、彼は固辞した。それが直接の理由だろうか。家康は忠輝に二度と面会しないという書状を寄越してきた。実子に対してたいへん冷淡な態度だった。今後忠輝がどのような扱いになるのか心配なところである。
万事もろもろ徳川との関わりであるのを考えると今後はいっそう面倒になるであろうと察しがつく。何しろ、この戦で徳川の世が確立されたのだから。
これならばいっそ、大坂方に付いた方が楽だったやもしれぬ、と政宗はひとり笑えぬ冗談をつぶやく。
阿武隈川に沿って進む中、政宗は一行に命じて少し休憩を取らせる。仙台までもうあと一息なのだが、政宗が自身の頭を休ませたかったのかもしれない。空は抜けるように青く、川は悠々と流れている。ほどよい草むらを見つけると自身のいで立ちを気にせずゴロリと寝転んだ。城に戻ればすぐに脱げるのだ。気にするほどのことではない。
青い空ばかりが見える。
すると、片倉小十郎重綱が恐る恐る政宗の側に寄ってきた。
「殿、さきほどは……」
政宗はちらりと重綱の方を見る。
「ああ、おぬしが妻を迎える話をきちんとできなかった。まあ、仙台で仕事を片付けたらおぬしは白石に戻れ。わしからもきちんと書き付けておく……早い方がいいかもしれぬな」
重綱はうなずいてから、思いきって思いを打ち明ける。
「殿、まことに父の言う通りにございます。私は戦で功を立てるのに気が逸っておったのでございます。それが殿を厳しいお立場に置くようになってしまった。まるで見ていたかのような父の怒りよう、まことに身が震えました」
政宗は視線をゆっくりと空に向けて、落ち着いた声で話す。
「それはもう、気に病まずに捨ておけばよい。ただ、おぬしの父は病んでもまことに聡く篤実なこと。能うものなら、おぬしもそれに倣ってほしい。他に何も言うことはない」
膝まずいたまま深々と頭を下げて去る重綱の姿を政宗はぼんやりと見送る。そのとき、目の奥にズキンとする痛みを覚えた。
「またか、時たま痛むな」と政宗は感じたが、少し目を閉じていると落ち着くようだ。政宗はしだいにうとうととしてきた。
「殿、殿……もう一刻ばかり経っておりますぞ」という声にハッとして起き上がると、一行は皆仕度を整えて待機していた。それを見て、政宗は重臣から足軽まで皆の姿がとても愛おしいと感じた。
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