柿ノ木川話譚1・狐杜の巻

如月芳美

文字の大きさ
35 / 64
第二章 木槿山の章

第35話 訪問4

しおりを挟む
 ――? ハギ?
「ごめん、ちょっと意味が分からん」
「だからぁ」
 喜助が苛立ったように与平に顔を寄せてきた。
「こちらが本物の萩姫様」
「いやいや、そうじゃなくてさ。……え? は? 姫様?」
 月守が動じる風もなく「落ち着け与平」と静かに言って、娘に向き直った。
「こちらで厄介になっている月守と申します。こちらは与平殿と、そのお母上のお袖殿にございます。お袖殿は足が不自由ゆえ、挨拶はご容赦のほど」
「あいすみませんねぇ姫様、狭いところですけど上がっておくんなさいまし」
「お袖さんですね、ありがとうございます」
 姫様は母に礼を言うと、板張りの部屋へ上がった。畳もないのに姫様大丈夫かなぁなどと、喜助がボソボソ言っている。そうか、姫様の部屋には畳があるのか――と与平は妙に納得した。
「橘……わたくしがわかりませぬか。萩がわかりませぬか」
 確かによくよく見れば別人だ。少なくともずっと一緒に育って来た与平にはわかる。なぜすぐに気づかなかったのか不思議なくらいだ。
「申し訳ない。本間殿にも同じ事を聞かれたが、柳澤という名も記憶にないのです」
「そうですか……」
 姫はボソリと言うと顔を伏せた。小さな肩に落胆が乗っていた。それでも彼女は縋るように顔を上げた。
「城に戻って欲しいというのは無理なお願いでしょうか」
「仮に私がその橘だとして、それまでどんな仕事をしていたかわかりません。今の私にできることは、草履や傘を作ることと、薬草を集めること、魚を獲ることです」
 月守は動じることが無いのだろうか。相手が誰であれ、内容がどうであれ、全く表情を動かすことなく淡々と対応する。
 それが御家老様や姫様であっても、与平や狐杜やお八重であっても、見知らぬ殺し屋であってもだ。
「橘はわたくしと桔梗丸の教育係でした。それだけではありませぬ。父上亡き後、この半年ほどの間は、柳澤家のことは爺――家老の本間と橘とで話し合って決めておりました。橘が姿を消してよりこれまでのふた月、本間は一人で仕事が捌ききれず、疲れ果てています。もちろん他にも家臣はおりますが、柳澤の家は父上と本間と橘の三人で回しておりました。それが父上がいなくなり、橘まで」
「姫様、これ!」
 喜助が思い出したように持って来た風呂敷を解き始めた。
「これ、橘さまが流されたときに姫様が着ていた羽織です。橘さまはこの羽織をわざと追手に見せるようにして川に飛び込んだんです。見覚えありませんか」
 月守は静かに首を横に振った。
「柳澤家の事情は本間殿から伺っております」
「あっ! そうでした、狐杜さんがわたくしの代わりに叔父上のところに」
「そのことなら心配ご無用です。殺す気ならわざわざ連れて行くような面倒なことはしません。ここで始末するでしょう」
 与平はなぜかその月守の言い方に底知れぬ深い闇があるように感じ、ゾクリと背中を震わせた。
「無傷でかどわかしたのであれば交渉に利用するためです。恐らく交換条件となるのは『橘』の命でしょうが、まだ、向こうからの接触はございません」
 そうだ、月守は『始末する』と言ったのだ。『殺す』でも『斬る』でもなく『始末する』。狐杜を、始末する――。
「人質は無事だから価値があるのです。私との取引を開始するまで狐杜は無事でしょう。姫様が気になさることではございません」
 人質の価値。そんな言葉が普通の生活をしている人間の口から出るものか。月守はやはり普通に生きてきた人間ではない。だが橘というのは月守のことに違いない。
 本当に月守は『橘』としての記憶を持っていないのだろうか? もし『橘』だとして、草履や傘のこと、稗の粥のことはどう説明できるのか。
「では、わたくしはどうしたら良いのでしょうか」
 姫の問いに月守は迷いなく答えた。
「このまま誰にも見つからずにお戻りください。少人数だと目立ってしまう。喜助、誰ぞ姫と歳の近い女中を」
「こちらにおります」
 戸口の外で声がした。喜助が引き戸を開けると、お八重と小夜が二人仲良く立っていた。
「こんな事だろうと思って、お小夜ちゃんと一緒に来たのよ。年頃の女子が三人きゃあきゃあやってたらきっとその中に姫様が混じっていたって誰にも気づかれないわ」
 お八重が風呂敷をばさりと置いた。
「さ、姫様も着替えてくださいまし。お小夜ちゃんの普段着ですけれど」
「さすが、お八重だな……」
 一同は呆気にとられた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

処理中です...