16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

文字の大きさ
478 / 480
第12章 スペードの女王と道化師

あちらから来るというのなら

しおりを挟む

 1564年の年が明けた。
 世の中に何が起こっていたとしても、季節は必ず変わる。人は収穫を祝った後冬を堪え忍び、また来る春をひたすら待ち望むのだ。

 結局、ミシェル・ノストラダムスは一家でアヴィニョンに引っ越すのを思いとどまった。

 余談になるが、アヴィニョンはミシェルにとって、振り返って留まりたい場所のひとつだった。彼が最初に入学したのがアヴィニョン大学だったからである。しかし、そこで学び、友と語らいつつ将来の夢を膨らませていたところにペストがやってきた。大学は無期限閉校となり、ミシェルは将来の計画を再考しなければならなくなった。もし、ペストの閉校がなければミシェルはサン=レミ・ド・プロヴァンスの実家で家業(父は裕福な商人だった)を継いでいたのかもしれない。結局ミシェルは数年後にモンペリエ大学に入学するのだが、そのときには医学を志していた。モンペリエは医学を学ぶ人が多く、ヨーロッパの伝統的な学のみならず、イスラムの医学も科目にあったという。
 そのようないきさつもあって、アヴィニョンで暮らすのをミシェルは好ましいと考えていたのである。しかし、サロンの治安が少し落ち着いてきたのと、町の名士たちに引き留められたのもあって、ミシェルは留まることを決める。
 名士というのは曖昧な表現だが、貴族、市の役人であるとか、富裕な商人といったところである。実際、サロン・ド・プロヴァンス(当時の名称はクロー)の町にミシェルは必要だと考えられていたのである。
 それはペストの治療にあたって生還したのに端を発している。
 「ノストラダムスは現場にいただけで、治療といっても何もしていない」と批判する人も後に出るが、それはさすがに感情的に過ぎる。当時の医学では媒介するものまでは推測できたかもしれないが、治療法は現代でも抗菌薬の投与だけなので、それを16世紀に解明していれば、ノーベル賞どころではない大発見だろう。ジェンナーが安全な種痘法を発見したのが18世紀半ば、抗菌薬に至っては20世紀に入って続々と発見されていったのである。ペストの特効薬なり根治法を発見する役目を流れ者の医師が担うのは、どう考えても難しい。もちろん、恐るべき猛威を振るった病なので、臨床例も果てしなく多い。感染拡大を止める対応をするのは不可能ではなかったと思われるが、進んで流行地に赴く医師はそう多くはなかった。自身が感染する可能性はかなり高い。
 なので赴いただけでも、人々から見れば十分に英雄的行為なのである。

 ただ、それだけでは人々の信頼を得ることにはならないだろう。ミシェルが従事したのはエクス・アン・プロヴァンスでサロンからは離れた町である。英雄的行為といっても、しばらくすれば皆が忘れてしまう。
 市民が忘れていないミシェルの振る舞いは他にもあった。1553年のクロー運河の建設に相応の額を投資したのである。サロンは近辺に川が流れておらず、しばしば干ばつに見舞われていた。そこで市が運河を築くことにしたのである。ただ、投資といっても配当がそれほどあったとは思えない。人々の暮らしに貢献したという栄誉がもっとも大きな配当だろうか。
 戦争が間欠的に続いているこのような時期でも、フランスでは公共の整備事業が行われていたのだ。

 それに、ミシェルにはどこかはかり知れない部分があったし、それによるものだろうか、他にはない風格が備わっていた。

 もしこの時期に郵便事業というのがあって、サロンに郵便配達人というのがいたなら、ノストラダムス家に手紙を寄越す人の素性に驚いたことだろう。フランス国王の母后カトリーヌ・ド・メディシスのことは始終挙げているが、近隣の領主(貴族)を始め、サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト公(フランス前々王アンリ2世の妹の夫)、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(オーストリア・ハプスブルグ家の祖で、前皇帝カール5世の弟)など錚々たる名前が並ぶからである。手紙の内容は平たくいえば、「占星術によって示唆がほしい」というものである。アンリ2世の悲劇を予言した(と見られている)のが世に広まってから、依頼は著しく増えた。実際にミシェルがフェルディナント1世に提出した文書も残っているが、ミシェル自身は王侯貴族を顧客に持っていることをひけらかしたりすることはなかったし、家族にすら明かしていなかった。
 守秘義務というものである。
 ゆえに、知らない人々はミシェルが謎めいていると思うのである。

 専業の著述家になってからも医師として人々の相談に乗ることもあって、サロンの人々はミシェルを「一風変わっているけれど穏やかな住民」だと受け止めていた。
 アヴィニョンに住んでもよいと考えたミシェルが最終的に留まることを決めたのは「地縁」ができていたことによるだろう。

 カトリーヌ・ド・メディシスからの手紙がサロンに届いたのは年が明けてすぐのことだった。
 ミシェルがパラケルススの『ヘルバリウス』という書物を棚から取り出して机の上に置き、ページをくくり始めたとき、娘のエリザベートが封書を持って父親の書斎のドアをノックした。
「お父さま、また王室からのお使いの方からよ。でも今日は少しかさばったお手紙ね。あら、何を読んでいらっしゃるの? パラ……ケラ?」
 ミシェルは離した視線を再び本の上に戻し、「ああ、パラケルススという人だが、仮の名前だよ。これは薬草の本だね」と答えた。
 娘は無邪気に、「薬草かあ、お父さまはもうお医者はしないの?」と聞いてくる。
「ああ、いつでも戻れるように勉強しているんだよ」とミシェルは微笑む。
「ふーん、お父さまほどたくさんものを知っていても、まだ勉強しなければいけないのね」とエリザベートは口をとがらせる。
「いや、まだ分からないことだらけだよ。こういっては何だが、常に上には上がいるからな。知恵というのは汲めども尽きぬ泉のようなものではないかな」
 エリザベートは分かったような分からないような表情をしていたが、急に思い出して手に持っている封書を父親に手渡した。ミシェルは、「ありがとう、小さな秘書さん」と言って封書を受け取った。

 娘が部屋を出ていくと、ミシェルは手紙の封をゆっくりと開いて手紙を読み始める。読み進めていくうちに、ミシェルは思わず息を飲んだ。そこには、王室が国王シャルル9世の成人を機にフランス全土を巡行する旨が記されていた。巡行の大まかな日程を見て、ミシェルは思わずため息をついた。そこには南仏の町の名もずらりと並んでいた。リヨン、マルセイユ、アヴィニョン、エクス・アン・プロヴァンス、サロン・ド・プロヴァンス、アルル、ニーム……これだけたくさんの町を訪問するのに、いったいどれぐらいの日数を費やすのだろう。その答えも読み進めると書いてあった。
「1年半から2年の行程で検討しています」
 確かに全土を回るとなればそれぐらいはかかるだろうと、ミシェルは自身の若き日の放浪を思い起こした。率直にいえば、シャルル9世はまだ14歳で、旅をしているうちに15歳になるぐらいではないか。成人というのはまだ少し早い。
 それでも……とミシェルは考える。

 直接触れあうことで、フランス全土の民の承認を得たいのだろう。もちろん今後の治世を磐石にしようという目論見もあるはずだ。

 そしてミシェルは文末を見て苦笑した。
〈貴下におかれましては、国王・母后陛下が面会を特に強く希望されているため、あらかじめご承知おきいただくよう……〉
「こちらから行かないのなら、あちらから来るというわけか。これは参ったな」とミシェルはつぶやく。
 わざわざ足を運んでくるというのなら、こちらも相応の支度をせねばならない。

 そして、ミシェルは手紙を元通りに封書におさめて、また本のページに戻った。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

処理中です...