福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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すべては神辺城から

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 大和郡山藩の一同は藩主と家老が戻ってくると、直ちに引っ越しの準備に入った。

 大和郡山には松平下総守忠明率いる摂津大坂藩が入れ替わりで入るので、のんびりと名残を惜しんでいる暇はない。備後まで約七十里を移動しなければならない勝成らと違って、摂津から大和郡山までは七里ほどしかなく、目と鼻の先である。いつでも引っ越してこられるのだ。思えば、大坂夏の陣では一気に大和から大坂に進軍したのではなかったか。それほどの距離である。重ねて大坂藩に催促されなくとも、幕府からの役人も来ているので、畢竟、押し出されるような状況だった。

 とはいえ、大坂にせよ大和郡山にせよ大坂の陣後の四年弱の期間の任地なので、それほど経年の荷物が溜まっているわけでもない。

 例えば伊達政宗の仙台城よりは、というほどの意味ではあるのだが。

 大和郡山に戻った勝成も慌て気味の家老(もちろん中山が慌てている筆頭だ)とともに荷送りや受け渡しの算段をしている。目的地の備後神辺城(びんごかんなべじょう)にはすでに先遣隊が出立した。福島正則が出先の支城としていた城でさほど使われてもいないし、戦国の頃から建っている。決してぴかぴかの状態ではないようだ。

 どうにも慌ただしく日々は過ぎて、平時は鷹揚にしている勝成も時々目を回しそうになっていた。
「いや、まことの大事はこれからじゃ」
 一人つぶやいて、勝成はパン、パンと自らの頬を両手で打っている。このように気合いを入れるのは、若い頃からの彼の癖でもある。何しろ、この時点では神辺城に入ることが目的で、それからすべてに取りかかるのだ。藩名も「備後神辺藩」となっている。彼が伏見で地図を見ながら老中と決めたのは、藩の範囲境界だけでそれ以外はまっさらだった。
 
 「備後」と呼ばれる地域の範囲は遠く飛鳥の頃から決まっている。西北に三次・府中(名の通り元の国府である)、北に神石高原(じんせきこうげん)・庄原(しょうばら)、南に瀬戸内海に面した三原・尾道・鞆(とも)、東寄りの内陸に神辺がある。神辺のさらに東には御領(ごりょう)と呼ばれる土地もあり、かつては荘園が点在していたことをうかがわせる。
 古にはそのような区分があったが、戦国期には毛利氏の台頭で安芸から備後・伯耆に支配地域が広がり、福島正則がそれを引き継いでいた。
 今回の転封で安芸・備後にくっきり分かれる形になる。
 幕府からすれば、この広大な地域を外様の大名に預けておくのに危惧を抱いてきたし、瀬戸内海の真ん中に譜代大名の勝成を置くことで外様の多い西国の押さえとなるのを期待しての転封だった。
 勝成もそれは重々承知している。




 さて、境界の件である。
 伏見で勝成は備後を拝領するにあたって領地の区割を上記の地域から少し東寄りに変更してほしいと申し出ていた。尾道から西は安芸広島藩領とし代わりに備中笠岡、高屋のふたつを自領に加えてほしいという内容だ。

「尾道三原が要らぬとは、なにゆえでござろうか」と老中からは質問が飛ぶ。
「要らぬ、などという不遜な心からではありませぬ。われらは西国の押さえという役を持ち備後を受領しますゆえ、津をいくつも持つといずれかの守りに不備を生じると存じます。中心となる津があればよい。何しろ、尾道沿岸は伊予にかけて島もかなり多いですからな。そこは旧来からあるものを活かしたらよいと思う。それに……」
「それに?」
「備中の西には天領(幕府領)が置かれておる。さすれば、いざという時のために日頃よりそちらと密な関わりを持つべきでござろう。それゆえ備中笠岡はわが藩で持ち海の守りを固める方がよろしかろうと」
 確かにそれは老中も納得する理由であった。備中東側に天領がいくつも置かれたのは西国との緩衝地帯という意味合いもある。単純に、勝成がもっと領地を広くしてほしいというならば無理だったかもしれないが、提案が幕府の戦略にも有益と思われたので将軍にも諮り、要望は正式に認められた。

 つまびらかにすることはないが、勝成の内には備中で過ごした日々への思いが消えることなくある。

 城の明け渡しが済むと一行はまず、黄葉山神辺城を拠点にして現地を回ることとした。家臣らが領内のあちらこちらを回り村落の様子や地形などを見聞きするのである。現地調査とでも言おうか。もちろん、城地に適した場所を探すのが大きな目的だったので、勝成もできる限り領内を回った。

 調査組は神辺城の麓にある神社『甘濃厳大明神(かんのびだいみょうじん、神辺大明神とも)』を毎朝参拝してから出発していく。ここが神辺という地名の発祥となったと伝えられ、代々の統治者から篤い崇敬を受けていたことを踏まえて、「土地の神にはゆめゆめ礼を失しないように」と勝成が命じたのである。
 早朝、真っ先に仕度を始めるのは中山将監である。彼は伏見に随行したという行きがかり上、真っ先に動かねばと考えている。主が将軍の御前で「新しい城」とはなから言上しているのは、その可能性が十分あるということでもある。しかも、「鎮衛」として期待していると将軍様は仰せになられた。ならばしっかりと備後の地を見て回らなければならない。これから藩の皆が世話になり、場合によっては骨を埋める土地なのだから。そのような心持ちだった。
 参拝を終えて黄葉山の麓に下りると、彼は振り返って山の姿を仰ぐ。神辺城が古いのは事実だが見張らしもよく悪い城ではない。街道も近く往来が多い。海からは離れているが、川は近くを流れている。
「ここで十分なようにも思えるのだが」
 そうつぶやいて中山は領地の見回りに出るのだった。

 旧来の家臣らは知らぬことだが、神辺城には勝成が気にかけていることがらがあった。


 一方、神辺城では勝成の正室であるお珊(さん)の方が臥せっている。このところ古くからの歯痛がぶり返し酷くなっていたのだ。歯痛が酷いとどのような状態になるかはご存じの向きもあるだろうが、この頃は現代のように治療するすべがない。それは患部から広がって重い頭痛を引き起こし、彼女から食欲とまっとうな思考力を奪うほどであった。悪化したのは引っ越しの慌ただしさも影響したのだろうか。もちろん、夫の勝成も見過ごしていたわけではない。医師に診てもらい薬師に薬を調合させ服ませるのだがなかなかよくはならなかった。

 そのようなことは露知らず、神辺城には地元の人びとが頻繁に訪れる。
 中でも新しい藩主に挨拶参りをして今後につなげたいと願う商人や土地の有力者が多かった。福島正則の治世下では主城が安芸広島にあったので、備後は重きをおかれなかったと嘆く人もいた。勝成は訪問者が望めば、できる限り彼らと対面して話を聞くようにしていた。

 土地の情勢を逐一知っておくことは、どんなに些細に思えることでもすべて今後の糧になるのだから。
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