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第二章 木槿山の章
第35話 訪問4
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――? ハギ?
「ごめん、ちょっと意味が分からん」
「だからぁ」
喜助が苛立ったように与平に顔を寄せてきた。
「こちらが本物の萩姫様」
「いやいや、そうじゃなくてさ。……え? は? 姫様?」
月守が動じる風もなく「落ち着け与平」と静かに言って、娘に向き直った。
「こちらで厄介になっている月守と申します。こちらは与平殿と、そのお母上のお袖殿にございます。お袖殿は足が不自由ゆえ、挨拶はご容赦のほど」
「あいすみませんねぇ姫様、狭いところですけど上がっておくんなさいまし」
「お袖さんですね、ありがとうございます」
姫様は母に礼を言うと、板張りの部屋へ上がった。畳もないのに姫様大丈夫かなぁなどと、喜助がボソボソ言っている。そうか、姫様の部屋には畳があるのか――と与平は妙に納得した。
「橘……わたくしがわかりませぬか。萩がわかりませぬか」
確かによくよく見れば別人だ。少なくともずっと一緒に育って来た与平にはわかる。なぜすぐに気づかなかったのか不思議なくらいだ。
「申し訳ない。本間殿にも同じ事を聞かれたが、柳澤という名も記憶にないのです」
「そうですか……」
姫はボソリと言うと顔を伏せた。小さな肩に落胆が乗っていた。それでも彼女は縋るように顔を上げた。
「城に戻って欲しいというのは無理なお願いでしょうか」
「仮に私がその橘だとして、それまでどんな仕事をしていたかわかりません。今の私にできることは、草履や傘を作ることと、薬草を集めること、魚を獲ることです」
月守は動じることが無いのだろうか。相手が誰であれ、内容がどうであれ、全く表情を動かすことなく淡々と対応する。
それが御家老様や姫様であっても、与平や狐杜やお八重であっても、見知らぬ殺し屋であってもだ。
「橘はわたくしと桔梗丸の教育係でした。それだけではありませぬ。父上亡き後、この半年ほどの間は、柳澤家のことは爺――家老の本間と橘とで話し合って決めておりました。橘が姿を消してよりこれまでのふた月、本間は一人で仕事が捌ききれず、疲れ果てています。もちろん他にも家臣はおりますが、柳澤の家は父上と本間と橘の三人で回しておりました。それが父上がいなくなり、橘まで」
「姫様、これ!」
喜助が思い出したように持って来た風呂敷を解き始めた。
「これ、橘さまが流されたときに姫様が着ていた羽織です。橘さまはこの羽織をわざと追手に見せるようにして川に飛び込んだんです。見覚えありませんか」
月守は静かに首を横に振った。
「柳澤家の事情は本間殿から伺っております」
「あっ! そうでした、狐杜さんがわたくしの代わりに叔父上のところに」
「そのことなら心配ご無用です。殺す気ならわざわざ連れて行くような面倒なことはしません。ここで始末するでしょう」
与平はなぜかその月守の言い方に底知れぬ深い闇があるように感じ、ゾクリと背中を震わせた。
「無傷でかどわかしたのであれば交渉に利用するためです。恐らく交換条件となるのは『橘』の命でしょうが、まだ、向こうからの接触はございません」
そうだ、月守は『始末する』と言ったのだ。『殺す』でも『斬る』でもなく『始末する』。狐杜を、始末する――。
「人質は無事だから価値があるのです。私との取引を開始するまで狐杜は無事でしょう。姫様が気になさることではございません」
人質の価値。そんな言葉が普通の生活をしている人間の口から出るものか。月守はやはり普通に生きてきた人間ではない。だが橘というのは月守のことに違いない。
本当に月守は『橘』としての記憶を持っていないのだろうか? もし『橘』だとして、草履や傘のこと、稗の粥のことはどう説明できるのか。
「では、わたくしはどうしたら良いのでしょうか」
姫の問いに月守は迷いなく答えた。
「このまま誰にも見つからずにお戻りください。少人数だと目立ってしまう。喜助、誰ぞ姫と歳の近い女中を」
「こちらにおります」
戸口の外で声がした。喜助が引き戸を開けると、お八重と小夜が二人仲良く立っていた。
「こんな事だろうと思って、お小夜ちゃんと一緒に来たのよ。年頃の女子が三人きゃあきゃあやってたらきっとその中に姫様が混じっていたって誰にも気づかれないわ」
お八重が風呂敷をばさりと置いた。
「さ、姫様も着替えてくださいまし。お小夜ちゃんの普段着ですけれど」
「さすが、お八重だな……」
一同は呆気にとられた。
「ごめん、ちょっと意味が分からん」
「だからぁ」
喜助が苛立ったように与平に顔を寄せてきた。
「こちらが本物の萩姫様」
「いやいや、そうじゃなくてさ。……え? は? 姫様?」
月守が動じる風もなく「落ち着け与平」と静かに言って、娘に向き直った。
「こちらで厄介になっている月守と申します。こちらは与平殿と、そのお母上のお袖殿にございます。お袖殿は足が不自由ゆえ、挨拶はご容赦のほど」
「あいすみませんねぇ姫様、狭いところですけど上がっておくんなさいまし」
「お袖さんですね、ありがとうございます」
姫様は母に礼を言うと、板張りの部屋へ上がった。畳もないのに姫様大丈夫かなぁなどと、喜助がボソボソ言っている。そうか、姫様の部屋には畳があるのか――と与平は妙に納得した。
「橘……わたくしがわかりませぬか。萩がわかりませぬか」
確かによくよく見れば別人だ。少なくともずっと一緒に育って来た与平にはわかる。なぜすぐに気づかなかったのか不思議なくらいだ。
「申し訳ない。本間殿にも同じ事を聞かれたが、柳澤という名も記憶にないのです」
「そうですか……」
姫はボソリと言うと顔を伏せた。小さな肩に落胆が乗っていた。それでも彼女は縋るように顔を上げた。
「城に戻って欲しいというのは無理なお願いでしょうか」
「仮に私がその橘だとして、それまでどんな仕事をしていたかわかりません。今の私にできることは、草履や傘を作ることと、薬草を集めること、魚を獲ることです」
月守は動じることが無いのだろうか。相手が誰であれ、内容がどうであれ、全く表情を動かすことなく淡々と対応する。
それが御家老様や姫様であっても、与平や狐杜やお八重であっても、見知らぬ殺し屋であってもだ。
「橘はわたくしと桔梗丸の教育係でした。それだけではありませぬ。父上亡き後、この半年ほどの間は、柳澤家のことは爺――家老の本間と橘とで話し合って決めておりました。橘が姿を消してよりこれまでのふた月、本間は一人で仕事が捌ききれず、疲れ果てています。もちろん他にも家臣はおりますが、柳澤の家は父上と本間と橘の三人で回しておりました。それが父上がいなくなり、橘まで」
「姫様、これ!」
喜助が思い出したように持って来た風呂敷を解き始めた。
「これ、橘さまが流されたときに姫様が着ていた羽織です。橘さまはこの羽織をわざと追手に見せるようにして川に飛び込んだんです。見覚えありませんか」
月守は静かに首を横に振った。
「柳澤家の事情は本間殿から伺っております」
「あっ! そうでした、狐杜さんがわたくしの代わりに叔父上のところに」
「そのことなら心配ご無用です。殺す気ならわざわざ連れて行くような面倒なことはしません。ここで始末するでしょう」
与平はなぜかその月守の言い方に底知れぬ深い闇があるように感じ、ゾクリと背中を震わせた。
「無傷でかどわかしたのであれば交渉に利用するためです。恐らく交換条件となるのは『橘』の命でしょうが、まだ、向こうからの接触はございません」
そうだ、月守は『始末する』と言ったのだ。『殺す』でも『斬る』でもなく『始末する』。狐杜を、始末する――。
「人質は無事だから価値があるのです。私との取引を開始するまで狐杜は無事でしょう。姫様が気になさることではございません」
人質の価値。そんな言葉が普通の生活をしている人間の口から出るものか。月守はやはり普通に生きてきた人間ではない。だが橘というのは月守のことに違いない。
本当に月守は『橘』としての記憶を持っていないのだろうか? もし『橘』だとして、草履や傘のこと、稗の粥のことはどう説明できるのか。
「では、わたくしはどうしたら良いのでしょうか」
姫の問いに月守は迷いなく答えた。
「このまま誰にも見つからずにお戻りください。少人数だと目立ってしまう。喜助、誰ぞ姫と歳の近い女中を」
「こちらにおります」
戸口の外で声がした。喜助が引き戸を開けると、お八重と小夜が二人仲良く立っていた。
「こんな事だろうと思って、お小夜ちゃんと一緒に来たのよ。年頃の女子が三人きゃあきゃあやってたらきっとその中に姫様が混じっていたって誰にも気づかれないわ」
お八重が風呂敷をばさりと置いた。
「さ、姫様も着替えてくださいまし。お小夜ちゃんの普段着ですけれど」
「さすが、お八重だな……」
一同は呆気にとられた。
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