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第41話 結3
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天神屋の事情を聴いた松原屋は彦左衛門を非常に気の毒がって、商品を高値で買い取ってくれたようだ。そのお陰で天神屋のお店の取り壊しと長屋の新築費用が賄えたと彦左衛門から報告があった。
天神屋の取り壊しの日は、彦左衛門と栄吉が立ち会った。辞めて行った奉公人たちが天神屋の最後を見届けに来ることはなく、二人淋しく取り壊される天神屋を見守った。
建物を壊していくと、中庭にあった無花果の木が見えてきた。お内儀が嫁に来たその日に「伐ってちょうだい」と言ったあの無花果だ。
取り壊しの責任者である棟梁が、頭に手ぬぐいでねじり鉢巻きをして彦左衛門の方にやって来た。
「あの無花果どうするね? 伐っちまってもいいが、立派な木だよ」
懐かし気に無花果の木を見上げた彦左衛門は目を細めて言った。
「残してください。あれはたくさんの実をつけるのです。縁起のいい木です」
棟梁は任せておけと言い残して、建物だけ上手く壊していった。
「残すんだね、無花果」
栄吉がボソリと言うと、彦左衛門が笑った。
「ええ、ここに建てる長屋の人達が子宝に恵まれるように」
「案外ここに住む人間がみんな独身だったりしてな」
「それはそれでいいですね」
「ここ、いつごろ長屋が建つんだ?」
「さあ。月が変わるころでしょうか」
栄吉は棟梁たちの作業を眺めながらしばらく何事か考えていたが、不意に口を開いた。
「ここに長屋が建ったら、あっしが最初の店子になろう」
「えっ、栄吉さんがですか? 人殺しのあった場所ですよ」
ああ、あっしが最後の仕事をした場所だ。
「今の仕事を辞めるつもりなんだ。住み込みだったから、これから家を探さなきゃならねえ。差配が彦左衛門さんなら安心して住める。無花果も食い放題だしな」
団子屋にはあっしの代わりに佐平治と孫六が入ることになったしな。
「そういうことでしたか。それなら是非」
栄吉が二人を始末したあの部屋が現れた。血の染みこんだ畳は既に撤去されていた。
「ところで、今のお仕事を辞められたら何をなさるんです?」
「ああ、それを考えてなかったな」
「蕎麦屋なんかどうです? 弐斗壱蕎麦の旦那から蕎麦打ちを仕込まれたって聞きましたけど」
「ああ、河童蕎麦の修行はしたな。でもここに住むのに弐斗壱蕎麦は目と鼻の先だ。店はどこか遠くに出さなきゃならねえ」
暖簾分けして貰って営業妨害するわけにはいかないだろう。ところが、そこら辺はさすが大店の番頭とでもいうべきか、彦左衛門が「なんだ、それなら簡単ですよ」と言い出した。
「営業時間をずらせばいいんですよ。弐斗壱蕎麦が店を閉めたら、栄吉さんが夜鳴き蕎麦と言って営業を始めたらいいんです。そうすればここにさえ来れば昼でも夜でも蕎麦が食べられると評判になるかもしれませんよ。昼は弐斗壱さん、夜は栄吉さんで河童蕎麦をお客様に出すんです」
こんな世間話でも『客』ではなくて『お客様』と言う辺りが彦左衛門である。こんなにきちんとした男にはそうそうお目にかかれるものではない。この男には差配という仕事がとても似合っている。
「それもいいな。実はお藤にも言われたんだ。あんた蕎麦屋なんかどうだいってね。しかもその後が酷ぇ。あんたにはお天道様が似合わないから夜鳴き蕎麦にしときなってさ」
「これは、なるべくしてなる夜鳴き蕎麦屋ですね」
そのときヒュウッと風が吹いて来た。
「ここはいい風が来るな」
「ええ、お屋敷があった時も中庭にはよく風が通りました。夏はとても涼しいですよ。冬は風が吹くと無花果の枝が揺れてよく木が鳴るんです」
「そうかい、じゃああっしの部屋は棟割の一番木に近いところにして貰うよ」
「それはいいですね。木から一番遠いところに厠を作っていただく予定なんです。井戸もそこの前なので、ちょっと井戸から離れますが」
「長屋の名前は決めたのかい」
彦左衛門は少々困ったように眉を寄せた。
「それがまだなんです。天神屋の跡地なので天神長屋にしようかとも思ったんですが、それじゃ縁起が悪いんで。よく差配の名前を付けた長屋もありますが、自分の名前がついた長屋というのはどうも居心地が悪くて」
「枝鳴長屋」
栄吉がボソリと言った。ほぼ独り言だった。
「はい?」
「あ、いや。無花果の枝が風で鳴るだろう? だから枝鳴長屋」
彦左衛門の顔がぱあっと明るくなった。
「それはいい! 枝鳴長屋。響きもいいですね。それに決めます。枝鳴長屋」
「そんな簡単に決めていいのかい?」
彦左衛門は唐突に栄吉の両手を掴んだ。
「とんでもない、何から何まで栄吉さんにはお世話になりましたから。弥市とおりんの面倒を見ていただいて、天神屋の最後を一緒に見届けていただいて。第一号の店子にも長屋の名付け親にもなっていただいて。どうやってこのご恩をお返ししたらいいのかわかりませんよ」
「それなら、あっしが夜鳴き蕎麦屋を始めたらたまに食べに来てくれや。それが一番嬉しい」
「必ず行きますとも」
そのとき、また風が吹いた。無花果の枝が揺れて葉がざわざわと鳴った。無花果の木が栄吉を歓迎しているように聞こえた。
了)
天神屋の取り壊しの日は、彦左衛門と栄吉が立ち会った。辞めて行った奉公人たちが天神屋の最後を見届けに来ることはなく、二人淋しく取り壊される天神屋を見守った。
建物を壊していくと、中庭にあった無花果の木が見えてきた。お内儀が嫁に来たその日に「伐ってちょうだい」と言ったあの無花果だ。
取り壊しの責任者である棟梁が、頭に手ぬぐいでねじり鉢巻きをして彦左衛門の方にやって来た。
「あの無花果どうするね? 伐っちまってもいいが、立派な木だよ」
懐かし気に無花果の木を見上げた彦左衛門は目を細めて言った。
「残してください。あれはたくさんの実をつけるのです。縁起のいい木です」
棟梁は任せておけと言い残して、建物だけ上手く壊していった。
「残すんだね、無花果」
栄吉がボソリと言うと、彦左衛門が笑った。
「ええ、ここに建てる長屋の人達が子宝に恵まれるように」
「案外ここに住む人間がみんな独身だったりしてな」
「それはそれでいいですね」
「ここ、いつごろ長屋が建つんだ?」
「さあ。月が変わるころでしょうか」
栄吉は棟梁たちの作業を眺めながらしばらく何事か考えていたが、不意に口を開いた。
「ここに長屋が建ったら、あっしが最初の店子になろう」
「えっ、栄吉さんがですか? 人殺しのあった場所ですよ」
ああ、あっしが最後の仕事をした場所だ。
「今の仕事を辞めるつもりなんだ。住み込みだったから、これから家を探さなきゃならねえ。差配が彦左衛門さんなら安心して住める。無花果も食い放題だしな」
団子屋にはあっしの代わりに佐平治と孫六が入ることになったしな。
「そういうことでしたか。それなら是非」
栄吉が二人を始末したあの部屋が現れた。血の染みこんだ畳は既に撤去されていた。
「ところで、今のお仕事を辞められたら何をなさるんです?」
「ああ、それを考えてなかったな」
「蕎麦屋なんかどうです? 弐斗壱蕎麦の旦那から蕎麦打ちを仕込まれたって聞きましたけど」
「ああ、河童蕎麦の修行はしたな。でもここに住むのに弐斗壱蕎麦は目と鼻の先だ。店はどこか遠くに出さなきゃならねえ」
暖簾分けして貰って営業妨害するわけにはいかないだろう。ところが、そこら辺はさすが大店の番頭とでもいうべきか、彦左衛門が「なんだ、それなら簡単ですよ」と言い出した。
「営業時間をずらせばいいんですよ。弐斗壱蕎麦が店を閉めたら、栄吉さんが夜鳴き蕎麦と言って営業を始めたらいいんです。そうすればここにさえ来れば昼でも夜でも蕎麦が食べられると評判になるかもしれませんよ。昼は弐斗壱さん、夜は栄吉さんで河童蕎麦をお客様に出すんです」
こんな世間話でも『客』ではなくて『お客様』と言う辺りが彦左衛門である。こんなにきちんとした男にはそうそうお目にかかれるものではない。この男には差配という仕事がとても似合っている。
「それもいいな。実はお藤にも言われたんだ。あんた蕎麦屋なんかどうだいってね。しかもその後が酷ぇ。あんたにはお天道様が似合わないから夜鳴き蕎麦にしときなってさ」
「これは、なるべくしてなる夜鳴き蕎麦屋ですね」
そのときヒュウッと風が吹いて来た。
「ここはいい風が来るな」
「ええ、お屋敷があった時も中庭にはよく風が通りました。夏はとても涼しいですよ。冬は風が吹くと無花果の枝が揺れてよく木が鳴るんです」
「そうかい、じゃああっしの部屋は棟割の一番木に近いところにして貰うよ」
「それはいいですね。木から一番遠いところに厠を作っていただく予定なんです。井戸もそこの前なので、ちょっと井戸から離れますが」
「長屋の名前は決めたのかい」
彦左衛門は少々困ったように眉を寄せた。
「それがまだなんです。天神屋の跡地なので天神長屋にしようかとも思ったんですが、それじゃ縁起が悪いんで。よく差配の名前を付けた長屋もありますが、自分の名前がついた長屋というのはどうも居心地が悪くて」
「枝鳴長屋」
栄吉がボソリと言った。ほぼ独り言だった。
「はい?」
「あ、いや。無花果の枝が風で鳴るだろう? だから枝鳴長屋」
彦左衛門の顔がぱあっと明るくなった。
「それはいい! 枝鳴長屋。響きもいいですね。それに決めます。枝鳴長屋」
「そんな簡単に決めていいのかい?」
彦左衛門は唐突に栄吉の両手を掴んだ。
「とんでもない、何から何まで栄吉さんにはお世話になりましたから。弥市とおりんの面倒を見ていただいて、天神屋の最後を一緒に見届けていただいて。第一号の店子にも長屋の名付け親にもなっていただいて。どうやってこのご恩をお返ししたらいいのかわかりませんよ」
「それなら、あっしが夜鳴き蕎麦屋を始めたらたまに食べに来てくれや。それが一番嬉しい」
「必ず行きますとも」
そのとき、また風が吹いた。無花果の枝が揺れて葉がざわざわと鳴った。無花果の木が栄吉を歓迎しているように聞こえた。
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