16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

にいさまの嘘つき 1527年 フィレンツェ

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〈ローマ教皇クレメンス7世、ミケランジェロ・ブォナローティ、カテリーナ・ディ・メディチ、アレッサンドロ、イッポーリト、クラリーチェ・ストロッツィ〉

 少しだけ時間が遡る。

 1527年の春、皇帝軍がローマに進路を取ってフィレンツェを通過した頃のことである。防御壁に武装して詰めていたフィレンツェ市民軍は、ランツクネヒトをはじめとする襲撃者がこの町に手出しをしなかったことに安堵して、防備を一端緩めていた。しかし解除したわけではない。通りすぎたといっても、それは行きの話で帰りは分からないからだ。
 集まった市民たちの間では、今回の皇帝軍の襲来が教皇の無策にあるという見方が大勢を占めていた。

 ミケランジェロ・ブォナローティも市民の一人として武器を手に壁に詰めていた一人だ。
 彼は皇帝軍が通りすぎて行った後、自身の家に戻って日常の仕事に取りかかっていた。教皇クレメンス7世から依頼を受けた、フィレンツェのメディチ家礼拝堂のデザインを描く仕事だ。しかし、当の依頼者とはしばらく連絡がつかないので、仕事はほぼ止まってしまっていた。「音信不通はまだしも、生きててくれればよいのだが」とミケランジェロは思う。
 この10年ほど、ミケランジェロは依頼主との折り合いが悪く、作品を完成するに至らない。中途半端に時間だけが過ぎていく状態が続いていた。

 フィレンツェ、ギベリーナ通りにあるミケランジェロの自宅兼工房に、男たちが話をしに現れる。

「ローマはひどいことになっているようだな」

 ミケランジェロは深いため息をつく。
 ローマには彼が依頼を受けて彫り、描いた作品があるのだ。『ピエタ』(聖母子像)や『天地創造』(システィーナ礼拝堂の天井画)である。それが無事なのか、ミケランジェロは気が気ではない。ローマが落ち着いたら、弟子に確かめに行ってもらおうと考えている。なぜ自分で行かないのかといえば……自分の作品が打ち壊されているのを決して見たくないからだ。

 21世紀の現在、両方とも見ることができるので、ミケランジェロもホッとしているだろう。

「ああ、市街地は破壊、収奪、強姦、殺戮という単語でしか表現しようがないようだ。市民だけではない、逃げ遅れた聖職者もその犠牲になっている。クレメンス7世は無事なようだが、当分、カスタル・サンタンジェロからは出られまい」

 この男が言わんとしていることは、ミケランジェロには分かっていた。それが男の口から言葉となってあらわれる。

「今こそ、市民が蜂起しメディチ家を追放する好機だ。後見といいつつも実質的な権力者であるクレメンス7世が身動きの取れない今こそ、われわれの願いを実現できると思うが。何しろ、次期当主と目されているアレッサンドロ・メディチは傲慢な振る舞いが目立つと、市庁舎でもすこぶる不評だ」
「ああ、そのようだな」とミケランジェロはあごひげを撫でながらいう。
「自分は庶子だがメディチ家の嫡流だと、二言目には口にする。あのひよっこは大ロレンツォから大事な家訓を受け継がなかったらしい」
「常に市民の側に立ち、目立たぬようにせよ、か」とミケランジェロは言葉を継ぐ。
 男はそうだといわんばかりに大きくうなずく。
「シニョーリア広場のダヴィデ像の方がよっぽど謙虚だ。常に端に立っている」
「それはそれは……」と像の作者は苦笑する。
 それからしばらく、男はアレッサンドロの批評をしばらく続けていたが、気が済んだのか、ミケランジェロをじっと見て尋ねる。
「そのように考える者が非常に多いということだ。それをお分かりいただけるだろうか」

 ミケランジェロはしばらく沈黙する。そして、ゆっくりと説明する。
「私は共和国の一市民だ。しかし、クレメンス7世は私の仕事の依頼者だ。依頼者が不在だからといって、蜂起に加わることはできない」
 男はうなずいている。
「ああ、よくわかっている。あなたがそのように言うことは。私はあなたに蜂起に加わってほしいというのではない。私たちの動きを静観してほしいというのがお願いしたいことだ。そして、成功した暁には私たちの共和国政府に協力してほしい」
 ミケランジェロは不意に髪をくしゃくしゃっと掻く。そうすると短髪に白髪がいっそう目立つ。芸術家は顔をしかめ、男の言うことにうなずいた。

 もともと、是非もないことなのだ。
 私は石工であり、彫刻家、画家であり、建築家だ。それがどうして創作とは関係のない政治の話に巻き込まれなければならないのか。フィレンツェが民主的な共和国であることは私にとって大変な誇りだと思っている。しかし、このようにローマが戦乱状態にあるときに、フィレンツェまでそれに乗じるのか。もう、破壊や殺戮の話はたくさんだ。

 それは時を待たずして実行された。ローマがまだ破壊されたままの状態の5月半ば過ぎからフィレンツェの庁舎やメディチ邸に、メディチ家の専横に抗議する人々が次々と集まり始めた。そして、口々に、「メディチ家はフィレンツェを出ていけ!」と怒声を浴びせた。

 この事態の収拾に乗り出したのが、メディチ家を実質的にルクレツィア・サルヴィアーティとともに取り仕切っている、クラリーチェ・ストロッツィだった。二人ともメディチ家の娘であるので、このような事態への対処法を身につけていた。彼女は目立たぬようにメディチ邸の面々と調整をはかる。外では抗議の声がよく聞こえてくる。
「市民の権限は著しく阻害されているぞ!」
「民主的な政体をわれわれは求めているのだ!」
「アレッサンドロ・メディチは暴君に等しい」
「イッポーリトも、為政者としてふさわしくない!」
「メディチ家はフィレンツェから出ていけ!」
 このような声が次々と上がっているのである。
 クラリーチェはそれを室内で耳にしながらつぶやく。
「まったく、私がストロッツィと結婚を発表した時も、ソデリーニにさんざんこんな風に言われたわ。人の結婚を祝福しようなんて気はさらさらないのよ。ただ文句を言うだけ。それにみんな乗っかってるだけ。本当に短絡的ね」
 ソデリーニはメディチ家と対立する貴族である。
 万事仕度が済むと、クラリーチェは従者に声明を託した。

〈今回、市民の皆さんの怒りを受ける大きな原因となったのは、クレメンス7世からフィレンツェの政事代行を任されている枢機卿バセリーニの不手際によるものです。また、イッポーリトと、とりわけアレッサンドロ・メディチはフィレンツェの為政者としてふさわしくないばかりか、メディチ家の面汚しです。メディチの一族は市民とともに政治を行い、ともに歩んできました。しかし、このアレッサンドロは市民から憎まれるような振る舞いをしています。この3人は即刻フィレンツェから追放します〉

 市民の言葉を全面的に肯定し、アレッサンドロとイッポーリトをフィレンツェから追放するという内容だった。

 そして、年長のルクレツィアに変わってクラリーチェがメディチ邸に入り、8歳の少女カテリーナの保護者として側に付くことになった。声明でメディチは全面降伏した。自分たちの要求が認められた、勝利したと市民たちは感情を昂らせ叫ぶ。
「メディチ邸を市民に開放せよ!」
 市民たち、というよりこのときすでに、集まる人々は打ち壊しの暴徒になりかかっていた。蟻が砂糖を求めるような状態である。

 声明で槍玉に上がったバセリーニ枢機卿、イッポーリト、アレッサンドロ・メディチは秘密の地下通路を伝って人気のない場所に出る。夜まで待ってフィレンツェを脱出していった。アレッサンドロとイッポーリトはこの秘密の地下通路の存在をルクレツィアから聞いていたので、脱出は難なくできた。

「さて、カテリーナ。あなたは私が必ず守るから、堂々としていらっしゃい」とクラリーチェが少女の肩を叩く。
「はい、おばさま」とカテリーナは消え入りそうな声で答える。これまで経験したことのないような事態に見舞われてひどく不安だったのだ。
 その不安よりはるかに大きかったのは、悲しみだった。

ーーぼくがカテリーナを守るよーー

 イッポーリトにいさまの嘘つき!
 わたしを守るよって言ったのに。
 さっさといなくなってしまった。
 私をひとり置いていってしまった。

「これでもう、お別れなの……」

 カテリーナの小さな呟きはドアがガシャガシャと開かれる音で遮られた。少女はビクッとして身を小さくする。とっさにクラリーチェがカテリーナを覆うように抱きしめる。

「メディチの女か」と邸宅に乗り込んできた男は聞く。
「はい、これから修道院にまいります」とクラリーチェはぶるぶる震えてすすり泣いている。

 クラリーチェおばさまはすごい。さっきまで、ものすごく強い男のひとみたいだったのに、今はすごく弱い女のひとになった。

 もちろん、クラリーチェはあえてそうしたのである。これがカテリーナに身を持って教えた処世術というものだった。
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