16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

マジャール兵の先頭に立って 1533年 ヴィルフランシュ

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、マリア・サルヴィアーティ、教皇クレメンス7世、イッポーリト・ディ・メディチ、オールバニー公〉

 1533年9月6日、イタリア半島ラ・スペツィアの港を発った船は、翌日にはフランスのヴィルフランシュに到着した。この港はニースの東にあるが、ニースの方が現代の人々には馴染みがあるかもしれない。地中海を望む風光明媚な地だ。
 カテリーナ・ディ・メディチーーこれからはカトリーヌ・ド・メディシスと呼ばれることになるーーは初めてフランスの大地に足を踏み入れたのである。もちろん、側にはマリア・サルヴィアーティが付いている。

「気が張って疲れたのでは?」とマリアが尋ねる。
 カトリーヌは首を傾げて少し考える。それから笑っていう。
「そうね、これまでいた所とまったく違う場所に行くのだから、気持ちが落ち着かないというのはあるわ。でも、それは止めようとして止まるものではない。しゃっくりのようなものかしら。しばらくそのままにしておくしかないと思う」
 マリアは微笑んで、カトリーヌの肩に手を置く。
「あなたは落ち着いて見えるし、実際落ち着いている。模範解答だわ。もしかすると私は早々にお払い箱になるかもしれないわね」
 カトリーヌは首を横に振る。
「いいえ、私にはあなたが必要だわ」
 二人はフランス王の従者たちに連れられて滞在する館へ連れられていく。かなりの人数で、その大仰さにフィレンツェ人一行は驚いた。王子と縁組みするというのはこれほど大がかりなことなのかと思ったのだ。
 それをするのが王国の矜持というものである。
 とはいえ、結婚式はここで行われるわけではない。ヴィルフランシュよりずっと西、マルセイユで行われるのだ。

 何よりまだ、カトリーヌの後見人である教皇クレメンス7世が到着していない。教皇はこの機会を見てイタリア半島の各所を回ってからヴィルフランシュに入ることになっていた。おおむね1カ月、カトリーヌとマリアと随行したメディチの人々は待機する。待ちぼうけということになるが、この期間はカトリーヌにとってのんびり過ごせる貴重な時間でもある。

 カトリーヌに随伴してきたフランスの特使オールバニー公は、また慌ただしく出発しなければならない。今度はクレメンス7世を連れてやってこなければならないのだ。カトリーヌがねぎらいの言葉をかけて見送ったとき、オールバニー公は苦笑して彼女に告げた。
「お嬢さま、あなたとの旅はのんびりと楽しいものでしたので、ご心配なく」

 それにしても、イタリア側の登場人物は主客転倒している。本来、イタリア側の主役は花嫁になるカトリーヌである。それなのに、後見人は彼女を1カ月も待たせるのである。しかも、クレメンス7世はカトリーヌと比べ物にならないほどの艦隊でやってくる。教皇なのだから当然なのかもしれないが、カトリーヌとの違いは明白だった。
 教皇の乗り物を含め、赤・金・紫の緞子(どんす)できらびやかに飾り立てられたガレー船団はただただ壮観の一言に尽きる。そして教皇の巡行ということで、船団には聖職者も随行していた。主目的は結婚式ではないということだ。
 船団には護衛の兵も乗船していたが、その一隅に変わった装束の軍隊がいた。大きな羽のついた大きな帽子をかぶり、皆一様に鼻の下に細くて長いひげを蓄えて揃いの軍服を身に付けている。異装の徒、マジャール兵の一団である。

 その一団の先頭にいたのは、イッポーリトだった。

 彼はハンガリーに教皇の特使として派遣されていたのだが、今回の巡行に教皇を護衛するために馳せ参じたのである。
 イッポーリトにとって、それは胸の痛くなるような役目だったはずである。イッポーリトとカトリーヌは相思相愛の恋人どうしだったのだ。二人はローマで別れ、ハンガリーとフィレンツェに赴くことになった。
 カトリーヌはフランスの王子と結婚する。
 愛する恋人が、王子だろうが何だろうが他の男のものになるのを見たいとは思わないだろう。
 カトリーヌは結婚して、もう二度と自分の手には戻ってこないのだ。

 それでもイッポーリトはフランスの王子と結婚することを自身の役目として受け入れた彼女の晴れ姿を見守ってやりたいと思った。
 言葉も通じない異国の地で彼女は生きていく。よく知っている人間で付いているのはルクレツィアの娘マリアしかいない。それでも彼女は運命を自分の胸に受け止めて、前に進んでいく。せめて、その姿を見届けてやりたい。

 イッポーリトはそのように考えて、ここに来たのだ。

 しかし自身はもとより、彼女をこのような運命に放り込んだ張本人をイッポーリトは決して許していなかった。それはいつからだったろう。フィレンツェのメディチ邸にいた頃からずっと溜め込んでいた感情なのかもしれない。

 深い恨みといってもよいこの感情が、のちに彼を追い込んでいくことになる。

 カトリーヌは彼が来ることを知らされていzない。

 フランス王フランソワ1世、花婿である王子のアンリ、そしてたいへんな人数の一団は教皇の到着が近いとの報せを受けて、マルセイユに向けて出発する。
 そして、教皇もついにフランスに向けて出港する。

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