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十八章 昔話を始めたら、誰しもおっさんとおばさん、ではないだろうか

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 どら焼きを、ノドに詰まらせた加藤に、白根澤はお茶を出す。
 加藤の兄、憲章は、加藤の背中を軽く叩く。

「まったく、こういうトコ、昔と変わってないね」
「うるっさいわ!」

 白根澤は真顔で言う。

「あら、せいちゃん、昔はもっと可愛かったわよ」
「ほっとけ!」

「せいちゃんの瞬間記憶素質って、切り取られた画像の記憶じゃないんだよね。動画が連続で記憶されていく素質。脳疲労が尋常じゃないから、ほかの人より老けるの早いかもね」

「殴るぞ!」

 加藤の素質に最初に気付いたのは、この加藤憲章である。
 幼児期に、ほとんど言葉を発することなく、じっと蟻の行列を眺める加藤を見て、両親は次男への期待を捨て、    代わりに、長男である憲章への教育熱が、一層高まった。

 憲章は、日々ぼ―――っと過ごす加藤の面倒をよく見ていた。あたかも子犬を与えられた少年が、せっせせっせと散歩に連れ出したり、ブラッシングをするかの如く。

 加藤が小学校に入る前のことである。

 当時人気があった、ファンタジー映画のチケットを貰った憲章は、加藤を連れて映画館へ行った。
 エルフや魔王やドラゴンなどが、画面いっぱいに現れる、字幕の映画であった。
 加藤は途中から、ポップコーンを食べることも忘れ、映画をじっと見つめ続けた。

 その夜のことだ。

 先にベッドに入った加藤が、いつまでもゴソゴソと動いている。憲章は気になって、声をかけた。
 すると、加藤はがばっと起き上がり、いきなり喋り始めた。

「われは、このほろびゆく、せかいをみとどける、えるふぞくの、しゃーまんだ」

 その日見た、映画の冒頭のセリフを、すらすらと加藤は口にした。
 そして、加藤はそのまま二時間以上、映画の科白をすべて再現したのである。

 せいちゃんは、天才だ!

 加藤の能力を、憲章は正確に把握したのか、兄バカのバイアスで、見誤ったのかは不明である。
 ただ、この日を境に、加藤は普通に、口語会話が出来るようになったのも事実である。

 保健室では、かつては天才だったかもしれない弟と、弟を無条件に溺愛しているバカ兄、もとい兄バカの会話が続いていた。

「だいたい、お前もう、本庁に帰る時間だろ?」
「ああ、それは大丈夫。今日は年休取ってるから」
「はぁ?」
「仕事じゃなくて、今日はあくまで独自の研修なんだ。いやあ、いい授業だったね!」

 そう言うと、憲章は加藤の頭を、また、わしゃわしゃ触る。

「なんで憲章、文科省に入ったんだよ。財務とかで良かったろうに」
「え? そりゃあもちろん、せいちゃんが学校の先生になるって言ったからだよ。せいちゃんが、あのままお医者さんになってたら、厚労省選んだし、仏教に傾倒して、教祖さまにでもなるって言ったら、文化庁に行ってたよ」

 白根澤は憲章に訊く。

「あら、宗教って文化庁の管轄なの?」
「ええ。宗教団体の設立などは、文化庁に申請となります」

 宗教……。
 加藤のノドにひっかかる、小骨のようなモノ。

「ともかくせいちゃん、よく社会に適応できたわね。加藤さんのお父様もお母様も、随分心配されていたからホント良かったわ。ねえ、憲章さん」

 よくぞ聞いてくれました! と言わんばかりに、憲章の鼻息が荒くなる。

「それは、一時期、僕がせいちゃんに付きっきりで、せいちゃんの過剰な脳反応を押さえましたから!」

「おまえ、そんなことしてたのか。知らんかったぞ」

「ふふふ。催眠術をかけ、せいちゃんには自律神経訓練法をやらせて、あとは、神経ブロックでバッチリ!」

「神経ブロック?」

 白根澤は驚いた。
 加藤もビックリした。

 神経ブロックとは、通常、慢性的な痛みを持つ者に、麻酔薬などを用いて行う疼痛緩和の方法である。痛みの経路を遮断したり、神経の過緊張を押さえることで、痛みが軽減するという。

「ウチの親戚に、麻酔医がいるでしょ? 相談して、やってもらったの」

 あくまで悪気ない笑顔で語る、兄の憲章。

 やはり、コイツにはなるべく関わるまい、そう加藤は思う。

 それにしても、過緊張神経の抑制……ブロックだと?

 ふと、加藤は先ほどの授業の終盤、泣いていた音竹を想い出す。
 神経系への薬物作用により、脳の反応抑制ができるのなら、あるいはその逆も、可能ではないのか。
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