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第9話 彦左衛門3
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「それでお内儀は?」
「旦那様の柏華楼通いを黙認しました」
「え? 悋気はどうなったんだい?」
彦左衛門は大きなため息をつくとチラリと栄吉に視線を寄越した。
「ね。そう思いますでしょう。ここがおなごのわからないところでございまして。お店の中で自分の目に付く範囲で女に鼻の下を伸ばしている旦那様を見ると、悋気の虫が暴れ出すようなのです。柏華楼の女ならお内儀さんの目の届かない場所なので、どこの馬の骨と何をしているかわからない。だから悋気の虫も大人しくしている、とこういうことなのだそうです」
――女ってのはややこしいな。いや、天神屋のお内儀がめんどくさいだけなのか。
そう言えばお藤が悋気で癇癪を起こすところなど想像もつかない。そもそもお藤は男に興味が無さそうだ。
栄吉は彦左衛門の苦労を思うと酒の一杯でもおごってやりたくなる。
「ところがですよ、旦那様も大人しく柏華楼に行くだけにしておけばいいのに、お店の女中に手を出したんです。今までも女中の尻を撫でたりしては手を叩かれていたんですが、『私の手活けの花にならないか』などと本気で口説きに行ってまして。もう最悪です。お客様よりたちが悪い。女中と言えば身内でございますからね」
手活けの花というのは別邸に囲う女、つまり愛人のことである。そしてそこに通い詰めるという意味だ。
「女中がまた可愛らしい娘で、歳は十八、よく働くいい子なんです。旦那様があまりにもその子を可愛がるものですから、お内儀がその女中を虐めるのです。虐められているから旦那様が庇う。悪循環です。それでもなんとかやって来たんです。なのにあんなことになってしまった。旦那様は私を追い出す良い口実を見つけたのだろう、私はそう思っていたんです。つい今朝まで」
「え、違うのかい?」
「ええ、私はこっそり天神屋に行ってみたのです。そこで旦那様とお内儀が話しているのを聞いてしまいました」
彦左衛門の話を要約するとこういうことだ。
その女中は名をおりんと言い、先代が亡くなって一年経った頃にやって来た。当時はまだ十四だったが、明朗快活でクルクルとよく働く子だった。そんなだから奉公人たちは彼女を可愛がり、彼女もまた可愛がってくれる先輩たちに倣って一所懸命に仕事をこなした。彼女は決して美人ではなかったが愛嬌があり、客受けも良かった。
そんな彼女を不愉快に思う人間が一人だけいた。お内儀である。驚いたことに彼女の悋気はこんなところにも顔を出したのである。
お内儀は柏原唯一の遊郭である柏華楼の出身らしい。さほど売れっ子でもなかった彼女に、何故か若旦那は夢中になった。一つ考えられることがあるとすれば、彼女は先代のお内儀、つまり若旦那の母にどことなく雰囲気が似ていたのだ。彼女に母親の面影を見たのかもしれない。
そうして若旦那は先代の稼いだ金で彼女を身請けして自分の妻に据えたのである。柏華楼で若旦那以外からほとんど声のかからなかった彼女としては、若旦那だけが心の拠り所ったのだ。その分独占欲も強くなり、若旦那が自分以外の女と話すのを極端に嫌がった。
それなのに若旦那は若い娘に鼻の下を伸ばし、美人の客にはホイホイと喜んで付く、そのうえ柏華楼にも出入りしている。そしてお店にはおりんがいてお内儀はかまってもらえない。
それだけでも悋気の虫が暴れ出すには十分すぎるというのに、あの馬鹿旦那はなんと自分のお店の女中にちょっかいを出し始めたのだ。
そこでお内儀は考える。この馬鹿旦那が女中に手を出さないようにするにはどうしたらいいのか。
そこで思い出したのが手代の弥市だ。彼はおりんの面倒をよく見ているし相談に乗ったりもしている。少々歳は離れているが良い組み合わせではある。なんのかんのとうまく言いくるめて、弥市とおりんをくっつけてしまったのである。いくらなんでも人妻なら、しかもお店の奉公人なのだから、主人も手が出せまい。お内儀はそう考えたのだ。
ところがお内儀が手を出すまでもなく二人はいい仲だったようで、お内儀が二人の仲を取り持った時には既におりんの腹には子供が授かっていたのだ。あまり腹が大きくならなかったせいか、気づいた時にはもう八カ月も過ぎていた。そういうことになると世間体もあって大々的に祝言を上げてやるわけにもいかない。
そういうわけで弥市を手代から番頭に格上げしてやることで手を打ったのだ。そのしわ寄せをもろにくらったのが彦左衛門ということになる。
この話を聞いてしまった彦左衛門は、ゴロツキが店で暴れたのをいいことにその責任を自分におっかぶせて追い出してしまおうと主人が考えたのだろうと言った。
栄吉は何とも言えない気分で渋面を作った。
「なるほど確かに元をただせばお内儀の悋気ということになるか。なんだか風が吹いたら桶屋が儲かっちまうような話だな」
「ええ。おりんが嫁に行けばお内儀は安心、弥市を番頭にすれば坊っちゃんは邪魔者の私を片付けられる。弥市も手代から番頭に格上げ。一石三鳥なんです」
なるほどな、と呟きつつも、栄吉は納得がいかない。
それなら謎が一つ残るのだ。
――なぜ天神屋の主人は彦左衛門の殺しを依頼して来たのか――。
「旦那様の柏華楼通いを黙認しました」
「え? 悋気はどうなったんだい?」
彦左衛門は大きなため息をつくとチラリと栄吉に視線を寄越した。
「ね。そう思いますでしょう。ここがおなごのわからないところでございまして。お店の中で自分の目に付く範囲で女に鼻の下を伸ばしている旦那様を見ると、悋気の虫が暴れ出すようなのです。柏華楼の女ならお内儀さんの目の届かない場所なので、どこの馬の骨と何をしているかわからない。だから悋気の虫も大人しくしている、とこういうことなのだそうです」
――女ってのはややこしいな。いや、天神屋のお内儀がめんどくさいだけなのか。
そう言えばお藤が悋気で癇癪を起こすところなど想像もつかない。そもそもお藤は男に興味が無さそうだ。
栄吉は彦左衛門の苦労を思うと酒の一杯でもおごってやりたくなる。
「ところがですよ、旦那様も大人しく柏華楼に行くだけにしておけばいいのに、お店の女中に手を出したんです。今までも女中の尻を撫でたりしては手を叩かれていたんですが、『私の手活けの花にならないか』などと本気で口説きに行ってまして。もう最悪です。お客様よりたちが悪い。女中と言えば身内でございますからね」
手活けの花というのは別邸に囲う女、つまり愛人のことである。そしてそこに通い詰めるという意味だ。
「女中がまた可愛らしい娘で、歳は十八、よく働くいい子なんです。旦那様があまりにもその子を可愛がるものですから、お内儀がその女中を虐めるのです。虐められているから旦那様が庇う。悪循環です。それでもなんとかやって来たんです。なのにあんなことになってしまった。旦那様は私を追い出す良い口実を見つけたのだろう、私はそう思っていたんです。つい今朝まで」
「え、違うのかい?」
「ええ、私はこっそり天神屋に行ってみたのです。そこで旦那様とお内儀が話しているのを聞いてしまいました」
彦左衛門の話を要約するとこういうことだ。
その女中は名をおりんと言い、先代が亡くなって一年経った頃にやって来た。当時はまだ十四だったが、明朗快活でクルクルとよく働く子だった。そんなだから奉公人たちは彼女を可愛がり、彼女もまた可愛がってくれる先輩たちに倣って一所懸命に仕事をこなした。彼女は決して美人ではなかったが愛嬌があり、客受けも良かった。
そんな彼女を不愉快に思う人間が一人だけいた。お内儀である。驚いたことに彼女の悋気はこんなところにも顔を出したのである。
お内儀は柏原唯一の遊郭である柏華楼の出身らしい。さほど売れっ子でもなかった彼女に、何故か若旦那は夢中になった。一つ考えられることがあるとすれば、彼女は先代のお内儀、つまり若旦那の母にどことなく雰囲気が似ていたのだ。彼女に母親の面影を見たのかもしれない。
そうして若旦那は先代の稼いだ金で彼女を身請けして自分の妻に据えたのである。柏華楼で若旦那以外からほとんど声のかからなかった彼女としては、若旦那だけが心の拠り所ったのだ。その分独占欲も強くなり、若旦那が自分以外の女と話すのを極端に嫌がった。
それなのに若旦那は若い娘に鼻の下を伸ばし、美人の客にはホイホイと喜んで付く、そのうえ柏華楼にも出入りしている。そしてお店にはおりんがいてお内儀はかまってもらえない。
それだけでも悋気の虫が暴れ出すには十分すぎるというのに、あの馬鹿旦那はなんと自分のお店の女中にちょっかいを出し始めたのだ。
そこでお内儀は考える。この馬鹿旦那が女中に手を出さないようにするにはどうしたらいいのか。
そこで思い出したのが手代の弥市だ。彼はおりんの面倒をよく見ているし相談に乗ったりもしている。少々歳は離れているが良い組み合わせではある。なんのかんのとうまく言いくるめて、弥市とおりんをくっつけてしまったのである。いくらなんでも人妻なら、しかもお店の奉公人なのだから、主人も手が出せまい。お内儀はそう考えたのだ。
ところがお内儀が手を出すまでもなく二人はいい仲だったようで、お内儀が二人の仲を取り持った時には既におりんの腹には子供が授かっていたのだ。あまり腹が大きくならなかったせいか、気づいた時にはもう八カ月も過ぎていた。そういうことになると世間体もあって大々的に祝言を上げてやるわけにもいかない。
そういうわけで弥市を手代から番頭に格上げしてやることで手を打ったのだ。そのしわ寄せをもろにくらったのが彦左衛門ということになる。
この話を聞いてしまった彦左衛門は、ゴロツキが店で暴れたのをいいことにその責任を自分におっかぶせて追い出してしまおうと主人が考えたのだろうと言った。
栄吉は何とも言えない気分で渋面を作った。
「なるほど確かに元をただせばお内儀の悋気ということになるか。なんだか風が吹いたら桶屋が儲かっちまうような話だな」
「ええ。おりんが嫁に行けばお内儀は安心、弥市を番頭にすれば坊っちゃんは邪魔者の私を片付けられる。弥市も手代から番頭に格上げ。一石三鳥なんです」
なるほどな、と呟きつつも、栄吉は納得がいかない。
それなら謎が一つ残るのだ。
――なぜ天神屋の主人は彦左衛門の殺しを依頼して来たのか――。
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