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第一章 序
第5話 奈津2
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お芳の話だと、椎ノ木川の上流に向かえばいいということだったが、なかなかそれらしい家がない。これより奥へ行くと竹林になってしまう。どうしたものかと困っていると、悠介の前を歩いて行く二人連れの子供があった。
「ちょいと教えとくれ」
子供たちは同い年くらいの悠介を見てキョトンとした。話し言葉がなんだか普通ではないのと、明らかに男の子なのに女ものの着物を着ているのが珍しかったのだろう。二人はあまり関わり合いたくなさそうな顔をした。好奇心より猜疑心の方が勝ったのかもしれない。
「なんだ?」
背の大きい方が聞いた。
「この近くに佐倉様って方がお住いのお屋敷があるはずなんだけどねぇ。お前さんたち知らないかい?」
話し方も随分大人びているし、女性っぽい。二人は怪訝に悠介を見た後、お互いの顔を見合わせた。
「佐倉様のお屋敷ならここだよ」
小さい方がすぐ横の長い長い塀を指した。
「塀しかないじゃないか」
「この中だよ。じゃあな」
二人は逃げるように走り去ってしまった。
だが、悠介の欲しい情報は得られた。十分だ。礼を言いそびれたのが悔やまれたが。
この長い長い築地塀に囲まれた中に佐倉様のお屋敷があるということだ。その辺の家よりも、よほど柏華楼に近いじゃないか。廓というのはこうやって長い塀に囲まれているものだ。
だが、どこが入り口かわからない。塀伝いに歩いて行けば、そのうちに門が見えてくるだろう。とにかく悠介は塀伝いに歩くことにした。
それにしても大きい。こんなところに住んでいる人というのはどんな人なのだろう。怖い人でなければいいが。
さすがに梅雨が明けると歩いているだけで暑い。悠介は柏華楼でよくお世話になった茶問屋の御隠居様から貰った扇子を出した。九つの子供にはもったいないほど良い品で、骨には白檀を使い、紙には柚子の絵が描いてある大人しい扇子だ。御隠居さんは悠介の母が柚香であることを知っていて、この柚子の絵の扇子をくれたのだ。
この扇子を出そうとしたそのとき、懐に一つ残っていた夏みかんが落ちた。悠介が廓を出る時に、可愛がってくれた遊女が持たせてくれた餞別の中の一つだ。
「ごめんよ、餞別らしいもの、何も持たせてあげられなくて。これ、お客さんからいただいた夏みかん。喉が渇いたらお食べよ」
そう言って、目に涙をいっぱい溜めて悠介のまだ小さな手に三つ持たせてくれたのだ。三つのうち二つは弐斗壱蕎麦の主人とお芳さんに渡したのでこれが最後の一個、それを無造作に懐に入れていたのが屈んだ拍子に転がり落ちてしまったのだ。
悠介は慌てて夏みかんを押さえて転がっていくのを防いだが、それに気を取られて大切な扇子を落としてしまった。
ところがそこにちょうど野良猫がやって来て扇子を咥えて行ってしまったのだ。
あれは御隠居様から頂いた大切な扇子――悠介は「ちょいと返しとくれよ」と猫を追った。追われれば猫でなくても逃げる。動物の本能だ。悠介が必死に追いかけていくと、猫は塀の端まで来て扇子を咥えたままぴょんと竹林の中に入ってしまった。
そう言えば佐倉様のお屋敷の裏手に竹林があると言っていた。猫を追って裏手に出てしまったのだろう。悠介は道からそれて竹林の中に入ってみた。塀は竹林の方にも続いている。悠介は竹の葉であちこちに生傷を作りながら進んで行った。
ガサガサと音がして、猫がいるのがわかる。慣れない――むしろ初めての竹林の中を進むとすぐに塀が切れた。裏口があるのかと思ったが、そうではなく、築地塀が生垣に変わったのだ。常盤山査子の鋭い棘のある垣根が長々と続いており、しばらく行くと裏口らしき木戸が見えた。ここから竹林に出て、竹を切り出したり筍を掘ったりするのだろう。その木戸の周りだけ地面を踏みしめたような跡が見える。ふと見るとさっきの猫が木戸の上にピョンと飛び乗り、そのまま中に入って行った。
他人の家に勝手に入るのはまずいのではないかという思いと、お屋敷に上がるわけじゃないという思いが天秤の先で揺れた。結局、御隠居様からいただいた扇子を取り返すのが最優先と考え、思い切って木戸を開けた。
「ごめんくださいまし」
なぜか小声でこっそりと言った。そうしなければならないような気がした。誰にも見つからずに扇子を取り返すことができればそれに越したことはない。
中はよく手入れの行き届いた庭だった。濡れ縁から中の様子が丸見えである。
柏華楼のような女郎宿は春をひさぐことからそれぞれの部屋が極めて閉鎖的だったので、この開けっ広げな部屋には驚いた。だが、考えてみればここは家の人しかいないのだから、冬でもない限り閉めておく必要もないのだと納得した。
それにしても猫はどこへ行ったのだろう。あの扇子は大切なものなのに。
「猫、どこだい。扇子を返しとくれ」
小声で呼びかけながら庭をウロウロしてみたが、猫らしき姿は見えない。諦めて戻ろうかと思ったそのとき、誰かの気配を感じた。
「ちょいと教えとくれ」
子供たちは同い年くらいの悠介を見てキョトンとした。話し言葉がなんだか普通ではないのと、明らかに男の子なのに女ものの着物を着ているのが珍しかったのだろう。二人はあまり関わり合いたくなさそうな顔をした。好奇心より猜疑心の方が勝ったのかもしれない。
「なんだ?」
背の大きい方が聞いた。
「この近くに佐倉様って方がお住いのお屋敷があるはずなんだけどねぇ。お前さんたち知らないかい?」
話し方も随分大人びているし、女性っぽい。二人は怪訝に悠介を見た後、お互いの顔を見合わせた。
「佐倉様のお屋敷ならここだよ」
小さい方がすぐ横の長い長い塀を指した。
「塀しかないじゃないか」
「この中だよ。じゃあな」
二人は逃げるように走り去ってしまった。
だが、悠介の欲しい情報は得られた。十分だ。礼を言いそびれたのが悔やまれたが。
この長い長い築地塀に囲まれた中に佐倉様のお屋敷があるということだ。その辺の家よりも、よほど柏華楼に近いじゃないか。廓というのはこうやって長い塀に囲まれているものだ。
だが、どこが入り口かわからない。塀伝いに歩いて行けば、そのうちに門が見えてくるだろう。とにかく悠介は塀伝いに歩くことにした。
それにしても大きい。こんなところに住んでいる人というのはどんな人なのだろう。怖い人でなければいいが。
さすがに梅雨が明けると歩いているだけで暑い。悠介は柏華楼でよくお世話になった茶問屋の御隠居様から貰った扇子を出した。九つの子供にはもったいないほど良い品で、骨には白檀を使い、紙には柚子の絵が描いてある大人しい扇子だ。御隠居さんは悠介の母が柚香であることを知っていて、この柚子の絵の扇子をくれたのだ。
この扇子を出そうとしたそのとき、懐に一つ残っていた夏みかんが落ちた。悠介が廓を出る時に、可愛がってくれた遊女が持たせてくれた餞別の中の一つだ。
「ごめんよ、餞別らしいもの、何も持たせてあげられなくて。これ、お客さんからいただいた夏みかん。喉が渇いたらお食べよ」
そう言って、目に涙をいっぱい溜めて悠介のまだ小さな手に三つ持たせてくれたのだ。三つのうち二つは弐斗壱蕎麦の主人とお芳さんに渡したのでこれが最後の一個、それを無造作に懐に入れていたのが屈んだ拍子に転がり落ちてしまったのだ。
悠介は慌てて夏みかんを押さえて転がっていくのを防いだが、それに気を取られて大切な扇子を落としてしまった。
ところがそこにちょうど野良猫がやって来て扇子を咥えて行ってしまったのだ。
あれは御隠居様から頂いた大切な扇子――悠介は「ちょいと返しとくれよ」と猫を追った。追われれば猫でなくても逃げる。動物の本能だ。悠介が必死に追いかけていくと、猫は塀の端まで来て扇子を咥えたままぴょんと竹林の中に入ってしまった。
そう言えば佐倉様のお屋敷の裏手に竹林があると言っていた。猫を追って裏手に出てしまったのだろう。悠介は道からそれて竹林の中に入ってみた。塀は竹林の方にも続いている。悠介は竹の葉であちこちに生傷を作りながら進んで行った。
ガサガサと音がして、猫がいるのがわかる。慣れない――むしろ初めての竹林の中を進むとすぐに塀が切れた。裏口があるのかと思ったが、そうではなく、築地塀が生垣に変わったのだ。常盤山査子の鋭い棘のある垣根が長々と続いており、しばらく行くと裏口らしき木戸が見えた。ここから竹林に出て、竹を切り出したり筍を掘ったりするのだろう。その木戸の周りだけ地面を踏みしめたような跡が見える。ふと見るとさっきの猫が木戸の上にピョンと飛び乗り、そのまま中に入って行った。
他人の家に勝手に入るのはまずいのではないかという思いと、お屋敷に上がるわけじゃないという思いが天秤の先で揺れた。結局、御隠居様からいただいた扇子を取り返すのが最優先と考え、思い切って木戸を開けた。
「ごめんくださいまし」
なぜか小声でこっそりと言った。そうしなければならないような気がした。誰にも見つからずに扇子を取り返すことができればそれに越したことはない。
中はよく手入れの行き届いた庭だった。濡れ縁から中の様子が丸見えである。
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