福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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気を張った船は一路備後を目指す

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 城郭の築造、いわゆる作事は元和七年(一六二一)の年明け、伝役(つたえやく)が帰還し老中の発給した将軍黒印の文書を受領して始まった。この辺りは段取りで、きっちりと踏まなければならないものである。
 すでに何をどこに配置するか大枠は決まっている。作事にかかる大工衆も多く集まってきていた。神島の市の城下への移転も済み、城地前の湾では木材の積み降ろしも始まった。

 ここで数字ばかりになるが、その規模を一部つまびらかにしておこう。
 これまでも述べている通り、常興寺山という小山を整地して城地と定めている。いわゆる平山城だ。整地では山の頂上を削り平地とし、石塁を重ねた上に天守・本丸と二之丸が築かれる。そこから段を下げて三之丸や櫓、門が設けられる。
 城地の面積はおよそ七万八〇〇〇坪(二五万七四〇〇平方メートル)、そのうち本丸はおよそ二六二四坪、二之丸は八八〇九坪、三之丸三万一九三一坪、小丸山七一八〇坪。濠は内濠が三二五九坪、外濠が三五〇〇坪。他に小丸山裏の沼が三五〇〇坪となっている。伏見城の櫓などの解体された建材がじきに入ってくる。濠の部分はまだ水普請が完成していないため、不確定の箇所がある。その話はまた後で出てくる。

 城下町の整備も始まった。
 土地の区割りも大枠は決まっている。城北面の小山には吉津川の水路が通され、小山も含めた北から北東にかけて寺社の区域となる。艮神社(うしとらじんじゃ)が風水上の鬼門封じとされたが、北面の備えの一端でもある。鬼門封じの意味では南西にも寺社が置かれるが、東にも寺町が設けられるなど方角を問わず寺社は多い。これまでにも記した通り、寺社を篤く保護するのは藩の方針である。
 城の内濠から外濠の間には武家屋敷の区域、その外側も一段目は侍町、足軽町が囲むのだが、東から南東にかけては町人町(主に商家)の一角が広くとられている。城の南東に入川という運河が築かれたが、その周辺を商業の中心とする計画に基づいたものだ。さらに外縁は町人町や田畑にするというのが城下町造りの概要である。

 藩が高札に掲げた「土地を自ら開墾した者に与える」というのはこの区画を中心としたものだ。ただ、従来からあった野上村は区割りの関係で南に移転することになったので、優先して土地が確保されている。

 常興寺山の麓の建屋は高札を見た人々でごった返している。
 自分の土地を持てる上に地子が免除されるというのもあって、「城下町に移りたい」と希望する人は多かった。もちろんどこにでも住めるというわけではなく、割り振りは藩が行なっていた。その責任者は土木普請奉行の小場兵左衛門である。彼は城の追手門と入川の間に居を構えた。そこが城下町を造る拠点である。
 実際の作業は城下町の土木普請組に付いた藩士複数が担当している。希望者一人ひとりと話をして区割り図に名前を書き込んでいくのだ。夕刻に締め切るとそれをまとめていくのだが、早々に区割り分はいっぱいになりそうだった。できる限り希望に応じるというのが勝成の命でもあったので、武家屋敷の侍町にあたる区画と調整する必要もあると小場は考えている。
 町人町のうち、商人町の枠は神島の移転もあってすでに埋まりつつあったので、大和郡山以前から出入りのある一部の商家には別の区画を用意する必要があった。実際、大和郡山から付き従ってきた商人の奈良屋才次郎は南寄りの区域を持つよう提案されている。
 入川からはやや外れるが、人の往来が多く商いの展望が望める広い土地である。奈良屋は了承してそこに町を持つことになった。
 旧・奈良津町(現在の福山市霞町)の起こりである。

 一つひとつ地道に承諾を得て、図面の上できちんと決めておかないと、現場で必ず問題が起こる。現実に、何百軒、何千軒もの建物が築かれていくのだ。その管理を怠ることはできない。これは新しい町作りならではの難事である。しかし、小場にとってはまだ城下町作りの一歩に過ぎなかった。
 これをつつがなく、遅滞なく済ませ水路の導入を神谷と詰めていかねばならない。その上で人が日々暮らし繁栄を見て初めて町造りが完成したといえるだろう。
 小場は冷静に城下町の全体像を見ていた。

 城の作事は中山将監が中心となって進めている。これからもろもろを築くので資材置場にはあらゆるものがうず高く積まれているが、今度はそれらが間違いなく揃っているか改めるのに余念がない。作事場として先に築いた建屋の一室に戻るなり、中山はこぼし始める。
「伏見からの船ももうすぐ届くのでや。まだ来ないのかいや。置き場がぽかんと空いとってどうにも落ち着かん」と中山は図面とにらみ合いを続けている。
「そう急ぐな。運んでくるのは半端な量ではないし、いろいろ段取りしなければならんけえな」と不意に勝成の声がする。中山は振り返って丁寧に頭を下げる。そして苦笑して答える。
「殿、私は焦ってなぞおりませぬ。ついついこぼしてしまうのは、張った気を緩めるためにございます。殿はいつも鷹揚にございますから、見習いたいのは山々なのですが」
 勝成はハハハと笑う。
「わしゃ開き直っとるだけじゃ。そういえば、伏見から急ぎの文が届いとった。お待ちかねのもんは伏見を発ったというぞ」
「え、まことでしょうや?」
「まことじゃろうのう」と勝成は言う。

 勝成は元和七年になって、神出鬼没の人になっている。さすがに行方知れずにはならないが、城の作事場、小場の屋敷、芦田川の神谷の現場、神辺城(こちらがまだ本拠地である)、鞆、草戸の常福寺、松永や赤坂の藺草農家・畳職人の家(丸屋が随行する場合もある)などを順繰りに、時には順不同で訪れている。
 ここから先にかけて活動範囲はさらに広がるのだが、彼には領内をくまなく見る目的があった。城を建てているからといって一ヶ所に籠ったままでは他に一切目が届かなくなってしまう。普請奉行始め藩士たちが、それぞれの持ち場にかかりきりになってしまう分、機動力がなくなる。それを藩主自ら出ていこうというのだ。
 勝成は昔、この地方を放浪して歩いたので土地勘もあるし、古い知り合いが何人もいる。その範囲は広い。領地の奥になる加茂村辺りに居た頃、陶工に習って焼物をしていたという伝説が残るほどだ。真偽は定かではないものの、放浪の末に落ち着いたのがさらに山をいくつも越えた備中成羽である。彼は天狗ではないので、山々をひとっ飛びに移動できない。粘土を捏ねていなかったとしても、彼の通った道筋として考えるならばあながち嘘八百ともいえないのではないか。

 加茂村のある地主が昨年、こんな話を村人から聞いている。
 村人が近くの加茂川で晩飯用の魚を釣ろうと思い、虎視眈々と水中を睨んでいるときのことだった。ちっとも魚が寄ってこないので、村人は少々イラつきはじめた。
 すると背後で声が聞こえた。
「釣ってやるという気をあまり入れすぎてはいかん。おうおう、会えて嬉しいが、もう去ぬるんか、寂しいのう。ちいとゆっくりしていかんか……ぐらいがええんじゃ」
 振り向くと、武家装束の中年の男が立っている。
「あ、お武家さま。失礼ですが、わしゃそれほど気が入ってましたかいのう?」と村人は聞く。
「ああ、殺気に満ちとった」
「さようですか、ならもう少し力を抜いてみようかと存じまする」
「そうじゃな」
 村人は忠告された甲斐あって、以降は何尾も釣果を得た。ウグイやイワナ、ヤマメも魚籠に招くにいたって、村人は興奮して武家装束に礼を言おうと背後を見た。
「ありがとうごぜえます。おかげでこんなに……」
 もうそこには誰もいなかった。
 ちょうど大雨の少し後で、藩の役人が芦田川や高屋川の検分をしていたのは地主も聞いていた。加茂川は村の先で高屋川と合流し、その後で芦田川と合流するので無関係ではないのだが、藩の役人が来たのだろうか。それにしては随分呑気な話だと地主は不思議に思った。
 のちに地主と村人は城下町を訪れ、その武家装束が誰であったか知るのである。

 この藩主の強みは、転封になった大名が苦労することの多い「地元の人との摩擦」を最小限にできる点だ。他では藩の役人が民を押さえつけた結果、一揆に至るという事例が見られる。強権を振りかざさなければ藩を統治できないという考えだろう。
 勝成はそうは考えていなかった。もちろん、犯罪や戦などには厳しい態度を以て対するが、暮らす人々は敵ではない。ともに備後国を繁栄させていく一員なのだ、と。
 それを実践しているので、自然と神出鬼没になる。普請奉行たちもしばしば主が持ち場にひょいと現れるのを普通だと受け止めるようになった。それは勝成だからこそできる、城や町だけではない、人と人を繋ぐという重要な役目であった。


 さて、弁才船に伏見城の遺構を積み込んで瀬戸内海に向かう人の話をしなければならない。
 勝成は「半端な量ではない」と中山をなだめていたが、確かに半端な量の品ではない。
 拝領した内容を再掲してみよう。
・松ノ丸三階櫓
・松ノ丸火打櫓
・松ノ丸月見櫓
・鉄(くろがね)御門
・追手御門
・多門
・廻塀一八〇間
・橋三基
・移動式能舞台
・本丸御殿
・御湯殿
 解体されていってもこれほどの建物の材なのである。また伏見城は、かの東照大権現(徳川家康)の命で建てられた城である。ゆめゆめ疎かにはできない。解体された材は将軍徳川秀忠の命を受けた幕府の役人、長谷川式部少輔と水野河内守らが逐一検分し、船に積み込まれる。奥州からの翌檜のように原木ならば筏を組んで船で曳航できるが、加工済みの木材では無理である。何より復元するのが前提のものである。運送者にとって、紛失はもとより積み違いによる取り違えや汚損も許されない。厳しい仕事だった。
 この仕事を請け負ったのは兵庫津にある廻船問屋高田屋の主、高田宗樹だった。
 話が来たときから「面倒そうだ」と思い丁重に固辞しようとしたが、依頼に来た役人の態度が横柄だったので半ばムキになって仕事を引き受けたのだ。
 しかし、これは想像以上にたいへん骨の折れる仕事だった。船に荷を積み始める段から一切気の抜けない状態になっていた。労役の人々に厳重に丁重に扱うよう、口を酸っぱくして注意し、それでも足りず運搬の途上ずっと張り付いてじっと運ぶのを凝視していた。それでも、依頼に来た役人のように横柄でない人がやってきたのは幸いだった。気が抜けないのは幕府の役人も同じで、何かあれば重大な問題になる。命じる立場であるが、送り届ける役目がある。必然的に、意地悪な物言いをするほどの余裕はなくなったのだ。
 結局、大型の弁才船(べざいせん、大型の商用船)三艘にすべて積み終えたときには一様に皆ぐったりと疲れ果て、その場で卒倒しそうになっていた。しかし瀬戸内海を無事に航行し、備後藩に受け渡すまでが仕事である。船には夜間寝ずの番が着いて厳重に警護された。
 そのように解体された材は海へ出ていったのである。
 船は一路備後を目指す。
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