10 / 64
第二章 木槿山の章
第10話 仕事1
しおりを挟む
ひと月ほどが過ぎ、床の中で与平と狐杜に読み書き算術を教えていた月守も普通に生活できるまでに回復していた。その頃にはもう与平は空で簡単な計算ができるようになっており、その頭の良さには教えていた月守自身も驚かされた。
良い商人になると褒められても、与平はあまり嬉しそうにはしなかった。本人がまだ満足していないのと、月守に対する嫉妬のようなものがあったからかもしれない。
床を出て動き始めると、月守はなかなかに役に立つことが多かった。なにしろ長身である。与平が四尺八寸、狐杜は四尺七寸であるのに対し、月守は五尺八寸。実に与平よりも一尺ほど丈がある。高いところに手が届くのはなかなかに便利だ。
とはいえほっそりとしているので、力仕事に向かないのではと思われた。
読み書き算術の教え方も上手かったことから寺子屋の先生ではないかとも思われたが、月守は寺子屋を知らないということだった。
都忘が美しい紫の花を咲かせる頃、月守は与平と一緒に川に入って魚を獲りたいと言い出した。怪我のせいで鈍ってしまった体を元に戻したいと言う。
そういうことならと与平は二つ返事で引き受けたが。
「魚はどうやって獲るのだ?」
「えーっ? 魚獲ったことも無いのか?」
どうやら与平を頼ったのはこういうことらしい。それを聞いて狐杜がお腹を抱えて笑っている。
「月守さま、なんでも知ってるのに、魚の獲り方知らないのー?」
「仕方ねえな。こっち来いよ」
与平が竹を組んだ簀子状の構造物を背負って川へと向かうのを月守が後から追う。
どうするのかと眺めていると、与平はその簀子を水の中に入れ、大きな石で重しをして固定した。
「これがおいらの作った簗だ。こうやってな、川下の方に簀子を斜めに掛けておくと、川上から来た魚がこの簀子の上に打ち上げられるんだ。戻りたくてもどんどん川上から水が流れてくるから魚は戻ることができねえだろ。そこをとっ捕まえて町に売りに行くんだ。これなら魚が勝手に上がって来るから傷がつかねえ。ただし入ってくれるかどうかは運だけどな」
感心して眺めていた月守は、ふと別の道具に目をやった。
「これは?」
「これは釣り竿。簗に魚がかかるのを待ってる間ぼけーっとしてるのも時間がもったいねえ。だからこいつを使ってもっと向こう側の深みを狙うんだ。ここは川が大きく向こう側に曲がってるだろ? だからこっち側は河原が広くて水が浅い。向こうは流れが速いから底も深い。浅いところは簗漁、深いところは竿で仕掛けるんだ」
「なるほど、与平殿は物知りだな」
話しながらも与平は手を止めることなくどんどん仕掛けを作って行く。
「溺れるといけねえから、あっちには行くなよ?」
「心得た」
「んで、こいつは銛だ。魚を狙って突く」
月守が首を傾げる。
「突き刺すんだよ、ブスって」
「それでは売り物にならないのではないか」
「もちろん自分で食うんだ。おっ母にもたまには魚を食わしてやりてえしな」
興味津々に話を聞いていた月守が見せてくれという。与平は銛漁はあまり得意ではないが、要領さえ教えればいずれ月守も戦力になってくれるかもしれない。静かに川に入ると銛を構えた。
「たあっ!」
掛け声とともに与平は長い銛を川の中に向けて振り下ろした。その瞬間「外した」と小声で月守が言うのを、狐杜は聞き逃さなかった。
――月守さま、ここで見ていてわかるのかな?
「与平殿、私にもやらせて貰えぬか」
「ああいいよ。難しいけどな。魚見えるか」
「いや」
月守は着物の裾を捲り上げて帯の間に挟むと、川の中に入って来た。
「ほら、あんなふうに見えるのが魚だよ」
「どれだ?」
「そこ」
男二人が顔を寄せ合って「あそこだ」「ここだ」とやっているのがおかしくて、狐杜は笑いが止まらない。似てはいないが本物の兄弟のようだ。
しばらくすると与平が月守から離れた。狐杜のそばにやって来た与平は、小声で囁くように言った。
「あの人、多分一発で仕留める。多分」
「え?」
それっきり与平は何も言わずに息を殺して月守を見守った。
月守は地蔵のように固まったまま身じろぎひとつしない。
与平がごくりと唾を飲み込んだその瞬間、月守の腕が動いた。
――二往復?
「与平殿。こんな感じで良いのか?」
二人の方を振り返った月守が手にしていた銛には、二匹の魚が串刺しになっていた。
「すげえよ、すげえよ、なんだよあれ、本当は銛漁やったことあんだろ」
「いや、初めてだ」
「あんな技見たことねえよ。初めてなんてほとんどの奴が外すんだぜ。月守は一撃で仕留めるとは思ったけどよ、あんなの無しだぜ」
月守が戻ってからの与平は興奮していて全く手が付けられない。いくら狐杜が「落ちついて」「座って」と言っても、まるで聞いちゃいない。
「ちょっと与平、なんで一撃で仕留めるって思ったのよ」
「気配だよ気配。月守は気配を消すんだよ。信じられねえ、すぐ側にいるのに、気配を感じねえんだよ。あんなのありかよ、めちゃめちゃ怖えよ。月守に狙われたら、生きて帰れねえよ。二匹とも仕留められてたけどさ!」
だが、当の本人は訳がわからないといった顔をしている。
「気配はどうやって消すのだ?」
「は? 消してたじゃねえか、消えてたよ、意識しないで消してたのかよ。まあいいや。今夜は魚が食える。簗で獲った魚はこれからもう一度町に売りに行くから、月守が獲った魚は四人で食おう。おっ母が喜ぶぜ」
興奮冷めやらぬ与平と今夜のご馳走に喜ぶ狐杜を見ながら、月守は一人首を捻っていた。
良い商人になると褒められても、与平はあまり嬉しそうにはしなかった。本人がまだ満足していないのと、月守に対する嫉妬のようなものがあったからかもしれない。
床を出て動き始めると、月守はなかなかに役に立つことが多かった。なにしろ長身である。与平が四尺八寸、狐杜は四尺七寸であるのに対し、月守は五尺八寸。実に与平よりも一尺ほど丈がある。高いところに手が届くのはなかなかに便利だ。
とはいえほっそりとしているので、力仕事に向かないのではと思われた。
読み書き算術の教え方も上手かったことから寺子屋の先生ではないかとも思われたが、月守は寺子屋を知らないということだった。
都忘が美しい紫の花を咲かせる頃、月守は与平と一緒に川に入って魚を獲りたいと言い出した。怪我のせいで鈍ってしまった体を元に戻したいと言う。
そういうことならと与平は二つ返事で引き受けたが。
「魚はどうやって獲るのだ?」
「えーっ? 魚獲ったことも無いのか?」
どうやら与平を頼ったのはこういうことらしい。それを聞いて狐杜がお腹を抱えて笑っている。
「月守さま、なんでも知ってるのに、魚の獲り方知らないのー?」
「仕方ねえな。こっち来いよ」
与平が竹を組んだ簀子状の構造物を背負って川へと向かうのを月守が後から追う。
どうするのかと眺めていると、与平はその簀子を水の中に入れ、大きな石で重しをして固定した。
「これがおいらの作った簗だ。こうやってな、川下の方に簀子を斜めに掛けておくと、川上から来た魚がこの簀子の上に打ち上げられるんだ。戻りたくてもどんどん川上から水が流れてくるから魚は戻ることができねえだろ。そこをとっ捕まえて町に売りに行くんだ。これなら魚が勝手に上がって来るから傷がつかねえ。ただし入ってくれるかどうかは運だけどな」
感心して眺めていた月守は、ふと別の道具に目をやった。
「これは?」
「これは釣り竿。簗に魚がかかるのを待ってる間ぼけーっとしてるのも時間がもったいねえ。だからこいつを使ってもっと向こう側の深みを狙うんだ。ここは川が大きく向こう側に曲がってるだろ? だからこっち側は河原が広くて水が浅い。向こうは流れが速いから底も深い。浅いところは簗漁、深いところは竿で仕掛けるんだ」
「なるほど、与平殿は物知りだな」
話しながらも与平は手を止めることなくどんどん仕掛けを作って行く。
「溺れるといけねえから、あっちには行くなよ?」
「心得た」
「んで、こいつは銛だ。魚を狙って突く」
月守が首を傾げる。
「突き刺すんだよ、ブスって」
「それでは売り物にならないのではないか」
「もちろん自分で食うんだ。おっ母にもたまには魚を食わしてやりてえしな」
興味津々に話を聞いていた月守が見せてくれという。与平は銛漁はあまり得意ではないが、要領さえ教えればいずれ月守も戦力になってくれるかもしれない。静かに川に入ると銛を構えた。
「たあっ!」
掛け声とともに与平は長い銛を川の中に向けて振り下ろした。その瞬間「外した」と小声で月守が言うのを、狐杜は聞き逃さなかった。
――月守さま、ここで見ていてわかるのかな?
「与平殿、私にもやらせて貰えぬか」
「ああいいよ。難しいけどな。魚見えるか」
「いや」
月守は着物の裾を捲り上げて帯の間に挟むと、川の中に入って来た。
「ほら、あんなふうに見えるのが魚だよ」
「どれだ?」
「そこ」
男二人が顔を寄せ合って「あそこだ」「ここだ」とやっているのがおかしくて、狐杜は笑いが止まらない。似てはいないが本物の兄弟のようだ。
しばらくすると与平が月守から離れた。狐杜のそばにやって来た与平は、小声で囁くように言った。
「あの人、多分一発で仕留める。多分」
「え?」
それっきり与平は何も言わずに息を殺して月守を見守った。
月守は地蔵のように固まったまま身じろぎひとつしない。
与平がごくりと唾を飲み込んだその瞬間、月守の腕が動いた。
――二往復?
「与平殿。こんな感じで良いのか?」
二人の方を振り返った月守が手にしていた銛には、二匹の魚が串刺しになっていた。
「すげえよ、すげえよ、なんだよあれ、本当は銛漁やったことあんだろ」
「いや、初めてだ」
「あんな技見たことねえよ。初めてなんてほとんどの奴が外すんだぜ。月守は一撃で仕留めるとは思ったけどよ、あんなの無しだぜ」
月守が戻ってからの与平は興奮していて全く手が付けられない。いくら狐杜が「落ちついて」「座って」と言っても、まるで聞いちゃいない。
「ちょっと与平、なんで一撃で仕留めるって思ったのよ」
「気配だよ気配。月守は気配を消すんだよ。信じられねえ、すぐ側にいるのに、気配を感じねえんだよ。あんなのありかよ、めちゃめちゃ怖えよ。月守に狙われたら、生きて帰れねえよ。二匹とも仕留められてたけどさ!」
だが、当の本人は訳がわからないといった顔をしている。
「気配はどうやって消すのだ?」
「は? 消してたじゃねえか、消えてたよ、意識しないで消してたのかよ。まあいいや。今夜は魚が食える。簗で獲った魚はこれからもう一度町に売りに行くから、月守が獲った魚は四人で食おう。おっ母が喜ぶぜ」
興奮冷めやらぬ与平と今夜のご馳走に喜ぶ狐杜を見ながら、月守は一人首を捻っていた。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる