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第2章 ピアノコンクール編

7 ダメ絶対! イヴァンの心の闇

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  イヴァンは漆黒のアウディを乗りこなし、夜の街に真紅のテールランプを灯す。
  
  サティの静かなジムノぺティをオーディオで流しながらゆっくりと徐行する。
  
  路肩ぎりぎりまで車に寄ってくる人の影を横切ると停車する。
  
  裸同然の格好で徘徊する女たちが車に近づいてくる。
  
  イヴァンは助手席の窓を半分くらい開ける。
  
「バーバラはいるか?」
  
「ヘイ!  バーバラ!」  
  
  女の叫び声が界隈に響く。
  
  しばらくすると、スレンダーな女の影が助手席のドアをノックする。
  
  施錠を解くと、女が乗り込んできた。
  
  女はこちらを見ない。
  
  オーディオから流れるピアノの音に意識を持っていかれている。
  
  過去の記憶を思い出しているのだろう。
  
  パイプオルガンの椅子に座る少年と少女の姿。
  
  少年の奏でる音色にうっとりとした表情を浮かべている少女。
  
  肩と肩が当たるくらいその距離は近い。
  
  サティのジムノぺティが奏でられている……。
  
  イヴァンが初恋の女に捧げた曲だ。
  
  女はイヴァンの顔を見るなり大粒の涙をこぼして泣いた。
  
  イヴァンは女の胸の開いた上着のボタンを止めると、頭をなでて慰める。
  
  そして、コーヒーショップに入って暖かい飲み物をすする。
  
  イヴァンは修道院を出たあとの生い立ちを話した。
  
  バーバラと名乗っていた女は、熱いカフェをちびちびと飲み込むように話しを聞いている。
  
  イヴァンが成功して嬉しそうな女はもう本当の名前に戻れないことを話した。
  
  イヴァンは女の自尊心を傷つけてしまうような気がした。
  
  過去に何があって、現在どういう状況なのかを深く聞くことができなかった。
  
  飛び抜けて綺麗な女に成長した者は悲惨な現実が待っていたのだ。
  
  イヴァンは彼女に膨らみのある封筒を渡した。
  
  女は中身を覗くと100ドル札の束を確認した。
  
  この金で普通の生活をして社会復帰ができるようにと、願いを込めて女に渡した。
  
  そして、携帯電話の連絡先を交換する。
  
  イヴァンは携帯番号の上の宛名にアンナと文字を入力する。
  
  アンナだ。
  
  初恋の女アンナ……。
  
  1週間後、アンナに電話をするが連絡が取れない。
  
  不振に思ったイヴァンは探偵を使い、携帯番号の宿主を探す。
  
  ホテルの一室に辿り着く。
  
  鍵は固く閉ざされていた。
  
  ホテルのオーナーにドル札握らせるとマスターキーを用意してくれた。
  
  思い切ってドアを開けると、ベッドの上で女がうつ伏せに動かなくなっていた。
  
  顔を見るとアンナだった。
  
  化粧を落としていたので、子どもの頃の面影を残していた。
  
  ふと、テーブルに置かれた物を見て血の気が引いた。
  
  アンナの腕を見ると、内出血した青い痣があった。
  
  つまり注射の跡だ。
  
  アンナは薬漬けになってこの世を去ったのだ。
  
  そのトドメの一発を与えたのは誰だ?
  
  そう、イヴァンだ。
  
  イヴァンのクソの役にもたたないお節介が原因だ。
  
  廃人に金を渡してしまったのだ。
  
  初恋の女だとかいう淡い幻想を抱き、現状の女を見なかったがために負のスパイラルをさらにねじらせてしまった。
  
  大金を手にしたアンナは男に溺れ、酒に溺れ、最悪にも薬に溺れていった。
  
  イヴァンは獣のように咆哮した。
  
  嗚咽、錯乱、また嗚咽を繰り返し、涙が滝のように止まらなかった。
  
  警察の事情聴取は里親のお抱え弁護士が全て解決してくれた。
  
  それからだ。
  
  イヴァンが賞金のほとんどを修道院に寄付するようになったのは……。
  
  一人でも多くの孤児を救うためにピアノを弾いている。
  
  イヴァンは鞄の奥底に写真をしまうと、壁時計の針を見た。
  
  時刻は9時を指そうとしている。
  
  ジャケットの上着を羽織る。
  
  控え室のドアを開けて薄暗い通路へと歩いていった。
  
  その後ろ姿は、ピアニストというよりは礼拝堂に前向きな懺悔にいくような悲壮感が漂っていた。
  
  悲愴ではない。
  
  悲愴とは悲しみ打ちひしがれている様子を意味する。
  
  悲壮とは悲しみの中でも勇敢に立ち向かって行く雄々しさを意味する。
  
  暗い袖幕を通り抜け、閃光する舞台へと歩む。
  
  瞬発的な聴衆たちの拍手喝采の中を颯爽と駆け抜け、ピアノの側に立つ。
  
  客席を向き一礼をする。
  
  イヴァンは椅子に座ると、スタインウェイ・グランドピアノにそっと触れる。
  
  拍手が減速していく……。
  
  そして、静寂な時が訪れるやいなや、力強い和音が響く。
  
  ベートーベン・ピアノ・ソナタ・第8番、悲愴、第一楽章が演奏される。
  
  だが、イヴァンにとっては悲愴ではなく、悲壮であった。
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