福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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武蔵が城を見て感嘆する

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 元和八年(一六二二)の初夏、城下南方に移転した野上村の往来で、神谷治部は人々とともに水路を凝視している。水路にちょろちょろと水が現れ、次第にかさを増していく。
「井戸の方はどうなっとる?」
「貫洞に水が溜まっとります」と連れの藩士が大声で叫ぶ。
「よし、ここも通ったぞ!」と神谷は思わず拳を握りしめて小さく快哉の声を上げる。周りで様子を見ている人々はもっと正直だ。
「おう、水が来た!水が来たぞお!」
「これでもう、川まで水汲みに行かなくてもええんか、やった!やった!」
「井戸の水を汲み上げてみてもええじゃろうか」
 藩士が「おう、どんどんやってくれみゃあ」と井戸の前を人々に譲る。皆がわあっと集まり、順繰りに井戸桶を中に垂らしている。
 春から夏にかけて、このような光景がそこらかしこで見られた。芦田川の分水工事までは手間と時を費やしたが、城下の水路と上水の掘削作業には土地の人も進んで参加し、予想以上に早く順調に進んだのだった。城の南東から北西にかけての区域の上水整備は完了のめどが見えてきた。
 水普請を任された神谷治部は、水を通すときには必ずその地を検分して問題がないか確かめている。上水の木樋(もくひ、水道管と同じ)はまだ土を乗せていないので、水が通っていく音を聴くことができる。その音が神谷の耳には天女の竪琴の調べのように心地よく響くのだ。
 どこへ行っても人々は感謝と喜びを神谷に知らせる。「いや、皆さまが手伝うてくれたからこそ、できたのです」と神谷は心から言うのだが、皆は「お奉行さま、今宵は皆で祝宴ですので、ぜひご一緒に」と声をかけてくれる。どこでもそのように歓待されるので、神谷も次第にコツを覚えたのか、宴の初めだけ参席してさりげなく退出するようになった。すべて付き合っていたらとても身体が持たない。
 いずれにしても、人々が心から喜んでくれるのが神谷には何よりの褒美に思えた。

 しかし城下町への上水整備が水普請の終わりではない。大水に備えた築堤が必要な箇所は芦田川、高屋川ともまだたくさんある。もし、蓮池がうまく機能するならばその例を活かして藩内に貯水池を作り、農業用水としてあまねく行き渡るようにもしたい。藩主の勝成からはもっと根本的に、備中寄りの高屋川と小田川の合流地点で分流する工事もした方がよいのではないかと言われている。城下町の部分はあらかた済んでも、それはごくごく一部だ。藩領は南北に広くまだ取りかかることはいくらでもあった。
 そして神谷治部はそれを自分の手で成し遂げていきたいと願うようになっていた。

 江戸初期には各地で上水が次々と設けられたが順番でいえば、神田(小石川)上水に始まり、近江八幡、越中、越前、駿府、米沢、仙台、赤穂などが最初期のものとして挙げられる。福山上水はそれらに次いで日本で最も初期の水道のひとつとして名を残している。


(現在も残る用水路)


 同じ頃、筑後から山陽道を陸路で旅する中年の男がいた。姫路に彼の息子がいるので会いに行くのだ。本来ならば歩かずとも瀬戸内海を船で渡って目的地に出る方がよほど楽である。戦世も終わって一般の往来が盛んになったので船はいくらでもあった。それはよく分かっている。彼は下関沖の島で決闘をして佐々木某に勝利したことがあったし、この辺りはいろいろと縁の深い地域だった。
 彼は備後に寄りたいので、わざわざ全行程を歩くことにしたのだ。備後には彼の知り合いがいて、そこでは新たに城と城下町を築いているという。最後に会ったのはいつだっただろうか、と男は考える。確か四年前で、そのとき知り合いは大和郡山にいた。それから彼は備後に移り、城や城下町を築いているという。西国の鎮衛として幕府が認めて築かれる城で、相当な規模のものらしい。男は食客として滞在していた豊後日出藩(ぶんごひじはん)の用人からそれを聞いた。その辺りまで話が行き渡っているなら、なるほど、そういうものだろうと男は思った。


(現在の尾道から沼隈半島を臨む)

 以前尾道は備後だったが、現在は安芸広島藩領となっている。男は山陽道が山間になったのを抜けていこうとする。すると道に番所が設けられているのを見つける。そこには石標があり「従是東福山領」と書かれている。
「おう、備後は福山っちゅう名前なんじゃ」と男は思わずつぶやく。安芸側の番所の役人が男の声を聞いて、「ああ、最近石標がそちらになったけん、福山藩じゃ」と言う。
 男は番所を出て、また東に歩き始める。今津宿を越えると丘陵地帯になるが、男はしっかりとした足どりで歩を進める。ふと、眼下に大河が流れるのを見て男は向こう岸を見やる。そして、思わず息を飲んだ。
「まことじゃ、まことに城と城下町がある!」
 男は何やら肚の底から喜びが湧きあがって来るのを覚える。そして、さきほどの倍ほどの早さで歩きだした。
 瀬戸内海がきらきらと輝いてその男、宮本武蔵を出迎える。

 武蔵は城の方にゆっくり進んでいった。そして城周りをじっくりと眺める。打込接(うちこみはぎ)の石垣はどこの箇所も均一で美しい。
「備中は石を多く産するからのう、そこのを使っとるんじゃな」と美作に住んでいたことのある武蔵はしきりにうなずいて四方を巡る。真っ直ぐ城に行くよりも知り合いの水野勝成が手掛けた一世一代の大仕事を、その目で確かめたかったのである。



 外側から見て見事なのは櫓だった。いったいいくつあるのかと武蔵は数えている。武蔵にはその出所までは分からなかったはずなので、現在の呼称になるが挙げておく。
 本丸の周囲には月見櫓・鏡櫓・亭櫓・玉櫓・塩櫓・内六番櫓・荒布櫓・人質櫓・火打櫓・伏見櫓が置かれている。何度も述べているが伏見櫓や月見櫓は伏見城から移築したものである。
 二之丸の周囲が堀側からじかに見えるものになるが、鹿角菜櫓・東坂三階櫓・鬼門櫓・乾櫓・神辺四番櫓・同三番櫓・同二番櫓・同一番櫓・櫛形櫓・鑓櫓・鉄砲櫓となっている。神辺櫓はその名の通り、神辺城から移築したものだ。
 そして視界には五層六階の荘厳な天守が聳えたっている。背後に回った武蔵は天守の壁面を見て仰天する。黒い壁は色を塗ったわけではなく、鉄板を張っているのだ。



「安宅船かと思うたぞ。まったく意表を衝く仕掛けじゃが、素晴らしく広くよう整った城じゃのう」と武蔵は感心して東側に回る。そこには賑やかな商人町がある。この町も作ったのかとひたすら感嘆するばかりだ。
 城の堀に直接入れる入川には立派な擬宝珠(ぎぼし、たもとの端の柱に付ける装飾)付きの橋も掛けられていた。こちらも伏見城の遺構なのだが、武蔵はひょいと橋に足を踏み入れる。
 すると彼は突然名前を呼ばれた。橋の向こう側で何十もの人が大きな石を積んでいる辺りからの声である。武蔵は目を凝らす。
「おぅ、武蔵殿!こっちじゃ」
 武蔵は驚いた。
 そこに藩主の水野勝成がいたのである。
 しかし、水野勝成がいたことに驚いたのではない。小袖をたくしあげて、他の人夫に混じって石を運んでいたからである。日によく灼けて額からは玉のような汗を流すその男は見紛うことない、備後福山藩主・水野勝成その人だった。
 武蔵は一瞬唖然としたが、すぐに満面の笑みを浮かべて腕まくりをしながら橋を渡る。
「さあ、わしも手伝いますけえ、どれをいったらええじゃろうか」
 是非もなく石運びを手伝ったのちに、武蔵は福山城に案内された。筋鉄御門の扉が開き、中へ通される。武蔵は門を見上げてその立派なしつらえに目を見張る。本丸を前にした敷地には松が植えられ風情を醸し出している。
 武蔵を見て勝成は言う。
「普請と作事はほぼ済んだ。あとは城下町や用水の作業がいくらか残っておるがほぼ完成っちゅうところじゃ……普請奉行に任せとるけぇ、ようやってくれとるわ」
「しかし、殿もこれだけ大きなことをようやる気になったものじゃ。おいくつになられた」
「五十八じゃな」と勝成はこともなげに言う。
「ああ、わしより年長じゃったのう」と武蔵は感心する。
 本丸に招かれて腰を下ろした武蔵はまだ香りたっている畳の心地よさに驚いている。
「さて、どうじゃ。三木之助(武蔵の養子)は姫路でよう務めとるようじゃが、貴殿は会うとるんか」と勝成が話しかける。
「わしは日出でしばらくゆるりとしておりました。これから姫路に向かうところで」
「おう、ぜひ会うてやってくれや。それで、貴殿の兵法は完成したんか」と勝成は身を乗り出して聞く。
「今のところ、わしの流派は『円明流』と名付けるつもりでおります」
「おう、まるく明るいちゅうことか。貴殿ならばもう少し尖っとってもええような気がするが」と勝成は顎に手を当てる。
 そこに、勝成の正室・お珊が入ってきた。
「武蔵どの、お久しぶりにございます」
 この女性はいつ会うてもほとんど変わらない。いつも透き通るように美しいばかりじゃーーと武蔵は思いつつあいさつをする。
「お方さま、こちらこそご無沙汰をいたしておりますが、相変わらずお美しい。お顔の色も以前より明るいように拝見します。ご健勝のご様子、お喜び申し上げます。もちろん、こちら福山のお城と城下町の完成もこの上なく喜ばしくお祝い申し上げます」
「あら、ずいぶんご丁寧ですね。ありがとうございます」とお珊は笑う。
 武蔵も気さくに笑う。しばらく談笑が続いたのち、思い出したように武蔵はお珊に尋ねる。
「お方さま、お登久さまとはやり取りをされておるのですか。大坂にお住まいでしたな」
 その時、勝成はびくっとした様子をして、いきなりむせ込んだ。武蔵は大和郡山でお珊とお登久の話をしていたので差し支えないかと思って言ったのだが、勝成の様子を見てまずかったかとお珊を見た。彼女は落ち着いていたので、武蔵はホッとした。
「ええ、文のやり取りはようしております。武蔵どのもご存じの通り、備中はお登久の故郷ですから、遊びに来てほしいと何度も書いているのですが、嫁ぎ先に遠慮があるのかまだいい返事はもらっていないのです。お登久のお父様も芳井でお医者さまをしていらっしゃるの。今は後進を育てることに努められております」
「さようですか。あの小坂さまが芳井でご健在とは何よりでございます。拙者も大坂に足を運ぶことがあれば、とく姉ぇにぜひお会いしたいものです」
 武蔵とお登久は美作で幼馴染みのような関係だった。とく姉ぇというのは当時の呼びかただったが、武蔵はお珊の前であえてそう言ってみたのだ。
 勝成はその様子を黙って見ていたが、「さあ、そろそろわしはまた見回りに戻るかのう。武蔵どの、今日は泊まっていったらええ。後で一献酌み交わそうぞ」
 武蔵は「ありがたきこと。お言葉に甘えて」と平伏し、頭を上げる。
「殿」
「ん?」
「いや、備中の居候殿、よう戻ってきんさった」
 勝成はくしゃくしゃに笑って、武蔵の肩をぱんぱんと叩いた。

 お珊は二人を見て微笑んでいたが、さきほどの勝成の様子を見て、思い当たるふしがあった。彼女はすぐに鞆にいる勝重と藤井靱負、芳井にいる藤井道斎に文を書く。

 お登久をこちらに呼んだ方がいい。
 彼女は嫁ぎ先に遠慮していたり、
 私に遠慮して来ないようにしているのだと思っていたが、それだけではない。
 殿に会ってはいけないと思っているのだ。
 それは正しいのかもしれない。
 ただ、一度来てもらった方がいい。
 殿がこちらに戻って大きな仕事をやり遂げたさまを見てほしい。
 私は来てほしい。見てほしいのだ。

 お珊はお登久の血縁者に文を書き終えると、ふうとひとつため息をついた。


 元和八年(一六二二)八月、予定の作事および整備が終了を迎えた。備後に転封を命じられてからちょうど三年だった。
 勝成は備後福山城と福山の城下町完成の報告をするため、江戸に赴くことになった。事前に主だった家臣が集まり、出発前の打ち合わせと不在時の申し送りが行われた。一同は天守閣に掲げられた棟札を誇らしい気持ちで仰いでいる。
 城が無事に完成したという証である。

 慶賀億万歳 奉造立当城御天守 阿像儀公長
  于時元和戌八年 請取 八月吉祥日
 於山城国京都藤原朝臣正次福井藤兵衛
 於山城国京都藤原朝臣吉次渡邊長右衛門
 於平安京城都重時朝臣信正宇野今者泉和又衛門ト云者也
 於平安城京都重家泉和屋九郎兵衛

「藩名はさきに知らせとる通り、備後国福山藩とする。そして、城の名については鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)とする。これはわしが決めた。鉄覆山は鉄で覆うのみならず、音も字面も敵を追うに通ずる。西国の鎮衛に相応しいと思う。朱雀は、この城が備後国の南に位置しており四神の朱雀にあたるからじゃ。そして久松城じゃが、天守前に植えた松のごとく久しゅう繁栄してほしいという願いを込めておる」
 一同は平伏して了承した。

 ちなみに、福山の城はのちに「葦陽城」(いようじょう)とも呼ばれるようになる。芦田川と陽光多い地、あるいは山陽を掛けてのものだろうか。寛政・化政期の文人・学者で廉塾を開いた菅茶山の文章などに見られるので、かなり後から使われたものと思われる。

 城の正式名称も決定し幕府に報告するものはすべて揃った。勝成は意気揚々と江戸に向けて旅立っていった。
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