福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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龍が暴れる一夜

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「空が暗い。雨の調子が強いのう」

 常興寺山の仮屋敷にいる勝成は外の様子を見てつぶやく。そして、かつてこの地を放浪者として歩いていた頃に聞いた話を思い出す。

 聞いたのは、もう故事として伝わるだけになった大洪水の話である。室町時代初期のことであると推察されるが詳しい年代ははっきりしない。
 かつて鞆のほど近く、芦田川の大きな中洲に草戸千軒町という町があった。
 五重塔が聳える古刹の常福寺(現在の明王院)を対岸に望む草戸稲荷の門前町である。平安後期よりここには鞆からの物資が行き交い、町家が軒を並べ人々が多く暮らしていた。
 しかし、折からの豪雨で芦田川は暴れのたうち回る龍となって流域に襲いかかった。水はあっという間に町を飲み込み、人や牛馬もろとも押し流してしまった。
 勝成が聞いたのはそのような話だが、草戸千軒町は今もまだある。洪水で流された後に人々は再び集まり、草戸稲荷と門前町を建て直したのだ。それ以前もそれ以降もきっとたびたび洪水にみまわれ、そのつど建て直してきたに違いない。

 芦田川はときにおそろしい暴れ川になる。
 その話は勝成の記憶に今も残っている。

 この土地は……と勝成は思う。
 瀬戸内の温暖な気候に恵まれているため、晴れの日が多く冬でも温かい日があるほどだ。それはこの土地のよいところだが、晴天の暑い日が続けば水は枯れていく。逆にひとたび豪雨になれば町をひとつ失ってしまうほどの洪水にもなる。

 水は有用なものにしなければならない。
 天変地異は避けようのないものだが、それで人命や暮らしが損なわれるのは最小限にとどめたい。ときに暴れるのが分かっている川ならば、田畑や人の暮らしに役立つように整えるべきだろう。芦田川の付け替え工事はそのために行うものでもあった。
 また、勝成は領内各所を巡ったとき、古の洪水では難を逃れた常福寺と草戸稲荷を両方訪れたが、いずれも川に近すぎるのではないかと感じていた。川が少なからず地面の形を変えてきたのを考えると仕方のないことだが、いずれ、より川から離して奥に移した方がよいだろうと感じていた。
 とりわけ勝成が素晴らしいと感じたのが、常福寺の五重塔である。この塔は南北朝時代の貞和四年(一三四八)、当時の住持頼秀のもと地元の民が一文勧進小資(いちもんかんじんしょうし)を積んで造られた。人々が一文ずつ寄進をして建築費用としたのである。何という信心の篤さだろうか。
 これらの寺社はこの地の人々にとって、いや備後に入るすべての人が崇敬する場であり続けるだろう。大切に守っていかねばならない。


(明王院[当時の常福寺]の五重塔)


 雨風が強くなっていた。
 外の様子を見ていた勝成が中山将監に尋ねる。
「空が怪しいのう、水普請の衆は今日どうしとる?」
 中山はきょとんとして勝成を見る。
「今日は皆本庄村の方に出ておりますが……治部どのが付いて見ておるはずかと」
 勝成は落ち着いた声で中山に告げる。
「きょうの作業はすべて中止にせい。城も川普請もすべてじゃ。人は皆おのが家なり、宿所なり何なりに控えさせよ。急ぎ人を走らせるんじゃ」
「ははっ」と中山は立ち上がって、小走りで部屋を出ていった。

 空は厚い雲に覆われている。
 風はびゅうびゅうと音を立てて、下の層の雲が凄まじい早さで流れていく。大粒の雨がザーッ、バラバラと容赦なくぶつかってくる。この荒天がこれからどうなっていくか。昔、だてに空を屋根にして眠る暮らしをしていたわけではない。勝成は素早くいろいろなことを考えていた。
 城普請の方はすぐに皆止まるはず。
 川普請の方は……治部が止めてくれとるじゃろうか。
 神谷治部は、いつも聡く冷静に物事を見極める目も持っている。ただ、この川普請については気負いがあるのか焦り気味のように見える。常にきちんと期限内に仕上げねばならんというのだろう。そこが心配なところだ。焦っていれば自然と人にも厳しくなる。厳しくされた方は面白くない。その軋轢がしくじりの元にもなるのだ。そう考えるとおそらく、多少の雨ならば作業を続けさせるだろうと勝成には見当がついた。
 しかし、これは多少の雨ではない。
 勝成は普請衆が帰ってくるのを静かに待っていた。すると、中山将監が息せききって勝成の前に戻ってきた。
「殿、城普請の者はみな帰しました。小場どのがすでに指示を出されとりましたけえ問題はございませぬ。本庄の方も急ぎ作業を止めるよう知らせを出しました」
「そうか、ならじきに戻るな」
「それと……」
「何じゃ」
「簑や笠をたんと持たせました。背負う馬にしたらさぞかし難儀かと思いますが」と将監は付け足すように言う。
「そうか、よう気が利くのう。何しろこれは嵐になるけえな」
「なりますか」と中山が尋ねる。
 勝成は外の雨音を伺いつつ頷く。

 神谷治部は使いを出してから一刻ほどで戻ってきた。簑笠を脱いで控えていた者に渡す。框で拭いているが水がぽたぽたと垂れている。勝成は自室から出てその様子を見ている。
「殿、ただいま戻りました。急に雨風が強くなって、作業をいかがしようかと思っていたところに、将監どのの使いが来て作業を中止しました。まことに……」
 勝成は黙りこんでいる。そして、ゆっくり神谷治部を見る。
「なぜもっと早く戻らなかった」
 神谷は意外そうな顔をする。
「確かに雨は降っていますが、多少の雨ならばと……」
「多少の雨か?」と勝成は外の方を見やる。
 びゅうびゅう吹きつける風の音が聞こえる。そして断続的にざああっ、ばらばらと建屋にぶつかり一段と勢いを増す雨の音も。神谷もその音を聞いて、多少ではないことを思いしる。
「殿、確かに多少ではございませぬ。ただ、作業の進行が遅れており……」
「このたわけがっ!」と勝成は一喝する。
 脇にいた中山将監がびくっとして、ことの成り行きを恐る恐る見ている。
「この普請は誰のためにやっとるんじゃ!おぬしの段取りのためか!」
 神谷治部はばっと勝成の前にひれ伏し、「いえ、決してそのようなことはございませぬ」と弁明する。
 勝成はなおも厳しい声で言う。
「普請には地元や他国から、千を優に越える人に来てもらっとる。確かに相場より高い日当を払っとるが、それは無理無体に働かせるためではない。ひとたび犠牲が出たらいかがする。かように大雨ならばすぐに作業を止め、皆を帰すのが道理じゃ。違うか」
 神谷は伏したまま申し述べる。
「仰せの通りにございます。私の考えが足りず、誠に申し訳ございませぬ」と神谷は詫びる。

 普請総奉行の中山将監は目が覚めるような心持ちで二人を見ていた。
 確かに神谷は土木普請の監督として有能な働きをしているのだが、本人が没頭してしまうと、とことん回りに付き合わせることがある。普段の城働きでは気づかないほどの気性でも、人のまとめ役をする場では顕著に出てしまう。なので厳しい人と受け止められる。中山も、「高い給金を払っとるのに、すぐ休もうとする輩が多くて」という神谷の愚痴をたまに聞いていた。
 性分もあるのだろう。愚痴が多いことでは引けを取らない中山は、実のところ方々に気を使う性格である。一方、神谷は熱心なあまり独断的になる。その性格を勝成はよく承知しているので、あえてここで神谷にきつく注意したのだ。
 本来ならば総奉行である自分がするべき事項であるのにーーと中山はひとり反省する。

 夕方になっても雨風は一向に止む気配がない。
 あまりにも強い雨の勢いに中山は天井を見上げる。この仮屋敷は急造だが新しいのでまだ雨漏りすることはないだろう、たぶん。しかしそれぞれの家屋は危ないかもしれぬ。朝まで降り続ければ川もどうなるか……。
「殿、夜が明けて雨が止み次第、普請衆にも力を借りて一帯の見回りをくまなくいたしましょう。これだけ強い雨では普請以前の話にございます。家に被害が出る者もいるはず」
 勝成は大きくうなずく。
「雨が止んだらすぐに人を出す手はずを整えるんじゃ。特に芦田川の流域や山の崖崩れの有り無しは真っ先に見た方がええ。人は十人ほどの組で動くように、とっさのときに役に立つ。日当を同じだけ出してええ。ただちに兵左衛門にも知らせよ」
「ははっ」と二人が声を揃える。
 勝成は穏やかな表情で二人に語る。
「将監は心配性じゃが、心配は心を配ると書く。人を大事にするための心配ならば望ましいこっちゃ。将監の心配性も、治部の聡く熱心な性分もこの大普請を進める大きな力じゃけえ、ようよう力を合わせ勤めてくれやぁ」 
 そう言って勝成は自室に戻った。

 雨は一晩中降っていた。
 小場に使いを出して早暁に集合をかけると、動く人を差配するために中山と神谷は夜更けまで打ち合わせを始める。雨の度合いによっては明朝の開始が遅れるかもしれない。早暁に様子を見るため二人は屋敷の一画で仮眠を取ることにした。
 雨の音が激しく、二人はなかなか寝付けない。

 夜間のため、誰もまざまざと目の当たりにすることはなかったが、芦田川は無数の龍がのたうち回るがごとく四方八方に踊り暴れている。
 かつて肥河と呼ばれた出雲国の斐伊川も、かつて八岐大蛇(やまたのおろち)がのたうち回ったときにはこうだったかというほどの暴れようだった。室町の頃の話を伝え聞いている人々、特に川沿いに住む人々は夜が更けるまでに、早々に逃げていた。水普請に携わる者の多くも神谷とともに常興寺の麓に移動していた。宿所の炊事はてんてこまいの様子だったが、後から見ればその選択はまったく賢明なものだった。
 雨風は止まず、何がどうなっているのか分からないまま深夜になろうとしていた。

 勝成は数時間死んだように眠り、未明のうちに目を覚ますと寝巻を脱いで古い綿の小袖と袴に着替えた。そして腰ひもを口にくわえるとささっと両肩に回したすき掛けにした。そして同様に古びた袴の裾も膝までたくしあげて挟みこんだ。いうまでもないが、泥のぬかるみや水に浸かってもいいようにである。その姿で部屋に置いている仏像に手を合わせた。
 控えの部屋をそっと覗くと、中山も神谷もいびきをかいて白河夜船である。遅くまで打ち合わせていたのだろう、普請組をどこの地域の見回りに出すか記された紙が何枚も置いてあった。勝成はうむ、と一人うなずくとそっと襖戸を滑らせた。
 外に出ると日の出前だが辺りはしらじらと明るくなっている、館の門扉を自ら開けてぐるりと見回す。簑笠を身につけた門番が脇の石の上に座り込んで眠っていたが、あえて起こしはしない。
 そして、大きく息を吸って、ため息とともに吐き出した。
 地面は全面ぬかるんでいて、まだ水の溜まっている部分がほうぼうにある。草鞋履きでは足を取られてしまいそうだ。勝成は芦田川のことが最も気にかかっていたのでそちらに赴かねばと考えながら自分の足もとを見た。数歩歩いただけだが、すでに泥がついている。これでは、ほんの少しの移動でも足洗いの桶がたくさん必要になるだろう。
「水は大事、地も大事じゃ」
 彼はぽつりと呟いた。

 じきに日が登り、日差しがさんさんと照りつけると地面は多少乾いてきた。夜通し見回りの相談をしていた中山と神谷もすでに起き出して見回りの段取りを呼び出した者らに伝えている。呼び出されたのは普請組の頭で、それぞれ受け持ちを回り中山と神谷に伝える役目をする。状況がひどければ他の組も向かわせて復旧する。本庄村から野上、草戸にかけての芦田川流域へは昨日、ぎりぎりまで濡れ鼠で作業をしていた河川付け替え組が赴くことになっている。
「済まぬ、昨日もかなり雨にやられてしまったのに。朝も早うから働いてもらわねばならぬ」と神谷が組頭に詫びる。
 組頭は笑って応じる。
「なあに、きのうは早うに簑笠を皆に配ってもろたけぇ、それほど雨風にやられず帰れましたんじゃ。皆もおのが家に急ぎの手当てはできたと思いますし、宿所で休めたと存じます。かようなときはお互い様ですけえな」
 昨夜勝成に言われた言葉が骨の髄まで見に沁みる。神谷には自分に足りない部分がはっきり見えた。おそらく皆はそれを知りつつ心配して見守っていてくれたのだ。主の勝成はもちろん、中山は何も言わず、普請組の皆に簑笠を用意してくれた。その心配りがどれほど助けになったことか。
 もっと、もっと早く気づいていれば……。

「のう、治部、皆揃ったようじゃ。出立するぞ」
 神谷がハッとして振り向くと、勝成が準備万端の姿で立っている。
「皆、仕度ができとるな。出立じゃ!」と神谷は皆に聞こえるように腹の底から声を出した。
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