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第三章 柳澤の章
第52話 勝孝と十郎太5
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外は相変わらず雪が降っていた。昨夜のように吹雪いてはいないものの、寒さが身に染みた。
生憎の雪模様であっても、町の人通りは途絶えることは無い。赤子を抱いて歩いていては目立って仕方がないと思った十郎太は、川の方へと向かった。
腕の中の姫は大人しく眠っていた。先ほどまであれほど派手に泣いていたのに。
乳母の「姫様は十郎太さまをお気に召されたのですね」という言葉が頭の中で反響した。何をやっても泣き止まなかった姫が、こうして自分の腕の中で気持ち良さそうに眠っている。なんと愛らしいのだろうか。勝孝が「お末に抱かせてはならぬ」といった意味が分かった。情が湧いてしまうのだ。
雪が姫の顔に降りかからないよう、十郎太はしっかりと胸に抱いて歩いた。そうしていながら自分の矛盾に笑いが込み上げてきた。
自分は何をやっているのか。これからこの子を殺すのだ。顔に雪がかかろうとどうでも良いではないか。
町を抜け、葦の群生地を通り、石ころばかりの河原に出る。こんなところでも雪が積もり始めている。
昨夜からの雪は牡丹雪ではなく粉雪だった。比較的暖かい日は牡丹雪が降り、寒い日は粉雪が降る。粉雪は融けにくいので、一粒は牡丹雪よりはずっと小さくても積もりやすいのだ。今日から明日にかけてはもっと積もると思われた。
ここまで来て十郎太は途方に暮れた。この子をどうやって殺せというのか。
少し上流に目を向けると、小さな橋があるのが見える。そこから川に落とすか。この凍てつく流れに。そんなことを自分ができるわけがない。
いや、やらなければならない。やらなければあの屋敷に、勝孝の元に戻ることはできない。
十郎太は雪の積もった砂利を踏みしめ、上流へと向かった。姫は寒くないだろうかと何度も顔を覗き込んだ。そうしておいて、また自嘲するのだ。
せめて死の直前までは幸せでいて貰おう、温かい腕の感触だけを覚えていてもらおう、母でなくて申し訳ないが――それが十郎太にできる精一杯だった。
橋に着いた。木槿山にかかっている橋はこの一本だけだ。川向うには町は無く、主に木槿山の人達が山菜を採りに行くためだけにかけた橋と言っていい。
その橋を今、蕨や独活を採りに行くわけでもなく、雪の降りしきる中、凍るような川に生まれたばかりの赤子を落とすために渡っている。十郎太は血の気が引くのを感じた。
橋から覗き込む川は、ゴツゴツした岩の間を縫うように流れ、空からの雪を音もなく吸い込んでいく。あたかも黄泉の入り口のように、雪を、そして姫を、丸吞みしようと両手を差し出し、大きな口を開けて待っている。
不意に、一人ぼっちで逝く姫が不憫に感じた。どのみちこの重荷をずっと背負って生きて行かなければならないのなら、いっそ姫に同行するのも良いかと思った。
そして気付いた。自分も逝ってしまえばお末を守る者がいなくなってしまうということに。
それはできない。それだけは何があっても回避しなくてはならない。姫には気の毒だが、一人で発ってもらうしかない。
首の座らない姫を大事に支えて、橋の欄干の外へと差し出す。あとはこの手を離すだけだ。
「姫、お許し下され」
その時だった。姫が片手を上げたのだ。意思があったわけではないだろう、単なる偶然だったに違いない。だが、姫の小さな手を目で追った時に、視界の端に何か動くものが見えた。
狐だった。なぜかただの狐だと思えなかった。自分のしようとしていたことを『お狐様』に見られたような気がした。
骨の髄から来るような恐怖を感じた十郎太は、すぐに姫をしっかりと抱きかかえ、逃げるようにその場を離れた。
なんという恐ろしいことをしようとしていたのだろうか。生まれたばかりの無垢な赤子を――お狐様が止めて下さらなかったら、この凍てつく川に投げ込むところだった。
とはいえ、十郎太が向かう先など無かった。姫を連れて帰ることは許されない。仕方なく、河原を再び下流に向かって歩いた。
行き先の定まらない十郎太の足は重かった。粉雪が彼の肩を白く塗りつぶして行った。恐ろしく寒い日で、羽織の一つも着てくる余裕が無かったにもかかわらず、十郎太は全く寒さを感じなかった。寒さや痛みのような、普通に持ち合わせているはずの感覚が、全く機能しない。それほどまでに、この腕の中の赤子に対する罪悪感に覆われていた。
どれくらい歩いたのか、時間の感覚もないほどぼんやりとしていたが、随分下流まで歩いてきてしまったらしい。
川沿いに小さなあばら家が二軒建っていた。これより先は山になってしまう。町の一番外れまで来てしまったのだろう。
あとはもう町へ向かうか、今来た河原を戻るしかない。十郎太は途方に暮れた。
姫の顔を見ると不意に涙がこぼれた。十郎太が抱いてからただの一度も泣いていない。寒いだろうにこんなに機嫌よく散歩を楽しんでいる姫が健気で、息苦しささえ覚えた。
その時、何者かの視線を感じた。姫を見られるわけにはいかない。十郎太は身構えた。ぐるりと視線を巡らせ、『それ』の正体を探した。
目が合った。身じろぎひとつせずに十郎太を凝視している一対の目。十郎太は思わず声をかけてしまった。
「お前は先程の狐か?」
狐は何か言いたげにしばらく十郎太を見つめていたが、急に背を向けた。十郎太が呆気に取られて見ていると、狐は立ち止まって振り返った。
「ついて来い」と言っているように見えた。
十郎太は吸い寄せられるように狐の後を追った。狐は途中何度も振り返りながらも、どんどん進んで行ってしまう。
しばらくついて行くと、小さなお社が見えた。稲荷神社らしい。狛犬の代わりに石で造った狐が両側にちょこんと立っている。
先程の狐はどこへ行ったのか探しても見当たらない。ここのお狐様だったのだろうか。お狐様が看取ってくださるということか。
十郎太は寒さと絶望で半分おかしくなっていたのかもしれない。なぜかすんなりと「お狐様にお任せしよう」と思ってしまった。
雪が当たらないところに姫をそっと置くと、「お許しください」と言ってその場を離れた。
振り向かなかった。振り向いてしまったらもう戻れなくなることがわかっていた。
――お狐様、姫様をどうぞよろしくお願い申し上げます。苦しまぬよう、眠るように逝かせて差し上げてください――。
生憎の雪模様であっても、町の人通りは途絶えることは無い。赤子を抱いて歩いていては目立って仕方がないと思った十郎太は、川の方へと向かった。
腕の中の姫は大人しく眠っていた。先ほどまであれほど派手に泣いていたのに。
乳母の「姫様は十郎太さまをお気に召されたのですね」という言葉が頭の中で反響した。何をやっても泣き止まなかった姫が、こうして自分の腕の中で気持ち良さそうに眠っている。なんと愛らしいのだろうか。勝孝が「お末に抱かせてはならぬ」といった意味が分かった。情が湧いてしまうのだ。
雪が姫の顔に降りかからないよう、十郎太はしっかりと胸に抱いて歩いた。そうしていながら自分の矛盾に笑いが込み上げてきた。
自分は何をやっているのか。これからこの子を殺すのだ。顔に雪がかかろうとどうでも良いではないか。
町を抜け、葦の群生地を通り、石ころばかりの河原に出る。こんなところでも雪が積もり始めている。
昨夜からの雪は牡丹雪ではなく粉雪だった。比較的暖かい日は牡丹雪が降り、寒い日は粉雪が降る。粉雪は融けにくいので、一粒は牡丹雪よりはずっと小さくても積もりやすいのだ。今日から明日にかけてはもっと積もると思われた。
ここまで来て十郎太は途方に暮れた。この子をどうやって殺せというのか。
少し上流に目を向けると、小さな橋があるのが見える。そこから川に落とすか。この凍てつく流れに。そんなことを自分ができるわけがない。
いや、やらなければならない。やらなければあの屋敷に、勝孝の元に戻ることはできない。
十郎太は雪の積もった砂利を踏みしめ、上流へと向かった。姫は寒くないだろうかと何度も顔を覗き込んだ。そうしておいて、また自嘲するのだ。
せめて死の直前までは幸せでいて貰おう、温かい腕の感触だけを覚えていてもらおう、母でなくて申し訳ないが――それが十郎太にできる精一杯だった。
橋に着いた。木槿山にかかっている橋はこの一本だけだ。川向うには町は無く、主に木槿山の人達が山菜を採りに行くためだけにかけた橋と言っていい。
その橋を今、蕨や独活を採りに行くわけでもなく、雪の降りしきる中、凍るような川に生まれたばかりの赤子を落とすために渡っている。十郎太は血の気が引くのを感じた。
橋から覗き込む川は、ゴツゴツした岩の間を縫うように流れ、空からの雪を音もなく吸い込んでいく。あたかも黄泉の入り口のように、雪を、そして姫を、丸吞みしようと両手を差し出し、大きな口を開けて待っている。
不意に、一人ぼっちで逝く姫が不憫に感じた。どのみちこの重荷をずっと背負って生きて行かなければならないのなら、いっそ姫に同行するのも良いかと思った。
そして気付いた。自分も逝ってしまえばお末を守る者がいなくなってしまうということに。
それはできない。それだけは何があっても回避しなくてはならない。姫には気の毒だが、一人で発ってもらうしかない。
首の座らない姫を大事に支えて、橋の欄干の外へと差し出す。あとはこの手を離すだけだ。
「姫、お許し下され」
その時だった。姫が片手を上げたのだ。意思があったわけではないだろう、単なる偶然だったに違いない。だが、姫の小さな手を目で追った時に、視界の端に何か動くものが見えた。
狐だった。なぜかただの狐だと思えなかった。自分のしようとしていたことを『お狐様』に見られたような気がした。
骨の髄から来るような恐怖を感じた十郎太は、すぐに姫をしっかりと抱きかかえ、逃げるようにその場を離れた。
なんという恐ろしいことをしようとしていたのだろうか。生まれたばかりの無垢な赤子を――お狐様が止めて下さらなかったら、この凍てつく川に投げ込むところだった。
とはいえ、十郎太が向かう先など無かった。姫を連れて帰ることは許されない。仕方なく、河原を再び下流に向かって歩いた。
行き先の定まらない十郎太の足は重かった。粉雪が彼の肩を白く塗りつぶして行った。恐ろしく寒い日で、羽織の一つも着てくる余裕が無かったにもかかわらず、十郎太は全く寒さを感じなかった。寒さや痛みのような、普通に持ち合わせているはずの感覚が、全く機能しない。それほどまでに、この腕の中の赤子に対する罪悪感に覆われていた。
どれくらい歩いたのか、時間の感覚もないほどぼんやりとしていたが、随分下流まで歩いてきてしまったらしい。
川沿いに小さなあばら家が二軒建っていた。これより先は山になってしまう。町の一番外れまで来てしまったのだろう。
あとはもう町へ向かうか、今来た河原を戻るしかない。十郎太は途方に暮れた。
姫の顔を見ると不意に涙がこぼれた。十郎太が抱いてからただの一度も泣いていない。寒いだろうにこんなに機嫌よく散歩を楽しんでいる姫が健気で、息苦しささえ覚えた。
その時、何者かの視線を感じた。姫を見られるわけにはいかない。十郎太は身構えた。ぐるりと視線を巡らせ、『それ』の正体を探した。
目が合った。身じろぎひとつせずに十郎太を凝視している一対の目。十郎太は思わず声をかけてしまった。
「お前は先程の狐か?」
狐は何か言いたげにしばらく十郎太を見つめていたが、急に背を向けた。十郎太が呆気に取られて見ていると、狐は立ち止まって振り返った。
「ついて来い」と言っているように見えた。
十郎太は吸い寄せられるように狐の後を追った。狐は途中何度も振り返りながらも、どんどん進んで行ってしまう。
しばらくついて行くと、小さなお社が見えた。稲荷神社らしい。狛犬の代わりに石で造った狐が両側にちょこんと立っている。
先程の狐はどこへ行ったのか探しても見当たらない。ここのお狐様だったのだろうか。お狐様が看取ってくださるということか。
十郎太は寒さと絶望で半分おかしくなっていたのかもしれない。なぜかすんなりと「お狐様にお任せしよう」と思ってしまった。
雪が当たらないところに姫をそっと置くと、「お許しください」と言ってその場を離れた。
振り向かなかった。振り向いてしまったらもう戻れなくなることがわかっていた。
――お狐様、姫様をどうぞよろしくお願い申し上げます。苦しまぬよう、眠るように逝かせて差し上げてください――。
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