16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

瀕死の町に連れ出される少女 1530年 フィレンツェ

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〈カテリーナ・ディ・メディチ、教皇クレメンス7世、イッポーリト、バティスタ・ディラ・パッラ、ミケランジェロ・ブォナローティ〉

 1530年になった。
 フィレンツェの周囲には4万の皇帝軍と教皇軍が集結し、周辺の丘陵まで見渡す限り人が埋め尽くしている。
 トスカーナの丘陵地帯といえば、現在はワイン用のブドウ畑が続き、風光明媚な場所として有名だが、このときは武装した人間が埋め尽くしていたのだ。
 その光景を絵に描いた人がいた。いっときミケランジェロの弟子だったジョルジョ・ヴァザーリである。この人はフィレンツェを取り囲む雲霞の如き大軍を描いた。当時彼はフィレンツェの外にいてだいぶ後になって絵を描いたが、この人にとって、皇帝軍の群れは恐怖と悲しみの象徴にしか映らなかっただろう。

 フィレンツェ側の指揮官にあたるバティスタ・デッラ・パッラはこの包囲が短期間で片が付くと見込んでいた。皇帝軍はじきに仲間割れを起こして自滅するだろうと。しかし、そうはならなかった。皇帝軍は包囲を解くようなことはしない。じっと籠城しているフィレンツェの様子を、落ち着いて眺めるだけの余裕を彼らは持っていた。ランツクネヒトもローマに向かうときとはまるで振る舞いが変わっていたのである。給金が先に十分払われていたことが大きかっただろう。教皇クレメンス7世は彼らに1万フロリンの金貨を支払っている。

 1530年の夏になると、籠城しているフィレンツェ側は苦境に陥るようになっていた。先が見えずにずっと戦闘態勢を取り続けることは難しい。暑い夏の日射しにも共和国の市民軍の士気はがくんと落ちた。そして何より恐ろしいのは、備蓄していた食糧が底を尽きそうになっていることだった。柵の外に出れば豊かな丘陵に畑がいくつも広がっているのに、今はどこを見渡しても皇帝軍の群ればかりだ。焦るしかないのは、フィレンツェ共和国の方になっていた。

 そこで、共和国側はムラーテ修道院にいるカテリーナに目を付けた。
「あの娘はメディチ家の嫡流の女子だ。皇帝軍との交渉を有利に運ぶ材料になるだろう」

 ただ、ムラーテ修道院はフィレンツェでもっとも堅固な建物である。そして、その中にはもっと冒してはいけない存在がいる。神に仕える修道女たちである。キリスト教国にあって、どのような戦場にあっても、教会、修道院は冒してはならない聖域である。ランツクネヒトが恐怖の対象であるのは、カトリックを憎悪する気持ちがあったとはいえ、その聖域を躊躇なく冒したことにもよる。ただ通常なら人々はそのようなことを決してしない。だからクレメンス7世も四面楚歌の地に可愛い姪を安心して置いたままにしているのだ。もちろん、皇帝軍も教皇軍もフィレンツェと衝突が起こった場合、公爵令嬢たるカテリーナ・ディ・メディチを最優先で保護することになっている。

  しかし、それはフィレンツェ側が彼女に何もしないという保証があって成り立つ話だった。
 7月に入って、疲弊しきったフィレンツェ市民の間にひとつの流言飛語が発生した。

「ムラーテ修道院はメディチ家の紋章が入った菓子をまだ作っている。神ではなくメディチ家に忠誠を誓っているのだ。彼女たちは教皇と陰謀を図ってフィレンツェを滅ぼす算段をしているのだ」

 市内にある、他と同じように隔絶されているひとつの修道院で人知れず陰謀をはかるーーというのはずいぶん無理がある。だが、その根拠が確かなものかというのは、ありていに言ってどうでもよいことだった。飢え、大軍に囲まれて緊張を解くことができず苛立つ人々にとって、その荒んだ心を満たすものであれば、理由など何でもいいのだ。

 この噂は、カテリーナを鉄壁の修道院から引きずり出すためのものに他ならなかった。

 共和国議会ではこの案件が議題にされた。議会もこの段に及ぶと正当な議論の場にはなってはいないようだった。
「カテリーナを防御壁の外に晒せばよい。そうすれば残酷なランツクネヒトたちが遠慮なく彼女を殺すだろう」
「いや、彼女を売春宿に閉じ込めて兵士たちの好きにさせればよい」
 聞くも残酷な、極端なことを平然と主張する人も現れた。フィレンツェがこのような事態になったのはすべてメディチ家のせいである。だからカテリーナを見せしめにしろという。彼女はフィレンツェ市民の憎悪を一身に受けることになってしまった。
 何もしていない11歳の少女がこれだけの罵声を浴びる様子は、小説でもなかなかお目にかかれない。
 追い詰められている人々の衆愚といえるが、そのような流れを止めることは難しい。議会はカテリーナの引き渡しを求めることを決議した。

 7月19日の夜、フィレンツェ共和国議会のメンバーがギッベリーナ通りのムラーテ修道院の戸を叩く。口調は冷静だが、断固として譲らない姿勢である。
 修道女たちは武器を持っていないので、言葉を持って扉の向こうから必死に哀願する。ここは修道院であり、何人も不可侵である。カテリーナは預かって保護している女子であり、お渡しすることはできないーーと涙ながらに訴えた。議員たちはこの哀願に多少心を動かされた。
「それならば、朝までお待ちします」

 朝までの猶予を得て、カテリーナはシスター(修道女)たちとろうそくの灯りに照らされながら話をするために集まる。すると、カテリーナがまっさきに、きっぱりと言う。

「私の髪を切ってくださいますか」

 シスターたちは驚く。カテリーナはこの修道院において、愛らしい天使のような存在だった。祈りの時間をはじめ、同じ日課のうちに暮らしてはいたが、それは修道女のなるための修練ではなかった。彼女はあくまでも、預かった大切な小公女だった。髪を切ってヴェールをかけるということは修道女になるということである。シスターたちはためらった。
「でも、お嬢さま……」とカテリーナに戸惑いの声が発される。
 カテリーナはほほえむ。しかし、その表情はこれまで見たことがないほど真剣なものだった。

「このままですと、シスターたちがひどい目に合わないとも限りません。やって来る人たちの目的は、私なのです。私のために、皆さんが苦しい、たいへんな目にあうのは耐えられません。ですので、私も修道女となって彼らの前に堂々と立ちたいと思います。それが、神の思し召しによって、これほどまで幸せな場所を与えて下さった皆さんへのご恩返しになると思います」

 カテリーナの言葉を聞いて、シスターたちはすすり泣きを始めた。そして院長である年配のシスターが、彼女を椅子に座らせる。続いて別のシスターが大きなハサミを持って現れる。そのハサミでみな、髪をばっさりと切ったのだ。
 涙をこらえながら、院長がカテリーナの髪にハサミを入れる。
 ジャキッ、ジャキッ、という音だけが夜のしじまに響き渡る。
 床にふぁさっとカテリーナの巻き毛が舞い落ちる。
 シスターたちは目に涙を溜めながら、その一部始終を見守っていた。

 自分の髪が床に落ちていく音を聞きながら、カテリーナはしっかりと前を見据えて心の中で固い決心を繰り返していた。
「神よ、救いたまえ。わたしを生かしたまえ。そしてどうか、イッポーリトに会わせてください」


 翌朝現れた共和国議会の代表に、ムラーテ修道院はドアを開いた。そこにはシスターと同じ出で立ちのカテリーナ、11歳の少女が立つ。

「わたしがカテリーナです。昨晩のご訪問でご趣旨は理解しておりますが、修道院の一員としてここを出るわけにはいきません」

 代表として現れた男たちは、メディチ家の娘のしっかりとした、神聖さを感じるその姿に圧倒された。11歳の令嬢ならば、贅沢放題で甘ったれた子どもだろうとたかをくくってもいた。その予想を大きく超えた姿に、メディチ家を憎むフィレンツェ議会の代表も態度を改めざるを得なかった。

「カテリーナさま、おっしゃることはわかりました。ですが、あなたがこちらの修道院にいることに市民は大きな疑いを持っています。このままでいると、市民が暴徒化して、修道院を襲撃することは間違いないでしょう。あなたがこちらの前にいた聖ルチア修道院に移っていただけますか。それが皆にとってよい方法なのです」

 カテリーナはいったん、背後につくシスターたちを振り返って、微笑んでうなずいた。そして、議会の代表に向き直った。

「わかりました。そちらにまいります」

 そして、カテリーナはそのまま男たちに連れられて聖ルチア修道院に向かう道を進んだ。その修道院はフィレンツェ共和国政府寄りなので、いざカテリーナに何かしてもらう必要が出たときに便利がいいというのが共和国議会の考えだった。敵地といってさしつかえない。カテリーナが前にいたときも、この修道院では冷たい扱いしか受けなかったことを11歳の少女は思い出す。それでも、彼女は信じることを固く誓っていた。

 生きてイッポーリトに会うのだと。

 その朝、ギッベリーナ通りを歩いていたミケランジェロ・ブォナローティは、フィレンツェ議会の男たちが小さな修道女を連れて歩いているのを認めた。彼は行きすぎる一団を見ながら深いため息をつく。

「あれはメディチ家の令嬢だろう。この前の議会がそれで紛糾していたからな。それにしても、まだ年端もいかない女の子を切札や見せしめにしなければならないほど、われわれは追い詰められているということか……」

 彼もここ数日、ろくなものを食べていない。それでもまだ、議会の一員として席を得ているのでたまに食糧が回ってくる。まだましな方だった。

 餓えた共和制のフィレンツェは今や風前の灯火だった。

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