18 / 35
思案しようぞ
しおりを挟む被害は水際で顕著だろう。
勝成はそう見当を付けていた。
芦田川周辺の見回りに赴いた勝成、神谷治部の一行はぬかるみに足を取られつつ歩を進める。城地下の野上村辺りはまだましだったが、進めば進むほど足下の様子はひどくなる。十一町(約一・二km)も歩けば目的地にたどり着けるはずなのだが、なかなか思うように進まない。家屋への浸水はない様子だが方々に泥混じりの水溜まりがぼこぼことできていて避けて通るのに難渋する。ようやく城域の西にある本庄村までたどり着く。
その先に芦田川が見えてくるのだが……。
神谷は昨日作業をしていた箇所に目をやるが、氾濫したのか川幅が広がっていて、どこだか見当がつけられない。いつもの蒼く悠々とした姿はどこへやら、茶色く濁った水はまだ強い勢いで疾っていた。川にはまだ近寄れないが、容易に昨日の普請場が呑み込まれたのが分かる。神谷はきのうその中に自身らがいたことを思いとゾッとした。
まかり間違えれば皆、この暴れる流れに呑み込まれていたやもしれぬ……。
「呑まれて、わやになったか……」
勝成の問いに、神谷は「はい」とだけ答えた。
神谷治部はがっくりと肩を落としている。気落ちするのも無理はない。やっと始まったばかりの区画の普請作業が水の泡、いや、濁水になってしまったのだから。
しかしそれはまだ全体のうちの一部に過ぎなかった。
「治部、向こう岸が見えるか」と勝成が目を西に向ける。
その声にハッとして神谷は対岸を見渡す。こちら岸よりはるかに浸水している区域が広いようだ。あちら岸には北から郷分村、山手村、佐波村、神嶋村(神嶋の商人町)、草戸村がある。山の麓に立つ常福寺の五重塔ははっきりと認められるので無事なようだ。しかし他については建物がはっきりと判別できない。人の姿は見えるがやはり川には近づけないようだ。草戸中洲にある稲荷も見えるが集落は大丈夫なのだろうか。
想像を超える規模の水害だという実感がひしひしと押し寄せる。
「治部、普請場が無うなったんは誠に無念じゃが、打ちひしがれとる暇はない。被害がどれほどかを知るのが焦眉の急じゃ」
「ははっ」と神谷は答えるが、思考はほぼ止まっている。勝成も平静を保っているが、内心ではかなり動揺していた。
「今しばらく向こう岸には出られん。今日はこちら岸の様子を一通り調べるんじゃ。城に戻ったら将監や小場ら皆の報告も加味して事後の方策を考えよう」
見ると、組頭はじめ一行は辺りに出ている人びとに様子を聞き始めてる。幸い、こちら岸は家屋が水浸しになるようなことはなく、氾濫した地域は限られていたようだ。本庄村の南方は元から湿地で一種の緩衝帯になっている。一行は北へ進み、木ノ庄村から吉津の方を見回ることにした。
(現代の芦田川)
そのとき、勝成に声をかけた者があった。
「おう、六左衛門、久しぶりじゃのう」
勝成が振り向くと、そこには白装束の山伏の姿があった。長い錫杖と法螺貝を手にし、鈴懸に結袈裟を下げている老人である。ただ、装束は泥まみれである。
「おお、是恩どの!間違いない、是恩どのではないか。まこと久しぶりじゃ!ずいぶんと老けたのう」
「それはお互い様というもんじゃ。貴殿も爺いに足を突っ込んどるわ。なりもずいぶん変わったようじゃが、お互い泥まみれなのは如何なるを」と山伏は問う。
「泥まみれは兎も角、どこからが人の地じゃったんか、よう判らんようになってしもうたでいかん」と勝成は返す。
是恩は勝成のずいぶん旧い知り合いである。ずいぶん、というのは曖昧に過ぎる。かれこれ三十五年ほど前、勝成は六左衛門と名乗って中国地方を放浪していた。放浪というと美しい響きだが、実のところは宿無しのお尋ね者だった。以降彼は備後・備中の人々と縷々知り合ってきたのだが、この山伏と知り合ったのも同じ頃だ。
当時是恩は安芸から備後に来て、次は石鎚山か熊野へ行こうと思案していた。六左衛門の身の上を聞くと虚無僧の装束一式をどこからか持ってきて渡した。寄る辺ない孤独な身という意味では二人とも近い立場であった。不思議に意気投合し星空を屋根にして語り合い、しばらくともに過ごした。
長じて六左衛門は備中の三村家に召し抱えられて備中に暮らし、奉公構を解かれて大名となった。そして是恩は山伏として生きているのである。それぞれの時を過ごして再会した二人は昔話もそこそこに、川を見る。
「わしが世話になっておる寺はいくらか水が入ってきたぞ。住持とご本尊を運んで高いところに移したがえらく重かったのう」
「そうか。やはり川沿いの寺社は危うい。移さねば……」
思案している勝成を見ながら山伏は言う。
「貴公、これはひとつの垂訓なんじゃ」
「垂訓?」と勝成は繰り返す。
「そうじゃ、決して自然を甘く見てはならんちゅうこっちゃ。こたびの大水でそれはようわかったろう」
勝成は「ああ、じゃけえ、付け替えを……」と言いかけた。それを聞くと、是恩は視線をまっすぐ勝成に投げる。
「貴公にしがない山伏から言上しんぜよう。貴公がそれを容易い仕事と思うとったなら、それは大きな誤りじゃ」
「付け替えは誤りか?」
「否、城を一昼夜で造るのは人を使えば可能かもしれぬが、川の付け替え、山の切り崩しなどを同じに考えたらいかんちゅうこっちゃ。人の家を移すこともそうじゃ。住み慣れた家に思いを強く抱く者もおる。あれもこれもひょいとできると思うたら間違いぞ」
勝成はその言葉を聞いてしばらく空を仰いだ。芦田川が流れてくるところ、府中の方角にまだ雲は残るが、芦田川岸のこの辺りはほとんど雲が払われている。足下に目をやると、泥水に陽光が反射し、青い空が映っているのが見える。
それがやけに眩しい。
「そうじゃな。わしはちいとばかり、気が急いておるのかもしれん。家中の者に同じような小言を言ったばかりだが、おのれのことは分からぬもんじゃ」
「わしは神仏ではないから偉そうなことは言えぬが万事、様子を伺いながら、宥めながら、仲良うしながらやっていくのがええんじゃなかろうかのう。わしらの心得と変わらぬわ」
「是恩どのには改めて教えを乞わねばならぬのう」
「禄はたんまりと頼むぞ」と是恩はニヤリとする。そして、ポン、ポンと勝成の肩を叩いて去っていった。
少し離れたところでその様子を見ていた神谷治部は、おそるおそる勝成に近寄る。旧知の人間のようだったが、いきなり襲いかかるなどの事態になれば自分が出ていかなければと構えていたのである。勝成は神谷を見てニヤリと小さく笑い、手招きをして呼んだ。
「おいおい、そんなところで構えていたら主君はとっくにお陀仏じゃぞ」
「殿は十分己が身を守れるかと思いまして」と神谷が頭を垂れる。平伏するには地面の泥々加減が酷過ぎるのだ。
勝成はこらえていたが、勢いよく笑いだした。これには神谷も同道していた者らも、一帯で泥かきをしていた人々も驚いて一斉に勝成を見た。
「おうおう、この辺りもひどいことになっとる。人を出すで、何より片付けが先じゃ。治部、お天道さまもお出ましじゃ、組頭を呼んでくれんか、木ノ庄村に行く前にちょいと手伝っていくぞ」
神谷は目をしばたいた。
川の付け替えは今後どうなるのだろうという不安が一瞬頭をよぎったが、確かにどちらが優先することがらかは言うまでもない。
「はい、ただちに」
あくる日、藩の緊急会議が行われた。
領内の方々に家臣および用人らが諸々散って見回った大雨水害の被害の状況が報告された。もちろん現地の住民による被害の申し立てもあった。
芦田川沿いの本庄村・木ノ庄村については神谷治部と勝成、神辺周辺の安那郡については上田掃部、城地回りの深津郡は小場兵左衛門、芦田川上流の万能倉・新市方面、笠岡・高屋方面、亀石郡、甲奴郡についても人を出していた。城地および開削地、掘については吉津川の水かさがさほど増えなかったため問題なく、その点のみ一同はホッと胸を撫で下ろした。
神谷や勝成が見た芦田川対岸については、鞆の城館の下見に出ていた藤井靱負と三村親良が急ぎ駆けつけて報告した。彼らはようやくこの日になって、舟が使えるようになったため会議に間に合ったのである。
話をまとめると、やはり芦田川流域の被害が最も大きい。氾濫によって浸水・破壊された家屋があちこちに見られ、田畑は水浸しになっている。常福寺の五重塔は無事だったが、本殿は一部損壊。草戸村、草戸稲荷周辺も浸水被害がある。また、神嶋市のある神嶋村も浸水があり商家も店を開けられないありさまだという。
「靱負や親良には、命じていないにも関わらず、進んで流域西岸の様子を報告してもろうた。礼を言うぞ」と勝成は二人の労を労う。勝重も二人を見て、感謝の意を込めて頭を下げる。
話を聞きながら、神谷の頭は混沌の中に陥っていた。あの時点で吉津川への導流が済んでいたらどうなっていただろうと考える。
もし芦田川の本流を城の背に流したら、それはさらなる水害を生んだかもしれぬ。あれほどの勢いになるとはまったく考えとらんかった。それでは、どうしたらいいのだ。芦田川の主流を付け替える工事に再度取り組むべきなのだろうか。新たな城下町に上水道を敷くためには、芦田川の水は必要不可欠だ。洪水も怖いが日照りも怖いのだ。しかし、それ以前に川が暴れないような方策を考えねばご破算になってしまう。
神谷が難しい顔をして悩んでいるのを勝成はじっと見ている。確かに、水普請の最も大きな普請計画が暗礁に乗り上げているのだ。責任者として悩むのは当然のことだろう。
報告があらかた済むと、勝成が皆に呼び掛ける。
「城および水普請作業は十日ほど休みにする。自分の家の修繕が必要な者もおるじゃろう。雨や泥の中で作業が続いたので、疲れとる者もおるはず。さような場合は休むようにしたらええ。ただ、芦田川や他の川の流域は土砂や流木、石の撤去が入り用じゃ。普請組に呼びかけやる気のある者にはその作業を担ってもろうたらええんじゃなかろうかのう」
中山や小場が「承知つかまつりました」と請け負う。
神谷がそこで、主君に問う。
「殿、今後の普請、特に水普請につきましてはいかがお考えでしょうや」
勝成は目をしばたいて答える。
「思案しようぞ」
「は?」と神谷は素頓狂な声をあげる。
「芦田川は、直接引っ張ってくるにはちいと猛々しいようじゃ。こたびのことは、それをわしらに教えてくれたと思うとる。それが数年、数十年に一度だとしても、できるだけ避けられるに越したことはない。神谷も悩んどるようじゃが、ここは皆で思案しようぞ。五日後にまたここに集まれ。そこで話し合い今後の計画を決める」
これで散会となり、勝成は上田とともに神辺城の方に向かう。勝成は勝重に同行するか尋ねる。
「わしは、靱負や親良と鞆に向かいまする」と勝重は答える。
「あい承知」と勝成は笑顔で息子を見送った。
この会議で指示されたように、ここから先しばらく、藩と普請組の人々は流木や土砂の撤去に取りかかる。普請工事も一端休みとなったが撤去作業は日当が支払われたため、人は十分に集まった。これは災害復旧の一貫であるが、今後城下町をどう作っていくかという計画をじっくり見直すための重要なときであった。
元和六年(一六二〇)五月が過ぎていく。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる

