柿ノ木川話譚1・狐杜の巻

如月芳美

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第二章 木槿山の章

第30話 誘拐2

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「止まれ」
「へい」
「下ろせ」
 外から聞こえる短い会話から、目的地に到着したことが狐杜にはわかった。
 駕籠がゆっくり下ろされ、簾が上げられた。出ろということらしい。
 促されるまま駕籠を降りると、駕籠屋は逃げるように出て行った。
 立派なお屋敷だった。だが自分が住むには広すぎる。本物の姫様でなくて良かったと狐杜は少し思った。
 年嵩の男が若い男に目配せをしてその場を離れた。あの男は狐杜と与平を襲いに来た男に違いなかった。恐らく町に入る前に頭巾を取ったのだろう。あのままでは確かに怪しすぎる。
「ついて参られよ」
 若い方の男が言った。
 狐杜は言われるまま静かについて行った。少しでも話せば姫でないことがバレてしまうに違いない。この人達は姫様を連れてきたと思っているのだからバレたら絶対殺される。
 廊下の一番奥まで歩かされた。
 ――っていうか廊下!
 あばら家にそんなものの概念は存在しない。この廊下だけでも狐杜と与平の家を合わせたより広さがありそうだ。ここで四人で生活できるかもしれないなどと場違いなことを考えた。
 男は突き当りの部屋のふすまを開け、入るよう手で促した。
 畳が二枚敷いてある。部屋中に敷き詰めたら六枚くらいは敷けるだろうが、部屋の端に縦に二枚だけだ。あとの四枚分の広さは板張りで、布団が山と積んである。
 狐杜のあばら家よりも広く、畳も敷いてある立派な部屋だが、ここは納戸として使われているのだろうと彼女は理解した。普段は使われないが人が集まる時に使うものを収納している場所なのだろう。
 狐杜が部屋に入ると男は辺りを窺ってから静かに襖を閉めた。年の頃は十七、八。美しい顔立ちは一見すると女子のようにも見える。同じ美形でも月守のような冷たさは無く、凛とした目元にもどことなく温かさを感じる。
「姫様、どうぞそちらへ」
 男は狐杜を畳の方へと促し、自分は板の間に正座をするとこうべを垂れた。
「某は雪之進と申します。ここは勝孝さまの屋敷の一番奥、誰の目も届かない納戸でございます。姫様には少々窮屈かと存じますが、ここが一番ゆっくり落ち着ける場所なれば、しばらくの間御辛抱願いたく」
 勝孝――姫の叔父だ。そう思ったが言葉には出さず黙って頷いた。口は禍の元である。
 だがこの雪之進は、外では誰かに遠慮しているのか随分と事務的だったが、こうして中に入ると思ったよりも紳士的だ。気を許すにはまだ早いが。
 それにしても『雪之進』とはどこかで聞いたような気がする。どこだったか。
「姫様はなんとかしてお助けいたします。悲観して無茶をなさらぬよう。この雪之進を信じて……と言っても無理な状況だが」
 自嘲的に小さく笑った雪之進だが、すぐに気を引き締めて言葉を継いだ。
「布団を積んでおりますゆえ畳の奥の方は入り口からは死角になっておりまする。狭いところですが、そこならば少しは気が休まりましょう」
 この男は姫様――中身は狐杜だが――を丁重に扱おうとしているようだ。それが狐杜にはひどく不思議に映った。
「世話係の娘を一人お付けいたします。何かあればその娘にお申しつけくだされ。では」
「あのっ!」
 部屋を出て行こうとする雪之進に、狐杜は思わず声をかけてしまった。直後、姫はもっと落ちついているかもしれないとは思ったが、もう遅い。
「何か」
「いえ、その、雪之進さまはどうして……親切にしてくださるのですか」
 『あたしに』と言いかけて、『わたしに』かな、『わたくしに』かな、と一瞬悩んだ。その結果、途中に中途半端な間が入ってしまったが、なんとなく誤魔化せた。
 だがそれを聞いた彼は、どういう受け取り方をしたのか目を見開いた。
「親切などと、とんでもござりませぬ。このような仕打ちにさぞ恐ろしい思いをされていたでしょうに。これまでお助けできずにおりました御無礼をお許しください」
 勝孝の家臣なのに、まるで勝孝の考えに異を唱えているような言いっぷりに、狐杜は面食らってしまった。返答できずにいると、雪之進は「すぐに身の回りの世話をする娘を連れて参ります」と言って出て行った。
 雪之進がいなくなってから、狐杜は自分の置かれた状況を冷静に考え直した。さっきはついうっかり声をかけてしまったが、なんとか怪しまれずに済んだようだ。気を付けなければならない。
 狐杜には世話係の娘が来る前に考えなければならないことが山ほどあった。
 まずは自分をどう呼ぶか決めないと。きっと姫様だから『わたくし』だ。『拙者』とか『某』というのは男の人が使っている。よくわからないけれど『わたくし』なら無難な気がした。いつもの姫様と違ったとしても、気が動転していると思わせればいい。
 ――おっ母さんのことはなんて呼ぶんだろう? きっと姫様はおっ母さんなんて呼ばない。なんだろう、おっ母じゃないだろうし。
 お父つぁんも言わないに違いないお父つぁま? 絶対おかしい。両親については触れないことにしよう。話を振られたらとにかく黙ろう。
 そうだ、姫様には弟ぎみがいた。名前はなんだっけ。まさか自分の弟を『若様』とは呼ばないだろう。呼ぶのかな。ああわからない、これもダメだ。話が出たら黙るしかない。
 しばらくは何も話せないということだ。とにかく相手の話から姫様のことを探って行くしかない。
 たぶん雪之進さまがいるから殺されることはないだろう。酷い目に遭わされることもなさそうだ。あの人は信用できる、たぶん。たぶんね!――
 希望的観測を織り交ぜながら、狐杜の推理は続く。
 雪之進はまだ若そうだったが勝孝に意見できるのだろうか、まだ二十歳にもなっていないのでは。
 それ以前に、自分は今『十二歳』の姫なのだ。いくら中身が十六でも、十二として振舞わなければならない。
 だが、姫様ならいろいろ老成しているかもしれないし、自分は十六とは言え世間知らずだ、もしかしたら素のままで十分いけるかもしれない。
 十二歳ということは干支は何になるのだろうか。四つ前か、いや四つ後か、どっちだ?
 狐杜の頭が混乱してきたちょうどその時、「失礼いたします」と襖の向こうで若い娘の声がした。
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