32 / 480
第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル
アラガオの小屋にて 1552年11月 三洲嶋(現在の広東省上川島)
しおりを挟む
<明国人アントニオ、フランシスコ・ザビエル、インド人クリストバル、商人アラガオ>
◆記録には残らない明国人アントニオの嘆き◆
今日は西紀1552年11月24日、明国沿岸の三洲嶋(サンチャン島、現在の中国広東省上川島)にいる。
冬はもうやってきている。
海風吹きすさぶ粗末な小屋で、私はイエズス会の宣教師、東アジア地区長の重職にあるフランシスコ・ザビエル師をつきっきりで看病している。
私は通訳として師に付いてきた商人である。
私は師が日本からゴアを経てマラッカに来られた際、深く薫陶を受けて洗礼を受けた。その後に通訳として布教に随行することを許されたのである。
私は明国(中国)人である。ゴアやマラッカを拠点に長くジャンク船の乗組員として貿易業に携わっていた。明国からインド、マラッカを何度も往復したが、それなりに後ろぐらいこともあった人間なのだ。しかし、師はそのことを告白しても私を旅の供とすることを止めようとはされなかった。「すでにあなたは新しい人生を歩きはじめたのだから」と、逆に励ましを受けたのである。
師は本年8月にここに辿りついてから、さっそく小さな聖堂を設けて、宣教活動をはじめられた。そして、この島を足がかりに明国(中国)への布教の第一歩を踏み出そうとされていたのであるが、目の前にある広東(カントン、首府は広州)への渡航は難航を極めた。外国の人間を受け入れない明の方針は岩のように硬く、容易には崩せなかったのである。ここ三洲嶋はポルトガル商人と明の商人が密貿易をする拠点となっている場所で、11月までは船が出入りし盛んに取引が行われる。それ以降は天候も海も不安定になるからだ。そんな中で、目の前の広東に渡してくれる明船はないかと私も手立てを尽くした。しかし本土に外国人を引き入れた者には重い罪が課せられる。皆が尻込みをして、断った。
8月からの私たちの努力は徒労に終わろうとしている。
11月13日、ポルトガル商人は滞在用に建てた小屋を焼き放ち、船はポルトガルの大きな拠点のひとつであるマラッカに向けて出航していった。何隻ものキャラック(ナウ)船、それに付いていたジャンク船もである。残ったのは、師を乗せてきたキャラック船「サンタ・クララ号」と常に私たちに好意的な商人、アラガオのジャンク船の2隻だけだった。
アラガオのジャンク船は、明国商人から借り受けているもので少し古びているが、まだまだ何十年も航海を続けられると思われる。船は少々使い込まれたぐらいが安心感を与えるのだ。ポルトガルのキャラック船は船体が深くマストも天に届くかと思うほど巨大で威圧感を与えるが、ジャンク船はある程度大きくても船体が浅くスッキリした印象を与える。まるで鯨と太刀魚ほども体型が違う。そしてジャンクの竹で組まれた帆を見ると、まるでトビウオの羽のように美しいとさえ思う。それは、私が明国人だから感じることなのかもしれない。
ジャンク船が現在の形になったのは宋代(10世紀頃)のことだが、その原型となった帆船が作り始められたのはもっと古い。大河を行き来し海を南北に進む。船は古くから中国の北と南を結ぶ重要な手段の一つだったのだから。そして風も深さも不安定なこの海域をずっと行き来してきたのである。ジャンク船の技術はこの沿岸一帯、琉球や日本にも広がっていった。そしてこの沿岸だけではなく、さらにインド洋にまで広がっていくことになった。
もう少し話をすすめよう。師もこの話は船中で興味深そうに聞いてくださっていたから、きっとポルトガル王も興味を持ってくださるだろう。
明で海の英雄といえば、何と言っても鄭和(ていわ)だ。
1405年に永楽帝の命を受けて大小62隻の船団、2万7800の人を引き連れ、杭州にほど近い、劉家港を発ったのがその最初であった。その大航海は1434年まで7回を数え、訪れた地はチャンパー(占城、ベトナム)、カンボジア、マラッカ(マレーシア)、マジャパピト王国(インドネシア)など東南アジアの国々から当時のヴィジャヤナガル王国(インド)、グジャラート(インド)、ティムール朝(中央アジアの広域)、ラスール朝(イエメンの辺り)、マムルーク朝(エジプト、シリア)などインド洋、アラビア沿岸の各国、最終的にはエチオピアまで到達したのだ。これは、西洋でいえばヴァスコ・ダ・ガマのインド到達に匹敵するものだろうが、それより60年以上も前にこれだけのことを成し遂げた同胞がいる。それは私はじめ明国人にとってたいへん誇らしいことなのだ。
この大航海が明という国の強大さを世界に知らしめる機会となったことは間違いない。しかし、それが明国と他国との貿易を拡大することにはならなかった。この航海が皇帝の勅許によるものだという原則が頑ななまでに守られたからである。自由な貿易は禁止されていた。
明朝皇帝に貢物をするためにしか、外国人の入国は認められなかった。その貢物をする年も国によってあらかじめ定められていたのである。もちろん明国の国民が海を使って外国と貿易をすることも固く禁じられていた。これをはじめとする一連の政策を「海禁」という。
新しい国の使節がひょいと訪れても、受け入れられない。国単位でそのありさまなので、商人はじめ一般の外国人が入国することは不可能なのである。しかし、その禁をかいくぐって入国する者がいなかったわけではない。そして、見つかった場合は相当の罰が待っている。
海禁はもともと、倭寇や海賊による国土への侵攻を防ぐためのものだった。しかし、世界中をさまざまな国の船が自由に行き来するようになると、海辺に築かれた鉄の扉の向こうでは、密貿易船の群れと海賊たち(その区別はあいまいである)がより一層、跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)することになる。
それをどうこう言うつもりはない。私もその一部だからである。
今はアラガオも休むためにジャンクに戻った。
師は柔軟に方針を変えることを厭わない方だったので、今回広東への上陸が叶わない場合には、いったんシャム(タイ)に赴きそこから明国布教の可能性を探ろうと考えられていた。それについて何通も書簡を書かれていたことを覚えている。
思えば、マラッカからここ三洲嶋にたどり着くまでも困難の連続だった。海も荒れていたのだが、主に人間のことである。マラッカで支配的な立場にあるアルヴァロ・デ・アタイデの妨害がすべての原因であるが、複雑かつ悪意に満ちたそのやりとりの全貌は私には分からない。師は実に粘り強く、アタイデの説得にあたっておられたが、アタイデのねじくれて意固地な態度は悪い方にしか働かなかった。傍から見ている私ですら罰当たりながら、アタイデに呪いの言葉を吐いたものだ。
そしてようやくたどり着いたこの島で、主はさらなる試練を師にお与えになったのだ。私はまだ弱い人間なのでずるいことを考えてしまうのだが、師はアタイデの妨害を理由にして、マラッカからゴアに戻ったほうがよかったのでないか。アタイデはそれだけのことをしたのだ。
師はここに来るべきではなかったのだ。
師は11月21日から体調を崩され熱にうなされるようになった。
北風が容赦なく吹きつける中で、長旅の疲れが一気に現れたのだろう。粗末な小屋よりも船内にいたほうがよいだろうということで、師はいったんサンタ・クララ号に移った。船ならば風も避けられ、暖も取れるし、食べるものも十分にあるからである。
しかし、師の容態は悪化していくばかりだった。風が船を揺らし、それでたびたび吐き戻した。そのお顔からは血の気がどんどん失われ、皆、師が重篤な状態に陥っていることを認めないわけにはいかなかった。
そしてまた、商人アラガオの小屋に戻すこととなった。師には応急処置として刺絡が施されたが、効果があったようには見えない。刺絡とは身体の悪いところをほんの少し切開して悪い血を出すという治療法だが、そもそもまともな医者がここにはいない。見よう見まねでやったところで、これだけ重篤な病人に効くはずがないだろうと私は思った。しかし、それに異議を唱えたところで師の具合がよくなるわけでもないから黙っていた。
こういくつも文句を言うべきではないが、そもそもここは病人を癒すには寒すぎる。石造りの簡素な暖炉はあるものの、部屋は十分に暖まらない。
アラガオはよく様子を見に来てくれるだけでなく、ときには私と看病を交替してくれている。そしてたった今は、私が師を見守っている。ともに旅をしてきたインド人のクリストバルは師より早く熱で臥せってしまい、サンタ・クララ号で寝込んだままである。私が倒れたらどうなるのだろうか、と空恐ろしくはなるが、私にとってここは母国なのでたいした問題ではない。
いずれにしても、ゴアのイエズス会本部、あるいはローマ、ポルトガル国王ジョアン3世に報告書を提出するために、師は起こった出来事を逐一記録するよう私に命じている。それなのでこのような、途方に暮れた時も、拙い筆で私は必死に書かなければならないのである。
ザビエル師の経歴について、私が記述できることはそれほど多くない。
師はイエズス会の東方布教の使命のもと、ポルトガル国王ジョアン3世の勅許と支援を受けポルトガルのリスボン(リスボア)を出航した。イベリア半島からアフリカ大陸を大きく回りこむ長い航海を経てインドのゴアに到着したのだ。インドではその頃ムガール帝国が覇権を得ていたが、ポルトガルはゴアを通商交易の場として手中に収めていた。師はゴアでイエズス会の学院を築くことに貢献した後に、マラッカ(マレーシア)、アンボイナ(アンボン島、インドネシア)、テルナテ(北マルク諸島、インドネシア)、日本などを巡り十年にわたる布教の旅を続けられた。その後、明国への布教許可を求めて沿岸のこの島に待機していたのだ。
そして、上陸を許されない状況なのはさきにも詳しく述べた通りである。
私は、師の困難の証人に選ばれたようにも思える。
この島に着いてから起こった困難について、もう一つ記しておかねばならない。
師が布教に同行させるつもりだったフェレイラ修道士が、この島に着いた後で渡航の辞退を申し出たことである。明国に拘禁されているポルトガル人が非道な扱いを受けているという話を耳にして、恐ろしくなったのだ。
彼はずっとひどい船酔いで航海中ずっと臥せっていたが、その間に悪魔のささやきに負けたのだ。もうひとりの従者クリストバルも同様に臥せっていたが、フェレイラと違って逃げ帰ろうという気にならずに済んだ。
寛大な師の決断により、フェレイラはイエズス会を除名された上で、11月13日に出港した船でゴアに戻されていった。
私は忸怩(じくじ)たる思いがする。
ザビエル師は拡大していくアジアのイエズス会における、精神的な柱であり、行動の規範なのである。それほどの人物がなぜ、このようなときに、司祭や修道士の一人も付かないまま床に伏せっていなければならないのか。本来ならば、大聖堂で大勢の司祭や司教や信者に囲まれていて当然のお方なのだ。
フェレイラ修道士にはザビエル師も期待をかけていた。だからこそ、この困難な挑戦に随行させることとしたのだ。私には、フェレイラが去った衝撃は師にとって想像以上に大きかったように思える。アタイデの妨害もそうだが、師は一人でこの困難に立ち向かうよう、追い詰められていった。私やクリストバルではだめなのだ。アラガオの貢献は素晴らしいものだったが、それでもだめなのだ。ともに進む同志、それは司祭や修道士ということになろうが……それもかなわないとは。
師の容態は悪化するばかりである。先刻からはずっとうわごとを言われている。
私は明国の人間だが、長くマラッカやゴアで商売をしていた関係で自国語以上にポルトガル語を不自由なく使いこなせるし、スペイン語もラテン語もイタリア語もある程度解することができる。通常それで問題はなかった。しかし残念なことに、今、たった今、師の仰せられる言葉を全く解することができない。そしてそれは今も延々と続いている。
ああ、ここにいるのがなぜ私なのだろう。師の言葉を解する者がいれば、一言ももらすことなく書き記すことができるのに。隙間風の吹くアラガオの小屋の中、私は暗憺(あんたん)たる気持ちで、熱で灼かれている師の告白にただ空しく座して向き合っていたのである。
主よ、どうかザビエル師のお話を私に理解できる言語で為してください。
それが叶わぬのなら、主よ、どうか師の告白を一言漏らさずお聞き届けください。
アーメン。
◆記録には残らない明国人アントニオの嘆き◆
今日は西紀1552年11月24日、明国沿岸の三洲嶋(サンチャン島、現在の中国広東省上川島)にいる。
冬はもうやってきている。
海風吹きすさぶ粗末な小屋で、私はイエズス会の宣教師、東アジア地区長の重職にあるフランシスコ・ザビエル師をつきっきりで看病している。
私は通訳として師に付いてきた商人である。
私は師が日本からゴアを経てマラッカに来られた際、深く薫陶を受けて洗礼を受けた。その後に通訳として布教に随行することを許されたのである。
私は明国(中国)人である。ゴアやマラッカを拠点に長くジャンク船の乗組員として貿易業に携わっていた。明国からインド、マラッカを何度も往復したが、それなりに後ろぐらいこともあった人間なのだ。しかし、師はそのことを告白しても私を旅の供とすることを止めようとはされなかった。「すでにあなたは新しい人生を歩きはじめたのだから」と、逆に励ましを受けたのである。
師は本年8月にここに辿りついてから、さっそく小さな聖堂を設けて、宣教活動をはじめられた。そして、この島を足がかりに明国(中国)への布教の第一歩を踏み出そうとされていたのであるが、目の前にある広東(カントン、首府は広州)への渡航は難航を極めた。外国の人間を受け入れない明の方針は岩のように硬く、容易には崩せなかったのである。ここ三洲嶋はポルトガル商人と明の商人が密貿易をする拠点となっている場所で、11月までは船が出入りし盛んに取引が行われる。それ以降は天候も海も不安定になるからだ。そんな中で、目の前の広東に渡してくれる明船はないかと私も手立てを尽くした。しかし本土に外国人を引き入れた者には重い罪が課せられる。皆が尻込みをして、断った。
8月からの私たちの努力は徒労に終わろうとしている。
11月13日、ポルトガル商人は滞在用に建てた小屋を焼き放ち、船はポルトガルの大きな拠点のひとつであるマラッカに向けて出航していった。何隻ものキャラック(ナウ)船、それに付いていたジャンク船もである。残ったのは、師を乗せてきたキャラック船「サンタ・クララ号」と常に私たちに好意的な商人、アラガオのジャンク船の2隻だけだった。
アラガオのジャンク船は、明国商人から借り受けているもので少し古びているが、まだまだ何十年も航海を続けられると思われる。船は少々使い込まれたぐらいが安心感を与えるのだ。ポルトガルのキャラック船は船体が深くマストも天に届くかと思うほど巨大で威圧感を与えるが、ジャンク船はある程度大きくても船体が浅くスッキリした印象を与える。まるで鯨と太刀魚ほども体型が違う。そしてジャンクの竹で組まれた帆を見ると、まるでトビウオの羽のように美しいとさえ思う。それは、私が明国人だから感じることなのかもしれない。
ジャンク船が現在の形になったのは宋代(10世紀頃)のことだが、その原型となった帆船が作り始められたのはもっと古い。大河を行き来し海を南北に進む。船は古くから中国の北と南を結ぶ重要な手段の一つだったのだから。そして風も深さも不安定なこの海域をずっと行き来してきたのである。ジャンク船の技術はこの沿岸一帯、琉球や日本にも広がっていった。そしてこの沿岸だけではなく、さらにインド洋にまで広がっていくことになった。
もう少し話をすすめよう。師もこの話は船中で興味深そうに聞いてくださっていたから、きっとポルトガル王も興味を持ってくださるだろう。
明で海の英雄といえば、何と言っても鄭和(ていわ)だ。
1405年に永楽帝の命を受けて大小62隻の船団、2万7800の人を引き連れ、杭州にほど近い、劉家港を発ったのがその最初であった。その大航海は1434年まで7回を数え、訪れた地はチャンパー(占城、ベトナム)、カンボジア、マラッカ(マレーシア)、マジャパピト王国(インドネシア)など東南アジアの国々から当時のヴィジャヤナガル王国(インド)、グジャラート(インド)、ティムール朝(中央アジアの広域)、ラスール朝(イエメンの辺り)、マムルーク朝(エジプト、シリア)などインド洋、アラビア沿岸の各国、最終的にはエチオピアまで到達したのだ。これは、西洋でいえばヴァスコ・ダ・ガマのインド到達に匹敵するものだろうが、それより60年以上も前にこれだけのことを成し遂げた同胞がいる。それは私はじめ明国人にとってたいへん誇らしいことなのだ。
この大航海が明という国の強大さを世界に知らしめる機会となったことは間違いない。しかし、それが明国と他国との貿易を拡大することにはならなかった。この航海が皇帝の勅許によるものだという原則が頑ななまでに守られたからである。自由な貿易は禁止されていた。
明朝皇帝に貢物をするためにしか、外国人の入国は認められなかった。その貢物をする年も国によってあらかじめ定められていたのである。もちろん明国の国民が海を使って外国と貿易をすることも固く禁じられていた。これをはじめとする一連の政策を「海禁」という。
新しい国の使節がひょいと訪れても、受け入れられない。国単位でそのありさまなので、商人はじめ一般の外国人が入国することは不可能なのである。しかし、その禁をかいくぐって入国する者がいなかったわけではない。そして、見つかった場合は相当の罰が待っている。
海禁はもともと、倭寇や海賊による国土への侵攻を防ぐためのものだった。しかし、世界中をさまざまな国の船が自由に行き来するようになると、海辺に築かれた鉄の扉の向こうでは、密貿易船の群れと海賊たち(その区別はあいまいである)がより一層、跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)することになる。
それをどうこう言うつもりはない。私もその一部だからである。
今はアラガオも休むためにジャンクに戻った。
師は柔軟に方針を変えることを厭わない方だったので、今回広東への上陸が叶わない場合には、いったんシャム(タイ)に赴きそこから明国布教の可能性を探ろうと考えられていた。それについて何通も書簡を書かれていたことを覚えている。
思えば、マラッカからここ三洲嶋にたどり着くまでも困難の連続だった。海も荒れていたのだが、主に人間のことである。マラッカで支配的な立場にあるアルヴァロ・デ・アタイデの妨害がすべての原因であるが、複雑かつ悪意に満ちたそのやりとりの全貌は私には分からない。師は実に粘り強く、アタイデの説得にあたっておられたが、アタイデのねじくれて意固地な態度は悪い方にしか働かなかった。傍から見ている私ですら罰当たりながら、アタイデに呪いの言葉を吐いたものだ。
そしてようやくたどり着いたこの島で、主はさらなる試練を師にお与えになったのだ。私はまだ弱い人間なのでずるいことを考えてしまうのだが、師はアタイデの妨害を理由にして、マラッカからゴアに戻ったほうがよかったのでないか。アタイデはそれだけのことをしたのだ。
師はここに来るべきではなかったのだ。
師は11月21日から体調を崩され熱にうなされるようになった。
北風が容赦なく吹きつける中で、長旅の疲れが一気に現れたのだろう。粗末な小屋よりも船内にいたほうがよいだろうということで、師はいったんサンタ・クララ号に移った。船ならば風も避けられ、暖も取れるし、食べるものも十分にあるからである。
しかし、師の容態は悪化していくばかりだった。風が船を揺らし、それでたびたび吐き戻した。そのお顔からは血の気がどんどん失われ、皆、師が重篤な状態に陥っていることを認めないわけにはいかなかった。
そしてまた、商人アラガオの小屋に戻すこととなった。師には応急処置として刺絡が施されたが、効果があったようには見えない。刺絡とは身体の悪いところをほんの少し切開して悪い血を出すという治療法だが、そもそもまともな医者がここにはいない。見よう見まねでやったところで、これだけ重篤な病人に効くはずがないだろうと私は思った。しかし、それに異議を唱えたところで師の具合がよくなるわけでもないから黙っていた。
こういくつも文句を言うべきではないが、そもそもここは病人を癒すには寒すぎる。石造りの簡素な暖炉はあるものの、部屋は十分に暖まらない。
アラガオはよく様子を見に来てくれるだけでなく、ときには私と看病を交替してくれている。そしてたった今は、私が師を見守っている。ともに旅をしてきたインド人のクリストバルは師より早く熱で臥せってしまい、サンタ・クララ号で寝込んだままである。私が倒れたらどうなるのだろうか、と空恐ろしくはなるが、私にとってここは母国なのでたいした問題ではない。
いずれにしても、ゴアのイエズス会本部、あるいはローマ、ポルトガル国王ジョアン3世に報告書を提出するために、師は起こった出来事を逐一記録するよう私に命じている。それなのでこのような、途方に暮れた時も、拙い筆で私は必死に書かなければならないのである。
ザビエル師の経歴について、私が記述できることはそれほど多くない。
師はイエズス会の東方布教の使命のもと、ポルトガル国王ジョアン3世の勅許と支援を受けポルトガルのリスボン(リスボア)を出航した。イベリア半島からアフリカ大陸を大きく回りこむ長い航海を経てインドのゴアに到着したのだ。インドではその頃ムガール帝国が覇権を得ていたが、ポルトガルはゴアを通商交易の場として手中に収めていた。師はゴアでイエズス会の学院を築くことに貢献した後に、マラッカ(マレーシア)、アンボイナ(アンボン島、インドネシア)、テルナテ(北マルク諸島、インドネシア)、日本などを巡り十年にわたる布教の旅を続けられた。その後、明国への布教許可を求めて沿岸のこの島に待機していたのだ。
そして、上陸を許されない状況なのはさきにも詳しく述べた通りである。
私は、師の困難の証人に選ばれたようにも思える。
この島に着いてから起こった困難について、もう一つ記しておかねばならない。
師が布教に同行させるつもりだったフェレイラ修道士が、この島に着いた後で渡航の辞退を申し出たことである。明国に拘禁されているポルトガル人が非道な扱いを受けているという話を耳にして、恐ろしくなったのだ。
彼はずっとひどい船酔いで航海中ずっと臥せっていたが、その間に悪魔のささやきに負けたのだ。もうひとりの従者クリストバルも同様に臥せっていたが、フェレイラと違って逃げ帰ろうという気にならずに済んだ。
寛大な師の決断により、フェレイラはイエズス会を除名された上で、11月13日に出港した船でゴアに戻されていった。
私は忸怩(じくじ)たる思いがする。
ザビエル師は拡大していくアジアのイエズス会における、精神的な柱であり、行動の規範なのである。それほどの人物がなぜ、このようなときに、司祭や修道士の一人も付かないまま床に伏せっていなければならないのか。本来ならば、大聖堂で大勢の司祭や司教や信者に囲まれていて当然のお方なのだ。
フェレイラ修道士にはザビエル師も期待をかけていた。だからこそ、この困難な挑戦に随行させることとしたのだ。私には、フェレイラが去った衝撃は師にとって想像以上に大きかったように思える。アタイデの妨害もそうだが、師は一人でこの困難に立ち向かうよう、追い詰められていった。私やクリストバルではだめなのだ。アラガオの貢献は素晴らしいものだったが、それでもだめなのだ。ともに進む同志、それは司祭や修道士ということになろうが……それもかなわないとは。
師の容態は悪化するばかりである。先刻からはずっとうわごとを言われている。
私は明国の人間だが、長くマラッカやゴアで商売をしていた関係で自国語以上にポルトガル語を不自由なく使いこなせるし、スペイン語もラテン語もイタリア語もある程度解することができる。通常それで問題はなかった。しかし残念なことに、今、たった今、師の仰せられる言葉を全く解することができない。そしてそれは今も延々と続いている。
ああ、ここにいるのがなぜ私なのだろう。師の言葉を解する者がいれば、一言ももらすことなく書き記すことができるのに。隙間風の吹くアラガオの小屋の中、私は暗憺(あんたん)たる気持ちで、熱で灼かれている師の告白にただ空しく座して向き合っていたのである。
主よ、どうかザビエル師のお話を私に理解できる言語で為してください。
それが叶わぬのなら、主よ、どうか師の告白を一言漏らさずお聞き届けください。
アーメン。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
電子の帝国
Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか
明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
