16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア

剣を握る娘 1505年 アルバセーテ(スペイン)

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<チェーザレ・ボルジア、モーラ、アラゴン王フェルナンド、カスティーリャ女王イザベラ、ファナ、フィリペ>
※一部に性的な表現があります。ご了承のうえご覧ください。

 1505年、乾いた風の吹く地でチェーザレの新しい年ははじまった。チンチーリャ城の塔は辺り一帯で一番高所にあり、窓を開ければ風が容赦なく吹き込んでくる。その凍るような冷たさにも関わらず、チェーザレはよく窓を開け放していた。翼が生えた天使でもなければ、窓から脱出することは不可能である。それでも、外の世界があることを確かめずにはいられなかった。
 それなりに瀟洒で広い居室を与えられてはいても、ずっと閉じ込められているうちにどんどん気がふさいでいく。鬱にならずに済んでいるのは、必ず再起を果たしてやるという執念、そして従者の存在だった。他の人間がいるということは、たとえ言葉を交わさなくても十分心の支えになるのである。



 昨年の暮れにイザベラ女王が没してから、スペインは動揺している。フェルナンド王はあくまでもアラゴン王であって、スペインの大勢を占めるカスティーリャの統治権はない。王と女王の長男と長女がすでに亡くなっているため、二女のファナが新たな女王として戴冠することになった。
 ファナは少し精神的に不安定なところがあった。それは結婚して以降さらにひどくなったという。彼女の夫はフィリップ、スペイン語ではフィリペと言う。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長子である。文武両道のたいへんな美男子だったと伝わっている。そのような男性が妻一筋に愛情を注ぐのであればたいへんな美談ではあるが、そんなことはなかった。浮気を繰り返す夫にファナの精神は耐えられず、嫉妬のあまり夫に常に猜疑の目を光らせ、言動も常軌を逸してきたと巷間伝えられる。間違いなく言えるのは、彼女は夫をひたすら愛していたということである。フィリペのように妻を扱えば、そのような事象はしばしば起こることである。ただ、娘夫婦の不安定さは母のイザベラを悲しませた。母は娘をずっと守ってやりたいと思っていたに違いないが、病でそれが叶わずさぞかし残念だっただろう。

 フィリペはファナがカスティーリャ女王になると、自身をカスティーリャ王であると名乗るようになった。もちろん公式なものではない。しかし、マクシミリアン1世の長子はこの立場を自身の権力基盤として最大限に活用するつもりだった。そしてスペインを治めるよりは、後ろ盾でもある神聖ローマ帝国、そしてフランスとの関係を密にすることに注力するようになる。義父のフェルナンドは眉を吊り上げている。フランスはナポリの争奪戦で一目瞭然、敵対する関係にあった。しかし女王は夫のすることを止められない。夫を失うことが、彼女にとって最大の不幸なのだから。

 この時期、スペインはどの国と同盟を組んでもおかしくないほど不安定な情勢となっていた。チェーザレがそれを知っていたら、何がしかの手を打つことは可能だったのかもしれない。しかし、チンチーリャ城に吹く風はそのような便りまでは運んでこなかった。

 寒い冬だった。
 ある朝、チェーザレの世話をしているムーア人の娘が脚をひきずって部屋に現れた。チェーザレはそれを見た。そして、スペイン語で声をかけた。
「ケガをしたのか」
 娘はびくっと震えて、チェーザレをまっすぐに見た。彼の声を初めて聞いたからである。そして、目を伏せると軽く首を縦におろした。その唇は微動だにしない。
 チェーザレは初めて、娘が口を利けないことに気がついた。
「脚を見せてみろ」
 娘は一端とまどいの表情を見せたが、チェーザレがまっすぐな目をしていたのに安堵したのか素直に衣服の裾を少し上げた。
「くるぶしがひどく腫れ上がっている。よくこれで歩けたものだ」
 そういうと、チェーザレは辺りをゆっくりと見回した。そして、首をかしげた後で、自分の上衣を1枚引っ張り出して端からびりびりと裂きはじめた。娘は驚きの目でそれを見る。美しい、サファイアのような蒼い瞳である。
 チェーザレは娘の前に立った。
「水で冷やすしかないが、こんな寒い日には無理だ。とりあえず固めて動かさない方がいい」
 そう告げると娘の足下に膝まずいて、娘の左のくるぶしに裂いた布を巻いていった。巻いているうちに、ふと、そのふくらはぎを見た。
 鞭の痕が見えた。
「おまえの主人は、よく鞭打つのか」
 娘ははっとしたようにふくらはぎを服で隠した。そうする腕を見て、チェーザレはまた鞭の痕を見つけた。娘は恥ずかしそうに首を横に振った。
「前の主人か……脚まで鞭打つとは……」
 そして脚の手当てを終えると、チェーザレは立ち上がった。
「もし暖かい部屋で休めるのならば、とにかく冷やすんだ。桶に水を張って脚を浸けているといい。そうでなければ……あまり動かさないようにするしかない」
 娘はまじまじとチェーザレをみつめた。そしてゆっくりとうなずいた。サファイアのような濃い青が、チェーザレの瞳に残った。
 娘が出ていったあと、チェーザレはつぶやいた。
「こんなに喋ったのは久しぶりだ」



 彼はこの時代に権力を持ったことのある人間の例に拠らず、人種や宗教に偏見を持たなかった。イスラムのスルタンの皇子は教皇宮にいたし、何人であるかというのも関係ない。敵か味方か、才能があるかないか、美しいかそうでないかという判断基準しか持っていなかったのである。ムーア人の奴隷である娘、モーラは鞭の傷だらけで言葉を発することができなかった。しかし、サファイアのような瞳はチェーザレを強烈に惹きつけた。

 脚の手当てを受けてから、娘はチェーザレに警戒心を持たなくなった。しかし、チェーザレが自身に警戒心を持っていることは十分に承知していた。それでもチェーザレと娘の間には少しずつ交流がはかられるようになった。相変わらず娘は口が利けなかったので、チェーザレが話しかけることに首を振るだけである。

 イエス、あるいはノー、あるいは保留。

 そのうちチェーザレの求めに応じて、娘が部屋にいる時間はどんどん長くなっていった。城主も警固兵もなぜかそれを黙認している。チェーザレが返ってそれをいぶかしがるほどであった。
 結果、二人が夜を共にするまでに、それほど時間はかからなかった。

 ろうそくの火に照らされた娘の褐色の身体を初めて見たとき、チェーザレは驚いた。想像はしていたものの、その背中はびっしりと鞭の痕で覆われていた。吊るされたか、四つん這いか、そんな体勢で打たれたのだろう。尻から脚まで鞭の痕が残っている。罰として打たれたのではない痛々しさが感じられる。
 ナスル朝が倒されたとき、この娘はどのように逃げ落ち、捕えられたのだろう。まだ物心つかない年だったはずだ。彼女の辿ってきた人生について、チェーザレは想像した。
「これが、おまえにとってのレコンキスタの痕なのか」
 チェーザレはまだ名前を知らない。モーラは目に涙を浮かべた。

 チェーザレは、決して騎士道精神にのっとって女性を丁重に扱ってきたわけではない。降伏したカテリーナ・スフォルツァを閉じ込めて犯したのは彼だし、敵の捕虜として得た女性を大勢性の相手にさせたこともあった。若い頃に入れ込んでいたのは、別の枢機卿の愛人をしていた娼婦だった……などその例は枚挙にいとまがない。したがって、娘を鞭打って弄んだ者を非難できるほど清廉潔白ではない。それでもこのときは、素直に「ひどい」と思えたのである。彼もほんの少し心が弱くなっていた。その弱さがモーラの背中の傷痕に共鳴したのかもしれない。
 彼は、彼女をうつぶせにすると首筋から背中に唇を這わせた。傷痕の一つひとつを確かめるように、ゆっくりと丁寧に。
 彼女は震えていた。鞭打たれた時の恐怖が蘇っていたのだ。
 彼は、その恐怖まで掬いとろうとするかのように、背中に舌を這わせた。そして、腰に、臀部に、太ももにキスをした。そしてからだを優しく撫でつづけた。
 そうしているうちに、彼女の身体の震えはしだいに治まっていった。チェーザレはそれを確かめるとゆっくりと彼女を仰向けにした。そして彼女の顔を見つめた。
 サファイヤの瞳から、涙があふれている。チェーザレは涙を指で拭った。
 温かい。
 こんな温かさに触れたのは久しぶりだ。
 チェーザレの唇が彼女の唇に触れた。そして、ふたつの唇、ふたつの身体はもう離れようとはしなかった。

 灯りがそっと消された。

 それ以降、モーラはチェーザレの部屋で夜を過ごすようになった。それが昼まで延ばされることもしばしばだった。依然として、城代がそれを咎める気配はない。モーラもそれが原因で叱られたりする様子もない。彼女は逢瀬のたびに美しくなっていく。深い愛情によって抱かれる女は、豊かに満たされるものだ。

 もちろん、それが愛する男によるものならば――である。

 すべてが仕掛けられたような囚われの生活を振り切ろうとするかのように、男は女を抱き続けた。春が過ぎ、夏が来る。塔の部屋に吹く風は温かくなったが夜はひどく冷え込む。男と女はお互いの熱を分け合って夜を過ごしていた。
 チェーザレがチンチーリャ城に来て、10カ月が過ぎていた。

 ある晩、モーラはふらふらと部屋に入って来た。前の晩に彼女が訪れなかった理由を彼が問うと、彼女は目を見開いたまま、はらはらと涙をこぼした。そして、みずから長い衣服をめくった。
 彼女の腹には一振りの剣が布にくるまれ縄でくくりつけられていた。そして、彼女はそれをほどくと、チェーザレに渡した。
「何を? おまえの身体が傷つくだろう……」といい、モーラの身体に傷がついていないか確かめようとして、チェーザレはモーラの側に行った。そして言葉を失った。
 めくりあげた下半身の、脚の間から血が流れていた。そして精液の鼻をつく匂い。
 何があったのか、チェーザレにはすぐに理解できた。
 暴行を受けたのだ。ひどい暴行を。

 チェーザレは黙って、彼女を抱きしめた。モーラは声もなく泣いていた。
 彼女は身体を離すと、必死に身振り手振りで話しはじめた。

――私がこんな目に遭うということは、あなたにも何か変化があるのかもしれない。悪いことかもしれない。そのとき、囚われているあなたには身を守るすべがない。あなたは私のような肌の色ではない、奴隷ではない。だから、逃げ出せば自由になれるはず。そのためには武器がないと――

 モーラが言葉によらず話す意味は、十分にチェーザレにも通じた。だから剣を盗んできたのである。自身が傷つけられたことにはひとつも言及することなく、ただ、チェーザレの身のことだけを考えて。
 チェーザレは怒りに身を震わせていた。誰がモーラをこんな目に遭わせたのか、それが誰にせよ、城代にその責任がある。チェーザレはチェーザレで、自身が逃げることではなく、モーラの報復のことを考えていた。
 そして、時を待った。
 モーラはその後もチェーザレの部屋に来た。暴行を働いたのは酔った兵数人だったらしいが、城代にそれを咎められたらしい。その後は何事もなかったかのように皆が過ごしており、モーラも抗議をすることはなかった。奴隷が抗議をすることなどありえなかったからである。それもチェーザレの神経を苛立たせた。
 チェーザレはそれまで以上に丁寧に彼女を愛し続けた。しかし暴行とそれ以前の虐待で受けたショックが彼女を苦しめるようになった。彼女の美しい目は常に涙に濡れ、眠りについているときも悪夢に襲われ、声にならない叫び声を上げて目を覚ます。チェーザレはひたすら彼女を撫で、抱きしめてやるしかなかった。

 そして、城代が部屋を訪れるときが来た。
 モーラはチェーザレの長い髪をすいていた。その姿を見て、城代は笑顔で尋ねた。
「ムーア娘は気に入ったか。もとより奴隷の身なのだから好きにしたらよい」

 チェーザレは娘に下がるように言った。そして城代の前に立つとおもむろにその首を両手で掴み、思い切り締め上げた。突然のことに締め上げられた方はバタバタと暴れる。
 その様子を見て、重い石の扉の向こうから城兵が次々となだれ込んで来た。
「何をしている!」
 城代を締め上げたままのチェーザレは兵に取り囲まれた。そのとき、突然チェーザレの前に飛び出した者がいた。
 モーラである。
 剣を握りしめていた。
 チェーザレの前に立ち、兵に立ち向かおうとしている。

「やめろ!」とチェーザレが叫んだ。その瞬間に城代の首を絞めていた手がふっと緩んだ。どさっと床に落ちて倒れた城代はごほごほと咳き込んだ。
 モーラは一瞬、チェーザレを見た。その瞳は紺碧のサファイヤのように輝いていた。そして城兵のほうを振り向きざまに、腹を剣で突かれた。
 チェーザレは彼女に駆け寄り、倒れた身体を抱き起こした。剣が抜かれると、彼女の腹から血が噴きだした。

「あなたは、どうか自由に……」

 チェーザレは初めて彼女の声を聞いた。小鳥のように小さく高い、愛らしい声だった、

 城代はまだごほごほと咳き込んでいる。首にはくっきりした痣が浮き上がっていた。その前はすでに城兵が取り囲んでいた。チェーザレに襲いかろうとする兵を城代が制した。
「もういい、手出しをするな。デューカ(公爵)、いったい、何の真似だ?」
 城主が怒りのこもった目をして、それでも冷静に尋ねた。

 モーラはチェーザレの腕の中で息絶えた。サファイヤの瞳から光は消えていた。チェーザレはそれを誰にも見せまいとするかのように、そっとまぶたを伏せてやった。
「この娘をひどく扱っただろう。私も貴殿を少しばかりひどく扱ってみようと思ったのだ」
「たかが奴隷とわしを一緒にするか」と城代がひどく侮蔑した口調で言う。
「赤い血が流れるのは同じだろう。なんなら試してみるか」とチェーザレはゆっくりとモーラの剣を拾い、ゆっくりと握りしめた。

 その言葉を聞いて城兵たちが身構える。それを再度城代は制止した。ここでチェーザレを始末してはまずい。そのような命令は受けていないからである。しかし、始末してはまずいが、許すわけにもいかない。

「わしは貴殿の扱いを間違えたようだ。これからは少しやり方を変えさせてもらう。剣を渡せ」

 チェーザレはぽんと剣を投げた。
「あと、その奴隷も渡せ」
 これ以上の抵抗は無駄だということを、チェーザレはよく分かっている。彼は彼女の唇にキスをして抱き上げた。そして城兵に渡した。
 殺されかけた怒りが消えない城代は吐き捨てるように言った。

「運命の女神にまた逃げられたな」
「どういう意味だ?」
「その奴隷女の名は、モーラだ。知らなかっただろう」
 モーラ?
 チェーザレは初めて彼女の名前を知った。それはギリシア神話にあらわれる運命の女神の名を思わせた。
 悄然とするチェーザレを嘲りながら城代は去っていった。
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