柿ノ木川話譚1・狐杜の巻

如月芳美

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第二章 木槿山の章

第45話 救出1

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 勝孝と大船屋の若旦那こと漣太郎の実のない会話を、十郎太は心を無にして聞いていた。
 漣太郎は悪い男ではなさそうだが、計算高い父親の浪太郎と違って何一つ自分で決められない。幼いころから必要以上に世話を焼かれ、自分で判断する機会なく育ってしまったのだろう。十八にもなってこの調子では大船屋も先が思いやられる。
 そして今日の話も捕らぬ狸の皮算用が前提になっている。こんな話、普通に考えたら誰も乗らないだろうに、漣太郎は夢のような未来予想図を目の前に広げられただけで、もうその夢が叶ったようなつもりになっている。
 勝孝が家督を相続し、実権を握ったと仮定しての話である。そんな日は絶対に来ないのに、無駄な時間を費やして無駄な話をして無駄に喜んでいる
 この若旦那に店を継がせて大きな取引などしたら、大船屋に未来はない。そして今まさに大船屋の未来が転覆しようとしている。十郎太の前で。
 大船屋はもともとこの町で商いをしているわけではない。もっと川下の方の小さな町が本拠地だ。だが、柿ノ木川があるため水上運輸をこの大船屋がほぼ担っている。
 もちろんこの町にも以前は舟問屋や船宿はあった。とは言え、この町の中でしか機能していなかったため閑古鳥が鳴いていた。それらを大船屋がすべて買い取り、さらに水上運輸とそれにまつわる全ての事業を公共事業として柳澤配下で引き受けたのが十五年前、勝孝二十歳の時だった。
 これによってこの町の水上運輸、舟の賃貸、船宿などの一切合切を勝孝が柳澤名義で請け負うということとし、それらの頂点に立つのは当時の大船屋の若旦那である浪太郎だった。
 そもそも大船屋をこの町まで引っ張り込んだのは十郎太だった。
 もう二十年近く前になるだろうか。
 ここよりも川下に漆谷という小さな町があり、そこへ行くには山を越えなければならなかった。漆谷が柿ノ木川を使った水上運輸でさらに川下の街と繋がっているのを見て、「上流の方まで手を広げる気はないか」と持ち掛けたのだ。
 十郎太は勝孝の代理として大船屋と話を付けるために、何度も何度も漆谷と木槿山ここを往復した。
 当時、大船屋には兄の浪太郎とお初とお末という姉妹がいて、十郎太が行くといつも妹のお末がお茶を出してくれた。
 まだ少年だったにもかかわらず、礼儀正しく頭の回転も速かった十郎太に、大船屋はとても親切にしてくれた。大雨に降られたときなどは、雨の山越えは危険だと言って泊めてくれることもあった。
 そんな時は大船屋の旦那様は三人の子と共に十郎太も一緒に夕食を取らせてくれた。十郎太はお初と同い年、お末の一つ上で、歳も近かったので何かと話が弾んだ。
 年頃の十郎太が恋に落ちるのに時間はかからなかった。好きになったのは一つ年下の妹、お末だった。彼女の方も同じ気持ちだった。
 二人だけの秘密にしていたが、勘のいい姉のお初にはあっさりと気づかれた。お初はとても喜び、「どうか妹を十郎太さまの妻にしてやってください」と言ってくれた。
 大船屋の旦那様が反対するとは思えなかった。何度もうちの娘を嫁にもらってくれと言っていたのだ、十郎太とお末は順風満帆に進むはずだったのだ。
 どこで狂ってしまったのだろう。駄目だ、考えてはいけない。それ以上考えてはならないのだ。勝孝さまの家臣である限り。
 なのにこうして漣太郎を目の前にすると、思い出してはならないことが思い出される。
 なぜ今日は漣太郎が一人で来ているのだ。この馬鹿旦那ではどんな荒唐無稽な話でもろくに考えることなく呑んでしまうだろう。なぜあの浪太郎が一緒に来なかったのだ。
 まさか勝孝さまがわざと浪太郎に知らせずに漣太郎だけを呼び出したのでは? この男なら手懐けるのは簡単だ。しかし、家の者に知られずに商談に来るのは不可能だろう。漆谷から来ているわけだし、荷物持ちの丁稚も連れてきている。
 もしや浪太郎の体調が優れぬのでは。
 それにしてもだ、この男は勝孝が家督を相続することをなぜ素直に受け入れて疑問に感じないのだ。浪太郎がいれば、まずそこからの話になったであろうに。 
 大体、勝孝が柳澤を相続するという時点で、普通はおかしいと思うだろう。現在は萩姫が柳澤を継ぎ、いずれ弟の桔梗丸に譲ると言っているのだ、どうやったって勝孝の出番はない。
 だが勝孝の中では姫と若はすぐに消えることは決定事項となっており、勝孝がこれを仕切ったのち勝宜にすべてを任せるという算段なのだ。
 これを聞いたら漣太郎と同い年の雪之進は、一体どんな反応を見せるだろう。
 十郎太が悶々と考えている間に、二人の話はかなり進んでしまっていた。
 今回の話では、今までの業務であった積み荷の集荷・配送から更に手を広げ、積み荷の売買まで手掛ける気らしい。ここで積み荷の売買をするとなれば、大店と繋がっておく必要がある。そこで捌いて貰えば良いという寸法だ。
 だから浪太郎は松原屋のお八重との間に縁談を持ち掛けたのか。いくら漣太郎が愚鈍でも、お八重は回転が速い。最初から運輸や船宿は自分で、積み荷の売買はお八重経由で松原屋に回すつもりだったというわけか。
 あの漣太郎といえど、それくらいの知恵は回るらしい。
 それにしても調子のいい男だ。「勝孝さまにどこまでもついて行きます」などと真顔で言っている。勝孝さまについて行けば一緒に地獄を覗くことになるのだぞと言ってやりたいが、この馬鹿旦那にはちょうどいいのかもしれない、ちょっとくらい覗いて来い。
「ときに漣太郎、そなたに縁談の話があるらしいな」
「はい、そこはもう抜かりございません。松原屋のお八重と話を進めております」
「どのようなおなごじゃ?」
 漣太郎は鼻の下を伸ばしてニヤニヤした。
「そりゃあもう、器量良しでして。少々気が強いのが玉に瑕ではございますが、それだけに頭の回転が速いのでございます。なあに、おなごなどはきちんと躾けて言うことを聞かせれば良いだけのこと、器量のいいのが一番でございますゆえ」
 だが、漣太郎のニヤニヤ笑いは、勝孝の一言で凍り付いた。
「そうか。ではその八重とやらを勝宜の嫁にもらおう」
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