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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル
蹂躙されたローマ 1527年~ ローマを中心とする西欧諸国
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<フランシスコ・ザビエル、神聖ローマ皇帝カール5世、フランス王フランソワ1世、教皇クレメンス7世、神学博士マルティン・ルター、イングランド王ヘンリー8世>
私とイニゴがパリのバルバラ学院で口角泡を飛ばしている前後に、ヨーロッパで何が起こっていたか、ここで話しておかなければならない。しかしどこから話せばいいか、悩ましいところだ。
さきに神聖ローマ帝国で、ヴィッテンベルグ大学の神学教授、マルティン・ルターが贖宥状(しょくゆうじょう)の販売に疑義を唱えた話をした。その続きからにしよう。
ルターはその活動によってカトリック教会から破門され、追って神聖ローマ帝国議会(ヴォルムス帝国議会)に召喚され自説の撤回を求められたが応じなかった。皇帝カール5世の決定により、ルターは事実上帝国領内からも追放されることとなった。しかし、彼はなりを潜めることになっても偽名で著述活動を続け、何人かの選帝侯を含む支援者がその活動を陰に陽に支えた。次第に選帝侯内でも、ルター派と皇帝派が明確に分かれることとなる。
この問題は完全に政治の舞台に移されたのだ。
私がパリに旅立った頃に起こった農民戦争(1524~1525年)を見れば、ルターの説がどれほど幅広い層に浸透していたかを知るのに十分だろう。その動きは近隣諸国、例えば、私たちと同じパリ大学に学んだフランス人、ジャン・カルヴァン(のちにバーゼルに亡命)、チューリッヒの聖堂説教師、フルドリッヒ・ツヴィングリなどに影響を与え広がっていったのである。
皇帝カール5世は、「ルター派」の扱いに苦慮していた。その勢いは本人を追放しても消えることがない。帝国が新キリスト教、すなわち新教――後にプロテスタントと呼ばれることになる――の勢力を無視できなくなっていたのだ。
この時、ヨーロッパに侵略の手を伸ばしていたオスマン・トルコはハンガリーを手中にし、神聖ローマ帝国領内に侵入しようとしていた。そんな時に重臣である皇帝の選帝侯たちに反乱など起こされたら、たまったものではない。カール5世は一時的にルター派とカトリックを共存させる方向で、事態の収拾をはかっていた。
皮肉なことだ。
先に王位を得たスペインはカトリックの忠実なしもべであるのに、一方の神聖ローマ帝国では反カトリックの動きが強まっていたのだから。彼は戦争や宗教的な動乱に忙殺され、腰を落ち着ける間もなかったという。その選択に評価を加える気はまったくないが、この頃には国王や皇帝という立場に疲れていただろうと同情を禁じえない。
一方、オスマン・トルコに対するだけではなくカール5世は他国との戦争に明け暮れていた。この皇帝がスペインでは国王カルロス1世であるという話はたびたびしているが、それに挟まれた形のフランスはローマの教皇庁との緊密な関係を保ちながら、イタリア半島をできる限り手中に収めたいと考えていた。そして、それに対抗するため、神聖ローマ帝国もイタリア半島への侵攻を開始したのだ。
イタリア半島がフランスと神聖ローマ帝国間の戦いの舞台となったのである。
イタリア半島はそれまでに何度も他国の侵入や干渉を受けてきた。そう、前世紀末からずっとだ。フランスに、カスティーリャ=アラゴン連合(スペイン)に、そしてアドリア海の向こうからはオスマン・トルコも攻め入る算段をすすめていた。それがいよいよ激しくなったということだ。前世紀のうちは教皇アレクサンデル6世の政治的手腕もあって、ローマは何とか守られていた。しかし、それ以降の教皇庁に十分な軍事力と政治力はなかった。当時の教皇は贖宥状の件に関わったレオ10世の甥にあたる、クレメンス7世だった。そう、フィレンツェの富豪メディチ家の出身だ。
神聖ローマ帝国が進軍することになった直接のきっかけは、イタリア半島・フェラーラ公国当主のアルフォンソ・デステだった。
彼の妻は前世紀末の教皇、アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアだが、彼女は1519年に亡くなっている。
1526年、彼は神聖ローマ帝国の支持に回ったことで、フランスと結んでいる教皇クレメンス7世によって破門された。そしてローマのカスタル・サンタンジェロに幽閉された。教皇庁の有名な城であり砦だ。
妻のルクレツィアはそれを嘆く前に天国に行っていたが、そのほうがよかったのかもしれない。彼女はずっと運命に翻弄されてきた女性だったのだから。
神聖ローマ皇帝カール5世にとっては好都合なことだった。彼はそれを理由にローマに軍勢をすすめたのだ。もちろん、彼の国である神聖ローマ帝国とスペイン双方から軍勢が押し寄せた。
翌1527年、ローマは神聖ローマ帝国の手に落ちた。
かの地は古来から何度も侵攻された歴史を持つが、その中でもっとも悲惨なものだったことは強調しなければならない。
ローマは破壊された。
「ローマ劫略」(Sacco di ROMA)とのちにあらわされるほどに。
教皇はカスタル・サンタンジェロに隠れて無事だったものの、逃げ遅れたローマ市民は惨劇の犠牲者となっていく。だれかれの見境いなく男性は殺害され、女性は強姦され、聖職者も芸術家もその例外にはならなかった。修道女までもが犯されたという。町は破壊と略奪の饗宴となり、かつての美しい街は無残な姿をさらすこととなった。
アントニオ、私がちょうどパリ大学で過ごしていた頃の話だ。
ピエールと初めて出会い、イタリア半島は物騒だと言っていたのはそのようなことなのだよ。
私たちだけではなく、その頃ローマに行きたいという人間など、いなかったに違いない。
これほどまでにローマが壊滅的な打撃を受けたことはなかった。
それはすなわち、カトリック教会の危機を意味していたのだ。
ローマを蹂躙(じゅうりん)したのは主に、神聖ローマ帝国の兵たちだった。彼らがなぜ、市民を皆殺しにするほどローマを荒らしたかわかるだろうか。兵に対する報酬が遅れたことも大きい理由だが、そう、彼らの多くがルター派だった。そしてカトリックの本拠地に刃を向けたのだ。
金や戦功ではない。憎悪があったのだ。
私がなぜ、ルターの話を長く語っているか、それはこの時期の政治を説明するのに不可欠だからなのだ。
そのローマ出兵の先鋒に当の神聖ローマ皇帝はいなかった。
そのとき、彼はスペインにいたのだ。
彼はローマが徹底的に破壊された報を聞いて驚いた。そこまでの暴虐を自身の軍がなすとは思っていなかったからだ。侵攻軍を率いていたのが、自国を見限ったフランス人の将軍だったことにもそれはみてとれるだろう。
皇帝カール5世はこの暴虐が自身の命によるものだということを、早く取り消したかった。そこで彼は政治的解決をはかることとした。1529年にバルセロナで皇帝と教皇は和解する。
実のところ、双方とも困っていたのだ。カール5世は領内の農民戦争やオスマン・トルコに対する手立てを直ちに講じなければならなかったし、クレメンス7世もローマ劫略の勢いで起こったフィレンツェの反乱(これでメディチ家はフィレンツェを追放された)を収拾しなければならなかったからである。
事態の経過を話せばそれで終わってしまうのだが、ひとつだけ念を押しておかなければならないことがある。
このローマ劫略でイタリア半島がこの世紀までに築いてきた文化も潰えたのだ。芸術家の多くもローマから出て行った。その後、ローマを中心としたイタリア半島の文化がかつてのような輝きを取り戻すことはなかった。失われた多くの人命もそうだが、ローマの美しい春もこの時に死んだのだ。
さらに、ローマ教皇庁を脅かす大事件があったことも付け加えなければならない。
イングランド(イギリス)の動向である。
アントニオ、私はこれまで、イングランドのことは語ってこなかったかもしれない。フランスとの百年戦争における勇敢なジャンヌ・ダルクの活躍でわずかに出したぐらいだろう。
これはルターの運動とは直接関わりがないものの、そこから派生したと考えても不自然ではないように私は思う。
イングランド王ヘンリー8世がその主人公だ。彼はイニゴと同じ年に生まれた国王だが、自身の王妃と継嗣について教皇庁に絶縁状を突きつけたのである。
彼に6人の妻がいた話からしようか。
妻でなかった女性もいるが挙げてみよう。
・キャサリン・オブ・アラゴン スペイン、フェルナンド王とイザベラ女王の末子。最初の妻(王妃)。メアリー・スチュワートを産む。のちに追放される。
・メアリー・ブーリン キャサリン妃の侍女。妻にはならなかった。
・アン・ブーリン メアリー・ブーリンの妹、二番目の妻。のちのエリザベス1世を産む。のちに処刑される。
・ジェーン・シーモア アン・ブーリンの侍女、三番目の妻。のちのエドワード6世を産む。その産じゅくにて死亡。
・アン・オブ・クレーヴズ 神聖ローマ帝国の有力な貴族の出。四番目の妻。結婚後すぐに別離。この頃(1540年)に寵臣であるクロムウェルが処刑された。彼は王に女性を引き合わせる役目もしていた。
・キャサリン・ハワード アン・ブーリンのいとこで五番目の妻。密通の疑いで処刑される。
・キャサリン・パー 富裕な貴族の未亡人で六番目にして最後の妻。新教(プロテスタント)の信者。
簡単に7人の女性をあげたが、ヘンリー8世がいかに女性好きだったかということが言いたいわけではない。それは大いにあるのだろうが、問題はそれぞれの結婚がたいへんな事態を引き起こしていたということにあるのだ。
キャサリン・オブ・アラゴン妃がその最たる例だ。
彼女が男子を産まないことに業を煮やしたヘンリー8世は、愛人のアン・ブーリンの熱心な求めもあり、王妃との離婚を教皇庁に申請する。カトリック教徒の離婚は禁じられており、そこで定められた理由がないと認められない。
そもそも、キャサリン妃はヘンリー8世との結婚前に、短期間だがヘンリーの兄アーサー王の妻だった時期がある。それはキャサリン妃本人の事情ではないのだが……そのときは教皇クレメンス7世も事情をかんがみて結婚を承認したのだ。そこへ今度は離婚(婚姻の無効)申請である。これはさすがに特別な事情とは認められなかった。
しかしこの時ヘンリー8世はカトリックからの離脱を決めるのである。
新たな妻と結婚するために、ヘンリー8世は国王を長とする「イギリス国教会」をつくることととした。
国内では当然反対する勢力も出てきたが、それを押しつぶしてカトリックから離脱したのである。
どのように押しつぶしたか、妻のところでも述べたが、処刑である。妻も寵臣も反対勢力もそのような最期を遂げることになる。
もちろんそれだけがヘンリー8世の王としての仕事ではない。イギリスの貴族間の戦争(ばら戦争)の火種を消し磐石な体制を築き、百年戦争後のフランスとの関係を友好に保った実績もある。
それでも、もし後世の人がヘンリー8世について語ることがあるとすれば、「妻と離婚するためにカトリック教会を離脱して、その後の妻を処刑した」というような印象が残るばかりだろう。
人間というのは、自分が望んだ道をすすむものだ。
運命によってそれが多少ねじまがっても、それが求めていたことなのだ。
人生はそのように総括するべきものなのかもしれない。
いずれにしても、ローマは凋落するばかりだった。
神聖ローマ帝国に踏み潰され、フランスとは距離を置くようになり、スペインももう強力な味方にはなりえない。そしてイングランドからも絶縁される。街が荒らされただけではない、文化が絶えただけではない、教皇庁も躓きはじめていたのだ。
私とイニゴがパリのバルバラ学院で口角泡を飛ばしている前後に、ヨーロッパで何が起こっていたか、ここで話しておかなければならない。しかしどこから話せばいいか、悩ましいところだ。
さきに神聖ローマ帝国で、ヴィッテンベルグ大学の神学教授、マルティン・ルターが贖宥状(しょくゆうじょう)の販売に疑義を唱えた話をした。その続きからにしよう。
ルターはその活動によってカトリック教会から破門され、追って神聖ローマ帝国議会(ヴォルムス帝国議会)に召喚され自説の撤回を求められたが応じなかった。皇帝カール5世の決定により、ルターは事実上帝国領内からも追放されることとなった。しかし、彼はなりを潜めることになっても偽名で著述活動を続け、何人かの選帝侯を含む支援者がその活動を陰に陽に支えた。次第に選帝侯内でも、ルター派と皇帝派が明確に分かれることとなる。
この問題は完全に政治の舞台に移されたのだ。
私がパリに旅立った頃に起こった農民戦争(1524~1525年)を見れば、ルターの説がどれほど幅広い層に浸透していたかを知るのに十分だろう。その動きは近隣諸国、例えば、私たちと同じパリ大学に学んだフランス人、ジャン・カルヴァン(のちにバーゼルに亡命)、チューリッヒの聖堂説教師、フルドリッヒ・ツヴィングリなどに影響を与え広がっていったのである。
皇帝カール5世は、「ルター派」の扱いに苦慮していた。その勢いは本人を追放しても消えることがない。帝国が新キリスト教、すなわち新教――後にプロテスタントと呼ばれることになる――の勢力を無視できなくなっていたのだ。
この時、ヨーロッパに侵略の手を伸ばしていたオスマン・トルコはハンガリーを手中にし、神聖ローマ帝国領内に侵入しようとしていた。そんな時に重臣である皇帝の選帝侯たちに反乱など起こされたら、たまったものではない。カール5世は一時的にルター派とカトリックを共存させる方向で、事態の収拾をはかっていた。
皮肉なことだ。
先に王位を得たスペインはカトリックの忠実なしもべであるのに、一方の神聖ローマ帝国では反カトリックの動きが強まっていたのだから。彼は戦争や宗教的な動乱に忙殺され、腰を落ち着ける間もなかったという。その選択に評価を加える気はまったくないが、この頃には国王や皇帝という立場に疲れていただろうと同情を禁じえない。
一方、オスマン・トルコに対するだけではなくカール5世は他国との戦争に明け暮れていた。この皇帝がスペインでは国王カルロス1世であるという話はたびたびしているが、それに挟まれた形のフランスはローマの教皇庁との緊密な関係を保ちながら、イタリア半島をできる限り手中に収めたいと考えていた。そして、それに対抗するため、神聖ローマ帝国もイタリア半島への侵攻を開始したのだ。
イタリア半島がフランスと神聖ローマ帝国間の戦いの舞台となったのである。
イタリア半島はそれまでに何度も他国の侵入や干渉を受けてきた。そう、前世紀末からずっとだ。フランスに、カスティーリャ=アラゴン連合(スペイン)に、そしてアドリア海の向こうからはオスマン・トルコも攻め入る算段をすすめていた。それがいよいよ激しくなったということだ。前世紀のうちは教皇アレクサンデル6世の政治的手腕もあって、ローマは何とか守られていた。しかし、それ以降の教皇庁に十分な軍事力と政治力はなかった。当時の教皇は贖宥状の件に関わったレオ10世の甥にあたる、クレメンス7世だった。そう、フィレンツェの富豪メディチ家の出身だ。
神聖ローマ帝国が進軍することになった直接のきっかけは、イタリア半島・フェラーラ公国当主のアルフォンソ・デステだった。
彼の妻は前世紀末の教皇、アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアだが、彼女は1519年に亡くなっている。
1526年、彼は神聖ローマ帝国の支持に回ったことで、フランスと結んでいる教皇クレメンス7世によって破門された。そしてローマのカスタル・サンタンジェロに幽閉された。教皇庁の有名な城であり砦だ。
妻のルクレツィアはそれを嘆く前に天国に行っていたが、そのほうがよかったのかもしれない。彼女はずっと運命に翻弄されてきた女性だったのだから。
神聖ローマ皇帝カール5世にとっては好都合なことだった。彼はそれを理由にローマに軍勢をすすめたのだ。もちろん、彼の国である神聖ローマ帝国とスペイン双方から軍勢が押し寄せた。
翌1527年、ローマは神聖ローマ帝国の手に落ちた。
かの地は古来から何度も侵攻された歴史を持つが、その中でもっとも悲惨なものだったことは強調しなければならない。
ローマは破壊された。
「ローマ劫略」(Sacco di ROMA)とのちにあらわされるほどに。
教皇はカスタル・サンタンジェロに隠れて無事だったものの、逃げ遅れたローマ市民は惨劇の犠牲者となっていく。だれかれの見境いなく男性は殺害され、女性は強姦され、聖職者も芸術家もその例外にはならなかった。修道女までもが犯されたという。町は破壊と略奪の饗宴となり、かつての美しい街は無残な姿をさらすこととなった。
アントニオ、私がちょうどパリ大学で過ごしていた頃の話だ。
ピエールと初めて出会い、イタリア半島は物騒だと言っていたのはそのようなことなのだよ。
私たちだけではなく、その頃ローマに行きたいという人間など、いなかったに違いない。
これほどまでにローマが壊滅的な打撃を受けたことはなかった。
それはすなわち、カトリック教会の危機を意味していたのだ。
ローマを蹂躙(じゅうりん)したのは主に、神聖ローマ帝国の兵たちだった。彼らがなぜ、市民を皆殺しにするほどローマを荒らしたかわかるだろうか。兵に対する報酬が遅れたことも大きい理由だが、そう、彼らの多くがルター派だった。そしてカトリックの本拠地に刃を向けたのだ。
金や戦功ではない。憎悪があったのだ。
私がなぜ、ルターの話を長く語っているか、それはこの時期の政治を説明するのに不可欠だからなのだ。
そのローマ出兵の先鋒に当の神聖ローマ皇帝はいなかった。
そのとき、彼はスペインにいたのだ。
彼はローマが徹底的に破壊された報を聞いて驚いた。そこまでの暴虐を自身の軍がなすとは思っていなかったからだ。侵攻軍を率いていたのが、自国を見限ったフランス人の将軍だったことにもそれはみてとれるだろう。
皇帝カール5世はこの暴虐が自身の命によるものだということを、早く取り消したかった。そこで彼は政治的解決をはかることとした。1529年にバルセロナで皇帝と教皇は和解する。
実のところ、双方とも困っていたのだ。カール5世は領内の農民戦争やオスマン・トルコに対する手立てを直ちに講じなければならなかったし、クレメンス7世もローマ劫略の勢いで起こったフィレンツェの反乱(これでメディチ家はフィレンツェを追放された)を収拾しなければならなかったからである。
事態の経過を話せばそれで終わってしまうのだが、ひとつだけ念を押しておかなければならないことがある。
このローマ劫略でイタリア半島がこの世紀までに築いてきた文化も潰えたのだ。芸術家の多くもローマから出て行った。その後、ローマを中心としたイタリア半島の文化がかつてのような輝きを取り戻すことはなかった。失われた多くの人命もそうだが、ローマの美しい春もこの時に死んだのだ。
さらに、ローマ教皇庁を脅かす大事件があったことも付け加えなければならない。
イングランド(イギリス)の動向である。
アントニオ、私はこれまで、イングランドのことは語ってこなかったかもしれない。フランスとの百年戦争における勇敢なジャンヌ・ダルクの活躍でわずかに出したぐらいだろう。
これはルターの運動とは直接関わりがないものの、そこから派生したと考えても不自然ではないように私は思う。
イングランド王ヘンリー8世がその主人公だ。彼はイニゴと同じ年に生まれた国王だが、自身の王妃と継嗣について教皇庁に絶縁状を突きつけたのである。
彼に6人の妻がいた話からしようか。
妻でなかった女性もいるが挙げてみよう。
・キャサリン・オブ・アラゴン スペイン、フェルナンド王とイザベラ女王の末子。最初の妻(王妃)。メアリー・スチュワートを産む。のちに追放される。
・メアリー・ブーリン キャサリン妃の侍女。妻にはならなかった。
・アン・ブーリン メアリー・ブーリンの妹、二番目の妻。のちのエリザベス1世を産む。のちに処刑される。
・ジェーン・シーモア アン・ブーリンの侍女、三番目の妻。のちのエドワード6世を産む。その産じゅくにて死亡。
・アン・オブ・クレーヴズ 神聖ローマ帝国の有力な貴族の出。四番目の妻。結婚後すぐに別離。この頃(1540年)に寵臣であるクロムウェルが処刑された。彼は王に女性を引き合わせる役目もしていた。
・キャサリン・ハワード アン・ブーリンのいとこで五番目の妻。密通の疑いで処刑される。
・キャサリン・パー 富裕な貴族の未亡人で六番目にして最後の妻。新教(プロテスタント)の信者。
簡単に7人の女性をあげたが、ヘンリー8世がいかに女性好きだったかということが言いたいわけではない。それは大いにあるのだろうが、問題はそれぞれの結婚がたいへんな事態を引き起こしていたということにあるのだ。
キャサリン・オブ・アラゴン妃がその最たる例だ。
彼女が男子を産まないことに業を煮やしたヘンリー8世は、愛人のアン・ブーリンの熱心な求めもあり、王妃との離婚を教皇庁に申請する。カトリック教徒の離婚は禁じられており、そこで定められた理由がないと認められない。
そもそも、キャサリン妃はヘンリー8世との結婚前に、短期間だがヘンリーの兄アーサー王の妻だった時期がある。それはキャサリン妃本人の事情ではないのだが……そのときは教皇クレメンス7世も事情をかんがみて結婚を承認したのだ。そこへ今度は離婚(婚姻の無効)申請である。これはさすがに特別な事情とは認められなかった。
しかしこの時ヘンリー8世はカトリックからの離脱を決めるのである。
新たな妻と結婚するために、ヘンリー8世は国王を長とする「イギリス国教会」をつくることととした。
国内では当然反対する勢力も出てきたが、それを押しつぶしてカトリックから離脱したのである。
どのように押しつぶしたか、妻のところでも述べたが、処刑である。妻も寵臣も反対勢力もそのような最期を遂げることになる。
もちろんそれだけがヘンリー8世の王としての仕事ではない。イギリスの貴族間の戦争(ばら戦争)の火種を消し磐石な体制を築き、百年戦争後のフランスとの関係を友好に保った実績もある。
それでも、もし後世の人がヘンリー8世について語ることがあるとすれば、「妻と離婚するためにカトリック教会を離脱して、その後の妻を処刑した」というような印象が残るばかりだろう。
人間というのは、自分が望んだ道をすすむものだ。
運命によってそれが多少ねじまがっても、それが求めていたことなのだ。
人生はそのように総括するべきものなのかもしれない。
いずれにしても、ローマは凋落するばかりだった。
神聖ローマ帝国に踏み潰され、フランスとは距離を置くようになり、スペインももう強力な味方にはなりえない。そしてイングランドからも絶縁される。街が荒らされただけではない、文化が絶えただけではない、教皇庁も躓きはじめていたのだ。
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