鎌倉もののふがたり

尾方佐羽

文字の大きさ
上 下
36 / 38
【番外編】もののふの末裔 吉川広家

三男坊が家督を継ぐ

しおりを挟む

  父が陣中で倒れる
 
 天正十四年(一五八六)八月、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らの毛利勢は、豊臣秀吉の命により薩摩の島津氏討伐のため、九州の地に乗り込んできた。
 もともと、九州北部には毛利氏が勢力を伸ばしていたが秀吉側としてこれに参加することになったのである。

 日山を出る頃から元春は体調を崩していた。持病がひどく悪化していたのである。胃に激痛を覚えるようになり、食事もろくに取れずげっそりと痩せこけてしまっている。子の元氏も又次郎も父の身を案じ、静養してほしいと願っていた。しかし、秀吉が元春の出陣を強く求め、元春の弟の小早川隆景もその意を伝え説得にかかった。実のところ、元春も体調のことだけではなく参陣したいとは思っていなかった。身内を無惨に攻め落とされたのだから自然なことである。
 しかし、隠退しているとはいえ簡単に退くことはできなかった。義理を守るような心持ちで元春は小倉から転戦を重ねた。

 吉川元春、元長、又次郎も参陣し、十月初めに小倉城の包囲戦を敵方の投降で終息させた。
 その後、十一月には宇留津城の攻略に取りかかった。これには黒田孝高(官兵衛)らも加わっている。
 
 その最中だった。
 元春は体調を崩し倒れた。
 よほど耐えていたのか、倒れたときにはもうすでに危篤状態だった。
 
 弟の小早川隆景や黒田孝高(官兵衛)は攻略した小倉城に元春を運ぶように勧め医師を呼んだ。しかし、元長は吉川隊を率いる役目があるので、宇留津を離れることができない。元春を小倉に連れていく役目は又次郎が担うことになった。陸路は危険なので親子は少しばかりの供と船に乗り込んだ。
 
 船に揺られながら、又次郎は父を見た。
 もう冬の声が聞こえて又次郎もブルッと震えるほどの寒さであるのに、父の身体は燃えるように熱かった。
 又次郎はぞっとした。
 父の命の火が燃え盛って、そのまま尽きてしまうように思えたのだ。
「小倉に着くまでに父の身体は持つのだろうか」と急に不安になる。船の進み具合はのろのろとして進まず、不安は際限なく増していくばかりだ。
 父はときおり激痛に身をよじらせる。
「父上っ、父上っ」と又次郎は呼びかけるが、答えることができないほど苦しんでいる。
 早くたどり着きたいと、そればかり祈って父子は長い長いときを過ごした。
 
 小倉にはすでに報せが届いており、準備が万端整えられていた。元春は小倉城で医師の手当てを受けたが、もう手の施しようがなかった。又次郎は苦しむ父から片時も離れず、眠るときも側について過ごした。次第に父は意識が朦朧とし、うわごとを繰り返すようになった。
「又次郎、又次郎、まだおぬしはおるのか……もう目がよう見えん」
「父上、おります。又次郎はここにおります」
 又次郎は思わず父の手を取って、堪えきれず嗚咽の声をあげる。人目も何もない。
 父の手はもう、熱を失い始めていた。
 
 床に就いた元春は数日間熱と痛みにさいなまれた。そして天正十四年(一五八六)十一月十五日、彼は息絶えた。
 まだ五七歳だった。
 
 又次郎は宇留津城を包囲している兄の元長に早打ち(急報)を出すと、父の亡骸の脇から離れずしばらく呆然としていた。時折その手に触れてみる。その身体はどんどん冷たく、外の風より冷たくなっていた。
 
 もう戻らぬ。
 父はもう戻らぬ。
 
 いろいろなことを考えなければならないのだが、どこかふわりふわりと浮いているようで、すべてがぼんやりとしていた。今自分がどこにいるかというのもよく分からない。今がいつかも分からなくなるような、茫然自失の状態だった。
 
 兄の元長から返信が届いたのは二日後だった。いくつかの事項が又次郎に託されていた。
 父の亡骸を日山の麓の、母と弟の待つ館まで連れて帰ってほしい。父は在郷の龍門寺雲庵東堂の弟子なので師か門徒に引導を任せること。葬儀の次第は西禅寺の住持である周伯恵雍に依頼してほしい。そして西禅寺の門徒一同に父の埋葬まで任せたい。さらに焼香についての次第ーーなど事細かに指示する内容だった。
 さすがに長男である。
 兄が持ち場を離れられないことはよく分かっていたので、又次郎はすぐに帰国の仕度に取りかかった。

「思えばこんなに長く父の側におったことはなかったのう。いくさ世に生きとれば、今生の別れがいつ来るかは分からんと思うとったが、実際にその時となると、悔いが出てくるもんじゃ。もっといろいろ聞いておけばよかった」
 又次郎は去りがたく、父の亡骸から離れずその冷たい手を何度も握りしめていた。

 宇留津城の攻略も成して、元長も追って帰国したのだが、九州平定はまだまだ続く。制圧ではなく『平定』と呼ばれた九州攻めにこの後も毛利一門は主力として関わらなければならなかった。

 すぐに吉川家をさらなる悲劇が襲った。
 長子の元長が急逝したのである。父元春の死からわずか半年しか経っていない、天正十五年(一五八七)六月のことで、誰もが想像しなかった大きな衝撃だった。


  吉川の家督を継ぐ

 宗家の毛利輝元は家臣らと協議し、又次郎に吉川の家督を継がせることを決定した。そして又次郎に「広家」という名を与える。

 秀吉のときの例外を除けば、結局養子に出されることのなかった三男坊が跡継ぎになったのである。父の元春が広家を手元に置いていたのは、正しい選択となった。

 それは後だからいえること、当の広家は急な変化に順応して息つく間もなく進まなければならない。吉川家当主としての役目を覚え、主家や家臣たちこなすことに日々を送る。父や兄のことを思い涙に暮れる暇はなかった。
「こうなると分かっとったら、もっとよく聞いておけばよかったのう」とつぶやくばかりである。

 兄元長の菩提を弔うため、墓所の万徳院の整備普請を行ったのに始まり、上洛して秀吉に謁見し、宇喜多秀家の姉(秀吉の養女となる)との婚姻を済ませ、日山から富田城に移るよう命じられるーーそのようなできごとが怒濤のように彼を飲み込んだ。

 吉川の当主としての人生、秀吉のために働く人生、毛利宗家に尽くす人生である。もうそれらに背を向けて、どこかの養子になるなどして逃げ出すわけにはいかなかった。

 この後、彼は毛利衆の一員として吉川隊を引き連れ海を渡る。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)である。それだけで本が書けるほどの転戦になるが、彼は加藤清正や立花統虎(宗茂)らと戦いに明け暮れながら、がむしゃらに敵と戦った。

 それが終わって、再び肥前の陸地を踏むことが叶ったとき、彼はつぶやいた。
「わしゃ、生きて日本に戻れたんじゃ……」
 
 結局、秀吉の大きな野望だった朝鮮の攻略はならず、その命の火ももう尽きようとしていた。

 慶長三年(一五九八)、太閤豊臣秀吉は病を得てこの世を去る。秀吉の遺児・秀頼が跡を継ぐが、前田利家、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家が五大老として後見につく体制となった。

 吉川広家はこのとき、何かしら既視感を抱いていた。何と重なっているのかしばらく思い出せずにもやもやとしていたのだが、ある日突然そのもとを思い出した。

 それははるか昔、広家が生まれるよりもずっとずっと昔のできごとだった。

 建久十年(一一九九)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が急逝した後の顛末である。
 嫡子の頼家が将軍職を継いだが、母方の祖父である北条時政と頼家の乳母である比企氏が対立し、比企氏が滅ぼされる。そして頼家も鎌倉を追われて伊豆に追放されて、直後に命を落とす。続いて頼家の弟である実朝が三代目の将軍となり、御家人十三人の合議制を敷いて後見することになる。しかし実朝は鶴岡八幡宮で頼家の子・公暁によって暗殺される。
 頼朝の嫡子はみな亡くなってしまったのである。
 それだけではない。三代将軍薨去までに御家人同士の争いも絶えなかった。比企能員、梶原景時、畠山重忠、稲毛重成、和田義盛ら有力な御家人が次々に討たれた。

「何とすさまじいありさまか」

 『吾妻鏡』を読んでそうつぶやいたことを広家は思い出したのである。大物が倒れた後には跡目争いが起きる。嫡子が幼少ならばなおのこと。何も頼朝の例を引くまでもない。織田信長が亡くなった後の争乱は広家の記憶にまざまざと残っている。嫡子を代理に立てての戦でしかない。

「あのとき、ご先祖はどうされたんじゃろうのう」と広家はさらに思い出してみる。
 もう父も兄もいないので、ご先祖に相談するぐらいしかなかった。

 大江広元は北条政子と義時に付いた。そして、北条氏の執権政治を築くのに貢献したのである。

「太閤様が亡くなられた今も、実はあの話と似とらんか。似とるようにも思える」
 御家人の合議制は今の五大老に重なり、実朝は幼い秀頼様のようでもある。だとしたら、わしは御家人の郎党っちゅうことなんか、と広家は自嘲的に心の中でつぶやく。
 いや、ひとつ間違えれば毛利も危ういのではないか。ご先祖がなぜ政子と義時に付いたのか……としばらく広家は腕組みをして考える。

「筋じゃったんか。人の度量じゃろうか。この場合はどこにあるんじゃろうのう」とつぶやく。

 秀吉の遺児秀頼を後見する体制は整えたものの、徳川家康と奉行筆頭の石田三成の関係はみるみるうちに悪化していった。自ら天下獲りに打って出ようとする家康を、石田三成は激しく牽制した。その緩衝役だった前田利家が亡くなった後は誰もその対立を止めることができなくなる。
 三成が家康を暗殺するため襲撃をかける事件も起こり、事態はいよいよ深刻になった。

 家康勢の東軍と石田三成率いる西軍の間で軍事衝突が起こる。
 関ケ原の合戦である。
 五大老の上杉・宇喜多・毛利は西軍として、すなわち家康に対する側として参戦することとなった。
 
しおりを挟む

処理中です...