福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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川を遡っていく主従

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 勝成から五日間の期間を与えられて、再度城廻りの地図とにらみ合いをしている神谷治部である。この間は指揮下の普請組の皆を休みにしてひたすら治水・利水事業の再検討をしていた。
 水をどこから引いてくるのか。
 芦田川の本流を付け替えて城北の吉津川に導くのは、氾濫した場合かなり危険であるというのは身をもって知った。本流を替えるのが無理ならば、もっと遡った地点に水路を築き、支流(運河)を作るしかない。ならばどこか。地図の芦田川沿いに筆で点を打ちながら、ああでもない、こうでもないと考えを巡らせ続けた。
 しかし、どうにも埓があかない。
 このようなとき、誰かに相談してみたいと思うのだが、総奉行の中山や土木普請の小場を訪ねていくのは少し憚られた。何しろ普請は水ばかりではない。堀も城地も城下町もあるのだ。他の作業に関わっている余裕はない。ある程度考えがまとまっていないと、話ができるものではない。
 そうするとつい勝成の館の方へ足が向いてしまうのである。主君にじかに相談するというのは、いくら相手が気さくな性格だとしても通例ではないのだが、先日ともに本庄村まで視察に行ったこともある。「ええい、ままよ」とばかり神谷は常興寺山の麓の館に出向いていった。
 通りがかりの小さな田を見ると、まだ泥水がだいぶ残っている。村落の人がふたり、「もう少し水がはけてくれりゃあええがのう」と話をしていた。
 神谷はその様子を眺めながら、どんな小さな場所でも水がうまく働いてくれることが必要なのだと感じる。もし、城下町の一帯に上水が具合よく敷設できれば、この辺りからずっと先までいい塩梅の広大な稲作地ができるやもしれぬ……と神谷はしばらく想像の世界に浸っている。
 ただし、現在はそれはまだ遠い夢のようなものだった。神谷は先を急ぐ。

 館に着くと勝成は不在だった。用人が出てきていう。
「殿は神辺の方へいったん入られてから、高屋に向かうとおっしゃられとりました。一両日かかると」
「は? このようなときに高屋へ? あちらの方は大雨の害もほぼなかったと聞いたが」と神谷は驚く。
 用人も首を傾げているが、ひとつ思い出したようで付け加える。
「神辺にお発ちになる前に、藤井さまに急ぎの文を出しとられました。もう届いとるでしょうな」
「藤井さま、とは靱負どののことか?」
「いえ、備中芳井の藤井道斎さまにございます」
「は? 大坂のお登久さまのお父上か……なぜ?」
「はて、なぜでしょうな」と用人はまだ首を傾げている。
 殿は「なぜだろう」と周囲に思わせる行動が多いような気がする、と神谷は思う。
 特に備後に来てからは顕著かもしれない。三河刈屋や大和郡山ではこれほどではなかった。また、戦に際しては指示と目的が常にはっきりとしており、下が悩むようなことはなかった。
 いや今も、特に誰かが殿の行動に悩んではいるわけではないのだが……。
「あるじはただ、少し先を見て動いているのだろう」と皆が推測していて、いつしか家中において暗黙の了解になっているように神谷は思う。

「だとすると、高屋行きも何か考えがあってしておられるのだろう。ずっと見とるとつくづく、殿は動きながら考えるお方だで……わしもそれぐらいはせんといかん」

 神谷は館を出ると本庄村の方に歩いていった。



 芦田川の取水をどこに定め直すか、描いた地図を見ていても答えは出ない。土地の高低も水量も今一度確かめよう。幸い、水も引き始めている。芦田川を遡って検分してみようーーと思い立ったのだ。それは、「動きながら考える」という藩主の振る舞いが正解であると感じたからである。
 神谷は歩いていく。

 本庄村を進んでいくと山々が現れ川の東側に迫っている。高い山々ではない。現在の単位でいえば七〇~二〇〇メートルに届くぐらいであろうか。対岸に見える郷分村(ごうぶんむら)の方にも同じように山々が現れている。
「この山々で流れが狭められる分、川がくねくねと曲がり勢いがいや増すのだな」と神谷はつぶやいてさらに川を遡る。見ていると対岸(西岸)の郷分村から奥はずっと山々が続いていて、平地はわずかだ。一方、神谷がてくてくと歩いている東岸は山が途切れて平地になった。
「うーむ、ここは先だっての大雨の害は大丈夫だったのだろうか」
 近くを歩いていた村人に尋ねると、「先日も藩のお役人さまに尋ねられましたなあ。この辺りは水浸しになりましたが人馬家屋が流されるほどではありませんでした」ということだった。
「そうか、それは何より」と神谷は笑顔になる。
 ただ、村人は表情を曇らせている。
「ここはまだましでしたが、ここより上手の方はひどいありさまでしたんじゃ」
「えっ、そうなのか。この辺りは開けているのでより水が来とるんかと思うたが」
 村人は首を横に振る。
「見てもろうたらお分かりになるかと存じますが……お役人さま、今に始まったことではないのですんじゃ。ここから北は山間の低い土地でこれまでもう何度も、何十回も水に呑まれとる。じゃけえ、集落を出ていってしもうた者も少なくはございません。大水のときは舟に乗っておるほどですが、何しろ水神さまの御はからい、致し方ごぜえませんのんじゃ」
 神谷はこの上流の集落に豪雨の被害があったのは聞いていた。しかしそれがどれほどのものかははっきりとつかんでいなかった。村人に礼をいうとまた神谷は歩きだした。
 常興寺山から都合一里半ほど歩いただろうか。村人が言っていた風景がだんだんとあらわになってきた。
 そこはちょうど、芦田川がゆるやかに曲がり流れる方向を変える地点だった。そこにもうひとつの川が東から合流しているのが見えた。
 もう大雨による濁った泥水は川には流れていない。それでも溢れ出した水が地面一面に残っている。本流の芦田川が勢いづいて流れるところに、もうひとつ川が加わっているのだ。溢れる、氾濫するだろうと容易に推測できる。しかし、目のあたりにしないと本当の状況は分からない。
「かような有り様になってしまうとは……」
 神谷は呆然としていた。

 水普請の段取りを考える際にここまでは来ていたはずだった。ここは城地からおよそ一里半、芦田川がゆるやかに流れを変えて高屋川と合流するのも自身の目で見た。くねくねとした流れの上流は府中だということも案内役に聞いた。だが、そのときとは全く違う光景が目の前に広がっていた。川なのか陸地なのか判別も難しい箇所が広がっている。
 先日本庄村まで見回って木之庄の方に出てしまったのは失敗だったと神谷は痛感する。泥水に足を取られ、あまり進まないうちに見回りを終えてしまったことを悔やんだ。
 もっと遡ればよかった。
 自分がもっともそうするべき立場だったのに。
 しかし、今、神谷はそれを見た。
 余計なことを頭から振り払うように彼はつぶやく。
「川が大きく曲がる部分は大雨でたやすく溢れてしまう。内側にも水は行っとるが山が寄せているからか、外側がより顕著に氾濫している。氾濫の後なので正確な判断はできないが、何を置いても高屋川が合流しているのが大きい理由だと考えられる。手がつけられんようになっとるでいかん、いかん、いかんがや」
 神谷は頭を抱える。そして突然「そうかっ」と小さな声を上げた。
 そうだったのか。
 高屋川……。

 神谷は水が広がっている辺りを避けつつ川に沿って進んでいく。芦田川はくねくねとしながら西から下りてくる。おそらくこの地点より上流も川は暴れていたのだろうと思いつつ、そこから二里ばかり川を遡って確かめると、国境(くにざかい)の村で引き返した。再び氾濫した岩切・羽賀の集落をよく見てから隣の片山を抜けて東の往来に進んだ。川はいったん離れるが、しばらく歩くとまた高屋川が現れる。

 殿がなぜ高屋に行ったのか思い至らなかった。考えればすぐに分かることであるのに。

 往来を進むと、その向こうに黄葉山と神辺城の姿が見えてくる。
 神谷は麓の明神社に進んでいく。そして普請の成功を切実に祈願してから登城する。家老の上田掃部にあいさつをすると紙と筆を借りる。それから神辺城の一室で一心不乱に見てきたものを書き留めていく。


 神谷が現地を回って気づいたように、勝成は少数の伴を連れ、神辺から高屋川を検分して回っていた。後月郡(しづきぐん)に入ってからは藤井道斎が駆けつけ一行に加わっている。天領(幕府直轄などなど)に一歩踏みいっているからである。代官からの許可は得ている。
 高屋川の流路は複雑である。神辺の山中に始まり東に流れ備中に入り、高屋で流れを西に変える。そしてまた備後神辺に戻り西進したのち、南へ方角を変えて芦田川と合流している。備後と備中をまたぐほど大きな、ひらがなの「つ」の字のように流れて芦田川に合流しているのだ。
 
 高屋の川岸までたどり着くと道斎が勝成に説明する。
「この川は高屋に出る途中で小田川と合流しとりますんじゃ。じゃけえ、そこからは水量も多くなり、一気に西へ、備後へと流れるのです」
「ふむ、さようか……小田川も曲がりくねっておるんかのう」
「いえ、神石から山を縫って下りてくる川で、芳井の方にも流れとります。そこから下った地点で小田川はふたつに分かれますのんじゃ。西の流れは高屋川に流れ込み、東は平地を流れていきますな」
 勝成はしばらく思案している。
 そして、ぽつりとつぶやく。
「分かれた一方が来るんか……小田川を高屋川に流れ込まぬようにした方がええのかもしれんのう」
 道斎はそれを聞いてか聞かずか、これまたつぶやくように話し始める。
「医者が病と向き合うときと同じかもしれませぬな。病の症状を抑えるのもじゃが、元になっているものが何なのかをよう見極めるのが最も肝要かと存じます」
 勝成は老いた義父を見てうなずく。
「本腰を入れてかからんとな」
 道斎はその言葉を聞くとにっこりと笑ってパン、パンと勝成の腕を叩いた。
「わしゃ、婿どのと胸襟開き話したことがなかったが、まことに行動が早く、先を見る智恵を持ち、何より肚の座った男じゃ。わが娘お登久は佳い男に見初められたもんじゃ」

 老人が嬉しそうに語るのを、勝成は嬉しくも、気恥ずかしいような心持ちで聞くのだった。
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