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第二章 木槿山の章
第33話 訪問2
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家老は少し混乱していた。あの松原屋が『橘から頼まれていた』という着物を持って来たという。橘がいなくなって半年以上経つというのに、なぜ今?
しかも今日は番頭や手代が来るわけでもなく、お嬢さんが丁稚だけを連れて来ているという。
溢れかえる猜疑心を心の底に押し込めて襖を開けると、松原屋のお嬢さんらしき人物がシャンと背中を伸ばして座っていた。
「松原屋か。待たせてすまぬ。家老の本間じゃ」
「御家老様にはお初にお目にかかります、松原屋の八重と申します」
丁寧に頭を下げるお八重の前に家老が座ると、後からついてきた小夜が廊下を確認してから静かに襖を閉めてその場に控える。
「橘が何か誂えたということじゃが」
「はい、少々立ち入ったご相談になります。お人払いを」
「橘のことか」
「いえ、それだけではございません」
――なるほど姫のことをご存知か。
「お八重殿、大丈夫じゃ。この小夜は姫の身の回りの世話をしている者で、この件についてはよう知っている。小夜にも聞かせてやってくれまいか」
「承知いたしました」
お八重がホッと緊張を解いたのを確認し、家老は膝を詰めた。
「して、どういったご用件じゃ?」
お八重は月守のところで話したことを、すっかり家老と小夜に話して聞かせた。そして自分が姫様の件を知っていること、何よりも柳澤と月守と狐杜たちと勝孝に顔が利くことを語り、自分が姫様の味方であることも付け加えた。家老にとっては心強い情報源になれるだろうと強調して。
「このとおりわたしはどこへ顔を出しても怪しまれることはございません。わたしに手伝えることがありましたら、何なりとお申し付けくださいまし。狐杜は私の大切な友人でございますゆえ」
「それは助かるが、お八重殿が危険な目に遭われては、この本間が腹を切った程度では済まされませぬ」
家老が冷や汗交じりに言うと、お八重はクスクスと笑った。
「御家老様、わたしを侮られては困ります。この町ではわたしの顔を知らぬは生まれたばかりの赤子のみと言われております。外でわたしに何事かあれば、町中の目がございますれば、あちらも無闇に手出しは出来ませぬ」
さらに彼女は自信たっぷりに付け加えた。
「それ以前に、わたしが関係者であると知られずに動いて見せましょう」
なかなか豪胆な娘だ。よくわかっていないがゆえに緊張感に欠けていた狐杜と違い、全てを理解した上で堂々と振るまおうというのだ。
「ときに御家老様、雪之進さまは姫様と何か関係があるのですか」
「雪之進と姫は直接の関係はないものの、勝孝の屋敷で何度か顔は合わせておる。じゃが姫が認識しているとは思えんのう。たくさんの家臣の中の一人という感じであろう」
お八重は少し何か思案した後、質問を変えた。
「どのようなお方ですか」
「どのようなと言われても……雪之進は八つかそこらで奉公を始め、剣の腕を磨き、勉学に勤しみ、勝孝の側近として働くのを夢見ておった。今の十郎太の立ち位置じゃな。じゃが優しすぎたんじゃろうな。剣も弓も腕は悪くなかったが、どうしてもとどめを刺せん男でな。鷹狩りについて行っても、獲物になった野ウサギを見て悲し気にしておった。儂も繁孝様が御健在の頃には何度か一緒に付き合うたんじゃが。それ以来、雪之進は鷹狩りには顔を出さぬようになった」
「見た目通りのお優しい方なのですね」
「そうじゃの。小鳥や小さな動物が好きで、勝孝の屋敷で会った時も庭に来た小鳥に粟をやっていた。繊細な男じゃ」
家老も八重も、雪之進の一見すると女性にも見えてしまう綺麗な面立ちを思い出す。
「ゆえに刀を持つ仕事は与えられんようになった」
「それで勘定方に?」
「そうらしい。雪之進ならまだ若いし、他にもできることがありそうなもんじゃが。繁孝様なら勘定方には回さなかったであろうな」
「ああ、それで柳澤さまの奉公人には体の不自由な方が多いのですね」
なんと頭の回転の速い娘だろうか。一を言えば百を察する。
繁孝は若者には体を使う仕事をさせた。そして町人や農民の中から、体が不自由で家の仕事ができないものを雇用して読み書き算術を教え、事務方の仕事をさせていたのだ。そのため柳澤の事務方は、足を引きずっていたり片腕が無かったりというものが珍しくなかった。
若くして頭脳労働に就いていたのは橘くらいだった。とは言え、誰にも知られてはいないが、彼は教育係であるとともに身辺警護も任されていたのだが。
「お話は変わりますが」
お八重の声が家老を現実に引き戻した。
「以前、松原屋でお仕立てを致しました藍天鵞絨のお召し物は、どなたさまのものでしょうか」
「藍天鵞絨?」
「はい。藍天鵞絨と藤煤竹で悩まれて、結局藍天鵞絨を選ばれたのです。教育係とお聞きいたしました」
――橘だ。
「何ゆえにそのような?」
「月守さまのお召し物が現在お召しの藍天鵞絨のものしかないので、お世話になったお礼にもう一着松原屋でお作りすることになったのですが、月守さまが黒橡がいいと仰って。それで黒橡は喪服のようだからと別のお色をお勧めしましたところ、それなら是非にと藤煤竹を指定されたのです。それで行方不明の教育係の方が月守さまではないかと」
橘が初めて城にやって来た日、彼は黒橡の装束だった。他の服を与えても、しばらくはそればかりを着ていた。
家老は黙って頷いた。もう言葉すら必要無かった。
お八重も家老も月守は橘であるという認識を持っている。それも明確に。疑う余地など粟粒ほどもなく。
「それでも月守さまは月守さまでございます」
「うむ、わかっておる」
家老自ら頼めば、あるいは城に戻ってくれるやもしれぬ。だが今の彼は、月守として心地よく暮らしている。
彼がそれを望むのであれば、彼を説き伏せるよりも姫と若に理解してもらう方が良いのかもしれない。
ただ、それは今ではない。今は戦える人間が欲しい。柳澤の頭脳として動いてくれる人間が。
「御家老様。橘さまに比べれば頼りないかとは重々承知しておりますが、柳澤家には微力ながらこの八重が付いております。月守さまも与平も御家老様の味方です。そしてこちら側にあって勝孝さま側にないものがごさいます」
「ん? 何じゃ?」
家老の問いに、お八重が小夜の方へと目配せをし、小夜もそれがわかったのか二人でクスッと笑った。
「お八重さんと狐杜さん、姫様と、この小夜にございますね」
「そうです。おなごの力を侮られると痛い目に遭われますよ、ということを勝孝さまに思い知らせて差し上げましょう」
しかも今日は番頭や手代が来るわけでもなく、お嬢さんが丁稚だけを連れて来ているという。
溢れかえる猜疑心を心の底に押し込めて襖を開けると、松原屋のお嬢さんらしき人物がシャンと背中を伸ばして座っていた。
「松原屋か。待たせてすまぬ。家老の本間じゃ」
「御家老様にはお初にお目にかかります、松原屋の八重と申します」
丁寧に頭を下げるお八重の前に家老が座ると、後からついてきた小夜が廊下を確認してから静かに襖を閉めてその場に控える。
「橘が何か誂えたということじゃが」
「はい、少々立ち入ったご相談になります。お人払いを」
「橘のことか」
「いえ、それだけではございません」
――なるほど姫のことをご存知か。
「お八重殿、大丈夫じゃ。この小夜は姫の身の回りの世話をしている者で、この件についてはよう知っている。小夜にも聞かせてやってくれまいか」
「承知いたしました」
お八重がホッと緊張を解いたのを確認し、家老は膝を詰めた。
「して、どういったご用件じゃ?」
お八重は月守のところで話したことを、すっかり家老と小夜に話して聞かせた。そして自分が姫様の件を知っていること、何よりも柳澤と月守と狐杜たちと勝孝に顔が利くことを語り、自分が姫様の味方であることも付け加えた。家老にとっては心強い情報源になれるだろうと強調して。
「このとおりわたしはどこへ顔を出しても怪しまれることはございません。わたしに手伝えることがありましたら、何なりとお申し付けくださいまし。狐杜は私の大切な友人でございますゆえ」
「それは助かるが、お八重殿が危険な目に遭われては、この本間が腹を切った程度では済まされませぬ」
家老が冷や汗交じりに言うと、お八重はクスクスと笑った。
「御家老様、わたしを侮られては困ります。この町ではわたしの顔を知らぬは生まれたばかりの赤子のみと言われております。外でわたしに何事かあれば、町中の目がございますれば、あちらも無闇に手出しは出来ませぬ」
さらに彼女は自信たっぷりに付け加えた。
「それ以前に、わたしが関係者であると知られずに動いて見せましょう」
なかなか豪胆な娘だ。よくわかっていないがゆえに緊張感に欠けていた狐杜と違い、全てを理解した上で堂々と振るまおうというのだ。
「ときに御家老様、雪之進さまは姫様と何か関係があるのですか」
「雪之進と姫は直接の関係はないものの、勝孝の屋敷で何度か顔は合わせておる。じゃが姫が認識しているとは思えんのう。たくさんの家臣の中の一人という感じであろう」
お八重は少し何か思案した後、質問を変えた。
「どのようなお方ですか」
「どのようなと言われても……雪之進は八つかそこらで奉公を始め、剣の腕を磨き、勉学に勤しみ、勝孝の側近として働くのを夢見ておった。今の十郎太の立ち位置じゃな。じゃが優しすぎたんじゃろうな。剣も弓も腕は悪くなかったが、どうしてもとどめを刺せん男でな。鷹狩りについて行っても、獲物になった野ウサギを見て悲し気にしておった。儂も繁孝様が御健在の頃には何度か一緒に付き合うたんじゃが。それ以来、雪之進は鷹狩りには顔を出さぬようになった」
「見た目通りのお優しい方なのですね」
「そうじゃの。小鳥や小さな動物が好きで、勝孝の屋敷で会った時も庭に来た小鳥に粟をやっていた。繊細な男じゃ」
家老も八重も、雪之進の一見すると女性にも見えてしまう綺麗な面立ちを思い出す。
「ゆえに刀を持つ仕事は与えられんようになった」
「それで勘定方に?」
「そうらしい。雪之進ならまだ若いし、他にもできることがありそうなもんじゃが。繁孝様なら勘定方には回さなかったであろうな」
「ああ、それで柳澤さまの奉公人には体の不自由な方が多いのですね」
なんと頭の回転の速い娘だろうか。一を言えば百を察する。
繁孝は若者には体を使う仕事をさせた。そして町人や農民の中から、体が不自由で家の仕事ができないものを雇用して読み書き算術を教え、事務方の仕事をさせていたのだ。そのため柳澤の事務方は、足を引きずっていたり片腕が無かったりというものが珍しくなかった。
若くして頭脳労働に就いていたのは橘くらいだった。とは言え、誰にも知られてはいないが、彼は教育係であるとともに身辺警護も任されていたのだが。
「お話は変わりますが」
お八重の声が家老を現実に引き戻した。
「以前、松原屋でお仕立てを致しました藍天鵞絨のお召し物は、どなたさまのものでしょうか」
「藍天鵞絨?」
「はい。藍天鵞絨と藤煤竹で悩まれて、結局藍天鵞絨を選ばれたのです。教育係とお聞きいたしました」
――橘だ。
「何ゆえにそのような?」
「月守さまのお召し物が現在お召しの藍天鵞絨のものしかないので、お世話になったお礼にもう一着松原屋でお作りすることになったのですが、月守さまが黒橡がいいと仰って。それで黒橡は喪服のようだからと別のお色をお勧めしましたところ、それなら是非にと藤煤竹を指定されたのです。それで行方不明の教育係の方が月守さまではないかと」
橘が初めて城にやって来た日、彼は黒橡の装束だった。他の服を与えても、しばらくはそればかりを着ていた。
家老は黙って頷いた。もう言葉すら必要無かった。
お八重も家老も月守は橘であるという認識を持っている。それも明確に。疑う余地など粟粒ほどもなく。
「それでも月守さまは月守さまでございます」
「うむ、わかっておる」
家老自ら頼めば、あるいは城に戻ってくれるやもしれぬ。だが今の彼は、月守として心地よく暮らしている。
彼がそれを望むのであれば、彼を説き伏せるよりも姫と若に理解してもらう方が良いのかもしれない。
ただ、それは今ではない。今は戦える人間が欲しい。柳澤の頭脳として動いてくれる人間が。
「御家老様。橘さまに比べれば頼りないかとは重々承知しておりますが、柳澤家には微力ながらこの八重が付いております。月守さまも与平も御家老様の味方です。そしてこちら側にあって勝孝さま側にないものがごさいます」
「ん? 何じゃ?」
家老の問いに、お八重が小夜の方へと目配せをし、小夜もそれがわかったのか二人でクスッと笑った。
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