福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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藤井衆は芳井村に還る

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 ある日、神辺城にやって来た医師がいる。年齢はもう古稀を迎えようという頃か、頭髪はすっかり白く少なくなっているのが目立つ。
 名乗りを聞くや否や勝成が飛び出して出迎えた。
「おお、道斎殿、ようお越しくだされた。いつ以来じゃったか……」

 そう呼ばれて深々と挨拶をするのは小坂利直、転じて藤井道斎と名を変えた医師であった。勝成の前妻・お登久(おとく)の実父で、息子・勝重の祖父である。お登久は十年ほど前他家に再嫁していた。それには深い事情があったのだが、憎くて別れたわけではない。なので道斎は今でも変わらず勝成の義父であった。

 藤井道斎はまず、深々と頭を下げる。
「日向守さま、こたび幕府より備後の藩主を命ぜられたよし、この上なく祝着至極に存じます。かような形でこの地に帰還されるとは、夢にも思うとらんかったですけえ、失礼ながらまだ狐に化かされとるような心持ちです。そして、これまでの、藤井衆に対するもろもろのご厚意に心より御礼申し上げます。娘、お登久を娶ってくださった上に、もったいないほどの再嫁先に上げてくださった。離縁は娘が望んだことじゃというに……。それにも関わらず縁者の靱負(ゆきえ)を引き続きお取り立ていただき……」

 勝成はわずかに身を引き、静かに頭を下げた。
「いや、わしこそ済まぬ。お登久にも勝重にも真に不憫な思いをさせた。妻として迎えたにも関わらず、みずから出ざるを得んような仕儀となってしまった。道斎どのにずっとお詫びしたかった。真に済まぬ」
 道斎はゆっくりと首を横に振る。
「日向さま、わしもお登久もさようなこと、いささかも気にしとりませんのんじゃ。わしも幼き折り三村家に世話になりましたので、二代ぶんの大恩がございます。じゃけ、娘がなぜ身を引いたのかはようわかるのです」

 ふと、二人の間に草の香混じりの優しい風が流れた。

 それは備中成羽の、川辺の草むらに吹く春風だった。勝成も道斎もお登久も、成羽にある三村親成の館で世話になった。よく川縁で風に吹かれていたし、常に穏やかだった三村のお屋形(親成)の面影もそこに重ねることができた。
 勝成はしばし淡い回想に耽る。勝成とおとくが出会ったのも、愛し合ったのも、子の勝重が生を受けたのもそこだった。

「それで、お方さまはいかがお過ごしでしょう。もしよろしければお会いしたいのですが」と道斎がいうので、勝成はハッとする。
「ああ、今は具合がようないんじゃ。歯痛が悪化しとってのう。見ていても一向に腫れが引かぬ。夜も眠れぬし、ようやく眠れてもきれぎれで常に頭も痛いと……あれはどうしたらようなるんじゃ、かわいそうでのう」
「それは……とにかく、診てしんぜましょう」

 お珊は医師の到着を告げられると、頭を押さえて自身の痛みを叩く。そして、ゆっくりと起き上がった。肌色は青白く、痩せた腕は小枝のように細い。
「ああ、無理に起き上がらんでもええです。ゆるりとされとってつかあさい」と道斎が声をかける。
「でも、せっかく藤井さまが、お登久のお父さまがお越しくださったのに、かようにみっともない……情けのうございます」とお珊は懸命に身繕いをしている。
「まあ、病んでいるときはどなたもみな同じにございます。さて、失礼ですが触れさせていただきますぞ。お口は開けられますか」
 お珊はうなずいて、明るいところで口を開く。道斎は彼女の口の中をじっくりと改め始めた。
 しばらく考えたあとで道斎は手持ちの帳面に「排膿散 呉茱萸湯 五苓散 半夏瀉心湯 加味逍遥散」(*)などと筆で記し、丸印で囲ったりバツ印を加えたりしている。
「お方さま、こちらの薬をご用意いたしましょう。追って届けさせます。それをしばらく服用くださいませ」
 お珊はようやく微笑む。
「道斎さま、ありがとうございます。わざわざこの城まで来ていただくというだけで、たいへん心苦しく思うとりますのに」
 道斎は意外そうに目をしばたかせる。
「ああ、お方さまはさようなことを気にされとったんですか。ようございませぬな。よけいな心配を背負い込まれてはいかん」
「でも……」とお珊はうつむく。
 道斎は微笑んで、帳面を丁寧に袋に納めている。
「お方さま、昔のことはもうよいのですんじゃ。食欲が進まぬこともございましょうが、つとめて生姜を摂られてつかあさい。少量ずつ、おろすのでも、微塵でも、湯にするのでも結構。私がお願いしたいのはそれだけにございます。またご様子伺いに来ますけえな」
「まことに勿体ないこと、ありがとうございます」とお珊は床の上で礼を述べる。

 彼女が気にかけるのは仕方ない。藤井道斎にとってこの神辺城は忌み嫌って然るべき城だった。
 もちろん、それは勝成も同様に知っていた。
 患者の部屋を辞した後でお珊の言葉を再び勝成に繰り返され、道斎は思わず苦笑した。
「さすが夫婦じゃのう。気心が通じとって実に結構なことじゃが、さようなことをいちいち気にしとったら戦世に逆戻りとなりますぞ。ここへ婿どのや孫が安泰で、藩主として帰ってきたのですんじゃ。加えて恩ある三村の姫様をお助けすることもできるようになり申した。喜ぶことしかできませぬ」



 藤井道斎、いや備中を拠点にかつて勢力を誇った豪族藤井氏と神辺城のことについて少しだけ触れておく。

 道斎は備中芳井(現在の岡山県井原市)を拠点に勢力を誇った藤井氏の出だった。四十年あまり前のこと、毛利と尼子の争いに際して当主の藤井皓玄(こうげん)は尼子方に付いた。そして自身が二番家老を勤めていた神辺城を奪取しようとしたのだ。毛利に付いた城主杉原氏を追い出して奪取は成功した。しかしすぐに小早川隆景率いる毛利の大軍が神辺城に攻め込んできた。
 藤井方はひとたまりもなく敗北した。皓玄は浅口(岡山県浅口市)まで逃げ延びた末に倒れた。小早川の軍勢は勢いに任せて芳井の地まで攻め込んできた。藤井氏の係累は次々と討たれ生き残った者はバラバラに逃げ落ちていった。
 道斎は皓玄の四男で、神辺城の争奪戦のときはまだ十歳だった。そこで成羽の三村親成のもとに預けられ、藤井の一族郎党が追討・離散の憂き目に遇うに至ると、美作の土豪である小坂氏に養子に出された。道斎はそこで利直という名を得て成長し医師になるべく学び、妻を娶った。

 つまり、生まれ故郷を追われ一族郎党が離散するきっかけがこの神辺城なのである。そのいきさつを勝成も、三村家の出であるお珊もよく知っている。なので道斎の心情を諮ってしまうのだ。

「……お方さまに処方する薬は以上です。しばらく痛みは続くかもしれませんが、様子を見ながら薬を続けていただければよいかと」
「美作からまた足を運んでくれるんか」と勝成は尋ねる。
「日向さま、そのことでご相談があるのですんじゃ」と道斎は真剣な顔になる。

 彼の頼みごとは藤井の一族郎党のことであった。毛利が備中の一帯から手を放して以降、藤井氏の追討も過去の話になった。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)以降は一人、二人と芳井に戻る人も現れていた。そうはいっても離れて長くなると、人も世代も変わってしまったところにおいそれとは戻れなくなる。
「じゃけえ、わしはもう美作を畳んで堂々と芳井に戻ろうと思うとりますんじゃ。されば、他の藤井衆も戻ってきやすいじゃろう。ただ、あまりそれが目立つと面倒が起こるやもしれません。日向さまにはたいへん僭越な願いながら、天領の代官さまにお取り計らいいただくよう、お願い申し上げます」

 勝成はその願い出を真剣に聞いている。
 道斎は勝成の様子を見て、一気呵成に自身の希望ばかり述べてしまったことを後悔した。確かに新しい領国を与えられてすぐ、いくら縁者であるとはいってもそうそう何でもできるわけがない。優先するものは他にいくらでもあるだろう。藤井家の再興は永年抱き続けた切なる願いではあるが、急いでものを言い過ぎたのではないか。そのように考えたのである。

 勝成はふっと笑って道斎を見た。
「道斎どの、わしは幕府から備後を拝領するにあたり、地図を広げつつ区割りを話し合うた。そしてよう思案して、もとより予定されとった尾道は安芸に譲ることにした。こちらには鞆(とも)という津もあるけえな」
 道斎は勝成が急に話の向きを変えたので、面食らって目をぱちくりさせた。はっきり断れないので遠回りしているのだろうかと考えた。そのような懸念をよそに、勝成は話し続ける。
「そして、尾道三原の替わりに笠岡と高屋村を預かることにした。まあ、天領を補佐するという意味合いじゃがの」
「高屋といえば……芳井村のすぐ南」
 勝成は頭をかく。
「後月(しづき、芳井村がある)丸ごとと言えればええんじゃろうが……道斎どのの言う通り、芳井村は天領(幕府直轄領)の一部となり代官が入る。じゃが、高屋がわが藩の国境となる。そこから芳井への往来が通じておるけえ、関わりも密になろう。無論、藤井の衆が芳井に戻るに際して不都合がないよう申し伝えるし、あるいは高屋に住むこともできる。ここに来てもええ。
 じゃけえ道斎どの、藤井の衆はいつでも遠慮なく芳井村に戻れますぞ」

 道斎はまた目をぱちくりさせた。
 自分が言うまでもなかった。
 目の前の藩主ははなからそのつもりで進めていたのだ。道斎は口をぱくぱくさせて巧く話せない様子だったが、パッとうつむいた。そして「うう……」と嗚咽をあげはじめた。勝成は静かに道斎が落ち着くのを待っている。

「それはもうだいぶ前になるが、お登久に聞いたことがあったんじゃ。道斎どのが『いつか芳井村に帰る』と心に誓っておったことを」

「ありがとうございます」と言って道斎は溢れる涙を拭い続けていた。


※漢方の処方についてはお珊の症状から類推したもので、医学的根拠や臨床例にもとづく確定的なものではありません。ご了承ください。
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