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七章 健康診断には深い意味があるらしい

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 音竹は手を振りながら、母の元に走った。
 音竹の母は、加藤の姿を認めると、頭を下げる。
 その隣の男性は、「誰?」と聞いていた。

 加藤も音竹の後から、音竹母に歩み寄る。

「先生、お世話になりました」
「いえ。お借りした布団は、あとでご自宅に届けます」

 加藤も音竹母に挨拶をする。

「先生、だったのですね」

 音竹母の隣の男性が、笑顔で加藤に話しかけた。
 背の高い、端正な男性。加藤より少し年上だろうか。

 加藤は相変わらず、ぼさぼさ頭でトレーナー姿。
 今日のトレーナーは、猫が段ボールに入って、丸まっているプリントが施されている。
 確かに、一見、教員には見えない。

 対する男性は、高そうなスーツを着ている。髪もぴっちりと分け、フチなしメガネがいかにも頭良さそうだ。

 ふと、加藤は気付く。
 どこかで見た顔だ。

「はあ、まあ、養教の加藤です」
「加藤先生、わたくし、こういう者です」

 男性は慣れた仕草で、名刺を加藤に差し出す。

 男性の名は、篠宮亘《しのみやわたる》。
 肩書は、浄化生活アドバイザー。浄霊相談員。
 そして最後に、内科医とあった。

 名刺を見た加藤の目が、いつもの倍くらいの幅になる。

 例えていうなら、素麺の太さから、稲庭うどんの太さに変わったのだ。

 加藤の脳内に保存された画像が、一気に過去に向かってスクロールを始める。
 そしてコンマ三秒くらいで、加藤は求めた情報に行きつく。

 篠宮……亘。

 その名を見たのはパワーポイント上だ。
 パワーポイントの背景は『しずく』。フォントが小さくて見にくかった。

 確か演題は、「脳内ネットワークを曼荼羅図から解明する」だ。

 控えめに言って、クソつまんない研究発表だった。

 篠宮が口頭発表するだいぶ前に、同じようなテーマの優れた研究を、加藤はいくつか読んでいた。


「篠宮先生は、十二年、いや十三年前か、名古屋で行われた『国際脳医科学情報システム学会』で、曼荼羅と脳についての発表をされた人ですよね」

 篠宮は一瞬眉を寄せ、すぐに笑顔に戻って答えた。

「よくご存じですね。さすがに養護教諭の先生方は、勉強熱心でいらっしゃる」
「あ、いや、俺そん時はまだ学生でしたが、先生のパワポ、胎蔵界と金剛界の曼荼羅図が、逆だったので覚えていました。面倒だから、質問しなかったですけど」

 そういうことは、普通、初対面の相手には、言わない。

 篠宮も、ぎょっとした顔に少し、赤みがあらわれていた。

「あの、篠宮先生、そろそろ」

 音竹母が介入してくれなかったら、加藤の失礼な発言は更に続いていただろう。

 音竹母は篠宮に寄り添うように、帰っていった。
 篠宮は会釈だけして、振り返らずにいった。

 音竹は振り返って、加藤にぺこり、頭を下げた。

 加藤は三人が帰ったあと、校舎内に入り、保健室に寄った。
 退勤時間は過ぎていたが、白根澤がお茶を淹れて待っていた。

「どうだった?」

 茶菓子の大福を食べながら、白根澤が訊く。
 共食いか、とツッコミたいのを加藤は我慢した。

「まあ、滞りなく」
「それは何より。明日から、忙しくなるしね」

 そう、四月の保健室は忙しい。
 明日は全校一斉の、内科健診がある。

 加藤が赴任して、初めての健診の日のことだった。
 生徒は全員体操服に着替えるが、学校医の前では、その場で素肌をさらす。

「上半身裸にするのって、運動器検診のため?」

 加藤は白根澤に尋ねた。

 数年前から、脊柱側弯の早期発見のために、「運動器検診」という項目が加わった。
 その検診では、両肩の左右差を確かめたり、背骨が曲がっていないかを診る必要がある。そのため、基本、裸の状態で行うことが望ましい。

 ただし、下着などを着用した状態で、行う学校も少なくない。

「ええ、それもあるけど」

 白根澤の答えは、加藤に衝撃を与えた。

「ここ、葛城学園においては、虐待やいじめをいち早く見つけるため、上半身を裸にするの」
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