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【番外編】もののふの末裔 吉川広家
白うさぎは岩国へ
しおりを挟む関ヶ原を越えて
『天下分け目の戦い』と呼ばれる関ケ原の合戦は徳川家康が率いる東軍の勝利で終わった。
決戦の日、黒田長政の取り次ぎを受けて吉川広家は毛利家宗家の輝元にも働きかけ、関ケ原で東軍を有利にするように動いた。いや、動かなかったのである。それが西軍を混乱させた。より劇的だったのは毛利の一端である小早川秀秋(小早川隆景の養子、秀吉の妻おねの甥)の奇襲である。彼は家康に内応し、その合図で友軍の大谷吉継隊にいきなり襲いかかったのである。
大谷隊はそれで壊滅した。
それが戦の分水嶺となり、東軍の完勝に結び付いたのである。
家康は黒田長政を通じてひそかに家康に協力した吉川広家と、大谷吉継隊に雪崩かかった小早川秀秋には恩賞を与えるつもりでいた。小早川秀秋には備前岡山の地が与えられるだろう。そして広家には周防と長門国を与えるとの打診があった。
しかし西軍の石田三成をはじめ、はっきりと自身への恭順の意を示さなかった者を家康が赦すことはない。西軍主力の諸将には死か、どんなに幸運でも遠方への転封が待っているだけだった。それは西軍の総大将の位置にいた毛利輝元も同様で、これまでの領地は没収の命が下されようとしていた。
石田三成と小西行長は慶長五年(1600)十月一日、安国寺恵瓊は十一月六日に京都の六条河原で斬首された。
広家の選択は間違いではなかった。
彼や小早川秀秋も東軍に内応しなければ、石田三成らと同じ目に遭っていたのだ。
もし内応しなければ西軍が勝利していただろうか。
可能性はあったかもしれない。
ただ、東軍大将の徳川家康は歴戦の猛者である。統率者としての器量、戦をいくつも生き延びてきた経験、それらが三成にはなかった。長い朝鮮出兵に出ていた広家にはそれが決定的な敗因だったようにも思えた。
もちろん、それで万事うまくいくというわけではなかった。
毛利宗家の輝元との軋轢がある。
輝元から見れば黒田長政と通じてこそこそと家康とやりとりをしていたというのが、広家への不信の念を抱かせている。まるで小笠原への養子の件を咎められたときのように。
「あれからずっと、変わっとりゃあせんのじゃのう」と広家はため息をつく。
「ひとり家康と通じて、宗家をなきものにしようという肚ではないのか」
小早川秀秋は毛利の一端とはいっても秀吉の妻おねの甥で血縁はない。おねが家康に陰で協力していたのは後で明らかになるが、裏切ったなどと責めることはできなかった。そして、広家が疑いの矢面に立つことになる。毛利を守るためによかれとしてしたことが、少しも理解を得られないのである。身内の不信はたいそう堪えた。
宗家とどう関わっていったらよいのか。
これならばいっそ……。
広家はずっと悩んでいた。
もちろんひとりでずっと思い悩んでいたわけではない。誰にでもペラペラと内心を語ることはできなかったが、永年の毛利家老・福原広俊らとはたびたび内密に話した。ここで家康が示した通り、吉川が前に出るべきかということである。
広家自身はそのような気持ちには到底なれなかった。父・吉川元春の姿がずっと脳裏から離れなかったのである。
「父ならば、毛利宗家を廃する方には決して進まんよ。しかし、わしはわしの道を進まねばならんとも思うとるんじゃ。しかしその道はやはり、父の遺訓に背くようなものであってはならぬ。だとすれば……」
ぐるぐると思案する広家の様子を見て、福原は微笑んでいる。
「もうお心は決まっておいでかと」
「ああ、決まっとる。決まっとるんじゃが、吉川の家を捨て石にしてええんか……でも他に選択の余地はないけえな」
顔をしかめてまた思案する広家に、福原は静かにいう。
「吉川家には苦渋の決断にございましょうが、毛利を生かす手だてを思案していただきたくお願いするばかりにございます。われら家臣団も二心なく従います」
今や毛利一族の帰芻はこの場の決定にかかっている。広家はふうとため息をついて代々家老を務めてきた重臣につぶやくように尋ねる。
「のう、わしらが守っとる一番の……そうさな、要は何じゃろうか」
広俊はどう返したらいいのか分からず、黙って広家を見つめている。
「いや、わしはのう、父がずっと暇をみては、『太平記』の書写をしていた姿をこのところまた、しきりに思い出すんじゃ。それが己の務めであると固く信じとったんではないかのう。それは口羽(通良)が既にあらかた済ませとったことじゃけ、父がわざわざせんでもええことじゃった。それでも父はひたすら写しとった。わしにはそれが摩訶不思議でのう」
広家がどれほど長くその答えを探しているか、福原は知らなかった。どちらにしても、適当な答えを持ち合わせていなかったので、「駿河守さまは文武両道のお方でしたが……」とだけ答えた。
吉川広家は徳川家康に起請文を出した。懇願する手紙である。
──恩賞として自身に与えられた周防・長門二国は毛利家に与えてほしい。宗家を差し置いて吉川が受けるわけにはいかない。輝元には至らない点もあるが、もし二心あれば宗家といえどこの広家が成敗し、首を捧げ奉ろう。──
このような内容である。
家康の決定に変更を求めてその機嫌を害し、さらに事態が悪化することも考えられた。この手紙はそこまでの覚悟を持って書かれたのである。兎が火に飛び込んで己が身を与えるようなものだった。
家康はこれを了承した。
広家捨身の本意がきちんと伝わったのだろう。
十月、毛利は大幅に減封となったものの周防・長門の二国を治めることが認められた。実質的な当主は輝元になるが、これまでのいきさつもあって、生まれたばかりの嫡子秀就が初代藩主に据えられることとなった。
吉川は毛利の家臣として、新藩の置かれる萩から遠い岩国の地を与えられる。
何とか毛利宗家が周防と長門に所領を安堵され、広家はほっとしていた。輝元はちっとも感謝していないようだが、特に不快にも思わなかった。福原を初め毛利家臣らは広家の行為を知り感涙にむせんだーーと伝え聞いたが、「それはそれであまりよろしくないのう」と聞き流した。
「さて、因幡の白兎は岩国へ参ろうか」
広家は苦笑してひとりつぶやいた。
岩国への移動は大がかりになった。
日山の屋敷に住んでいる母親もともに行くと言ってくれたので、そちらの引越しの作業にも手間がかかった。それでも母が岩国という住み慣れない土地で老境を過ごすと言ってくれたことは申し訳なくも喜ばしいことだった。
父の死の件があったので、離れたところに母を置きたくなかったのである。
母は夫を亡くしている。息子も二人亡くしていた。それだけではない。戦いくさで父や息子を案じ続け、気の休まる暇がなかった。岩国は新しい土地なのでその分不安もあるだろうが、息子も家人もいる。何より、もう大きな戦に出て行くことがなくなる。
これからはもう心置きなくゆるりと過ごしてほしい。それが子としての願いだった。
「これでええんじゃ、ええんじゃ」と広家はつぶやく。
ただ、まだ広家の中にはぼんやりとした疑問がはっきりと解けずに残っていた。父親の書写のことである。
広家は、父が遺した二つの書物『太平記』と『吾妻鏡』をそれなりにある程度読みはした。しかし父のように書写まではできなかった。
書かないから分からないのだろうか。
それらは今、広家の手元にあるのでいくらでも読み返すことができる。もちろん岩国にも運んだ。興味深く読んだところがいくつもあった。
身につまされ、息を飲み、悲しく、晴れがましく、時に張りつめ、衝撃があり、無常を感じさせる。
それらはすべて、人の生きた証しだった。
「それはわかる、わかるんじゃが……」
それで父が書写を続けていた理由ではないようにも思える。
はじめにそのような疑問を持ってからもう何年経ったことだろう。こんなことならば父にもっとしつこく問えばよかったと広家はかすかな後悔を覚える。
「蔵人どの」と母の声が聞こえた。
広家の通称である。そう呼ばれた当人は綴じた書物から目を滑るように上げて声のほうに向き直った。
「すべて、読んだのですかの。何か分かったことはあるのですか」
広家は苦笑して耳たぶの裏をポリポリと掻く。まだ『太平記』の三十巻まで読み終わっていない、とはいえない。
「そこそこですけえな、もう少し……」
その質問に母は明確な答えを求めていないようだった。彼女は襖戸をわずかに滑らせて外を見る。眼下に錦川の悠々とした流れを見ることができる。
そこに錦帯橋が築かれるのはもう少し後のことになる。
そして、息子の近くにすっと座る。
「何かございましたか、母上」と広家は尋ねる。
「今日は何やら雨もよいで動き回る気分にもなれませぬのじゃ。されば蔵人どのとゆっくり話したいと思うてのう。老いた母の昔がたりを聞いてくださる暇はありますかいの」
「もちろんです。母上」と広家は母に向かい合って胡座を組む。
母親はふっと微笑むと、息子に語りだした。
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