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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
レモンの花が咲いている ローマ 1531年
しおりを挟む〈ミケランジェロ・ブォナローティ、クレメンス7世〉
彼は再び、ローマに向かって旅をしていた。
初夏から夏にさしかかる頃のことだ。
これまで何度もフィレンツェからローマにいたる街道を行き来しているミケランジェロ・ブォナローティだが、この日差しには心底辟易している。時たま馬やロバで通りすぎる人と出くわすと、彼は口の端をきゅっと結ぶ。歩き通せなければ途中の町で馬を借りなければならないだろう。そんなことを考えながら、シャツの袖をたくしあげ、荷物を背負い直す。
彼はもう56歳だ。漆黒だった短髪も、立派な鼻と顎の髭も白いものがかなり混じるようになった。すなわち若くないということだが、旅でこれほど疲れを感じるのはそれだけが原因ではなかった。
彼が旅に出るまでのことを記しておく。
それは前の年、1530年に起こった神聖ローマ帝国軍によるフィレンツェ包囲戦に起因する。カテリーナ・ディ・メディシスは2つの修道院で過ごして難を逃れたが、ミケランジェロも包囲が解かれた後に同じ経験をしていた。いや、カテリーナより悲惨だっただろう。
彼はサン・ロレンツォ教会の中にあるメディチ家礼拝堂地下室に隠れていたのである。この10年、メディチ家からさまざまな制作・建築設計の仕事を受けていたので、建物のつくりをよく知っていたのだ。
そこは空気の通り道はあったが、ほとんど光の入らない地下室だった。彼の支援者が食料などを差し入れる以外、人に会う機会はない。真っ暗な空間で彼は日がな過ごした。そしてろうそくがあるときは、漆喰の白い壁に絵を描いていた。
彼は人間の脚をいくつか描いた。ピンと緊張したアキレス腱、張りのあるふくらはぎ、骨太さがあらわれる膝。それらはまるで、今にもこの地下室から駆け出していくようだ。
それはミケランジェロの真情だっただろう。
地下室の生活はそれほど長くなかった。少なくとも、ローマにあるカスタル・サンタンジェロの地下牢に留められたミケーレ・ダ・コレーリアほどではなかった。ミケーレは留められた期間も長く、拷問も受けていたのだ。しかし、ミケランジェロは屈強な軍人ではないので、それは割り引いて考える必要がある。
この地下室の生活はたいへん辛いものだった。身体を動かすことがほとんどできず、真っ暗な空間に留まることが人間の身体にどのような影響を及ぼすか、想像することは難しくない。
そしてメディチ家がフィレンツェに復帰することとなった。ミケランジェロはそれまで共和国政府に関わっていたことを、教皇クレメンス7世にじきじきに許され、新たな仕事を任せたいとローマに招きもしていた。
晴れて太陽の下に出ることが叶ったわけだが、ミケランジェロの心は一向に明るくならなかった。先頃まで一緒に働いていた人々が市庁舎のあるシニョリーア広場で次々と首を吊られ、処刑されていたのだ。フィレンツェの中心ともいえるこの広場を、ミケランジェロは通ることができなくなった。
自分だけが助かった。
その罪の意識が頭にこびりつくようになった。
シニョリーア広場だけではなく、外に出るのも避けるようになった。ローマに向かうのも少し待ってほしいと伝えた。身体が消耗しているだけではない。心が疲弊していたのだ。
その疲弊した期間、ミケランジェロはギベッリーナ通りにある自分の家で、ひたすら石と向き合っていた。依頼されていた仕事のひとつ、彫像をかたちにしていたのだ。仕事は他にもあった。自身が隠れていたメディチ家礼拝堂の設計である。ここに飾る彫像もミケランジェロが受注している。しかしメディチ家の仕事をすぐ再開する気にはとてもなれなかった。
別の仕事に取りかかっていても、ミケランジェロの気持ちは明るくならない。シニョリーア広場に立つ『ダヴィデ』像を彫り上げたときの熱はどこに行ったのか。ミケランジェロは何度もノミと金槌の手を止めて、少し離れて眺める。他の人間から見ればほぼ完成しているようにも見えるその像に、制作者は満足できないようだ。
「ダメだ……」
ミケランジェロは顔をゆがませる。
この彫像には勇壮さが足りない。まるで敵に向かうのをためらっているようだ。
それに、どうしてこの顔はこんなに悲しげになってしまったのだ。
ミケランジェロはもう一度彫像に戻り、ノミと金槌を手にする。そして、ふくらはぎの辺りを整え始める。それをしばらく続けたあと、彼はため息をつく。
「そろそろ、ローマに行くか」
後年、『ダヴィデ=アポロ』と呼ばれることになる彫像はそこで作業がほぼ止まることになる。
ミケランジェロは道から少し入った辺りにさほど高くない木々が群れになっているのを見つける。一斉に五弁の白い花を咲かせているからすぐに分かる。
彼はまぶしそうに近づいていく。そして、辺りに人がいないことを確かめると、そっと花の匂いを嗅いで微笑む。
「ああ、何て爽やかなことか……思えばこんな風に、レモンの花の香りを嗅ぐのは久し振りだ」
ミケランジェロはしばらくその時間を堪能する。
美しいものをまっさらな心で愛でることができるなら、それは幸せなことだろう。しかし、自分ではどうにもできないほど気がふさいでいる。そのようなときに出逢う美しいものの役目は、はかりしれないほど大きく、深い。
一迅の風が彼の頬を撫でる。
旅人はまた街道へ、ローマへの旅路に戻る。
◆
「教皇さま、フィレンツェからミケランジェロ・ブォナローティが来て、謁見を求めております」
白い祭服に緋色のケープをまとったすらりとした長身の教皇は目でうなずくと、緋色の帽子を手にして執務机の椅子から立ち上がった。
教皇にはミケランジェロに依頼したいことがいくつもあった。そのために彼をフィレンツェから呼んだのだ。
すでに手がけられているフィレンツェのサン・ロレンツォ教会に関わる設計がその主たるものだ。依頼の内容は設計だけではなく、教会内のメディチ家礼拝堂に据えられる彫像の制作まで含まれている。そして、教会に付属するラウレンティアーナ図書館の設計も依頼されていた。
この一連の仕事はメディチ家のための仕事だった。
それだけの仕事を依頼されているにも関わらず、メディチ家を追放する側にミケランジェロが与したことについて、当の依頼主であるクレメンス7世は恨みや報復、懲罰するなどの気持ちを持っていなかった。教皇は、フィレンツェ包囲の直前にミケランジェロが脱出しようとしたことを聞いていた。そして、かの芸術家が政治に深い関心を持っていないことも知っていた。それらを合わせて考えて、彼を罰するのではなく、大いに働いてもらおうと考えたのだ。
教皇の考える道筋は、ローマ劫略の後で神聖ローマ皇帝カール5世と和解したことからも推し量ることができる。先を見通したとき、どのような決断をするのが最善かを考えるということである。
ただ、その結果が多くの人にとっても最善になるとは限らない。
教皇に謁見したミケランジェロ・ブォナローティはフィレンツェの仕事を今後も継続してほしいという言葉を聞いている。これまでも手がけてきたので断る理由はない。ただ、ミケランジェロの表情は暗かった。謁見の正装としてまとった服をただじっと見て、うつむいている。装飾の施された緋色の椅子に座って、教皇は彼に声をかける。
「あのようなことがあった後で、なかなか気が進まないというのもあるだろう。そこで、一つ私に考えがあるのだ」
ミケランジェロはようやく顔を上げて教皇を仰いだ。クレメンス7世はそれを見て、話を続ける。
「ユリウス2世の頃に描いてくれた、システィーナ礼拝堂の『天地創造』は見てきたか」
「いいえ、まだです」とミケランジェロが答える。
「ローマが壊されたときも、システィーナ礼拝堂はほとんど無事だった。もちろん、『天地創造』もだ。私はあの壮大な、迫力のある天井画と一対になるような祭壇画が必要だと考えている。それができるのは、ミケランジェロ・ブォナローティ、あなただけだと思う」
教皇の言葉に、ミケランジェロは目を見開いて驚いた表情になる。しかし、その依頼で心の雲が晴れたわけではなかった。
「それは……身に余るご依頼です。まだ、サン・ロレンツォの仕事も完成していないのですから、今はお引き受けできません」
その答えは教皇にとって想定のうちだった。なので、ミケランジェロの言葉に静かにうなずいて話題を変えた。
「そうだな、サン・ロレンツォの方はぜひ完成してもらいたい。ウルビーノ公とヌムール公の彫像だけでも早く見てみたいものだ」
ウルビーノ公とはカテリーナの父であるロレンツォ、ヌムール公とはイッポーリトの父ジュリオのことである。ミケランジェロはその名前を聞いて、ハッと思い出したことがあった。
「教皇さま、ウルビーノ公のご令嬢はお元気でおられますか」
クレメンス7世はこの質問を想定していなかったらしい。ただ、答えに窮するものではなかった。
「ああ、今はローマに滞在している。フィレンツェの反乱があって、あの娘も修道院で隠れ住むことになった。かわいそうなことをした。しかしローマにいればもう大丈夫だ」
「そうですか……」と応じながら、ミケランジェロは思い出していた。
共和国政府の男たちに連れられて歩いている、ひとりの少女の姿を。
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