福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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本丸天守の完成

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 元和七年(一六二一)晩秋の佳日を選んで、勝成やお珊らは完成したばかりの本丸にようやく入ることになった。他の作事はまだ終わっていないのだが、本丸天守が完成すれば藩主が入城するのは通例となっている。


(令和の普請で再建された天守、南東側より)

 ここで天守のつくりについて、述べておこう。
 天守は五層六階、屋根を五重に設けた形である。慶長の頃に築かれた江戸城と形としては同じであるが内部は江戸城より狭い。それより豪奢な城を築くのは主従の道義上無理である。ただ、狭いといっても、二層三階の小天守を一体にした層塔型複合天守であり、十分すぎる広さを取っている。一層目の南北面と二層目の東西面は比翼入母屋(ひよくいりもや)、その他の各層には唐破風(からはふ)・千鳥破風(ちどりはふ)といった二種類の破風(屋根)を備えた華やかな造りである。これらは太平の世を表す華美なものであった。とはいえ備えも万全で、鉄砲狭間(てっぽうさま)を破風や懸魚(げぎょ)の裏側近くに目立たないよう設けている。天守入口真上などの要所に備えられた海鼠壁(なまこかべ)、地階への換気と明かり取りの為に設けられた格子窓など、居住性や耐久性に優れている。
 なお、さきに触れた通り、本丸天守には陸奥国からはるばる運ばれてきた翌檜(あすなろ)の木材が使用されている。


(天守北側より)

 もうひとつ、北側の鉄板張りはようやく終了したといったところだ。何しろ瓦を葺いたり石を積むのではなく、鉄板を一枚一枚釘で留めて張るのだから、たいへんな手間がかかる。一枚一枚はほどほどの重さでも鉄の板であるので。慎重に、少しずつ運ぶ必要もあった。結果、作事でもっとも時間を使う箇所となっている。ちなみにまだ曲輪や門や櫓の完成はまだなので、そちらは後ほど紹介しよう。
 

 お珊は天守の荘厳なさまにひたすら目を見張っている。勝成も楽しそうにひとつひとつ説明している。お珊はふふふと笑って夫を振り返る。
「まるで、ご自身ですべて建てたと言いたげなご様子ですなあ」
「わしができるわけないじゃろ」
 後に付いてる中山将監がフッと苦笑していう。
「お方さま、それはお出来になれないでしょうが、殿はこの数ヶ月ほぼ連日、本丸の作事を見とられましたなあ。ですので、説明はどこの誰よりもお得意かと存じますぞ」
 お珊は目を丸くする。
「ほぼ連日!わたくし、方々へでているとばかり思っていました。それはさぞかし鬱陶しかったでしょう。目の上のたんこぶだったのね」
「お方さまはようお分かりにございます。私どもはさすがに戦で兜を脱いだりはいたしませんが」
 勝成が口を尖らせて抗議する。
「のう、兜を脱いだ言うんは、このわしのことかいや? てーげぇにせいや」
 一同がどっと笑う。
 中山は、かつて小牧・長久手の戦いのおり、勝成がものもらいに触れるのが嫌で兜を脱いだ話にかけたのだ。そのことで勝成は父の勘気に触れてしまった。今となっては武勇伝のひとつなので、こうして皆で笑い話にできるのだ。

 室内を見たお珊はまた声を上げる。
「こちらはまた全面に畳敷きなのね、何と素敵なこと。本当にいい香り。童ならば走り回ってごろごろ転がるところです」
「これは何しろ、備後の特産じゃけえな」と勝成が微笑む。

 勝成の笑顔にお珊は軽く首を傾げる。
 いつからだろう。
 お珊は勝成がときどき、寂しげな表情をしていることに気づいている。笑顔の奥にもそれが感じられる。長丁場の事業でお疲れなのだろうか、もうすぐ還暦になられるし……とお珊は思ったが、普段はまったく問題なく活動し、差配している。どこかが痛いというのも聞いていない。病というわけではなさそうだ。
 しばらくは、殿のご様子を、よく見ておかなくてはーーとお珊は思う。

 城下町の方はどうなっただろうか。
 城から海に直接でることのできる南東の入川の周辺は商家のみならず、日用の品を扱う店も増えていた。商いの町はすでに十二を数えていた。本町、米屋町、桶屋町、府中町、鍛冶屋町、深津町、魚屋町、神嶋町、船町、奈良屋町、医者町、藺草町がこの時期に作られている。
 城の濠外の武家屋敷および侍屋敷・足軽屋敷など藩に勤める人の家屋もほぼ完成した。のちにこの商いの町は笠岡町、吉津町、道三町と広がっていくのだが、それはまた後の話である。


(商人町のあった宮の小路、稲荷の手水)


(後にできた道三町辺りの水路)

 侍屋敷の外側の土地の開墾も進み、最も初期の割り当て区画にも家がぽつぽつと建ち始めている。城南海寄りの土地に入った人はまだ町の体(てい)になっていないのもあって、暮らし向きにはまだ工夫が必要だった。
 一人の男が家の敷地に畑を作っている。
 開墾した土地は自身の所有となり、地子も免除されるというので一も二もなく申し込んだのだが、自力で土地を拓くのはそれほど楽なことではなかった。高く生い茂った葦を刈っていき更地にする作業から始めて、土を混ぜて馴らしていく。土の潮気はだいぶ抜けてきたが、真水はこの時点では芦田川まで汲みに行かなければならなかった。じきにもっと近くに水路や井戸ができる予定なので、それまでの辛抱である。
 男はひたすら鍬を下ろし土を混ぜている。
「やはり、畑をやるとなれば水が入り用じゃな」
 隣の区画で同じように土を掘り返す人が言う。
「何を植えるんかもよう思案せんといかんしのう」
「何でも煙草や綿花は塩気にも強いということじゃけえ、長い目で見りゃあ綿花がええ思うとるんよ」
「ああ、それは藩のお役人さんも言うとったのう。わしもそうしようか」
「いずれにしても、水が待ち遠しいのう」
「お城がもうできてきとるけえ、もうすぐじゃろう」
「ここからも実によう見える。まことに立派じゃな」
 男性はうなずきつつ、また鍬を手にして作業に戻った。

 その水路も当初予定からはずれ込んでいたが、開墾の人に届けるべく着実に進んでいた。

 高屋川と芦田川の合流地点を下流に移し築堤する工事を終了した普請組は、続いて芦田川の水を上井手、下井手の一、二と三流に分けて取水する作業にかかった。上井手は城北の丘陵を縫うように導水し東へ水を供給する形で、当初の計画に沿ったものである。
 変更を加えたのは下井手のふたつだ。一方は城西北の貯水池(調整池)に導き、もう一方は外濠を抜けて城南部への用水路とした。池へ水を自然に流すために導水路に傾斜を付けて堰を設け、きれいな水が通るように工夫された。上水(飲料水)として利用するためだ。もともと湧水が出ていたので、池にするのに適した土地だった。上水は蓮池から埋設して(暗渠ーあんきょ)として城下町に敷かれる。そこで、あらかじめ用意された木樋(もくひ)が大いに活躍することになるのである。
 この、城の北西に作られた貯水池は「蓮池」と名付けられたが、のちには「どんどん池」と広く呼ばれるようになったという。水を通す堰の「ドン、ドン」という音に由来するという。
 この池は現在も人々の憩いの場として親しまれている。


(現在の蓮池)

 この時は蓮池と水路の調整が佳境に入っていて、用水路の築造も同時に進められている。昨年の大雨の教訓もあって、作業は急ぎつつも慎重になされていた。すでに藩主が城に入ったので、そうのんびりしてもいられない。水普請奉行の神谷治部はどうしたら工程を早くできるか、土木奉行の小場兵左衛門と細かく相談している。この段におよぶと城下町全体を任されている小場と水を任された神谷の連携がたいへん重要だった。
「まあ、完了まであと半年強というところだが、そこまでにできる部分と危うい部分を分けとったらよい。中山どのも、殿も同じように申されると思うで。用水路と暗渠、貫洞の方も図面通りに掘っておるし、ここまで来たらジタバタせんでも……それに、わしは実のところ、まったく心配しとらんでな」
 神谷は目を丸くしている。
「心配しとらんのでしょうか、日はどんどん迫っておりますで……」
 小場は二度、しっかりとうなずいた。
「神谷どの、水を人々に行き渡らせるという役目は無論最優先の仕事、先の見立ても大事だが、これまで辿ってきた道をいったん振り返ってみるとええ。これまでしてきたことの上に今があり、その先に完遂があるのだで。一日二日のことではない、もう二年以上わしらはずっと積み重ねてきた。それをもってすれば、いかなる作業も万事済ませられる。ここから大事なのは完遂するという心だで、そうは思わぬか」
「心、ですか」
「心だ」と小場はまたひとつうなずいた。

 本丸の完成からは終盤の追い込みということになるだろう。
 あと半年、半年後の景色を早く見たいと藩の人々も、城下町の人々も、備後の人々も、土木工事に関わっている他国の人々も一様に願っていた。
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