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第二章 木槿山の章
第39話 家臣4
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雪之進は九つで奉公に上がり、勝宜の右腕となるべく学問に武芸にと励んでいた。
学問に関してはめきめきと頭角を現して行ったが、それとは逆に武芸に関してはさっぱり伸び悩んでいたのを、指南役だった十郎太はよく覚えている。
十郎太も同じ人種だ。学問は得意だが武芸は人並みという参謀タイプだっただけに、雪之進の気持ちは痛いほどわかった。
それでも十郎太自身、こうして勝孝の右腕として働いている。お前も負けるな、自信を持て、と何度も励ましたものだ。
雪之進が十三になった年、勝孝から辞令が出た。雪之進は勘定方の担当となったのだ。誰よりも算術が得意だという技能が仇となってしまった。
これで勝宜の参謀の道は断たれた、と雪之進は打ちひしがれていた。
悲しみに暮れる少年にかける言葉が見つからず、十郎太はそっと見守るしかなかった。
そんな時だった。ちょうど萩姫が勝孝の屋敷にやって来たのだ。あれは若様誕生のお披露目だった。
勝孝が幼い萩姫に「これで姫様は用済みになられましたな」と言っていたのを十郎太は覚えている。恐らくまだ七つの姫には意味が分からなかっただろうが、わざわざ若様のお披露目に来ている姪になんという大人げの無いことを言うのかと呆れつつ、気持ちがわからなくもないと悶々とした記憶がある。
その裏で、雪之進もまた萩姫と言葉を交わしていたのだ。
あの日も雪之進は、いつものように庭に来る野鳥に粟をやっていた。そこへ幼い萩姫が声をかけたのだ。「どうして泣いているのですか」と。
「あの時私は萩姫様に、小鳥に餌をやっていただけだと答えました。ですが心の中では泣いておりました。姫様に見透かされていたのです。その直後、姫様は驚くようなことを仰せになりました」
――わたくしは今、叔父上様に「姫はもう要らない子」と言われました――
姫はあの時自分が勝孝に言われたことの意味を正しく理解していたのだ。わかったからこそ幼心に傷ついて、同じように傷ついていた雪之進に気づいたのだ。
「姫様は私に、悲しいことがあったのか、とお聞きになられました。私は希望する仕事に就けなかったことを話しました。当時の姫様はまだ七つ、理解できたかどうかはわかりませんでしたが、わからない方が良いと思いました」
いや、萩姫は賢い。理解したかもしれない。
「姫様は私にこう仰せになったのです」
――でもわたくしは要らない子にはなりませぬ。だからそなたもやりたいお仕事を諦めてはなりませぬ――
「姫様は袂から懐紙に包んだ何かを出してきて、手の中に広げられました。小さな干菓子が二つ三つ入っていました。そして私の名をお尋ねになられたのでございます」
――雪之進さまですね。ではこれにしましょう――
「姫様は雪うさぎの形の干菓子を私の手に乗せて、にっこりと微笑まれたのでございます。その小さな雪うさぎはとても甘く、優しい気持ちになれたのを覚えております。それから辛いことや苦しいことがある度、あの日の雪うさぎを思い出して頑張って参りました。今ここにこうしていられるのは、十郎太さまと萩姫様のお陰でございます」
そんなことが。
そして今、姫様はその時の言葉通り、柳澤の当主として立っておられる。『要らない子』の肩書を自らお捨てになられたのだ。
「萩姫様がそれを覚えているとも思えないのですが」
少しはにかんだように言う雪之進を見て、十郎太の腹は決まった。
「わかった。萩姫様は我々で守ろう」
「ですがどうやって? 月守という方は橘さまではない。ならば彼の者を呼び寄せることはできません。まして橘さまと別人であると報告すれば姫様は」
「そもそも、なぜ月守は姫様を匿っていたのだ?」
雪之進が急に何かを思いついたように顔を寄せてきた。
「十郎太さま、いっそ月守さまに協力していただくわけにはいかないでしょうか。姫様を匿っていたくらいです、手を組めば何かできるやもしれませぬ」
月守に協力を仰ぐだと?
いや、待てよ? 月守はなんと言ったか。
――なぜあの日、わざと二人を逃した? なぜ与平にとどめを刺さなかった?――
――なぜ殺し屋を雇っておきながら、殺し屋の失敗を喜んでいた?――
――なぜ勝孝に仕えている?――
「そうだ、奴は知っていた。俺が姫を仕留めるのをわざと失敗しているのを」
「今、なんと?」
「俺は月守に言われたのだ。何故勝孝に仕えているのかと」
そう、俺は答えられなかったのだ。問われて初めて気づいたからだ。
十郎太は勝孝の心の傷に寄り添い、陰で支えるために仕えていたはずだった。それがいつしかお末の方を守るために仕え、お末の方が亡くなってからは復讐するために仕え、今は雪之進を育てるために仕えている。
復讐を誓いながらも、勝孝の心の傷に寄り添おうとしている自分がいる。
矛盾だらけなのだ。
だからこうしているのがこんなにも苦しいのだ。
それを月守に突き付けられた、お前が勝孝に仕えるのはなぜなのだ、と。
「私が月守さまと話を付けて参ります」
「雪之進?」
「止めても無駄でございます。私は萩姫様をお守りしとうございます」
「お前は俺に仕えると言ったが……全くその気は無さそうだ」
十郎太が笑うと、雪之進も照れ臭そうに笑った。
学問に関してはめきめきと頭角を現して行ったが、それとは逆に武芸に関してはさっぱり伸び悩んでいたのを、指南役だった十郎太はよく覚えている。
十郎太も同じ人種だ。学問は得意だが武芸は人並みという参謀タイプだっただけに、雪之進の気持ちは痛いほどわかった。
それでも十郎太自身、こうして勝孝の右腕として働いている。お前も負けるな、自信を持て、と何度も励ましたものだ。
雪之進が十三になった年、勝孝から辞令が出た。雪之進は勘定方の担当となったのだ。誰よりも算術が得意だという技能が仇となってしまった。
これで勝宜の参謀の道は断たれた、と雪之進は打ちひしがれていた。
悲しみに暮れる少年にかける言葉が見つからず、十郎太はそっと見守るしかなかった。
そんな時だった。ちょうど萩姫が勝孝の屋敷にやって来たのだ。あれは若様誕生のお披露目だった。
勝孝が幼い萩姫に「これで姫様は用済みになられましたな」と言っていたのを十郎太は覚えている。恐らくまだ七つの姫には意味が分からなかっただろうが、わざわざ若様のお披露目に来ている姪になんという大人げの無いことを言うのかと呆れつつ、気持ちがわからなくもないと悶々とした記憶がある。
その裏で、雪之進もまた萩姫と言葉を交わしていたのだ。
あの日も雪之進は、いつものように庭に来る野鳥に粟をやっていた。そこへ幼い萩姫が声をかけたのだ。「どうして泣いているのですか」と。
「あの時私は萩姫様に、小鳥に餌をやっていただけだと答えました。ですが心の中では泣いておりました。姫様に見透かされていたのです。その直後、姫様は驚くようなことを仰せになりました」
――わたくしは今、叔父上様に「姫はもう要らない子」と言われました――
姫はあの時自分が勝孝に言われたことの意味を正しく理解していたのだ。わかったからこそ幼心に傷ついて、同じように傷ついていた雪之進に気づいたのだ。
「姫様は私に、悲しいことがあったのか、とお聞きになられました。私は希望する仕事に就けなかったことを話しました。当時の姫様はまだ七つ、理解できたかどうかはわかりませんでしたが、わからない方が良いと思いました」
いや、萩姫は賢い。理解したかもしれない。
「姫様は私にこう仰せになったのです」
――でもわたくしは要らない子にはなりませぬ。だからそなたもやりたいお仕事を諦めてはなりませぬ――
「姫様は袂から懐紙に包んだ何かを出してきて、手の中に広げられました。小さな干菓子が二つ三つ入っていました。そして私の名をお尋ねになられたのでございます」
――雪之進さまですね。ではこれにしましょう――
「姫様は雪うさぎの形の干菓子を私の手に乗せて、にっこりと微笑まれたのでございます。その小さな雪うさぎはとても甘く、優しい気持ちになれたのを覚えております。それから辛いことや苦しいことがある度、あの日の雪うさぎを思い出して頑張って参りました。今ここにこうしていられるのは、十郎太さまと萩姫様のお陰でございます」
そんなことが。
そして今、姫様はその時の言葉通り、柳澤の当主として立っておられる。『要らない子』の肩書を自らお捨てになられたのだ。
「萩姫様がそれを覚えているとも思えないのですが」
少しはにかんだように言う雪之進を見て、十郎太の腹は決まった。
「わかった。萩姫様は我々で守ろう」
「ですがどうやって? 月守という方は橘さまではない。ならば彼の者を呼び寄せることはできません。まして橘さまと別人であると報告すれば姫様は」
「そもそも、なぜ月守は姫様を匿っていたのだ?」
雪之進が急に何かを思いついたように顔を寄せてきた。
「十郎太さま、いっそ月守さまに協力していただくわけにはいかないでしょうか。姫様を匿っていたくらいです、手を組めば何かできるやもしれませぬ」
月守に協力を仰ぐだと?
いや、待てよ? 月守はなんと言ったか。
――なぜあの日、わざと二人を逃した? なぜ与平にとどめを刺さなかった?――
――なぜ殺し屋を雇っておきながら、殺し屋の失敗を喜んでいた?――
――なぜ勝孝に仕えている?――
「そうだ、奴は知っていた。俺が姫を仕留めるのをわざと失敗しているのを」
「今、なんと?」
「俺は月守に言われたのだ。何故勝孝に仕えているのかと」
そう、俺は答えられなかったのだ。問われて初めて気づいたからだ。
十郎太は勝孝の心の傷に寄り添い、陰で支えるために仕えていたはずだった。それがいつしかお末の方を守るために仕え、お末の方が亡くなってからは復讐するために仕え、今は雪之進を育てるために仕えている。
復讐を誓いながらも、勝孝の心の傷に寄り添おうとしている自分がいる。
矛盾だらけなのだ。
だからこうしているのがこんなにも苦しいのだ。
それを月守に突き付けられた、お前が勝孝に仕えるのはなぜなのだ、と。
「私が月守さまと話を付けて参ります」
「雪之進?」
「止めても無駄でございます。私は萩姫様をお守りしとうございます」
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