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第12章 スペードの女王と道化師
ローマにのこる面影を探して
しおりを挟む長い長い人生の中で、彼はこの町に何度か住んだことがあった。大きな都市のこと、いつでも住居の選択が自由にできるわけもなかった。のっぴきならない事情により仕方なく提示された家屋に入ったこともあるし、思いもよらぬほどの豪奢な屋敷に逗留したこともあった。都度つど住む場所は変わったが、彼はたいてい家のしつらえには無頓着だった。工房と住居が分かれていれば上出来で、場合によっては一緒でも何とか暮らしてしまうのだった。
その中で、彼がいちばん気に入っているのは現在住んでいる小さな家であった。
ローマ中心部をくねくねと流れるティベレ川の東岸、ヴェネツィア広場からコロンナ家の大きな邸宅の方へ進む細い道沿いに、それほど大きくない二階建ての家屋がある。貴族の邸宅と比べると大きくないという意味だが、ベージュ色の落ち着いた雰囲気の家だ。
正面にはドアが3つ、窓が4つある。正面玄関であろうドアはいわゆるルネットで上部にアーチ型の空間があるが、そこに聖母子像が飛び出しているようなこともない。囲む柱の直線的な装飾はドーリア式だろうか。質実剛健なイメージを抱かせる。この人ならば自身でもっと華美な彫刻を施すこともできたはずなのだが。
この家の2階部分は住居になっているのだが、正面中央の窓には幅広の枠が付いていて、正方形の大理石のレリーフを思わせる。それが住人の生業(なりわい)にふさわしい装飾のようにも見える。
いずれにしても決して派手とはいえないこの家を、彼はとても気に入っていた。そして、時々2階の窓から見えるコロンナ邸を眺めては、使い古して黄色くなりはじめた紙にデッサンを描き始めるのだった。
コロンナ邸、と書いたがそこは人々からパラッツィオ(宮殿)と呼ばれている。「それほどの規模のものなら素直に宮殿というべきだ」という指摘もあろうが、王のいないローマで宮殿というのはそぐわないとも思うので、邸宅と記している。ローマには王はいないが、同等の地位に教皇が就いている。
そしてこのときもまだイタリア半島は一枚岩になっていなかった。
さて、
八十も半ばを過ぎた老人は宮殿の形状に心を奪われて描いていたのではない。描いていたのは彼が恋慕崇敬して止まない女性、詩人、サロンの女主人、未亡人、修道女、何よりも彼のミューズだったヴィットリア・コロンナの面影だった。それを無心に絵に投影しようとしていたのだ。彼女がかつて住んでいた場所、絵の中では彼女が優雅に歩き、彼を見てにっこりと微笑んでいる。
人は恋におちる。
ときにはどのような差異も環境も飛び越えて。
彼は紙に自身の思いを叩きつける。
現世では叶わないこの渇望を宥めるにはそのように描くことしかできなかったのかもしれない。
彼が現在の家を気に入っているのは、そうするのを何も邪魔してこないからだ。
しばらくして彼は、絵を依頼されたことを思い出す。教皇庁のお抱え芸術家・建築家である彼に対する公的な注文ではない。そちらはもう引退して年金をもらっている。ごく私的な、周囲には秘している依頼である。
依頼主の住みかは奇遇なのか、彼の家からそう遠くない。彼の家を起点にコロンナ邸まで進むのとほぼ同じぐらいだ。その住みかのあった通りはのちに『ジェズ通り』と呼ばれるようになった。その名が示すように、ジェズ、すなわちイエズス会のローマにおける本拠地である。
依頼主はそこから時おりやってきて、完成までの進捗を確かめたいと言いつつ昔の話を聞きたがった。どう見ても依頼主は彼より30は年少のようで、昔の話が楽しいかについては大いに疑問があったが、まったく問題はないようだった。それよりも、依頼主があまりイタリア語に馴染んでいない方が問題だったかもしれない。
「何度も言うが、俺は頻繁にそいつに会っていたわけじゃない。フィレンツェのメディチの屋敷で会ったぐらいだ。そいつはパドヴァ大学でジョヴァンニの級友だったからな。俺が下宿していたとき、ロレンツォ・メディチに紹介されたのだと思う。それっきりだ。なのではっきりと覚えているわけではない」
最初は丁寧に、段々くだけた口調になったが趣旨は一緒だ。そして依頼人はいつも微笑んで、その先の話を待っている。どうも拍子抜けしてしまい、彼は依頼者と同じように微笑むのだ。
「私でなくとも、彼をよく知っている人はいると思うが」と彼は苦笑する。
依頼者は変わらず微笑んでいる。
「ミケランジェロさん、もっとよく知っている方はかつてたくさんいたでしょう。ただ、今はもういません。あなたは私の大おじと同じ年齢なのです。さらに年長の人を探すのは……」
ミケランジェロと呼ばれた老人ははたと考え込んで、
「あいつは、生きているのか」と問い返す。
依頼者は黒衣の右腕を伸ばして胸の十字架を握り締める。
「存命かは分かりません。あなたのような長寿ではなかったかもしれません。ただ私は、少しでも大おじの面影を自分の中ではっきりさせられたらいいと思います。そのためにはわずかな情報もたいへん貴重なのです」
芸術家は口を斜めにして頷く。
「ボルハ司祭、絵はあと少しで完成すると思う。ただし、俺の記憶の中のチェーザレ・ボルジアに過ぎないと思うが……『面影』というやつだ」
依頼者は丁寧に礼を言ってから、微かにはにかんだような表情をして告げる。
「あなたを訪問していますと、自分の祖父に会っているような気持ちになるのです。私の祖父はたいそう若くして亡くなりましたので、父ですらその顔を覚えていないのです」
「ホアン・ボルジアか……俺も面識があったらよかったのだが、俺とはまったく似ていないだろうさ」
依頼者は静かに首を横に振ると、会釈してミケランジェロの家を出た。そして住みかを通り過ぎてティベレ川の方に向かっていった。湾曲した流れを北の方角に進むと、対岸には教皇庁や要塞の城・カスタル・サンタンジェロが見える。
依頼者は立ち止まって、誰もいない川縁の一角で祈り始めた。
その辺りはかつて彼の祖父が暗殺された場所だった。殺したのは大おじの手下だと巷間では言われていたが真相は分からない。ひとつ言えるのは、他の兄弟よりかなり早世だったホアンの末裔が、家の血筋を継いで遺していると言うことだ。
「なぜわたしは彼を探しているのだろう」とフランシスコ・ボルハはつぶやく。
辺りは人がおらずひっそりとしている。
ボルハの様子を伺えるのは、川に出て魚をすなどる小舟だけだった。
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