福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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思案しようぞ

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 被害は水際で顕著だろう。



 勝成はそう見当を付けていた。
 芦田川周辺の見回りに赴いた勝成、神谷治部の一行はぬかるみに足を取られつつ歩を進める。城地下の野上村辺りはまだましだったが、進めば進むほど足下の様子はひどくなる。十一町(約一・二km)も歩けば目的地にたどり着けるはずなのだが、なかなか思うように進まない。家屋への浸水はない様子だが方々に泥混じりの水溜まりがぼこぼことできていて避けて通るのに難渋する。ようやく城域の西にある本庄村までたどり着く。
 その先に芦田川が見えてくるのだが……。
 神谷は昨日作業をしていた箇所に目をやるが、氾濫したのか川幅が広がっていて、どこだか見当がつけられない。いつもの蒼く悠々とした姿はどこへやら、茶色く濁った水はまだ強い勢いで疾っていた。川にはまだ近寄れないが、容易に昨日の普請場が呑み込まれたのが分かる。神谷はきのうその中に自身らがいたことを思いとゾッとした。

 まかり間違えれば皆、この暴れる流れに呑み込まれていたやもしれぬ……。

「呑まれて、わやになったか……」
 勝成の問いに、神谷は「はい」とだけ答えた。
 神谷治部はがっくりと肩を落としている。気落ちするのも無理はない。やっと始まったばかりの区画の普請作業が水の泡、いや、濁水になってしまったのだから。
 しかしそれはまだ全体のうちの一部に過ぎなかった。
「治部、向こう岸が見えるか」と勝成が目を西に向ける。
 その声にハッとして神谷は対岸を見渡す。こちら岸よりはるかに浸水している区域が広いようだ。あちら岸には北から郷分村、山手村、佐波村、神嶋村(神嶋の商人町)、草戸村がある。山の麓に立つ常福寺の五重塔ははっきりと認められるので無事なようだ。しかし他については建物がはっきりと判別できない。人の姿は見えるがやはり川には近づけないようだ。草戸中洲にある稲荷も見えるが集落は大丈夫なのだろうか。
 想像を超える規模の水害だという実感がひしひしと押し寄せる。

「治部、普請場が無うなったんは誠に無念じゃが、打ちひしがれとる暇はない。被害がどれほどかを知るのが焦眉の急じゃ」
「ははっ」と神谷は答えるが、思考はほぼ止まっている。勝成も平静を保っているが、内心ではかなり動揺していた。
「今しばらく向こう岸には出られん。今日はこちら岸の様子を一通り調べるんじゃ。城に戻ったら将監や小場ら皆の報告も加味して事後の方策を考えよう」
 見ると、組頭はじめ一行は辺りに出ている人びとに様子を聞き始めてる。幸い、こちら岸は家屋が水浸しになるようなことはなく、氾濫した地域は限られていたようだ。本庄村の南方は元から湿地で一種の緩衝帯になっている。一行は北へ進み、木ノ庄村から吉津の方を見回ることにした。


(現代の芦田川)

 そのとき、勝成に声をかけた者があった。
「おう、六左衛門、久しぶりじゃのう」
 勝成が振り向くと、そこには白装束の山伏の姿があった。長い錫杖と法螺貝を手にし、鈴懸に結袈裟を下げている老人である。ただ、装束は泥まみれである。
「おお、是恩どの!間違いない、是恩どのではないか。まこと久しぶりじゃ!ずいぶんと老けたのう」
「それはお互い様というもんじゃ。貴殿も爺いに足を突っ込んどるわ。なりもずいぶん変わったようじゃが、お互い泥まみれなのは如何なるを」と山伏は問う。
「泥まみれは兎も角、どこからが人の地じゃったんか、よう判らんようになってしもうたでいかん」と勝成は返す。

 是恩は勝成のずいぶん旧い知り合いである。ずいぶん、というのは曖昧に過ぎる。かれこれ三十五年ほど前、勝成は六左衛門と名乗って中国地方を放浪していた。放浪というと美しい響きだが、実のところは宿無しのお尋ね者だった。以降彼は備後・備中の人々と縷々知り合ってきたのだが、この山伏と知り合ったのも同じ頃だ。
 当時是恩は安芸から備後に来て、次は石鎚山か熊野へ行こうと思案していた。六左衛門の身の上を聞くと虚無僧の装束一式をどこからか持ってきて渡した。寄る辺ない孤独な身という意味では二人とも近い立場であった。不思議に意気投合し星空を屋根にして語り合い、しばらくともに過ごした。
 長じて六左衛門は備中の三村家に召し抱えられて備中に暮らし、奉公構を解かれて大名となった。そして是恩は山伏として生きているのである。それぞれの時を過ごして再会した二人は昔話もそこそこに、川を見る。
「わしが世話になっておる寺はいくらか水が入ってきたぞ。住持とご本尊を運んで高いところに移したがえらく重かったのう」
「そうか。やはり川沿いの寺社は危うい。移さねば……」
 思案している勝成を見ながら山伏は言う。
「貴公、これはひとつの垂訓なんじゃ」
「垂訓?」と勝成は繰り返す。
「そうじゃ、決して自然を甘く見てはならんちゅうこっちゃ。こたびの大水でそれはようわかったろう」
 勝成は「ああ、じゃけえ、付け替えを……」と言いかけた。それを聞くと、是恩は視線をまっすぐ勝成に投げる。
「貴公にしがない山伏から言上しんぜよう。貴公がそれを容易い仕事と思うとったなら、それは大きな誤りじゃ」
「付け替えは誤りか?」
「否、城を一昼夜で造るのは人を使えば可能かもしれぬが、川の付け替え、山の切り崩しなどを同じに考えたらいかんちゅうこっちゃ。人の家を移すこともそうじゃ。住み慣れた家に思いを強く抱く者もおる。あれもこれもひょいとできると思うたら間違いぞ」

 勝成はその言葉を聞いてしばらく空を仰いだ。芦田川が流れてくるところ、府中の方角にまだ雲は残るが、芦田川岸のこの辺りはほとんど雲が払われている。足下に目をやると、泥水に陽光が反射し、青い空が映っているのが見える。
 それがやけに眩しい。
「そうじゃな。わしはちいとばかり、気が急いておるのかもしれん。家中の者に同じような小言を言ったばかりだが、おのれのことは分からぬもんじゃ」
「わしは神仏ではないから偉そうなことは言えぬが万事、様子を伺いながら、宥めながら、仲良うしながらやっていくのがええんじゃなかろうかのう。わしらの心得と変わらぬわ」
「是恩どのには改めて教えを乞わねばならぬのう」
「禄はたんまりと頼むぞ」と是恩はニヤリとする。そして、ポン、ポンと勝成の肩を叩いて去っていった。

 少し離れたところでその様子を見ていた神谷治部は、おそるおそる勝成に近寄る。旧知の人間のようだったが、いきなり襲いかかるなどの事態になれば自分が出ていかなければと構えていたのである。勝成は神谷を見てニヤリと小さく笑い、手招きをして呼んだ。
「おいおい、そんなところで構えていたら主君はとっくにお陀仏じゃぞ」
「殿は十分己が身を守れるかと思いまして」と神谷が頭を垂れる。平伏するには地面の泥々加減が酷過ぎるのだ。
 勝成はこらえていたが、勢いよく笑いだした。これには神谷も同道していた者らも、一帯で泥かきをしていた人々も驚いて一斉に勝成を見た。
「おうおう、この辺りもひどいことになっとる。人を出すで、何より片付けが先じゃ。治部、お天道さまもお出ましじゃ、組頭を呼んでくれんか、木ノ庄村に行く前にちょいと手伝っていくぞ」
 神谷は目をしばたいた。
 川の付け替えは今後どうなるのだろうという不安が一瞬頭をよぎったが、確かにどちらが優先することがらかは言うまでもない。
「はい、ただちに」

 あくる日、藩の緊急会議が行われた。
 領内の方々に家臣および用人らが諸々散って見回った大雨水害の被害の状況が報告された。もちろん現地の住民による被害の申し立てもあった。
 芦田川沿いの本庄村・木ノ庄村については神谷治部と勝成、神辺周辺の安那郡については上田掃部、城地回りの深津郡は小場兵左衛門、芦田川上流の万能倉・新市方面、笠岡・高屋方面、亀石郡、甲奴郡についても人を出していた。城地および開削地、掘については吉津川の水かさがさほど増えなかったため問題なく、その点のみ一同はホッと胸を撫で下ろした。
 神谷や勝成が見た芦田川対岸については、鞆の城館の下見に出ていた藤井靱負と三村親良が急ぎ駆けつけて報告した。彼らはようやくこの日になって、舟が使えるようになったため会議に間に合ったのである。
 話をまとめると、やはり芦田川流域の被害が最も大きい。氾濫によって浸水・破壊された家屋があちこちに見られ、田畑は水浸しになっている。常福寺の五重塔は無事だったが、本殿は一部損壊。草戸村、草戸稲荷周辺も浸水被害がある。また、神嶋市のある神嶋村も浸水があり商家も店を開けられないありさまだという。
「靱負や親良には、命じていないにも関わらず、進んで流域西岸の様子を報告してもろうた。礼を言うぞ」と勝成は二人の労を労う。勝重も二人を見て、感謝の意を込めて頭を下げる。

 話を聞きながら、神谷の頭は混沌の中に陥っていた。あの時点で吉津川への導流が済んでいたらどうなっていただろうと考える。

 もし芦田川の本流を城の背に流したら、それはさらなる水害を生んだかもしれぬ。あれほどの勢いになるとはまったく考えとらんかった。それでは、どうしたらいいのだ。芦田川の主流を付け替える工事に再度取り組むべきなのだろうか。新たな城下町に上水道を敷くためには、芦田川の水は必要不可欠だ。洪水も怖いが日照りも怖いのだ。しかし、それ以前に川が暴れないような方策を考えねばご破算になってしまう。

 神谷が難しい顔をして悩んでいるのを勝成はじっと見ている。確かに、水普請の最も大きな普請計画が暗礁に乗り上げているのだ。責任者として悩むのは当然のことだろう。

 報告があらかた済むと、勝成が皆に呼び掛ける。
「城および水普請作業は十日ほど休みにする。自分の家の修繕が必要な者もおるじゃろう。雨や泥の中で作業が続いたので、疲れとる者もおるはず。さような場合は休むようにしたらええ。ただ、芦田川や他の川の流域は土砂や流木、石の撤去が入り用じゃ。普請組に呼びかけやる気のある者にはその作業を担ってもろうたらええんじゃなかろうかのう」
 中山や小場が「承知つかまつりました」と請け負う。
 神谷がそこで、主君に問う。
「殿、今後の普請、特に水普請につきましてはいかがお考えでしょうや」
 勝成は目をしばたいて答える。
「思案しようぞ」
「は?」と神谷は素頓狂な声をあげる。
「芦田川は、直接引っ張ってくるにはちいと猛々しいようじゃ。こたびのことは、それをわしらに教えてくれたと思うとる。それが数年、数十年に一度だとしても、できるだけ避けられるに越したことはない。神谷も悩んどるようじゃが、ここは皆で思案しようぞ。五日後にまたここに集まれ。そこで話し合い今後の計画を決める」

 これで散会となり、勝成は上田とともに神辺城の方に向かう。勝成は勝重に同行するか尋ねる。
「わしは、靱負や親良と鞆に向かいまする」と勝重は答える。
「あい承知」と勝成は笑顔で息子を見送った。

 この会議で指示されたように、ここから先しばらく、藩と普請組の人々は流木や土砂の撤去に取りかかる。普請工事も一端休みとなったが撤去作業は日当が支払われたため、人は十分に集まった。これは災害復旧の一貫であるが、今後城下町をどう作っていくかという計画をじっくり見直すための重要なときであった。

 元和六年(一六二〇)五月が過ぎていく。


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