16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア

ルクレツィアのカード 1504年9月 フェラーラ

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<アルフォンソ・デステ、ルクレツィア・デステ(ボルジア)>

 それにしても、とアルフォンソ・デステは思う。

 デステの一族も少々変わってはいるが、ボルジア一族の変転はなんと激しく複雑なことだろうか。

 ルクレツィアは今回が3度目の結婚である。
 もちろん彼女の意思ではなく、父アレクサンデル6世と兄チェーザレの思惑が絡んだ相手に嫁いだのである。
 最初の夫はミラノのスフォルツァ家の係累、ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァである。そのときルクレツィアはまだ十二歳だった。この結婚は「白い結婚」と言われている。一緒に住むこともなく、もちろん男女の関係になることもない。
 結局、役割がなくなった時点でペーザロ伯は「不能であるため婚姻を無効にする」という書類にサインさせられた上、お払い箱となった。

 しかしまともな結婚が叶わなかったことは彼女の自尊心をひどく傷つけた。その傷を癒すため尼僧院に引きこもってしまったのだが、まさにその時に兄ホアンの暗殺事件が起こったのである。

 次の夫はビシュリエ公爵アルフォンソ・ダラゴーナ、ナポリのアラゴン王国との関係を強くする目的の縁組みだった。
 この陽気な美男子はルクレツィアを一目で気に入ったらしい。ルクレツィアの弟ホフレとビシュリエ公の妹サンチャはすでに夫婦となっていたので、もともと知っている気楽さもあっただろう。このまま二人だけで過ごせていたならば、結婚生活は長く続いたかもしれない。
 それも、兄チェーザレがフランスに接近したことで悲劇に見舞われる。
 ビシュリエ公はチェーザレがナポリと敵対するフランス寄りになったことで、自身も亡き者にされるのではないかという恐怖を抱いた。そして一度はナポリに帰ってしまった。このときルクレツィアは懐妊していたのでたいそう悲しんだが、実際、彼はナポリにいたほうが安全だったのだ。しばらくしてローマのルクレツィアの元に戻ってきたビシュリエ公は外出中に襲撃を受けて瀕死の重傷を負った。
 この時はルクレツィアとサンチャが文字通り、つきっきりで看病についた。さらに刺客が現れることを警戒して、女たちが寝ずの番をしてビシュリエ公を守っていた。
 また狙われることがわかっていたのだ。
 しかし無駄だった。
 ビシュリエ公は女たちがほんの少し部屋を空けた間にとどめを刺された。

 結婚の段取りを決めたのは父アレクサンデル6世と兄チェーザレの意向であったが、夫の追放と殺害については兄の意向が強く反映していたと思われる。ビシュリエ公にとどめを刺したのはチェーザレの側近、ドン・ミケロットだった。
 そして、チェーザレはその前にも、ルクレツィアと父教皇の使者を務めていたスペイン人の若者に刃を向けたことがあった。
 ルクレツィアに子をはらませたからである。
 その若者はやはり、ティベレ川から遺体となって発見された。


 三度目の夫になったアルフォンソはもちろん、自分の妻になる女性についてそれなりに調べさせていたので、ここに書かれたようなことはすでに知っていた。
 たしかに教皇の娘というのは特殊な境遇である。それにしても、あまりにも本人の意向を無視した行為ではないか、いや人間的な扱いすらしていないのではないかとアルフォンソは思う。
 彼はのちに兄弟の痴情沙汰に巻き込まれて苦渋の選択を迫られることになるが、肉親の婚姻を好きなように左右したり都合が悪くなったら暗殺するという状況は理解できるものではなかった。
 これほど儚げな、可憐な、人を傷つけることなど考えたことがないような女性に対してできることではない、少なくともアルフォンソにはそう思えた。
 そのようないきさつを知っているからこそ、愛する妻をどこまでも守りきるという決意を固く持つに至ったのだ。

 アルフォンソは兄のことを始終心配している健気なルクレツィアに問いを投げかけた。

「ルクレツィア、おまえは義兄上を恨んだことはないのか? 許しているのか? 」

 不意に問われたルクレツィアは、目を天井のほうに向けてしばらく考えてから言った。

「どう答えたらいいのかしら。カテリーナ・スフォルツァのように、夫を殺された報復をしたほうがよかったのかしら。兄様に? ねぇ、アルフォンソ、ずっと昔から、私は兄の考えていることが何となく分かるの。兄がまだ7歳ぐらいだった頃からずっと。
 それが私を悲しませることだとしても、兄は自分の決めたことを決して変えたりしないの。でも、決して兄は苦しんでいなかったわけではない。それも分かってしまうの。だって、私たちはきょうだいの中で、一番長い時間一緒にいたから。
 全部分かってしまうというのは、とても、とても、とても悲しいことよ。じきに兄だけではなく、お父様や、お父様の愛人だったファルネーゼやホフレやサンチャ、ビシュリエ公の気持ちまで全部分かるようになってしまった。でも、やっぱりいちばん分かるのは兄のことなの。
 だから私は余分に悲しい思いをしたように思うし、それを何とか自分の中に取り込んでしまおうと思って生きてきたわ。
 殺された恋人や夫のことも、引き離された子供のことも、私の中に丸ごと残ったままよ。今でも夢に見るわ。でもそれを受け入れられるようになりました。
 いえ、受け入れようという気になっているだけかもしれないけれど、それは、あなたが私を守ってくれているからできることだと思うの。そう思えるようになったのは、本当に最近のことだから。
 あぁ、でもやっぱりうまくは言えないわ。それが許すということなのかしら……許すっていったいどういうことなのかしら」

 アルフォンソには答えることができなかった。

 ルクレツィアがつぶやいたカテリーナ・スフォルツァの報復のほうがよほど分かりやすいものだった。

 しばらく前の話になるが、寡婦になっていたこのフォルリの伯爵夫人にはジャコモ・フェオという近臣にあたる愛人がいた。
 実際は秘密裏に結婚していたようである。その寵愛をかさに着て専横な振る舞いを見せるようになったことに不満を募らせた家臣たちが、ジャコモを暗殺するにいたるのだが、それに対するカテリーナの報復は凄まじかった。
 暗殺者の一人は聖堂から裸で首を吊られ3ヶ月の間放置された。他の7人はぐるぐると布で巻かれ、馬で引きずりまわされた。それでもまだ息があった2人はやはりつるし首にされた。逃亡に成功した者がひとりいたが、その家族らも殺された。逃げた者の兄弟の家族も殺された。5歳の子供は首を斬られ、残りの子供は古井戸に生きたまま投げ込まれ、蓋を閉じられた。
 10日あまりの間に40人が死刑に、50人が牢に入れられた。
 「恨む」とか「許さない」という感情がもっともよく表れた例かもしれない。親は子供が言うことを聞かないときに、「フォルリの伯爵夫人が来るよ」と怖い声でとがめたということである。

 民衆に恐怖を植え付けたこの件は美しい伯爵夫人カテリーナのその後に決してよい結果をもたらさなかった。


 アルフォンソは決して頭は悪くないが、人の複雑な思いを推し量るのは得意ではない。
 特に女性の感覚的なものいいは苦手である。
 ただ、彼はルクレツィアを愛している。それがルクレツィアにとって救いになっているということだけは理解できた。なので、この時もあえてそれ以上聞くことはなかった。

 アルフォンソは話題を変えた。
「グラン・カピターノは義兄上を好ましく思っていたよ。武人を理解できるのは武人だということだろう。だから、おまえの手紙がもし行き違ってしまったとしても、きっと届けられるだろう」
 ルクレツィアは力なくうなずいた。
 兄を救える存在はもういないのだろうか。今や、あらゆるフォルツァ(力)が兄を拒んでいるように見える。

 象嵌の装飾が美しいヴェネツィア製のテーブルに乗っているカードにルクレツィアは手を伸ばした。これは30年ほど前のフェラーラ公ボルゾ・エステが、お抱え絵師に描かせたトリオンフィ(タロット)カードである。テンペラ画で描かれたこのカードは「金色の木の葉文様と花」のパターンで彩られた豪華なものである。まじない札として大事にされてきたものであるが、ルクレツィアはこのカードを無造作にめくって眺めるのが好きだった。このカードは17枚が現在まで残っていて、パリのフランス国立図書館が所蔵している。

「お兄様は今、どんな気持ちでいる?」

 めくられたカードには「吊られた男」が描かれていた。
 袋を両手に持たされ、足を縛られて逆さ吊りにされた男の絵柄である。ルクレツィアは眉をひそめて縁起でもないとばかりにそのカードを脇に置く。さきほど口にしたカテリーナ・スフォルツァによる処刑の様子を思い浮かべてしまったからである。
 さらに、フィレンツェで火あぶりになったフラ(修道僧)・サヴォナローラが頭に浮かんだ。サヴォナローラはカトリック教会の腐敗を声高に叫び民衆の支持を得た。ついにはフィレンツェの執政であるメディチ家を危機に追いやることになるのだが、破門された後失脚し火刑となる。サヴォナローラを破門したのは彼女の父だった。

 この絵柄のような出来事はこの時代、現実として日常的に目にし、耳にするものだった。

 ルクレツィアはかぶりを振って、もう一度カードを引いた。
 赤いドレスを着た女神が上方(天、あるいは宇宙)に立つ足元に円形の枠がありその中に時祷書のような風景が描かれている。下方には波濤、海が描かれている。
「世界」と呼ばれているカードで、物事の完成を示すと言われている。

「運命の女神はお兄様を見捨てないで下さるわ、きっと」
 ルクレツィアは微笑んだ。

 そして紙とペンを取ると、教皇、ナポリ総督、マントヴァの義兄、カスティーリャ女王、ガンディアの義姉などに手紙を書きはじめた。チェーザレ・ボルジアを自由にしてほしい、そのために力を貸してほしいという嘆願の手紙を。
 それは他の大多数の人間からすれば、何の役にも立たない無駄なことだった。実際、マントヴァの義兄ぐらいしか返事をする人間はいなかったし、それは彼女への個人的な愛情によるものだった。
 それでも、彼女は手紙を書くことをやめなかった。
 いつかきっと、チェーザレ・ボルジアは帰ってくる。
 そう信じて手紙を書き続けることが、彼女の使命だった。


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