福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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とんど祭りがはじまる

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 元和八年(一六二二)八月二十八日、勝成らが城と城下町の完成を報告しに江戸城にあがったことは幕府の記録にも残っている。

〈水野日向守勝成が所領備後国福山に。公役もて新城を築かせたまわりしを謝して、銀百枚。時服十献す。よて奉書を給う〉(続元和年録、寛政重修譜など)

 普請の完成の際は使者を出したが、今回は藩主自らの江戸参府である。この報告の儀には将軍秀忠も出座した。秀忠は勝成の従兄弟(家康)の子で、年齢も十五歳下である。むろん立場の違いはあるが、やや砕けた雰囲気になるのは自然なことだろう。
「上さま、こたびは参府のつとめも御手伝普請も免除下さり、おかげさまで藩の築城および城下町整備、河川工事などつつがなく終えることができましてございます」と勝成は深々と頭を垂れる。
 秀忠はうむ、とうなずいている。
「幕府から派遣した普請奉行にもいくらか話を聞いたが、万事新しいこと尽くしで相当苦労もあったと聞いた。特に河川の工事や上水敷設か」
「はい、川をなめておったのですな。真によい勉強になりました」と勝成は素直に答える。
「うむ、権現さま(家康)も水にはずいぶん手をかけておった。何人もの奉行が生涯携わってようやくメドが立ったところもある。小石川、六郷がそうじゃな。そして、今もまだ神田の上水は完成にいたっておらん……」
「はい、並大抵の事業ではございませぬ。人が多く助け合って長く携わらなければ」と勝成はうなずく。
「奉行らの話を聞いてハタと気づいたことがある」と将軍はじっと勝成を見る。
「はい」
「おぬしが築いた福山という町は、江戸を手本にしておらぬか」
 勝成は秀忠を見上げて口角を思い切り上げた。
「上さま、お気づきになられましたか」
 言われた秀忠もあまりの即答ぶりにギョッとして勝成を見る。
「それは気づくだろう。城を新たに築くに留まらず、野原を埋め立てて城下町を作る。川を慣らして上水を作るとまでいえば、ああ、江戸もそうだと合点がいくわ」
 側で聞いている老中の土井利勝がフッと微笑む。この老中はとっくにそれを分かっていたらしい。勝成は土井の様子を見ながら、側頭部を掻いている。どう言ったらいいのか、少しためらっているようだ。
「上さま、福山を築くにあたって江戸の町作りに倣ったのはひとえに感謝の念からにございます。わしはきりがないほど感謝しておるのです」
「感謝?」と秀忠が問う。
「そうですな……童の頃わしをポカスカ叩いて道理を教えてくださった於大さま(家康の母)もそうじゃが……権現さま(家康)にはまこと、言葉にできぬほど世話になり申した。父とぶつかってばかりのわしを何度も預かっていただき、ついに奉公構(勘当)をくらった折にはわしを匿って金子を用立ててくださった。それはまだまだ序の口じゃ、帰参した際も憤る父を宥め、ともに勤めるよう取りはからってくださった」
「ああ、その辺りからはわしも知っておるよ」と秀忠がうなずいている。
「小山で陣を張っておったとき、父が刈屋で殺されました。権現さまはすぐに刈屋の家老に文を書き、わしに家督を継がせるよう命じられました。あの一通の文がなければ、わしは家臣らに受け入れられず、すぐに追放されとったでしょう」
「いや、そんなことはない……おぬしに器量があると信じておったから、父はそうしたのだと思うぞ」と秀忠は微笑んでいる。
 勝成はさらに続ける。
「そして、権現さまもさることながら、何より上さまにお礼を申し上げたいのです。
 関ヶ原のしばらく後でしょうか。わしが天領になった備中をいただけないかと権現さまにお伺いして、けんもほろろにされたことがございました。お恥ずかしい。それは至極当然でしたが、上さま、上さまはあの時のことを覚えて下さっておったのですな。わし以外にも譜代は多くおります。備後の藩主はわしでなくともまったく不都合はなかったはずじゃ。伏見で上さまの言葉を聞いて、わしはその場で泣き出したいほど感動いたしました。
 わしは実に多くの人の厚意を受けてここまでやってきました。このたび与えられた西国の鎮衛という大任を全うし、藩を繁栄させることが、わが生涯を賭けての勤めと存じております。上さまには新藩の築城などに際しましても、格段のご配慮をいただきましたこと、心よりお礼申し上げます。おかげさまを持ちまして、ここに完成のご報告ができまする」
 勝成の言葉には篤い真心が込もっていると秀忠は感じる。
 しばらく、沈黙があった。
「日向守、恩返しじゃな。これほどまでに清々しい恩返しは他になかろう。今後ともよろしゅう頼むぞ」と秀忠は満面の笑みを湛えている。
「御意」と勝成は深く頭を下げた。



 その頃、藩主が留守の福山城では勝重と筆頭家老の上田掃部が話をしていた。
「左義長ですか」と上田が勝重に尋ねている。
「はい、こちらでは『とんど』と呼んどるようじゃ。正月明けに松飾りなどを焚いて、その年の無病息災と豊穣を祈念するもの」
 勝重の言葉に上田はうなずいている。
「はい、左義長は知っておりますが……それを新たな城下町でやりたいということでしょうか」
「うむ、殿がおれば直に願い出たいと言っておったが、戻られるのは九月半ばじゃろ。支度を始めたいので、一端相談したいと神嶋の伊予屋と鞆鍛治の長兵衛がやって来たんじゃ」
 上田はほうと感心している。
「さすがツボを押さえとりますな。確かに鞆どの(勝重)に話しておく方が話が早い」

 上田は祭りの概要を聞く。
 正月の松飾り、注連縄などで組んだ円錐形の山車の天辺に大きな飾りを付けたものを『とんど』と呼ぶ。福山の城下町と鞆の全町がそれぞれ町ごとにとんどを製作し、周辺の村人も総出で囃子や歌とともに城下町をくまなく練り歩く。祭りの二日目にそれらを燃やして一年の無病息災や豊穣を祈願する。来年は備後福山藩として初めての正月になる。城と町が開かれたお祝いも兼ねた特別かつ盛大な祭りの案を町民で立てた。神嶋と鞆だけではなく、すべての町から賛同を得ているという。
 ただ、とんどの飾り物を作るのに時間がかかることと、城下の道を占有する規模の祭りは藩主の許可がなければできないというので、まず勝重に話が来たのである。もちろん町民からは、藩の人々にも観覧してもらいたいーーという強い希望があった。

「実にありがたいとわしは思いますのんじゃ」と勝重は言う。
「はい、私も素晴らしいお話と存じますし、まず殿が反対されるはずはないでしょう。ただ、いくら留守を任されとるとは言っても、私が『はい、どうぞ』と申すわけにもまいりませぬ」と上田が申し訳なさそうに言う。
「それは、そうじゃのう」と勝重も腕組みをする。
 すると、そこにお珊がするすると入ってくる。
「お二方のお話、聞いてしまいました。とても素敵なお話ね。いいではないですか」
「しかし……」と上田が躊躇いを見せる。
「支度はしておいてもいいでしょう。話は後で殿にきちんとしていただくようになさい。何かあったら、わたくしの名前を出せばよい」
「うむ、わしよりもええ。お方さまがそうおっしゃるなら、殿も怒りはせんのじゃなかろうか」と勝重がいう。
「……さように仰せいただけるなら、お任せします」と上田が小さな声で了承する。
 お珊は上田を見てうなずいた。そして、
「そうでした、鞆どの、少しお話してもいいかしら」と勝重の方を向く。
 それを聞くと上田は「それでは私はここで失礼いたします」と言って去っていく。
 勝重とお珊はそれからしばらく話し込んでいた。


 勝成はじきに戻ったが、とんどの話は皆の予想通り即決で許可され、藩士らは必要な助力をするように命じられた。その中で上田は町人の代表と詳細を詰める役を任され、さっそく各町の代表者と面会の場を設けることにした。
 しかし、城と町が完成するとまた新たな忙しさがやってくる。家老はじめ側用人ら家臣団は合議の上、今後の日程をまとめている。特に町開き以降初めてになる正月は今後の規範にもなるので慎重に書き出された。めでたい、めでたいだけで済ませるわけにはいかなかったのだ。

 元和九年(一六二三)一月前半は以下になる。
・元日 各町の惣代の年始挨拶を受ける
・二日 初触れ(前年のうちに決めた内容)
・三日 謡い始め、三味線始めなどの芸事、城下の挨拶はここまで続く
・四日 鏡餅・注連縄をおろす
・七日 とんどの打ち合わせ、祇園社祭礼
・十一日 蔵開き(商家など)
・十三日 とんど
・十四日 とんど

 一月前半はたいへん大まかに書くとこうなる。これまでの藩でも共通する内容があったが、とんどで都合三日入るのがこの新藩ならではというところか。勝成は自身がかぶき者の典型だったので、謡曲を謡いもすれば舞いもする。笛もお手のもので愛用のものが現代まで残っている。
 彼個人からすれば、この期間は楽しいことばかりだったかもしれない。祭りもまた、然りである。


 さて、町の人々もとんどの許可が下りてさっそく準備に取りかかっている。元々松飾りや注連縄で組むものなので、そちらは早く着手できないが飾りならば作っておくことができる。その飾りをいかに目立たせるかというのも、町同士の競争ではないが大事なのだ。何しろ皆がそれぞれ吹聴して回るので、福山藩の中だけでなく備中や安芸の方まで前評判が立っていた。そうなると見物客も相当来るだろう。ここで目立たずにいつ目立てばいいのか。町人皆の気合いも入る。

「魚屋町の方は鯛に決めたそうです」と男の子が息せききって店に入ってきた。その子の父親である店の使用人が、「ああ」と声を上げる。男の子はさながら間諜らしい。
「そうやなあ、魚屋なら鯛しかないかも……」とつぶやいているところに主の高田宗樹が奧から現れた。染物屋と廻船問屋を兼ねている高田屋のある吉津では何をとんどの飾りにするのか、熟考を重ねていた。
「やはり縁起もんがええのや、うっとこは鶴亀で行こうと話しとるとこやで、まあ、よそさまを探るのはやめにしときいや」
「せやかて、旦那はん。吉津が地味ぃで沈んで見えたら、そら情けないでっしゃろ」と使用人は弁明する。
「鶴亀よりめでたいもん、ありますかいな。滅多なことは言わんとき」と高田屋のお内儀が口を挟む。
「しかしなあ、やはり何かこう、他のやらんことをしたいんや。飾りを派手にしてもええのやけど」と高田屋の主はつぶやく。
「とんどの運び手に揃いの半纏を誂えますよって、よう目立つはずやと……それだけでも大車輪ですわ」と使用人は奥の白い反物を見やる。これから紺屋(こうや)に頼んで染めてもらう予定のものだ。
「染物屋やから、まあ順当な線なんやけどな。わては何か殿さまにお礼がしたいのや」と高田はまだ思案している。
 お内儀がそろそろ痺れを切らしてきた。
「あんたはんな、ああでもない、こうでもないと話に始末がついてへんやん。何したいいうんや」
 高田はそれでも、うーん、うーんと唸り続けたが、突然天啓が降りてきた。
「殿さまや奥方さまは、席に座られてとんどを見るのやろうな」
「せやろうな」とお内儀。
「それでとんどをずーっと見てはったら、見とる間は手持ち無沙汰やな?」
「まあ、ずっとおったらな」とお内儀。
「酒をようけ飲むわけにはいかんわな」
「飲んだらへべれけになってしまいますわな」と使用人。
「なら、甘いもんや。甘いもんを差し入れしたらええ」
 それを聞いたお内儀が素頓狂な声を出す。
「ええ?うちは染物屋でっせ、甘いもんを差し入れて、いったいどこに頼むんどすか」
「あんたはん、よう茶饅頭作っとるやないか、あれはなかなか美味やで」
「ええ?うちが作るんどすか?そんなん数も多いいやろうし、でけしまへん」とお内儀は早々に白旗を振る。
「あんたはんが全部作らんでもええ、家の皆に教えてくれたらええのや」
 高田はもう決めてしまったようである。
 お内儀も悪く言えば丸く飲み込まれ、丸い饅頭作りの普請奉行になったのだった。

 どこの町屋でもあれやこれやと、とんどにすべてを賭ける気配のうちに一年が暮れていった。


 そして年が明けて、元和九年の一月十三日がいよいよやってきた。町のあちらこちらで、ピーヒャラドン、ピーヒャラドンと太鼓や笛の音が鳴り響き、人々が山車の巡行を今か今かと待っている。城にもその賑やかさが伝わってきて、皆そわそわとしている。勝成もそうだが、お珊や勝重も気がそぞろになっている。巡行の打ち合わせに参加した上田は少し興奮ぎみに見所を語っている。
「各町のとんどは皆頭をひねってひねって、趣向を凝らしております。天辺の飾りにまず注目ですな」
「人がたくさん出ているようですね」とお珊が言う。
「はい、巡行はぶつからないように道を決めておりますが、進み具合によっては行き交うこともあるかもしれませぬ。その時は人が大層混み合うでしょう」
「それも祭りの醍醐味じゃが、あまり人が寄せるようなら警固の者が制する要も出よう。それは大丈夫か」と勝成が尋ねる。この祭り(神事である)は藩の主導でなく、城下町の皆により提案、運営されるものである。それは人々の祝う気持ちが為すもので、為政者としてはたいへん有難いものである。ただ、そこで事故や騒動が起こってしまうのは絶対に避けなければならない。それは藩の責任になる。
「はい、往来には警固役を配しており、何かあれば駆けつけるように命じております」
「うむ、それならばわしらは祭りを満喫させてもらおうか」と勝成は笑う。立場上あまり表には出せないが、彼は誰よりもこの祭りを見るのを楽しみにしているのだ。
 特別に設けられた観覧席には勝成ら藩主の一家、上田掃部ら家老、そして普請奉行の中山将監、小場兵左衛門、神谷治部らも腰を下ろした。勝重の後ろに付いている三村親良がきょろきょろしている。
「ん、靱負どのはどこに行ったんかのう」
 それを聞いた勝重が振り返っていう。
「靱負にはわしが所用を頼んどる。じきに来るじゃろう」

 そして山車の巡行が始まった。
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